« 聞かせてよ愛の言葉を | トップページ | 黄昏のビギン »

2013年4月28日 (日)

ふるさとの燈台

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:清水みのる、作曲:長津義司、唄:田端義夫

1 真帆片帆(まほかたほ) 歌をのせて通う
  ふるさとの小島よ
  燈台の岬よ
  白砂に 残る思い出の
  いまも仄(ほの)かに
  さざなみは さざなみは
  胸をゆするよ

2 漁火(いさりび)の 遠く近くゆるる
  はるかなる小島よ
  燈台のわが家よ
  なつかしき 父のまた母の
  膝はゆりかご
  いつの日も いつの日も
  夢をさそうよ

3 歳ふりて 星に月にしのぶ
  むらさきの小島よ
  燈台のあかりよ
  そよ風の 甘き調べにも
  想いあふれて
  流れくる 流れくる
  熱き涙よ

《蛇足》 昭和27年(1952)テイチクから発売されました。
 この年、田端義夫は、デビューした昭和14年
(1939)リリースの『大利根月夜』を再発売しています。

 その歌手生命の長さと歌への情熱は驚くほどで、平成13年(2001)、82歳のとき、沖縄出身のBEGINに『旅の終わりに聞く歌は』を書いてもらって歌いました。
 平成25年(2013)4月25日、肺炎のため亡くなりました。94歳でした。存分に歌い続け、ご本人も満足できる生涯だったのではないでしょうか。

 上記の歌詞で、真帆」は順風を受けて十分に張った帆、「片帆」は横風を受けて帆走するために斜めに片寄らせて張った帆で、「開き帆」ともいいます。

 写真は御前埼燈台。昭和49年(1974)5月23日に建てられた『ふるさとの燈台』の歌碑があります。地名は御前崎ですが、燈台名は御前埼燈台。

(二木紘三 )

« 聞かせてよ愛の言葉を | トップページ | 黄昏のビギン »

コメント

「旅路」作詞作曲徳久広司?1)忘れきれない思い出が、俺を泣かせる、一人旅、何処まで行けば、此の胸の、苦しみ、悲しみ消えるのか2)今の俺には、落ち着く先も、こころ休めるとこも無い、ねぐら持たない、根無し草、明日は何処か、夢も無い~広めたい素晴らしい名曲、カラオケ店では、見当たらない昭和の庶民史を語る会13・04・28

「旅路」作詞作曲徳久広司?3)終わる宛てない、此の旅路、待っているのか、可愛い人よ、ここは見知らぬ旅の宿、つのる思いは、故郷へ ~ユーチュウブでは聞けるので、一度聞いてください。唄い続けたい、知られていない多くの名曲が、埋もれています。何とかしたいものです、広める方法のご教示を!昭和の庶民史を語る会13・04・28

「流浪歌(たびうた)」作詞:吉田旺。作曲:徳久広司1)都落ちする背中の寒さ、誰にわかってほしくはないが、優しき友よ別れめに、せめてうたおか流浪歌を2)独り夜汽車に憂いをあずけ、呷る旅酒、なぜこう薄い、祭りのあとの、侘びしさにひとりうたおか流浪歌を~カラオケ店に無いのは、何故ですか。昭和の庶民史を語る会13・04・26


「流浪歌(たびうた)」作詞:吉田旺。作曲:徳久広司3)星の流れにわが行く末を、重ね合わせる他国の夜更け、瞼とじれば故郷が見える、風にうたおか流浪歌を~こころにしみる、好きな歌が、カラオケから抜けているのは悲しい。どのようにすれば、店に入れて、もらえるのかお教え頂ければ幸いです!。昭和の庶民史を語る会13・04・26

.

「流浪歌(たびうた)」作詞:吉田旺。作曲:徳久広司1)都落ちする背中の寒さ、誰にわかってほしくはないが、優しき友よ別れめに、せめてうたおか流浪歌を2)独り夜汽車に憂いをあずけ、呷る旅酒、なぜこう薄い、祭りのあとの、侘びしさにひとりうたおか流浪歌を3)星の流れにわが行く末を、重ね合わせる他国の夜更け、瞼とじれば故郷が見える、風にうたおか流浪歌を13・04・26

.

