夕焼け小焼け
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作詞:中村雨紅、作曲:草川 信
1 夕焼け小焼けで 日が暮れて |
《蛇足》 中村雨紅(うこう)が大正8年(1919)に作った詞に草川信が大正12年(1923)に曲をつけて、この名作童謡が生まれました。
誕生以来、郷愁を誘う詞とメロディが多くの人に愛唱され、今日でも全国各地で、夕刻、子どもたちに帰宅を促すチャイムなどとして流されています。
詞は、雨紅が生地・東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在は東京都八王子市)の情景をイメージして書いたものといわれます。
「山のお寺」がどこかについて、一時期、下恩方の観栖寺(かんせいじ)、西寺方の寳生寺(ほうしょうじ)、上恩方の興慶寺(こうけいじ)が"本家争い"を演じましたが、雨紅は各寺の梵鐘や記念碑に歌を刻んでおり、どの寺も特別扱いしていません。
もう数十年前になりますが、私は恩方の酒造家に案内されて『夕焼け小焼け』の舞台だというお寺を訪ねたことがあります。しかし、残念ながらそこが3寺のうちのどこだったかは覚えていません。振る舞い酒でかなり酔っていたせいかもしれません。
上の絵は2013年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。
(写真は観栖寺の鐘楼)
(二木紘三)
コメント
この歌は、小さい頃から聞きなれ、体にしみこんでいるような歌で、私にとって評価以前の歌です。
幼い頃、小鳥は本当に夢を見るのだろうかと、まじめに考えたこともありました。大きくなってからは「夕焼け」という日本語の美しさに気づいて、あらためて、茜色の空が暮れていくのをしみじみ眺めたこともありました。言葉があるから、美があるという萩原朔太郎の『詩の原理』を読んだ頃のことでした。
お寺の鐘、夕焼け、お月さま、金の星、つまり、静かな音とかすかな光が、日本の里をたくみにイメージさせるように思います。
二木先生の絵も夢のある年賀状で、いい年が迎えられそうです。カラスがちょっと悪そうなところがいいですね。
投稿: 浮舟 | 2013年1月 1日 (火) 00時15分
25年2月の「県人会のつどい」で合唱する関係で調べたら、小焼けと言う表現は赤い鳥小鳥、仲良し小よしのように邪魔にならず子供の耳に鮮やかに聞こえてくる挿入句とのことらしいです。
投稿: 海道 | 2013年1月 2日 (水) 14時49分
これ、歌えます。歌を歌えない輩ですら`歌え`知っているから、原風景になっているのでしょう。生まれた海沿い村の浄土宗の‘お寺の鐘‘と、日本海の夕焼けと、稲木(イナキ)にとまるカラスと、、聴くうちに心がうずいてきました。
‘夕焼け小焼け‘は天候物理現象に宗教背景、文章作法上など様々な解釈がされるようです。例えば英語彙への移し替えは難しい。the evening glow & the after reflection of the sunset などピント来ない。むしろ朝夕Twilightに見られる黄や橙の空の輝きが‘夕焼け小焼け‘抒情に近い感じを私は受けます。
昨年暮れにZの文字が見える‘夕焼け‘か‘小焼け‘を目撃して冬も素晴らしいんだと感動しました。ありゃ―、Dämmerungやと後で聞きましたが、、、これも‘夕焼け小焼け‘に及びませんね。
投稿: TangoMinato | 2013年1月10日 (木) 08時36分
作詞家中村雨紅の故郷恩方(現在は八王子市)には、いくつものお寺があって、『夕焼け小焼け』の碑を建てるについては、“鐘の音”騒動ともいうべき現象があったそうです。すなわち、雨紅の聞いた“鐘の音”は、どこのお寺の鐘であったか、という元祖争いです。騒動の元でもある雨紅にとってはありがた迷惑だったに違いありません。しかし、そこは温厚の雨紅のことですから、「あちこちから聞こえて来た」と、うまく納得させたのでしょう。恩方周辺の3つもの寺に『夕焼け小焼け』の碑が建立している理由が、これで分かります。作曲家草川信の故郷長野でも、同じようなことがあったそうです。
