追憶
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
スペイン曲、英語詞:Mary S. B. Dana、日本語詞:古関吉雄
1 星影やさしく またたくみ空 1. Flee as a bird to your mountain, |
《蛇足》 昭和14年(1939)に古関吉雄が“Flee as a Bird to Your Mountain”という曲に『追憶』というタイトルで日本語詞をつけました。以来、中学や高校の音楽教科書にたびたび掲載されたこともあって、多くの人に親しまれてきました。
古関吉雄は国文学者で、長らく明治大学の教授を務めていました。平成7年(1995)没。イギリス民謡『思い出(=久しき昔)』の日本語詞のほか、小・中・高校の校歌を数多く作詞しました。作曲家・古関裕而は従兄弟。
横道にそれますが、古関吉雄とエスペラントの関係について少々お話ししたいと思います。
古関吉雄は福島県出身で、東大の学生時代、帰省の車中でザメンホフの伝記を読み、言語の違いから起こる民族同士の争いを避けるには、やさしくてしかも正確にコミュニケーションできる共通言語が必要だ、という思想に感激し、独学でエスペラントを学び始めました。読み書きはすぐにできるようになりましたが、エスペラント普及運動のたぐいには関心がなく、会話をする機会はほとんどなかったそうです。
そのかわり、講義中にザメンホフの思想やエスペラントについて学生たちにたびたび語ったようです。畏友・松本照男君もそれを聞いた1人で、古関教授から1対1でエスペラントを教わり始めます。彼は行動的な人物で、学び始めてから2か月後に古関教授を顧問として明治大学エスペラントサークルを立ち上げます。
昭和30年代後半は、昭和40年(1965)にアジアでは初めて東京で世界エスペラント大会が開かれることが決まっていたため、エスペラント学習熱がかつてなく高まった時期でした。多くのエスペランチストの協力が必要だったため、松本君は古関教授をさまざまな会合に引っ張り出します。そんなこともあって、古関教授はその後、他のエスペランチストたちと交流するようになり、日本エスペラント学会の顧問にも就任しました。
私は大学卒業後エスペラントをやめてしまいましたが、それでも外国からエスペランチストが来た際などには、昔の仲間から声がかかり、古関教授と酒席をともにすることが何度かありました。温和で謙譲な人でした。
なお松本君は、大学卒業後ポーランドに渡り、当時世界青年エスペランチスト連盟の書記をしていた怜悧な女性(のちワルシャワ医科大学教授)と結婚しました。
話を『追憶』に戻しましょう。
日本には明治時代に、アメリカの詩人 Mary S. B. Dana作詞による“Flee as a Bird to Your Mountain”として入ってきました。
明治12年(1879)に日本の音楽教育の近代化(欧米化)を目的として音楽取調掛が設けられました。その開設を提唱した伊沢修二は、高嶺秀夫、神津仙三郎らと師範学校教育の調査研究のためアメリカに留学しました。ほかにルートも見つかっていないので、彼らがこの歌を持ち帰ったと見てよいでしょう。
Mary S. B. Danaはサウスカロライナ州出身で、本名はMary Stanley Bunce Dana-Shindler(1810~1883)という長い名前。Danaは最初の夫の姓で、この夫と死別した後に再婚したのがShindlerです。
長老派(プレスビテリアン)教会の牧師の娘として生まれたせいか、非常に信心深く、若い頃から宗教的な詩を数多く書いていました。それらは、1840年に“The Southern Harp”(ボストンのParker and Ditson社)、翌1941年に“The Northern Harp”(ニューヨークのDayton and Saxton社とボストンのSaxton & Peirce社)と題する曲集として出版されました。
いずれも“Original Sacred and Moral Songs,Adapted to the Most Popular Melodies”という副題がついています。