「旅の重さ」作詞・作曲・唄/徳久広司。編曲/馬飼野俊一」1)さみしくて さみしくて 暮れまどう 窓辺に一人 訪ねあぐみし 君何処 想いはつのる  旅の宿~素晴らしい歌なのに、どのカラオケ店でも歌えない。歌える店があればお教えくだされば幸いです。後世に歌い伝えていければ、嬉しですが。 昭和の庶民史を語る会13.04.26

「旅の重さ」 2)たそがれに たそがれに 誘われて 川面に一人 流るる水に 病葉を 浮かべる我が身の 哀しさよ 3)つれづれに つれづれに かいま見る 君の面影 めぐり逢うせし その時は 熱き唇 重ねよや~日野てる子の「爪をかむ少女」と共に、みんなに歌ってほしい名曲、一度聞いて!。 昭和の庶民史を語る会13.04.26

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2013年4月28日 (日) 21時28分

 バタヤンが逝かれて残された数々の歌の中で私にとっては何時も口ずさむ最高の歌「ふるさとの灯台」を、どこの灯台でしょうか?御前崎でしょうか?夕焼けのすばらしい景観共に二木先生ありがとうございました。
 
 今年の4/19・12:00~17:00までNHK大阪ホールを借り切っての懐メロ保存会:リベリカ本店主催『第77回昭和の懐メロ大行進!』では、全てバタヤンスタイルで78歳のK.Oさんが歌い大喝采でした。
私は`09年の前回より増員の二胡9名と演奏「チャイナタンゴ」、歌伴奏「支那の夜」と「紅い睡蓮」をソプラノサックスで音響のすばらしさに酔いつつあっという間でした。

 今回NHKに依頼したDVD作業途中にバタヤンの訃報で落ち込んでいた矢先、ビタミン剤ともいえるこのブログのお陰でこの歌を目指しボイス・トレーニングを始めようかと歳を無視した思いも湧いてきました。それほどメロメロにしてくれた「ふるさとの灯台」・・・。
 
 歌碑は静岡の御前崎灯台にあるそうですが、何時か訪れたいと思っています。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年4月29日 (月) 12時12分

この方の歌には島、船、ふるさとと郷愁を誘う歌が多いが何となく昔の思い出が残っているのでしょうか。氏より3歳若くして氏より2日前に母が逝きましたご冥福をお祈りいたします。

投稿: 海道 | 2013年4月30日 (火) 12時50分

海道様
 お母様、心からお悔み申し上げます。亡くなられたばかりは気が張っておられますが、時間が経つにしたがって優しかったお母様のことが思い出されることと思います。自分が母親になってみて子供は幾つになっても子供なのだと思い知らされました。海道さんがお元気て生きて居られることが何よりの喜びだったと思います。お母様のご冥福お祈りいたします。健康に生きて親孝行をなさってくださいね。

投稿: ハコベの花 | 2013年5月 9日 (木) 20時55分

昭和27年は小生が田舎の高校に入学した年で一歳下の友と裏山に行きよくこの歌を歌いました。大好きな曲のひとつです。今でもカラオケで歌うと80ウン歳の友人が涙が出そうだと下手な歌を喜んで呉れます。しみじみとしたメロディと詩が心に沁みる名曲ですね。

投稿: 山下 | 2013年5月21日 (火) 23時25分

灯台も灯台守も今は無用ですね。時計につくGPS(Global Positioning System)が1m誤差で、自分の地球上位置を示す時代だから。すると私の灯台の岬、経ヶ岬もあの白い円筒形灯台も、普段に聴けるMP3「ふるさとの灯台」やUSAの曲「灯台守」の中で生き続けてくれるでしょう。 この清水みのる詩と、勝丞夫の「凍れる月影 空に冴えて…」との作詞にも同じ語彙が見出されます。前者に後者のイメージがこだましていたのでしょうか…。

