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2013年7月28日 (日)

ケ・セラ・セラ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:J.リヴィングストン & R.エヴァンズ、
日本語詞:音羽たかし、唄:ドリス・デイ/ペギー葉山

1 私の小さい時 ママに聞きました
  美しい娘に なれるでしょうか
  ケ・セラ・セラ
  なるようになるわ 先のことなど
  判らない 判らない

2 大人になってから あの人に聞きました
  毎日が幸福(しあわせ)に なれるでしょうか
  ケ・セラ・セラ
  なるようになるさ 先のことなど
  判らない 判らない

3 子供が出来たら そのベビーが聞きます
  美しい娘に なれるでしょうか
  ケ・セラ・セラ
  なるようになるわ 先のことなど
  判らない 判らない
  ケ・セラ・セラ


          Que Sera Sera

1. When I was just a little girl
   I asked my mother, what will I be
   Will I be pretty, will I be rich
   Here's what she said to me.

   Que Sera, Sera,
   Whatever will be, will be
   The future's not ours to see
   Que Sera, Sera
   What will be, will be.

2. When I grew up and I fell in love
   I asked my sweetheart what lies ahead
   Will we have rainbows day after day
   Here's what my sweetheart said.

   Que Sera, Sera,
   Whatever will be, will be
   The future's not ours to see
   Que Sera, Sera
   What will be, will be.

3. Now I have children of my own
   They ask their mother, what will I be
   Will I be handsome, will I be rich
   I tell them tenderly.

   Que Sera, Sera,
   Whatever will be, will be
   The future's not ours to see
   Que Sera, Sera
   What will be, will be.

   Que sera, sera

《蛇足》 1956年公開のアルフレッド・ヒッチコック監督作品『知りすぎていた男』(原題:The Man Who Knew Too Much)の挿入歌。
 ジェイ・リビングストン
とレイ・エバンズの作詞・作曲になるこの歌は、アカデミー賞の歌曲賞を受けました。

 私はこの映画を3,4回も見たでしょうか。大変おもしろい映画で、見た人は多いと思います。もっとも、ヒッチコック作品で私がいちばん好きなのは、この映画の前年に公開された『ハリーの災難』ですが。

 『知りすぎていた男』は、アメリカ人医師ベン・マッケナ(ジェームズ・スチュアート)とジョー(ドリス・デイ)夫妻が、モロッコのマラケシュで7歳の息子ハンクをさらわれてしまい、ハンクを捜し求める過程で暗殺事件を防ぐ、というサスペンス作品です。

 終幕近く、2人はハンクが監禁されている某国大使館のパーティに潜り込みます。ブロードウェイのミュージカル・スターだったジョーは、そこで『ケ・セラ・セラ』を歌います。その歌にハンクが口笛で応えてくるのを手がかりに、監禁場所を探り当てるという作戦です。

 歌の大ヒットとともに、「ケ・セラ・セラ」という言葉もはやりましたね。今だったら、まちがいなく流行語大賞でしょう。
 解決策も方針も決まらないまま、
ある問題や状況に対応しなくてはならなくなったときに、「ケ・セラ・セラだ。なんとかなるだろう」といったふうにつかわれたものです。

 Que será, será.はいちおうスペイン語で、seráは英語のbeに当たるserの未来形。
 ただ、スペイン語が得意な友人に聞いたところ、「なるようになるだろう」という意味で
Que será, será.が使われることはないそうです。
 作詞の際、what→que、wil be→
seráと機械的に置き換えただけで、スペイン語ネイティブには、なんとなく意味はわかるものの、ピンとこないフレーズだとのことでした。

 What will be, will be.に対応するスペイン語表現は、Lo que será, será.か、Será lo que será.だそうです。

 しかし、Lo que será, será.やSerá lo que será.では、世界的な流行語にはならなかったでしょうね。流行語になるのは、語法は通常と違っていても、単純で、子どもでも口にしやすい言葉が大多数です。

(二木紘三)