この詞は、"The Northern Harp"に収録されたうちの1曲です。ほかの曲は作曲者名が明示されていますが、この曲はSpanish Melodyと書かれているだけです。
アメリカや日本などで原曲を探す努力がなされてきましたが、現在までのところ、それらしいスペイン曲は見つかっていません。しかし、違うという証拠もありませんので、"The Northern Harp"に従って、「スペイン曲」としておきます。
“Flee as a Bird to Your Mountain”は讃美歌集に入れられて今も歌われています。
アメリカにはヒスパニックが多いことから、スペイン語に翻訳され(“Huye Cual Ave A Tu Monte”)、各地のスペイン語系キリスト教徒たちに歌われているようです。
(図は“The Northern Harp”のおもて表紙と“Flee as a Bird to Your Mountain”の楽譜〈Google Booksより〉)。
なお、彼女はのちに信仰上の疑問から帰一派(ユニテリアン)へ、さらに監督派(エピスコパリアン)へと移っています。いずれもプロテスタントの宗派です。
この曲に初めて日本語詞をつけたのは、『青葉の笛』や『鉄道唱歌』などの作詞者と知られる大和田建樹です。彼は『故郷の空』『久しき昔』『旅泊(灯台守)』などの外国曲にも日本語詞をつけています。
彼がこの曲につけた日本語詞は『月みれば』というタイトルで、歌詞は下記です。明治23年(1890)8月13日発行の『明治唱歌ー第五集』に収録されました。
1 霞にしづめる 月かげみれば
うきよをはなれて 心は空に
海原しづかに 波もなき夜を
松原ねむりて 風もなき夜半を
ああ めでてやそらに
2 布ひく雲間に かかれるみれば
この世のにごりも 忘れて空に
萩ちる野末に しかのなく夜を
花咲く芦辺に かりのくる夜半を
ああ めでてやそらに
大正8年(1919)には『故小妹(こしょうまい)』という日本語詞が発表されています。作詞したのは、日本における帰一派(ユニテリアン)のサークルである惟一倶楽部。歌詞は下記のとおりで、昭和6年(1931)には喜波貞子、同8年(1933)には藤山一郎の歌でレコード化されています。いずれもビクターから。
1 更けゆく鐘の音 思いうつせみの
果なき面影 結びもあえず
忽(たちま)ち夢さめて とめし我が手に残しし
ゆかりの色濃き 若紫の
ああ ゆかりの小袖
2 思い出づれば 十年(ととせ)の昔
はるけき旅路に 我等残しし
幼き姉妹(はらから)の 夢の面影なれや
更けゆく鐘の音 昔を語る
ああ ゆかりの小袖
明治から愛唱されてきた謎の多い曲です。
(二木紘三)
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コメント
私は学校で習った沢山の歌の中で、この歌が一番好きです。少女の自分がそよぐ木の葉の下を歩いている情景が思い浮かびます。一瞬の間にすぎてしまった夢のような日々、雑駁な日常を忘れさせてくれる大切な歌です。
投稿: ハコベの花 | 2012年6月27日 (水) 16時07分
大好きな「追憶」、うれしく懐かしく聴きました。二木先生ありがとうございます。
この歌を習った頃は、私の追憶の内容はごく薄い新しい本のようでした。
年を重ねるにつれて増して行ったページを時折読み返し、感傷に浸ることもあります。
youtubeには、追憶と同じメロディーの「Huye cual ave 」(鳥のように逃げる)と言う、スペイン語の賛美歌がいくつかUPされています。歌われているかどうかは別ですが、どうやらスペイン語の讃美歌集には載っているようなのです。…英語の賛美歌がスペイン語に翻訳されたのでしょうか…やはり謎が多い曲なのですね。
ちなみに友人が遺した日本基督教団発行の讃美歌集の、「欧米賛美歌」「各国民謡にもとづいた賛美歌」の中には、同じメロディーは見つかりませんでした。
投稿: nobara | 2012年6月29日 (金) 14時31分
二木先生、先ほどのコメント大変失礼いたしました。
私の手元の讃美歌集には載っていませんが、「聖歌489番(新聖歌313番)鳥のごと山に」として載っている讃美歌集があるそうです。もう少し調べてみます。