かせいさんから優しい言葉を、「港」と「灯台守」を原風景にする小生にいただきました。音程を違えて歌う輩にとって、誠にありがたく存じます。 田端義夫の詩は歌うには難しすぎます。しかし聴くには何と快く心情に響いてくることか。昭和27年、京都の室町小学校に通っていましたが、この曲と田端の歌を聞いた覚えは全くありません。

投稿: minatoya | 2014年1月21日 (火) 12時57分

確か昭和32年2回目のレコードには、2番と3番の間奏に「ねんねんころりよおころりよ~」と江戸子守歌のメロディが入っており、哀愁にに包まれていっそう郷愁を呼び起こしてくれる嬉しい収録です。

投稿: 尾谷光紀 | 2016年9月 7日 (水) 22時12分

大岡信さんの「折々のうた」に昭和14年の坪野哲久氏の歌
が採録されています。

 少年貧時のかなしみは烙印のごときかなや
       夢さめてなほもなみだ溢れ出づ

大岡さんは「・・定型からするとはみ出しが多い。・・破調の歌を作るには、それだけの必然性があるはずで、・・
少年時の貧の悲しみを知る人は、この字余りのうちに言い難い思いをよむだろう。・・」と書いています。

2011.12.10 の読売新聞に特別編集委員の橋本五郎氏によって明治16年生まれの高名な社会学者・高田保馬博士の
父を失った少年時の話が紹介されています。
「佐賀中学時代、往復4里の道を通い、粗末なおかずの弁当
を道路脇のやぶに隠して帰りに食べた。町の子のように
奈良漬のおかずが欲しかったが貧しい母に願うわけにはいかない。昼食時には一人で鉄棒した。」というエピソードである。
ところで、田端さんも舞台の上で同じような話を歌と歌の間でギターを爪弾きながら低い声で遠慮がちに語っている
のをみたことがあります。姉が早くに芸者に出たこと、貧しくて弁当を持っていくことができなかったので、弁当の時間には運動場で遊んでいたこと、小学校を終えて働きに
でるとき途中まで母が見送りに来てくれ、別れてまたふり
返ると丘の上で母がいつまでも手をふりつずけていたことなど。
流行歌手が大勢の観客を前にしてこういう語りををすると
どうしてもお涙頂戴の浪花節にきこえてしまいますが、ぼくはたぶんそうではないと思っています。やがて <まほ
かたほ 唄をのせて通う> と歌いはじめたころ彼の頬に
一筋の光るものが落ちてゆきました。パーフォーマンスとは思えない。
高田博士の話にも田畑さんの話にもともに「弁当」が出て
まいります。この「弁当」こそこの時代の少年のかなしみ
を解くかぎがあります。冒頭の坪野氏をみてください、たぶん弁当なしで一人鉄棒をしている健気な自分を回想しつつ「なみだ溢れ出づ」。

正統な教育をうけることができなかったひとが独力で自分
を鍛え磨き上げたとき、類をみない深い味わいの作品を
生み出すことがあります。田端さんの歌唱は詩の高みにまで達しています。人のこころをとらえるのはそのせいです
「ふるさとの灯台」は田端さんの歌手人生のゆきついた
絶唱にちがいありません。

投稿: 村のしぐれ | 2016年10月 9日 (日) 22時57分

長津義司とくれば『大利根月夜』『玄海ブルース』『チャンチキおけさ』『大利根無情』…多数のヒット曲がありますが、特に『ふるさとの燈台』は実にしみじみとした曲です。九州の一章様と同じく芋焼酎(鹿児島産が好物)など飲みながら聴くと、長津義司曲良し、バタヤン歌唱良し、二木先生演奏良し、酒良しと相成ります。
作詞の清水みのるは長津義司と同じ静岡県出身だそうですが、「御前崎灯台」を想定したのか?、それとも「犬吠埼灯台」か?、「潮岬灯台」か?、「室戸岬灯台」か?と勝手に想像するのも一興です。

投稿: 焼酎百代 | 2016年10月23日 (日) 21時36分

私もこの曲が大好きなバタヤンの大フアンです。
バタヤンがギターを胸に切々と唄う姿には感動の連続でした。
先ほどまで、焼酎百代さまと同様、鹿児島産の「芋焼酎」を飲みながらこの曲を聴いていました。
それにしても、いつもながら二木楽団の演奏には心が吸い込まれます。
今後ともよろしくお願いします。