雨紅の第二の故郷でもある神奈川県厚木市にも、『夕焼け小焼け』の碑があります。その碑は、東丹沢の山麓に抱かれて、ひっそりとある(あったというべきか)七沢温泉の奥まった旅館元湯玉川館の庭に建てられています。
雨紅は厚木実科女学校(のち県立厚木高等女学校、現厚木東高校)に奉職したのを機に、厚木に居を移し、故郷恩方に似た“夕焼けの里”を求めて、しばしばこの七沢温泉などを訪れていたようです。なぜ旅館の庭に碑があるのか。かれの教え子に、のちに元湯玉川館の女主人となる方がいて、そのご縁によるとのことです。こちらは美しき師弟愛の結晶と言ってもいいでしょう。
今では、この歌を知らない日本人はいないくらい、人口に膾炙されています。雨紅が探し求めた、故郷恩方に見た“夕焼けの里”は、ひとりびとりの日本人の心の原風景であり、心のふるさとでもあるように思います。
投稿: ひろし | 2013年1月21日 (月) 16時13分
子供の頃、この歌に出てくる夕焼けの風景は頭の中で想像するしかありませんでした。私の二階の部屋から見る夕焼けは戦後の焼け跡にバタバタと建てられた安普請のトタン屋根や瓦屋根を照らしながら沈む夕日でした。人間の日常の幸、不幸を象徴するような物悲しい風景でした。結婚して郊外に住むようになって初めて山寺のある丘陵地に沈む夕日を見ました。田んぼの突き当りの山の向こうに沈む夕日の大きさに今でも見とれます。けれどもやっぱり私の夕日の原風景は喧騒な街並みの向こうに沈む夕日です。今はビルの立ち並ぶ街になっていますが、人間の姿が消えてしまっています。車は人間を消してしまいました。もう一度戻ってみたい私の部屋の懐かしい窓へ。
投稿: ハコベの花 | 2013年1月21日 (月) 22時06分
大正半ばに作詞されたとは思えないほど易しい日本語で綴られているから今日まで歌い継がれているのではないのでしょうか。私の通った国民学校は八王子市へ学童疎開しましたので、この歌への親しみは一入です。
市内の某料亭では、七月には源氏蛍を、八月には平家蛍を、全館消灯して庭に放って鑑賞に供して好評だとか、その蛍は八王子の山間部で飼育しているそうです。八王子は都下では面積人口ともに最大の市ですから、NHKテレビでも、東京の天気予報は都心部と八王子の2地点を表示しますが、八王子は定めしコンクリ砂漠の都心とは違った空気に包まれているのでしょう。ミシュランでクローズアップされた高尾山も確か市内だった筈。
投稿: 槃特の呟き | 2013年1月21日 (月) 23時13分
童心に帰ることのできる懐かしい歌です。現在の子供たちに、もっと童謡を歌ってほしいですね。歌って踊っても悪くないけど、今までの伝統文化を若干軽視する風潮があるかも・・・。
投稿: 三瓶 | 2013年1月26日 (土) 09時58分
良いサイトを見つけました。私は観栖寺のそばに住んでいます。ペンネームは「夕焼け小焼け」でよくブログを書いています。近辺は良いところですよ。
投稿: 夕焼け小焼け | 2013年2月 5日 (火) 03時40分
恩方に友がいた。
きだみのる、もいた。”仏”仕込みのヨーグルトの作り方を教わった。牛乳瓶のキャップをとり、縁側に置く。発酵し分離する。凝固したものがヨーグルト。若者が集まって沈黙はいけない。
訥々とした語り。野生人、アウトロー。
子供時分に馴染み親しんだうた,20歳すぎの想い出、晩年になって、こんな思いを語れる、”うた”って、すごいなぁ、ありがたいなぁ。
投稿: Mr.kanagoe | 2013年3月23日 (土) 13時59分
偶然拝見しましたが、以下ご参考まで。
>もう数十年前になりますが、私は恩方の酒造家に案内されて『夕焼け小焼け』の舞台だというお寺を訪ねたことがあります。
この酒屋は今は廃業しましたが中島酒造だと思います。また、そのお寺は観栖寺だと思います。
中島家は代々観栖寺の檀家総代を務めており(現在は距離を置いていますが)、この本家争いについては、昭和50年代に中村雨紅氏の奥さんが読売新聞の取材の答えています。(あまり知られていませんが・・・)