今朝「追憶」を発見したばかり、うれしくて調べたりないまま投稿してしまいました。
投稿: nobara | 2012年6月29日 (金) 16時03分
nobara様
貴重な情報をありがとうございました。これで『追憶』のルーツが突き止められるかも……と思いましたが、Dana夫人の詞のスペイン語訳でした。スペイン本国でもこの翻訳版は歌われているのでしょうか。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2012年6月29日 (金) 17時29分
先生、お騒がせしましたこと、お許しください。
「アメリカにはヒスパニックが多いことから、スペイン語に翻訳され…」と書き加えられたのを拝読して納得いたしました。
スペイン本国でも歌われているかどうかは、私は存じません。
スペインはウイキペディアによりますと国民の94%がカトリックなのだそうです。ですから、プロテスタント系の賛美歌をほとんどの人が知らず、歌わなかったとしても少しも不思議ではないと思います。
ただ、民謡のメロディーなのだとしたら、それを誰も知らないと言うのが謎ですね。
また、聖歌489番、新聖歌313番の「鳥のごとく山に」が収められているのは日本福音連盟が出版した聖歌集だそうです。
原詩は旧約聖書の詩篇11章が下敷きになっているようですね。11章1節に「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。」とあるのを聖書で確かめました。
美しいこの曲を聴きながら、古関吉雄とエスペラントの関係なども、大変興味深く拝読しています。
投稿: nobara | 2012年6月29日 (金) 21時13分
こころが洗われるような、懐かしい『追憶』の調べを聴きながら‥‥60年前の文字通りの「追憶」に耽っています。
この歌は中学2年か、3年のときに習った記憶があります。当時、わたしが育った新潟の片田舎では、音楽と言えば流行歌か、酔ったときに歌う猥雑な民謡くらいでしたから、この歌のメロディを聴いたときには、異界から聞こえて来るような、大袈裟に言えば、カルチャーショックを覚えたように思います。しかし、異国のメロディとはいいながら、優しいリズムと清らかな旋律は、途中変調があるにもかかわらず、格調の高い訳詞(?)と共に、静かにわたしたちのこころに染み込んできた感があります。生意気を言うようですが、音楽に限らず、真の芸術とは言語、民族、文化や時代を超えて受け入れられるものなのでしょうね。
先日、ふるさとで中学時代を共にした仲間の同窓会がありました。当時は、わたしを含めて、粗野で、乱暴で、文化的素養とはおよそ縁のない連中も、喜寿を迎えた今、それぞれの人生の荒波をを生き抜いて、社会的常識を身につけた好々爺や好々婆(?)となり、昔の思い出に耽ったのでした。
エスペラントについて一言。二木様がエスペランチストとは。二木様の新しい横顔を知ることができました。戦前、戦中は知りませんが(戦中は抑圧されたんでしょうね)、戦後一時期エスペラントの隆盛をみましたが、今はまったくこのことばを聞きません。エスペラントという「人工語」自体に欠陥があるのか、アングロサクソンの使う言語「英語」がグローバル言語として普及しているからか。民族や言語の差異からくる無理解や誤解を解決するために編み出された、エスペラントの産みの親ザメンホフの願いは、これからも顧みられないのでしょうか。
投稿: ひろし | 2012年6月30日 (土) 13時02分
トュートュートュー トュトュトュー、そんな感じで口ずさめるから、不思議。いったい歌手が誰? それとも小中学校時で習った? 神武景気の前後? 私の場合、この調べが半世紀以上昔のどんな事象とも拘らず、ポソッとあるようです。ハコベの花さん、nobaraさん、ひろしさんは新教々会に行かれていたのでしょうか…。
ザメンホフのエスペラント話題が巷間にぎやかだったのを覚えています。熱心だった方が近くにいました。ポーランド/リトアニアの人々をついアシュケナジムに重ねます。今たまたまサッカーWC主催国はポーランドとウクライナ。多くの彼らユダヤ人が、ワレサの団結当時にも過去に繰り返されたようにドッと西側欧州に流れました。ポーランド語を話す異邦人に我が村スーパーマーケットレジですら遭遇します。今は数か月または毎年定期的出稼ぎの人々ですが。