投稿: 一章 | 2016年10月24日 (月) 20時40分

正統的な混声合唱団で歌うことと同時に、仲間に誘われて区の施設を利用して、週一二度、カラオケの集まりに加わり、そこでも声を出しています。仲間たちが歌う歌の七割ぐらいが、今の演歌で、正直食傷気味なのですが、お一人、日本のスタンダード的ないい歌を歌われる七十代の男性がおられて、その方が歌われたこの歌の素晴らしさ(ご本人の歌唱もすばらしかったですが)に感激し、自分も覚えようと思い、田端義夫のレコードを再び取り出して聞いてみたり、二木先生のこの楽器バージョンを聞かせていただいだりして、自分のレパートリーに加えました。先日、小生、恥ずかしながらこの歌をカラオケの会で歌ったのですが、さきほどの男性から褒めて頂き嬉しくなりました。二木先生、これからもいい歌をご紹介ください。

投稿: 朝風呂 | 2017年3月31日 (金) 05時14分

能登半島のわたしの故郷にも小さい灯台がありました。その下での堤防釣りも思い出です。今は離郷の身ですが心にはいつも古里があります。

この歌は難しいですね。でも、よくカラオケで歌います。DAMのカラオケ映像はばたやん自身が墓参している場面を含んでいて臨場感があります。わたしも自分なりの体験に基づいた情景を思い浮かべて・・・。不覚にも”熱き涙”が”流れくる”ことがあります。

投稿: ザジ | 2017年3月31日 (金) 10時09分

「ふるさとの燈台」は何度聴いても心に沁みる名曲です。明治人間の亡父は町医者でしたが二人の倅には跡を継げとは一切言わず、機械設計屋や教員(実弟)の道を歩き、若い頃の親不孝の数々(せいぜい近所で暴れたりする程度の小心者でした)を思い出すたび涙が溢れるばかりです。
今日ビは日曜祭日の他に水曜や木曜休診といったところがほとんどですが、昔のこととて家族を養うため盆暮れ正月もなく年中無休で患者を診てました。長年の酷使と飲酒がアダとなったか最後は肝臓ガンと心臓病を併発して壮絶な死でしたが、親不孝者にとっては心に沁みる名曲です。
http://www.youtube.com/watch?v=Y13aRYY2rfw

投稿: 焼酎百代 | 2017年7月28日 (金) 13時47分

焼酎百代さま
お元気のご様子何よりです。
当佐賀地方では、連日、35~6度の猛暑日が続いております。
毎日、弁当等の宅配では汗だくで奮闘しております。
北関東での熱さは如何でしょうか。
ところでこの曲「ふるさとの灯台」、百代さまのおっしゃるとおり何度聞いても飽きません。かえって心に沁み入るのが増すばかりのようです。
今日は、久し振りで愛用の蓄音機で、SP盤コレクションの中の貴重な一枚、「ふるさとの灯台」を芋焼酎とともにゆっくりと聴きました。鉄針の音がジージーとしますが、時代の変遷が分かり田端義夫が目の前でギターを胸に抱き唄っているような雰囲気でした。
そうでしたか、百代さまのお父様はお医者さまでしたか、でもコメントで拝読するところでは、地元の患者様にたいして親身になって診療なされ信望も厚く、医師としての使命を全うなされたと思います。私は、尊敬すべきお父様だと思います。
今後ともコメントを楽しみにいたしております。

投稿: 一章 | 2017年7月28日 (金) 20時56分

一章様  佐賀地方は猛暑だそうですが、雨続きで戻り梅雨か?という北関東もこの間まで猛暑でした。本曲は実にしみじみとした曲です。バタヤンのヒット曲をはじめ昭和20~30年代歌謡曲は名曲揃いでした。
一章様はハーモニカ演奏出前講座をされているそうですが(うた物語「旅の夜風」)、歌・楽器音痴から見ると素晴らしいです。貴重なSP盤コレクションを大事にされて下さい。1.8ℓ874円也の芋焼酎など飲みながら聴くと安酒も高級酒と相成ります。同じ戦前生まれで今後とも宜しくお願い申し上げます。