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コメント

この映画のヒットのあと、たくさんの歌手がこの歌をカバーしていますが、微妙に歌詞を変えて歌っていますね。たとえば、日本でもおなじみのコニ―・フランシスは2番の歌詞を学校の先生に尋ねる内容に変えています。
When I was just a child in school
I asked my teacher, what should I try
should I paint pictures, should I sing songs
This was her wise reply
そのあと、Que Sera, Seraへと続きます。

http://www.youtube.com/watch?v=ZQBKUoyPy7E

をお聴きください。

投稿: KeiichiKoda | 2013年7月28日 (日) 06時13分

 まっていましたという曲ですね。小学校の低学年の頃、意味も分からぬまま口ずさんでいました。
「ケセラセラ なるようになるわ~」と歌いつつ、外国人はこんな考え方をするんだなと思っていました。
日本人はそうは考えないということです。「くよくよしない生き方はいいなあ」とあこがれながらも、「しかし、そうはいかんだろう」と子どもながらに思っていたんですね。
(さすが世界有数の貯蓄額を持ち、勤勉・倹約を旨としていた日本人の子どもだったな、と自分でも可笑しい)

 歌詞についてですが、日本語訳では1番が「美しい娘になれるでしょうか」、原詩では「美しくそしてお金持ちの娘になれるでしょうか」です。断然、原詩がいいですね。ちゃっかりしている娘の方がほほえましいからです。

 「ケセラセラ」という生き方については、大人になってから考えることが多かったですね。
どんなに将来を予測して準備をしても、出来事と言うのはほとんど想定外の大きさで、あまりにも突然にやってくることが多いので、準備などほとんど役に立たない。それよりも、どーんと安定した心、ケセラセラこそ大事だと考えるようになりました。<蛇足>の最後に出てくる表現でいえば、「なるようになるだろう」ではなく「万事、なるようにしかならない」というニュアンスで考えました。仏教でいう諦観も似たようなものだと思います。
 しかし一方で、ケセラセラの生き方ができるかどうかは、もって生まれた性分(しょうぶん)によるものであって、努力して身につけられるものでもないとも思います。

投稿: 越村 南 | 2013年7月28日 (日) 08時10分

越村南様へ

「美しくそしてお金持ちの娘になれるでしょうか」でしょうか?「美人になる、それともお金持ちになるでしょうか?」とお母さんに尋ねているのではないでしょうか?それに対してお母さんが「そんなことを考えても仕方がない、なるようにしかならないのだから」と答えているんですね。それは、私が上で引用したコニ―フランシスの歌っているバージョンを考えてみるとよくわかります。学校の先生に「何をやってみたらよいでしょうか、絵を書くのがよいでしょうか、それとも歌を歌うのがよいでしょうか?」と尋ねているんですね。3番目も同じですが、子供たちは男の子なので、prettyの代わりにhandsomeが使われているんですね!
 なるようにしかならないというのは、キリスト教的な考え方ですよね。どういう結果になっても、すべては神の思し召しである、という考え方でしょう!

投稿: KeiichiKoda | 2013年7月28日 (日) 13時16分

KeiichiKoda様
 すみません、コニー・フランシスのバージョンを見ていませんでした。失礼しました。見ていたらまちがわずにすんだと思っております。おっしゃるとおり「美人になるの、それともお金持ちになるの」でしょうね。ご指摘、ありがとうございます。

 ついでながら、「ケセラセラ」(なるようにしかならない)がキリスト教の考え方である、というのは初耳です。もし、ソースがあれば教えてもらえれば、ありがたいです。私も、もともとの出典を探してみたのですが、俗語、成句しか、みあたりませんでしたので。

 キリスト教と「ケセラセラ」は無縁のように思います。「ケセラセラ」には<楽天的な、くよくよしない、明日は明日の風が吹く>から<チャランポランな、行き当たりばったりの、刹那的な、無責任な>まで広い意味があります。こういう考えがキリスト教の中で肯定されているとは思い難いのです。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本には、新教徒(カルヴァン派)の人々が「信仰に励め、禁欲的労働に励め、禁欲的生活に励め」と唱え、その考えが資本主義を発展させたことを立証しています。アメリカで1920年に禁酒法が成立するのも、彼らキリスト教徒の禁欲的生活の実現を目指したものです。
 これらキリスト教徒の行動は「ケセラセラ」の精神(行き当たりばったり、無責任、刹那的なもの)とはおよそ正反対のものです。

 昔、海外特派員のレポートで、あるカトリックの国で、乞食が堂々とお金を一般人に恵むように迫る話がありました。乞食をしているのは、神のはからいだから恥じることはないというわけです。カトリックには似たような考えがあるのかも知れませんが「ケセラセラ」との類似性を調べたわけではありません。