二木さんご親友ご夫婦は母国語と共にイディッシュとエスペラントをこなされるのではないでしょうか。共産時代を潜り抜ける困難を体験され、EU/ NATO/加盟国でユーロ圏ポーランドとは言え知識人年金等、歴史からの復興の難題に満ちていますね。 こちらで生きざまを語られ真摯なイサコフスキ―さんをフト連想もうしあげます。
投稿: TangoMinato | 2012年7月 1日 (日) 05時10分
TangoMinato様
この歌は中学2年生の時に学校で習ったのです。私は信仰心が全くありませんので、讃美歌として歌ったことはありません。教会の思い出は戦後すぐ友人が教会に行くというのでついて行ったところ、訳の分からないお話を聞かされ、挙句に箱が回ってきて私のその日のお小遣い全部を入れなくてはならなくなりました。私は神様が嫌いになりました。小学校2年生の時です。ちなみにお経も訳が分からないので嫌いです。
追憶を聴いていると気持ちが清々しくなります。歌詞もとてもきれいだと思います。
投稿: ハコベの花 | 2012年7月 1日 (日) 12時12分
この曲を初めて聞いたのは昭和27年頃、街の高等学校のコンサートでの事だったと思いますが、憧れの姫君達(高校生)が歌った中の1曲で、伸びやかで透明感のあるソプラノに痺れたのが原点でした。
ところが、最近のことですが、この歌は明治・大正生まれのお年寄りも実に良くご存じで、恰も日本古来の歌のように嬉しそうにお歌いになるのには、本当に吃驚しました。
現在の音楽教科書には、今でも「スペイン民謡」と書かれているようですが、初めて耳にした当初から、この曲は声楽曲と言うよりは器楽的な響きが大きく支配している印象がありました。
そこで、大胆かつ無責任なイメージをそのまま申し上げるならば、例えばヴァイオリンの練習曲として生まれた曲に、北米大陸に移住した初期の人達によって歌詞が付けられ、「歌」としても普及しつつあった過程で伊沢修一らによって採取され、日本へ伝えられたような印象があります。
無責任な推測で失礼しましたが、スペインだけでなく、西欧各国でこのメロディがどのような場で知られているかを調べるのが早いかも知れません。
投稿: たしろ | 2012年7月 1日 (日) 23時02分
ハコベの花さん
ミサ最後に回ってくるあのお布施の思い出をお聞きして、私も複雑な思いにかられます。敬虔な名もなき信者や奉仕に励む皆さんと無関係に、大本山から末寺に至る組織としての暗い部分があまりにも多い。それら汚い淀みが数十億信者のお布施からなる世界屈指の財力と関わっています。美しい讃美歌の数々がその覆いにならないように…
投稿: TangoMinato | 2012年7月 2日 (月) 22時27分
二木先生
懐かしい曲、ありがとうございます。私も中学でこの曲を習いました。その後の50年間、聴いたことも、歌ったこともなかったのですが、今回、メロディも歌詞もスラスラとよみがえってきました。不思議な気持ちです。
ところで、声楽家の柳貞子さんが、ご自身のホームページにスペイン音楽に関するエッセイを書いておられます。そのなかの『追憶』の章に「これは絶対にスペインの歌でも民謡でもなく、当時ニューオリンズにいたフランス軍のマーチのメロディーを借りた黒人霊歌であると言うのが私の結論である」と記されています。スペイン歌曲の専門家の貴重なご意見と思いますのでお読みいただければと存じます。
投稿: モハンデス | 2012年7月 5日 (木) 20時56分
何人かの方から、「ニューオーリンズに駐屯していたフランス軍のマーチが原曲」とする説があるとお知らせいただきましたが、これは具体的な根拠ないし典拠に基づいた説ではないようです。ご本人にお聞きしましたが、納得のいく説明はいただけませんでした。
この説には以下の点で疑問があります。
マーチは、『葬送行進曲』のように静かなものもありますが、一般的にはアップテンポで軽快、かつ長調なのが特徴です。とくに軍の行進曲であれば、兵士の士気を高めるように勇壮活発なメロディのはずです。いっぽう、『追憶』はスローテンポで静謐、途中に長調が挟まるものの、基本的には短調です。