その記事では奥さんはお寺の具体的な名前は出していませんが、雨紅氏のそれまでの発言・行動、また観栖寺の過去帳から検証した結果、新聞では観栖寺と位置付けています。
なお、中村氏が聞いたお寺の鐘を鳴らしたのは新聞記事によると私の曽祖父です。
また、歌の内容はいかにものどかで平和なイメージですが、実際はあの鐘は観栖寺の当時の住職の息子さんが亡くなり、葬儀の際の鐘を中村氏がそうとは知らずに聞いて作詞したとのことです。
イメージが崩れてしまうかもしれませんが、興味がおありのようですので、事実としてお知らせいたします。
投稿: 恩方在住者 | 2013年4月26日 (金) 23時49分
私は昭和21年生まれの高齢おじちゃんですが、私が若い頃
住んでいた浅川近くの堤防を友達と散策していた時、正面にある高尾山の山あいから赤く染まった夕焼け空をよく眺めていたことを思い出します。その後私の父親が恩方に住んでいた中村雨紅先生直筆の夕焼け小焼けの詩を譲ってもらいました。そせ以後私の部屋に飾ってあり、私の宝物です。
投稿: チャーリー君 | 2015年12月 7日 (月) 17時46分
この歌詞はすっかり中村雨紅先生から独立して国民共有の財産になっている感がします したがって、『山のお寺』は作詞家の故郷のお寺ではなくても……全国各地にある数万のお寺みんなに共通する思いですね(特に山間部のお寺) 子供たちも、戦前、戦後、平成の子供たちみんなのことと思いたい
いい歌ですよ
投稿: くろかつ | 2016年4月11日 (月) 07時59分
今年3月28日午後に、八王子市恩方出身の、夕焼け小焼けの作詞者中村雨紅先生のお墓にお参りに行きました。何時か行きたいと思っていましたが、いろいろ理由があって行けませんでした。恩方の山間にある陣馬街道をしたすら車で探しながらながらやっとたどりつきました。のどかな山間の木々に囲まれた白い先生のお墓が右手に見え安心しました。お墓の左に夕焼け小焼けの詩がむかえてくれました。
先生の生家高井名が記されていました。合掌・・・・・
先生直筆の夕焼け小焼けの詩を我が父よりもらい、私の宝物にしています。今後、毎年四季にお参りに行きたいと思います。正に夕焼け小焼けは八王子の日本の永久の宝物です。
投稿: フジチャン | 2017年3月29日 (水) 20時52分
子供のころから大好きな歌です。
私が幼いころ父が小さな家を建てました。3畳の間が二つと6畳の間、それに台所がある平屋です。私は母の実家から月一度くらいの頻度で父の家に遊びに行きました。父の家の近くには川があり、川に沿って遠くの山裾まで田んぼが広がっていました。家からは何もさえぎるものなく田んぼが一面に見渡せました。山のお寺もおててつないで帰る仲良しもいなかったのですが、この曲からこの山と田んぼの見晴らしが私の原風景として思い浮かべられます。
投稿: yoko | 2017年3月30日 (木) 00時04分
先日、母の卒寿のお祝いのため九州の実家に帰省していた時のことです(いま、関西に住んでいます)
夕方、まだ畑や田んぼが残る家の近くを懐かしく思い、ひとり歩いていた時・・・・・・突然あの懐かしい感覚・・
・・感情・・・がふわ~~っとやってきました。
その感覚とは「幸せ・安心・歓び」をひとまとめにしたような何とも言えない幸せに満ちあふれているような感覚でした。そしてそれは子供のころ、ちょうどこの夕暮れ時に、いっぱい遊んで母の待つ家に走って帰る時の感覚でした。
もう何十年も忘れていましたが、今も残っていました・・・・・決して裕福ではなかったけれどそんな時にもあった条件なしの「幸せ感」。このメロディと共に蘇ってきました。
投稿: MIKO | 2017年3月30日 (木) 19時07分
前回のコメントに続けて(父方の)祖母についてコメントしたくなりました。少し長い私事になりますがお許しください。
父と祖母は土蔵の住まい(”田舎の冬”でコメントしました)から出て新居に移りました。私は父の家にはたまにしか遊びに行きませんのでした。その時はいつも御馳走でした。御馳走と言っても”カレー”か”すき焼き”です。祖母は「今日は何にする?」と確かめて買い物に出かけました。