投稿: 焼酎百代 | 2017年7月28日 (金) 22時26分

この歌のコメントを拝見しておりましたところ、お名前をよく拝見する 一章様 が 佐賀にお住まいだと知り、故郷の懐かしさもあり、投稿しました。私は昭和29年に生まれて15年間ほど佐賀県の東松浦郡の田舎町で育ちました。他県に出てからはや47年がすぎました。私は、田端義夫さんの歌はよく知っているのですが、実は今は亡き19年生まれの長男がギターの流しを目指しておりましたので、その兄が好んで、人から譲りうけた、傷だらけのおんぼろギター(鉄弦)を手に、帰り船をはじめ、ふるさとの灯台など、よく弾き語りで、聴かせてくれました。私が未だ小学校にあがる前の頃でした。上記二曲などは、今でもイントロの部分だけで胸が締め付けられる時があります。我が家は父が病気で働けないでいたため、なかなか食事にもありつけず、母は栄養失調になり寝込んで、お金がなく医者にもかかれず、一時は死にかけたりもしました。家族が食べるためには、当時まだ14才の兄が働らかねばならず、義務教育である中学を中退し、新聞配達、近所のお菓子屋の手伝い、その店の裏で飼育している豚の餌やり、残飯掃除など、懸命に働いて我が家の家計を必死で支えてくれました。感謝の気持ちしかありません。今、改めて田端義夫さんの歌を聴いておりますと、幼い頃に見ていた兄の光景がが偲ばれます。

投稿: 芳勝 | 2017年11月12日 (日) 19時13分

芳勝さま
この歌も又琴線に響く歌ですね。
ましてお兄様が流しを夢見て襤褸(失礼~)のギターで奏でていた曲なら心のひだ襞に沁みこんでおられるのですね。私も飲んだくれの父を恨み世の格差を恨んで成長したがその比ではありませんね。一家の大黒柱が寝込んでる家庭はありました。冬も素足(当方、雪国です)
またある家庭の同級生は納豆売りをしていました。
芳勝さまの綺麗なお心と逢うべくして逢ったのが二木先生のこのサイトではないでしょうか。苦労の日々さえもお兄様の優しを偲ばれる心情、察するに余りあります。
私も高校卒業以来結婚までの10年間仕送りを欠かさなかった大阪の次兄には足を向けて寝られません。私の結婚資金も全て次兄の仕送りで賄いました。すべては 中卒に甘んじて家庭の犠牲となり弟妹3人の高校進学を支えた長兄への恩に報いるためであったと思うにつけ≪涙が込み上げ来ます。つらい過去を思えば今日の不満も贅沢に思えます。
芳勝さまが
ご自愛なされて長生きなさることがお兄さまへの恩返しです。

投稿: りんご | 2017年11月12日 (日) 21時20分

芳勝さま
私もバタヤンこと田端義夫の大フアンで、特に、この「ふるさとの灯台」は、聴くたびに、ぐ~と胸に迫るものを感じます。
これまでの芳勝さまの数々のコメントを拝読する中で、家庭的に大変ご苦労をなされておられる方ではと推測はいたしておりましたが、この度のコメントでも、そのご心痛が痛いほど伝わってまいりました。
コメントによれば、以前、佐賀県東松浦郡に住んでおられたとの由、私の生まれは東京ですが、戦後、両親の故郷の佐賀に転居、現在では、佐賀市内に居住いたしておりますが、戦後の動乱期での両親は、子育て等に大変苦労をしたと思われます。
話が後になりましたが、芳勝さまのお兄様がギターで流しを目指しておられたとの由、私も独身時代、度々街中を飲み歩き、ギター流しのお兄さんとよく歌ったものでした。今思えば懐かしい限りです。
ちなみに、当時の私の得意の唄は、田端義夫ではなく、ディック・ミネの「旅姿三人男」でした。
小生、先月、幸いにして喜寿を迎えましたが、まだ、現役で弁当等の宅配で頑張っております。
今後とも、佐賀にゆかりのあるもの同士よろしくお願いいたします。