軍のマーチがどういう過程を経てこのような大変化を遂げたかの説明がつきません。
曲のテンポが変わることはありふれた現象ですし、長調の曲が短調に、短調の曲が長調に編曲されることもまま起こっています。ですから、軍のマーチがテンポと調を変えて黒人霊歌に入ったというのはあり得ないことではありません。そこのところを、断片でもいいから、採取された音または楽譜に基づいて説明していただければ、民謡研究史上画期的な成果になったのに、残念です。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2012年7月 6日 (金) 17時40分
>スペインだけでなく、西欧各国でこのメロディがどのような場で知られているかを調べるのが早いかも知れません。
たしろさんのこのアイディアになるほどと思い、60越えのスペイン人を亭主に持つ知人に本頁を添えて尋ねています。でも19世紀半ばから末までの民謡があったとしても現在まで生きているかどうか、現地でよほど探らないと分らないのでは…と彼女から言われました。なお亭主は今ハンブルグで帰宅は数か月後で、見込薄そうに思います。
YouTubeにて倍賞千恵子の追憶を聞きました。二木さんが紹介されている歌詞通りで、それはそれで素晴らしい。ところが出だしも経過中も、全く異なるメロディーのように聞こえるのです。私の音痴と音学無知の所為だと思いますが、、悲しくも辛い気持ちで不思議です。
投稿: TangoMinato | 2012年7月12日 (木) 07時18分
TangoMinato様
お聞きになった倍賞千恵子の歌は、バラード風に編曲されものです。彼女はいろいろ歌っているので、元のメロディラインで歌っているヴァージョンもあると思います。(二木紘三)
>YouTubeにて倍賞千恵子の追憶を聞きました。
>二木さんが紹介されている歌詞通りで、それは
>それで素晴らしい。ところが出だしも経過中も、
>全く異なるメロディーのように聞こえるのです。
投稿: 管理人 | 2012年7月12日 (木) 21時22分
管理人と言うより主催される二木さん、丁寧な解説をいただき誠に有難うございます。バラードと言う語彙を聞き知っていても、意味内容を知らず…、無才に悲しくなります。私の「追憶」は一つしかありませんが、なるほど、左様な`別物`への自由な展開がある音楽世界の深さ・広さを想像することが出来ます。
複数教会コーラスに属する熟年知人たちや歌好きの娘たちに本頁を添えて尋ねてみました。初めて聞くメロディーだそうです。狭い範囲ですが、こちらでは知られていない歌のように思われます。
投稿: TangoMinato | 2012年7月18日 (水) 05時43分
久しぶりにこのサイトを見て、追憶の解説を読みました。
20年以上も前に、韓国で自動車工場の建設にかかわっていたころ、スペインGMのマネージャーと酒の席でこの歌を歌いました。彼は当然、自国の歌だという認識でした。
掲載されている楽譜を見て、オヤっと思ったところが3小節目と7小節目で、私たちが中学で習ったのとは違っていますね。二木先生の演奏は中学のときと同じですが。
投稿: 吉岡英介 | 2012年11月 2日 (金) 18時24分
はじめまして。横浜を中心に活動しておりますギタリストです。このたび「追憶」をクラシックギター曲に編曲しようと思い、メロディの出所を探しているときに、このページに遭遇いたしました。
とても貴重な資料と情報、大変興味深く読ませていただきました。
直観的なもので、仮説なのですが、18世紀に活躍したスペインのギタリストで作曲家のフェルナンド・ソル(1778-1839)の練習曲集に、このメロディに似た曲があります。Op60-no.4です。彼は当時のフランスやスペインの流行歌を好んで取り入れて変奏曲などを書いていますので、彼のオリジナルかは特定できませんが、良く似ていると思います。
Youtubeからの拝借ですが、こんな感じの作品です。
http://www.youtube.com/watch?v=lFUb-hDev-0