穏やかで優しくて私は叱られたことがありません。祖母は食事は皆が済ませた後、一人で食べていたようです。お風呂も皆の後で、小さな家なのに私の気づかない時に入っていました。6畳の部屋に来客があるときも皆の輪に入って楽しむことはありませんでした。自分の意見を主張する人ではありませんでした。襖で隔てられた隣の3畳の間に一人で静かにしていました。
来客が夜遅く帰った時、襖を開けるとおばあちゃんは寝ていました。寝布団は3畳間の押し入れにありますのでおばあちゃんをまたいで6畳の間に私と父の寝布団を運びました。
父が死んでおばあちゃんは一人残されました。私の母がデイケアに通いました。そのことに私には一抹の不安がよぎりました。月日は流れある日おばあちゃんから私に一通の葉書が届きました。これまでおばあちゃんが文字を読み書きしている姿を私は見たことがありません。達筆でした。母のことも少し書いてありました。私は察しました。おばあちゃんが”助けて”と叫んでいることを・・・。しかし私には何もできませんでした。
さらに数年経ちました。仕事に追われていた毎日でおばあちゃんに会うこともありませんでした。ある日電話がありました。おばあちゃんが入院している、と・・・。面会するとおばあちゃんの姿は老齢で変わり果てていました。しかし私を認知することができ、「アメリカに行ったそうだね」と話しかけてくれました。前日に訪れた私の弟の子供(4歳)についても覚えていて、「男の子なのに女の子のような髪型でおかしかった」と話しました。しかし表情はすでに宙を漂っているように思えました。
お葬式を父の小さな家で行いました。地元のお寺の住職であるご高齢お坊さんは子供の頃の思い出を話されました。
「おばあちゃんがお嫁入された日のことをよく覚えております。それはそれはお祭りのような賑わいでした。お祝いの宴は5日間続きました・・・」、と。
ある方が、私に挨拶に来られました。「私の祖父が車(人力車)を引いていました」、と・・・。祖母が嫁いだ家には人力車の車庫があったそうです。
ある方が、「孫が遊びに来るから嬉しい、とおばあちゃんはおっしゃっていましたよ」、と話されました。
(”美しい十代”でもこのことをコメントしました。)
今ではもう父の家も裏の土蔵もなく家の前の一面の田んぼも住宅地に代わっています。
この優しくて美しい曲は過ぎ去った子供の頃の日々を思い浮かべさせてくれますね。願わくば、人生の最後はこの歌を歌って、また聞きながら終えたいものです。お寺の鐘も聞きたいなぁ。そして小鳥のように眠って、きらきら光るお星さまになれるとよいですね。
投稿: yoko | 2017年4月 2日 (日) 15時17分
この歌は松鶴家ちとせさんが
パンチパーマで挑発的な感じで、「いぇー」のあと
俺が昔夕焼けだった頃、弟は小焼けだった
ではじまって
わかるかなー、わかんねーだろううなぁ
と、いっさい観客に迎合せず
突き放したような歌い方で演じてましたねー
おもわず
「こんなんあり?」
と叫んでしまいましたが、
ときには、こんなのもアリなんでしょう
なんか始めて気がついて
早いモン勝ちみたいな
投稿: 江戸 | 2018年8月18日 (土) 07時18分
中国には古くから太陽には烏が住んでいるという理解があり、烏は太陽の象徴でもありました。夕方に烏が西に飛んで行くのを見ると、人も人生の最後に還るべき所に帰って行くのだと思います。
投稿: milk3 | 2019年2月 9日 (土) 13時11分
私の市の夕方にはこの歌が流れます。「あれ!」と思う間もなくどんどん歌が進んでいきます。間違いなくこの歌です。
ああ「あの歌だ。」と思うのはノスタルジアだと思いますが、いい歌です。
投稿: 今でも青春 | 2019年6月14日 (金) 20時12分
猛暑に耐えている同好の皆様 残暑お見舞い申しあげます。
二木先生演奏の「夕焼け小焼け」心洗われる思いがします。幼い昔へ心が帰っていきます。