投稿: 一章 | 2017年11月12日 (日) 22時16分

りんご様
一章様へ

年長者であられますお二人からの心のこもった実にもったいないコメントを賜り、大変有難く、心よりお礼申し上げます。このことは若輩者の私がこれから生きて行く上での励みになり、また大きな心の支えにもなります。こんなことも私にとって 二木先生のうた物語 に出会えたという運というものがあるのかなあ としみじみ感じております。
お二方にはこれからもお身体にはくれぐれもご自愛なされて、これからも変わらぬ味のあるいつもの素晴らしいコメントが拝見できますようお祈りしております。本当にありがとうございました。
 

投稿: 芳勝 | 2017年11月12日 (日) 23時34分

私の「ふるさとの燈台」を紹介します。と言いましてもこの灯台ができたのは昭和49年で、私が大学を卒業した後ですので灯台そのものにはそれほど懐かしさは感じません。しかしこの岬一帯は私の生まれ育った故郷ですので十分懐かしいです。

youtube ”石見大崎鼻灯台 空撮”です。

https://www.youtube.com/watch?v=-lhhiDECXdc

私はこの岬の岩場で誰にも見られることなく泳ぐ練習をしました。
そのことを「われは海の子」でコメントしました。

投稿: yoko | 2017年11月20日 (月) 22時47分

「ふるさとの燈台」は聴くたびに目頭が熱くさせてくれます。もう随分前にTVの深夜番組で立川談志と上岡龍太郎がギター持参のバタやんに、2人の好きな曲を歌わせるという企画番組がありました。
 
 「本人よりも詳しい」2人のリクエストに流石のバタやんもタジタジ…。談志が「それじゃ”雨の屋台”」とリクエストすると「歌詞を忘れちゃった…」と言うバタやんに、「大丈夫だ、歌詞はオレが教えるから」と談志。
 
 談志も上岡も、そしてバタやんも実に嬉しそうで忘れ難い番組でした。我が家のどこかに録画したビデオがあるハズなので、家宝にするべく、忘れないうちに引っ張り出してDVDコピーにして永久保存しようと思います。

投稿: ジーン | 2019年6月 4日 (火) 21時23分

最近は、うた物語で皆様の投稿を楽しみに過ごしている毎日です。投稿が途切れますと気持ちが滅入って孤独にさいなまれてしまいます。最近はそんな状態で故郷の海を懐かしんで海が登場する歌を聴こうかなとしてました。

みかんの花咲く丘、誰もいない海、ふるさとの話をしよう、浜辺の歌、海、我は海の子、などが浮かびどれにしようかなと思いつつふと”ふるさとの燈台”を開きました。

すると吃驚、先着ジーンさんの投稿がありました。
皆様の投稿楽しみです。

投稿: yoko | 2019年6月 5日 (水) 10時05分

ジーンさま「ふるさとの燈台」リクエストありがとうございました。
ジーンさま同様に私もこの曲を聴くたびに胸にひしひしと迫るものを感じています。ありがとうございました。

yokoさま 久し振りですね!ご無沙汰をいたしたおりました。
私もyokoさまと同じく、「うた物語」のコメントを心待ちにしている仲間の一人です。
「ふるさとの燈台」いつ聴いても心が和み元気をもらっています。
ちょっと話がそれますが、今週週末には、定年退職後の昔の飲み仲間と居酒屋でカラオケを挟み懇親会の予定です。
この歌を歌おうかと思い、目下特訓中です。

投稿: 一章 | 2019年6月 5日 (水) 20時45分

「ふるさとの燈台」この唄は私にとりまして60年前の、幼かった我が家の当時の暮らしを一瞬にして蘇らせます!