やっぱり別の曲ですかね。
東隆幸
投稿: 東隆幸 | 2013年1月30日 (水) 23時56分
この歌はよく口ずさむ曲の中のひとつですが、口ずさみ終わると次は必ず、ブラームスの子守唄になります。私の中では何故かこの二つの曲のイメージが結びついています。曲の途中で変調するからでしょうか。ロマ(ジプシー)のメロディのイメージなのです。ブラームスはロマの曲からインスピレーションを受けていますし、スペインはフラメンコのダンスがありますし色々思いがとんでしまいます。また昔テレビで児童文学『家なき子』が放映されたとき、この『追憶』が流れていたようないなかったような記憶があります。
投稿: konoha | 2017年11月11日 (土) 17時59分
konohaさま 私にとっては、特に想い出のある懐かしい曲です。
ありがとうございました。
私が、中学3年の時に新任の音楽のN先生が赴任されました。
それまでは、年配の男性の先生でしたが、今回の先生はがらりと変わり、ちょっと小柄の先生でしたが、ピアノ演奏も抜群で、また、歌声も天使のような声で、それに、美人で独身とくれば、特に男子生徒からは注目の的でした。また、教え方もすごく丁寧で分かりやすかったように思います。
そんなある日、歌のテストがありました。
私は、数曲の内からこの「追憶」を心を込めて歌いました。
確かこの曲を歌ったのは、男性では私一人だったように思います。
そして、三学期に入ったある日、在学のこの中学校が新設校で、校歌の発表会が体育館で開かれ、3年生の各クラス(当時はマンモス校で11クラスまでありました。)から5名が選ばれ(私もその中の1人でしたが)、N先生のピアノ伴奏で高らかに歌った記憶が懐かしく想い出されます。
私が卒業数年後、N先生の熱心な指導で同校の合唱部が県大会~全国大会へ出場されたことをテレビ・新聞等で拝見し、私が在学時でのN先生のにこやかな笑顔が懐かしく想い出されました。
現在、私が音楽を好きになったのもN先生の影響が多分にあったものと思います。
ぜひ、N先生のピアノ演奏で高木東六先生の「水色のワルツ」を聴きたい心境です。
投稿: 一章 | 2017年11月11日 (土) 21時27分
一章さま 「追憶」には不思議な魅力がありますね。心を込めた男声は先生に響いたのですね。素敵な思い出ありがとうございます。学校の先生の何気ない事が一人の子供へ与える影響は大きいですね。私が本好きになったのも、絵を描くようになったのも小6の担任の先生の影響でした。良い先生に巡り会えてよかったですね。
投稿: konoha | 2017年11月12日 (日) 07時30分
konoha 様、一章さまのコメントに共感しております。
一章様
絵に描いたような良い先生にめぐり逢えたのですね。その出会いに導かれて今日の音楽活動があるのですね。ハーモニカを自在に演奏できる一章さまが羨ましくも思えます。プロの女性歌手の伴奏までなされた腕前も機会があったお聞かせ願いたいものです。3年ほど前、県内のハーモニカ愛好会の演奏会に招かれ感動いたしました。
老いてなお研鑽に励まれる皆様の熱意に打たれました。
また 東京から招へいのプロの演奏家ご夫妻の演奏には圧倒されました。ハーモニカを超えるハーモニカ演奏があったのですね。確かに そのハーモニカは 見たこともなかった重厚なものでした。
私も 一章様の敬愛する先生の「水色のワルツ」を聴いてみたいものです。ピアノを習い始めた当初は「水色のワルツが弾けたら死んでもいい」と思っていたものです。
その私が今では不遜にも 「高木東六版のピノ演奏ができたら死んでもいい」との野望に燃えています。
一章様のハーモニカ演奏を心待ちにしている方々の為にもご自愛ください。
投稿: りんご | 2017年11月12日 (日) 09時01分
konoha さま
おっしゃるように、「追憶」という名曲・・・そして、N先生との出会いにより、音楽への世界へと導かれたものとと思います。
心温まるコメントありがとうございました。
りんご さま
熱のこもった過分なるコメントをいただき、恐縮するとともに心に沁みました。ありがとうございました。
長い人生の中で、一つの出会いにより、それから先の未知の世界へと発展するものだとつくづくと思う今日この頃です。