猛暑の午後2時半からのコンサートの幕開けはこの歌でした。郷土の美貌のソプラノ歌手が「この歌は次世代に残したい歌第1位です」と説明。
益々この歌が好きになりました。
星野富弘さんの花の詩画(ばら、きく、なずな)から構成された合唱曲「母の手」作曲は太田桜子 をどうしても歌いたくが独唱用に替えたとの由。「神様 一日だけ私の手が自由になれたなら思い切り母の肩をたたきたい。神様 神様」
繰り返された「神様」が今も耳に心に残っています。
美しい日本語の どの歌にも涙が込み上げました。
取り分け「母の手」は心の奥深くに沁みました。
アンコールは「花」
「泣きなさい、笑いなさい」の歌詞の「花」です。
満席でも50名の小さなホール(蔵を改造)での演奏会でした。
「夕焼け小焼け」から逸脱をご容赦ください。
投稿: りんご | 2019年8月17日 (土) 20時35分
小学生の低学年の頃、父に街灯が点いたら帰って来るんだよ、と言われていました。「夕焼け小焼けは」の旋律は私にとって街灯が点く時の歌でした。「お手手つないでみな帰ろ」でした。 夫と各地を旅行するようになって、初めて「夕焼け小焼け」の情景はこうなんだろうなとしみじみ思った景色がありました。
どこの田舎道を走っていた時だったか分かりませんが、夕暮れ時、陽が山陰に入りかけシルエットになった山々に囲まれた広い畑か田んぼの空を、烏が一羽、「かあ〜かあ〜」と静かに鳴きながら山の方へ飛んでいきました。
生まれて初めてみた光景でした。お寺の鐘は聞こえませんでしたが、「夕焼け小焼け」の歌そのものでした。なんとも言えない暖かい気持ちに陥りました。そしてこんな情景の中の烏もいいなと思いました。都会のカラスは嫌いです。
投稿: konoha | 2019年8月18日 (日) 06時54分
今朝 歌物語を開いたら 優しいりんごさんの「夕焼け小焼け」のコメントが目に飛び込みました。二木先生の解説の「郷愁を誘う詞とメロディ」の通りですね。有難うございます。
私は 幼い頃、田畑の間の農道を妹や弟の手を引いたりしながら母のあとを歩いたことをボ~ッと思い出しました。「もお~」と牛の声や「わんわ~ん」と犬の声が聞こえたような気がします。親戚の農家に呼ばれ、野菜などの土産を持ちながらの家路でした。
父は 「夕焼け小焼け」で見える景色を「晩景」と表現し「日没の静寂な様は、すがすがしくもあり、まるで人生そのものである。1日の暮らしを無事終わった時の心境で77年の足跡を瞑想することも「晩景」そのものだと喜寿を前に子供や孫のために自叙伝を遺してくれました。
現在 練馬区でも17時半になるとこのメロディが流れます。草笛の練習をしている時は、草笛をやめてこのメロディを吹くようにしています。「夕焼け小焼け」のメロディを聞くと、60年以上前、貧しい生活でも笑いの絶えなかった当時の家族を懐かしく思い出します。父は「健康、兄弟仲良く、感謝」をいつも言ってました。
投稿: けん | 2019年8月18日 (日) 08時09分
童謡・唱歌の中でも特に好きな曲で、ハーモニカ演奏の時には必ずレパートリーの中に入っていました。
それにこの曲を吹く時には、リトルハーモニカ(4センチほどの物で4欠・1オクターブ)で、左手の親指と中指に鋏、唇はオチョボ口で一音一音を丁寧に曲の持ち味を表現するようにします。そして、右手を左手に被せ、震わせてビブラートを加えます。
演奏する会場での雰囲気に合わせ皆さんに喜んでいただけるのが何よりの励ましとなっていました。
りんごさま ほんとに素敵なコンサートに出会われ心が洗われたことと思います。
羨ましいですね!
私は、konoha さま けんさまのように、幼い頃での微笑ましい想い出はありませんが、この曲を心静かに聴いていると子どもの頃、近所の川で「メダカ」を網で追ったり、公園などで「蝉」や「トンボ」を追いかけたことを懐かしく思い出しています。
久し振りの投稿でしたが、相変わらず暑い中「宅配」で頑張っています。
投稿: 一章 | 2019年8月18日 (日) 09時25分
「夕焼け小焼け」蛇足で初めて知りましたが、中村雨紅がこの唄の詩を作ってから、もう100年が経つんですね!