人には誰しも心の底から湧き出てくる、格別な想い出の唄があると思います。田端義夫が歌うこの唄は、尊い我が家の家族一人一人を偲ぶことができる私の大切な唄でもあります。
また、田端義夫は幼少の頃には父を亡くし、家賃が払えず何度も夜逃げを経験し、10才の頃から母を助けるため学校を休んで薬屋、菓子屋へ丁稚奉公をしたと云います。どん底の暮らしをしたことのある、田端義夫本人ならではの神髄を感じさせる唄、まさに私はそんな気がします。戦前・戦後の違いはありますが、我が家も父が病気だったため、家族を養うために14才で我が家の長兄が中学中退で必死で働き、その家計を一身に背負ってくれたその苦労と、実に似通ったものを私は感じます。
「ふるさとの燈台」このページを開く度に、2016年10月9日、村のしぐれ様ご投稿コメントに私は思わず目が留まります。
そしてそのコメントの末文(原文)
>正統な教育をうけることができなかったひとが独力で自分を鍛え磨き上げたとき、類をみない深い味わいの作品を生みだすことがあります「ふるさとの灯台」は田端さんの歌手人生のゆきついた絶唱にちがいありません。
私はこのご意見に共鳴し、そして尊重しています。

「ふるさとの燈台」この唄は、清水みのる・長津義司・田端義夫・というこの三人の名人たちそれぞれの唄に込めた魂の結束力が、いつまでも聴く人の琴線をふるわす珠玉の名曲に仕上げたのではないのか、そのように私には思えてきます。


投稿: 芳勝 | 2019年6月 6日 (木) 14時08分

芳勝、一章、ほか「故郷の灯台大好きの御かたがた」さま
 久しぶりに「二木紘三のうた物語」の門をくぐりました。懐かしくもほろ苦い田端義男さんの「ふるさとの灯台」によせられた最近のコメントを拝読しました。そのなかに佐賀県の地名が読み取れて頭の中がじいーんとなって心地よい興奮状態です。佐賀県東松浦郡の片田舎。何処でしょうか?亜浪沙(山口功)は旧東松浦郡湊村で生まれ、玄界灘の海の波音と潮風のなかで育てられました。高校卒業後は関東人となっていまだなじめない環境でふるさとを懐かしんで暮らしています。里山の高みからは七里沖合の「烏帽子灯台」の回転灯が夕暮れともなると目にはいります。その沖合を東に向けてゆっくと進む大きな船を何度となく目にしました。帰り船です。大陸からの引き上げ船と兄が教えてくれました。私にとっては、名実ともに有名な灯台ではなく玄界灘の沖合の岩礁の立つ孤高の「烏帽子灯台」がふるさとの灯台であります。みなさん、ありがとうございました。

投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2019年6月 7日 (金) 12時56分

「ふるさとの燈台」この唄のメロディが流れはじめると、私には幼い頃の懐かしい想い出の数々が一瞬に蘇ってきます!

先日、長津義司作品集と題してYouTubeにアップされている、1979年にNHKで放送された番組「ビックショー」のダイジェスト版を視聴したのですが、その番組を観終わった時、私の脳裏にはふとある思いが過りました。

この番組のラストを飾った曲は、田端義夫が歌うこの「ふるさとの燈台」でしたが、その歌の前に、長津義司本人がこの唄に込めたその思いを田端義夫と語るシーンがありました。そして田端義夫さえも初めて知ったという、その思いがけないエピーソードに私は心打たれるものがありました。
長津義司は『少年のころ(2歳から12歳)の10年間、ある事情で、他の家に預けられ、村はずれのさびしいところで両親や兄弟とはなれて、たった独りさびしく暮らしたことがあり、この曲はそういう時代のさびしい気持ちで作った。』と語っていました。

2 漁火(いさりび)の 遠く近くゆるる

  はるかなる小島よ 燈台のわが家よ

  なつかしき 父のまた母の 膝はゆりかご

  いつの日も いつの日も 夢をさそうよ

「ふるさとの燈台」私は上記2番の歌詞を見るにつけ、もしかしたら名匠清水みのるは、幼少の頃に一人でさびしい少年時代を過ごした長津義司のそんな生い立ちをすでに知っていたのかもしれない。今では私の脳裏にそんな思いが過ります。

投稿: 芳勝 | 2021年5月 7日 (金) 23時59分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 聞かせてよ愛の言葉を | トップページ | 黄昏のビギン »