りんごさまにおかれましても、ぜひ「高木東六版」のピアノ演奏が成就なされるようお祈りするとともに、成就の暁にはお聴かせいただけるようお待ちいたしております。
投稿: 一章 | 2017年11月12日 (日) 11時03分
konoha様 一章様 りんご様
みなさんのコメント拝見させて頂きました。
有難うございます。
私も中学生時代に音楽の時間に女性の先生から教わったことを思い出します。先生はいつも綺麗な声で歌われていました。その先生から褒められ音楽が好きになりました。
みなさんのコメントを拝見して「草笛」で「追憶」を練習しました。公園で練習中に聴いてる方から拍手を頂きました。
次回 老人ホームで気持ちを込めて吹いてみます。
投稿: けん | 2017年11月13日 (月) 15時36分
けんさま 「追憶」の持つ不思議なメロディラインと素朴な草笛の音質はなんだか相乗効果がありそうですね。聴いている老人ホームの皆樣方の表情を想像してしまいます。楽しみですね。
投稿: konoha | 2017年11月13日 (月) 16時23分
先日。4番目の兄が亡くなりました。少し病んでいたので、家族がホッとしただろうと思いました。上から順番に亡くなっていきますので悲しいという感覚は全くありません。我儘で自分勝手で随分いじめられましたので、子供の頃を思い出すと怒りがこみ上げてきます。お葬式に学校時代に我が家に良く遊びに来てくれた兄の友人たちが参列してくれました。その一人に随分いじめられたと話をしたら「よくわかるよ」と言って聞いてくれました。お葬式に悪口を言うのもおかしなことですが60年ぶりに会った兄の友人です。沢山友達がいましたが彼が一番やさしい人だったのです。他の人はお坊ちゃまばかりでしたが彼が一番兄弟が多くて苦労した人でした。聴いてもらえてすっきりしました。最も私が一番好きだった人は多分病んで居られるようでいませんでした。60年の歳月が過ぎているのに皆大学生に戻ったような気持ちでした。今追憶を聴いていると、我が家に集まって私をからかいながら麻雀をしている姿が浮かんできます。「あんたの方が兄貴より出来が良い」と褒めてくれた人は亡くなられたそうです。82歳の青年たちよ楽しい青春を私に与えて下さって有難う。お礼をいいたくなりました。私には有意義なお葬式でした。
投稿: ハコベの花 | 2018年9月 2日 (日) 15時46分
はこべの花 様
この年になって、家族や友人それに普段殆ど顔を合わせることもないような人たちが、一堂に会するようなことといったら、不幸しかありませんよね。
幼い時分に、一番喧嘩したような兄妹でも、これからはその思い出を語り合う機会もなくなってしまうということは、寂しいことです。
追憶は、どこまでもいつまでも、胸に残り消え去ることはなく、寂しさやわびしさだけが残ります。
いつも、エスプリの効いた冷静に物事を見通すようなコメントを寄せられる はこべの花様であるだけに、今回のコメントの裏にある虚無感が、窺い知れてより深い寂寥感に襲われます。
「追憶」という感情は、人間としての優しさと悠久への憧れなのかも知れません。
今夜は、お兄様との思い出に浸ってください。
投稿: あこがれ | 2018年9月 2日 (日) 22時57分
古関吉雄先生のエスペラント訳「いろはにほへと」
調布エスペラント会で以前古関先生と親しくしてもらいました。いろはにほへとを歌う人はあまりいないかも知れませんが私はカラオケに行ったとき時々歌っています。越天楽のメロディーです。黒田節も同じですが古関先生は黒田節はゲスの歌で嫌いだといわれてました。
[Irofa niFOFEdo]
(Kanto de japana alfabeto)
Esperantigita de Koseki, Joŝio
Floroj belas nun fiere, tamen velkos tuj.
Tiel pasas efemere ĉio en la mond’.
Monton da sen ĉesaj ŝanĝoj lasu nun ni for.
Nin ne ĝenu vantaj sonĝoj, sobra estu l’kor’.