一人で口ずさめば、あっという間に幼い頃に還れるこの唄は、日本中の人たちに最も親しまれてきた童謡のような気がします。
幼い頃、西の方の空が夕焼けに染まると、明日は晴れるね!と母が言っていたことを想い出します。
二木先生が年賀状に描かれたという、鮮やかな上の絵を見て感じましたが、2013年1月1日に浮舟(越村南)様のご投稿コメント末文、>カラスがちょっと悪そうなところがいいですね。私も全く同感です(笑)。
投稿: 芳勝 | 2019年8月18日 (日) 23時39分
「男はつらいよ」の再々放送で「夕焼け小焼け」をみました。寅さんのマドンナは太地喜和子さん扮する龍野芸者・ぼたんです。何回見ても気持ちよく鑑賞できるすきな映画です。ゲスト出演の宇野重吉さん扮するよぼよぼの老人(実は日本画壇の重鎮・狩野青観)が泊めてもらった宿賃を工面すべく団子やの二階でちょこちょこと描いた色紙を神田の大雅堂に持っていかせ、なにがしかの金に換えてもらうよう寅さんにたのみます。七萬円の大金(団子やにとっては)を手に柴又に帰ったら、よぼよぼの老人はもういません。金になる木をみすみす帰したことに怒る寅さん。紆余曲折あり、例によってまたぶいと旅に出ます。その老人と再会したのは兵庫県の龍野です。「夕焼け小焼け」が市の拡声器でながれます。高校生たちが家路を急ぐ夕暮れの光景にこの曲おりこまれています。全国どこでもぴったりの名曲ですね。ところで神田の大雅堂は書家、陶芸家、料理家で美食家の北大路魯山人が関東大震災前に神田で古美術店を開いた店の屋号であることを「美の壷」の放送で最近になって知りました。山田洋次監督の裁量に感服しました。含蓄ある名画です。岡田嘉子さんとの再会で狩野青観と静かに語らう場面では、「こうすればよかったと思う後悔と、なぜあのようにしたかの後悔・・・」と岡田嘉子さんに呟かせる山田監督は実に名監督&脚本家ですね。
投稿: 山口 功(亜浪沙) | 2020年2月22日 (土) 17時18分
「からすといっしょにかえる」というのですから、烏は西の方に飛んで行くことになります。古代中国には、太陽には三本脚の烏が住んでいるという理解があり、烏が太陽の象徴と理解されることがありました。それは早くから日本にも伝えられ、知識階級にとっては誰もが知っていることでした。謀叛の疑いで処刑された大津皇子の辞世の詩には、夕日が傾いて西の家々を照らしているということが、「金烏西舎臨(て)らひ」と詠まれています。「金烏」が夕日を意味しているわけです。子供の頃には意識しませんでしたが、この年齢(70代)になると、夕暮れを人生の晩年に見立て、烏は自分の還るべき所に還って行くのだなあと思い、この歌の印象が変わりました。あと余生は何年あるかわかりませんが、そう長くはありません。入り日の方に向かって帰ってゆく烏を数えながら、自分に許される年を数え、私の魂が還るべきところに還ることを願っています。夕烏を眺めながら、ふとそんなことを思いました。
日没後に月が上ってきたというのですから、これは満月かそれに近い月齢です。空には金の星というのですから、宵の明星かもしれません。太陽と月と星に見守られていることを、実感できる歌詞になっていることを、あらためて再認識しています。
投稿: 阿部泉 | 2020年9月28日 (月) 11時09分
この唱は日本のどの場所にでもある寺の鐘の音に当てはめることができそうですね。映画「阿弥陀堂だより」の一場面で村の子供たちが「夕焼け小焼け」を唄いながら家路を急ぐシーンは脳裏に焼き付いています。この映画で奥信濃の飯山・正受庵の本堂で息を引き取る恩師を看取る主人公を演じる俳優は宇野重吉さんのご子息の寺尾聡さんです。晩秋の日が落ちかかるこの場面では「正受庵」の鐘がなっていたような気がします。このところ朝の6時の鐘の音が近くの古刹から耳に届きません。夕方の鐘の音もしかりです。知り合いの年老いた老婦人にそのことを立ち話ししたところ、なんとその寺ではコンピュータ制御で鐘をつくべく檀家に浄財を求めているとのことです。殺伐とした世の中がひたひたと迫ってきてなんとも言い様がありません。せめてもの気分転換にと山本周五郎全集を読み始めています。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年10月 5日 (火) 16時30分
現実のカラスは、真っ黒で大きくて濁った声でガアーガアー鳴いて、猫を襲ったり鳩を襲って食ったり、放牧されている牛の背中に乗って、その太い嘴でつついて牛の背中に穴をあけるイタズラをしたりなどなど良いイメージはないのですが‥。どうしたことか、童謡に出てくるカラスは「七つの子」にしても懐かしい鳥になっている。
ちなみに、寺と自分の間に竹藪があると、竹の真空ために寺の鐘の音は聞こえません。
投稿: 岩崎裕二 | 2023年8月27日 (日) 10時20分