(laû la melodio de « Etenraku » aû « Kuroda-buŝi »)
投稿: 山野裕 | 2020年10月13日 (火) 08時27分
静かな夜です。「追憶」が聴こえて来るような気がします。この歌を教えて下さった中学2年生の音楽の先生を思い出しました。音が外れるとピアノをバーンと叩いてヒステリックな声で怒るので私は音楽の時間が嫌いになりました。ピアノ専門の先生で声はシャガレ声で音楽の先生には向いていないと思っていました。音楽は楽しく美しくあって欲しかったですね。
あこがれ様の優しさが心にしみ込みました。奥様の優しさや愉快で楽しいお話が電話越しに聞こえてくるような気持になりました。追憶の歌の様な人でしたね。出会っていたら一緒にこの歌を歌ったかも知れません。楽しいお話沢山聞かせていただきました。忘れることはありません。いつかまたお会い出来る様な気がします。追憶の中に生きて居られる様なきがします。お元気で残された人生を大切に生きていきましょうね。
投稿: ハコベの花 | 2023年2月16日 (木) 21時34分
“歳月人を待たず…”といいますが、
なんとも心にしみいるようなノスタルジックな曲ですね~。
人生の終章期を迎えた今…思うに、楽しかったこと悲しかったことも、ほんの一瞬のことだったな~と、しみじみ思いながらわが身を振り返るに、幼少期に父親を失い母子家庭の中で母や兄姉の苦労を目の当たりにしながら不安な中にあれこれと思いを巡らせ、時には逡巡しながら歩んだアドレッセンス時代…憧れの大学生活も諦めて、身の丈に合った「通信教育大学講座」や、好きな歌の仲間「グリーンエコー」のコーラス仲間達との深い交わりの中で初めて掴んだ幸せ、大勢の仲間達から祝福されながら愛する人との結婚、二人の男の子に恵まれ夢中で働いた企業戦士時代…私の果たせなかった憧れの大学生活も二人の息子達が果たしてくれ、やっと夫婦二人で信州へ京都へ…と、シーズンごとに出かけた“二人の青春回帰時代”の忘れられない思い出のアルバムも、やがて道端に咲く露草のように忘れ去られてしまうのでしょうね。
あれは高校時代だったのか?「追憶」を知ったのは…
いやというほど独り身の侘しさを味わったこの2年間、めくるめく風景を堪能する間もなく人生の終着駅に降りたった旅人の様な心境で「追憶」を聞いています。
明日の踊りの会では、亡き妻の10年越しのお弟子さんが舞台に立ちます。
久しぶりに妻の匂いを味わい元気回復したいと思います。
投稿: あこがれ | 2023年2月18日 (土) 14時45分
73歳です。「追憶」は学校で習った記憶はありませんが、確かにいい歌で私は好きですね。
70年代の頃ですか。亡き長兄の家に帰省で遊びに行ったとき、ヒデとロザンナの「愛は傷つきやすく」や松山千春の「季節の中で」があったのでそのころかと思います。
それらのレコードと一緒にこの「追憶」をアレンジした曲が混じっていたのです。
男性歌手だと思うのですが、当時流行っていたわけでもなく1,2度聴いてそのままになってしまいました。
亡くなった後そこにあったレコードを私がもらいましたが、そのレコードはありませんでした。
題名が「追憶」か歌詞は違っていたと思います。
スローテンポでポップス調の作りだった記憶があります。
いい声していましたけど。今となってはわかりません。
you0tubeにもヒットしませんので。
ここに行きついたのもまだ探しているんですね。
投稿: 永間篤 | 2023年4月15日 (土) 14時42分
雨の多い6月になるとこの歌が聴こえて来る様な気がします。水田に薄緑の稲の葉が優しく並んでそよいでいるのを見るときれいな声で女学生が歌っている姿が浮かぶのです。気持ちが優しくなってきます。仲良しだった友人が少しまえに急死してしまいました。この歌を聴いていると彼女の優しい顔が浮かびます。元気だったのに、夜「胸が痛い」と言った切り息を引き取ってしまったそうです。この歌をもう一度、女学生に戻って一緒に歌って見たかったのに残念です。いつの日にか、夢の中で、青春時代に戻って歌いましょうか。でも、当分はそちらに呼びには来ないで下さいね。
投稿: ハコベの花 | 2023年6月17日 (土) 23時25分