 しかし少なくとも新教国では、貧しいものを努力不足とみて、軽蔑はしても、神の思し召しとは見ないようです。「天は自ら助ける者を助ける」というフランクリンの言葉が受け入れられる余地がキリスト教徒たちの中にあったということも、「ケセラセラ」的考えはキリスト教とは無縁だと思うひとつの根拠です。

 素人の浅い意見です。呼びかけはしましたが、とくにご返事には及びません。

投稿: 越村 南 | 2013年7月28日 (日) 16時38分

越村南様

私には、「なるようにしかならない」と「どんな結果になっても神様の思し召しである」とはほとんど紙一重の考え方であるように見えます。そして、後者はキリスト教(あるいはユダヤ教やイスラム教を含む一神教)の考え方のエッセンスであるように思えます。越村様も引用されているマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムと資本主義の精神』ではカルヴァン派の教義(予定説)がとりあげられていますが、これによれば、キリスト教徒は最後に神の国で永遠の生を受けるか、あるいは地獄へ堕ちて永遠の責め苦にあうかのどちらかであり、どちらに行くかの結論は最後の審判で伝えられるとされています。予定説とは、第一に、神は、あなたが救われる側にいるのか呪われる側にいるのか、すでに決めてしまっていて、それを人間の行為によって変えることはできない。人間が神の歓心を買おうとしあれこれしても、神の気持ちを変えることはできない。第二に、神が決めていることを、人間があらかじめ知ることは原理的にできない、ということのようです。(橋爪・大澤『ふしぎなキリスト教』(講談社現代文庫、296-297ページ)。こうした考え方と「なるようにしかならない」とは紙一重ではありませんか?

投稿: KeiichiKoda | 2013年7月28日 (日) 23時16分

夏休み真っ盛り、子供は楽しいでしょうね。毎日、遊び呆けて、宿題のことなど考えず、8月の終わりを迎えます。「わーん」と思い切り大きな声で泣きます。父が工作を、母が作文を、もう大人になっていた大きな兄たちが絵と習字を書いてくれます。9月1日とくとくとした顔をしてそれらを持って学校へいきます。絵も習字も金紙とか銀紙が貼られます。習字に金紙を貼られた人は残ってもう一枚書いてから帰んなさいなさい、と先生が言います。もう泣きの涙です。やっとの思いで書きあげた時は疲れ果てました。「正直の頭に神宿る」という字でした。でも懲りずに毎年同じ夏休みを過ごしました。根性、努力、頑張るという言葉が今もって大嫌いです。ケセラ セラの人生が良かったのか、悪かったのか、想い出は楽しいと思えるのですから良かったとしましょうか。

投稿: ハコベの花 | 2013年8月 4日 (日) 16時33分

私はこの「ケセラセラ」という言葉はフランス語だと思っていました。なぜなら、「Que」(ケ)は英語では「何」に当たる言葉だからです(そうですよね?)。それで、「なるようになるさ。明日は明日の風が吹く」という意味のフランス語の熟語を覚えたつもりになって、その後の人生でもときどき使っていました。でも、それはスペイン語であり、しかも正しい言い方ではないということを教えていただき、ちょっとがっかりしました。まあしかし、和製スペイン語として
その頃を知っている年代の人々にはすっかり定着した言葉ですね。ペギー葉山の歌の中で、「南国土佐を後にして」「学生時代」と共に、私にとっては、3大ヒット曲の中の一つです。それに、この頃のドリスデイはとってもきれいで優しそうな女優したね。声も優しくて、ファンでした。

投稿: 吟二 | 2013年8月14日 (水) 23時28分

世の中も人生も全てなるようになってきたし、これからもなるようになる、なるようにしかならないというのが『ケ・セラ・セラ』でしょう。
私はこの考え方が大好きで、これが必然論、運命論、決定論などの根拠になっていると考えます。世の中や人生だけではありません。全ての“自然現象”もそうです。なるようになってきたし、これからもなるようにしかならないでしょう。
そう考えると、救われる思いがします。心が明るくなります。これは一つの哲学か宗教心でしょう。もちろん、人間は自由意志を持った生物ですから、精いっぱい好きなように生きれば良いのです。その上で、全ての結果を受け入れなければなりません。
ドリス・デイの明るい歌声を聴いていると、全ての悩みや悲しみが消えていくように感じます。きっと心が解放されるのでしょう。このように書いていること自体 楽しいのです。ですから、私はこの『ケ・セラ・セラ』が大好きです。

投稿: 矢嶋武弘 | 2019年10月11日 (金) 16時32分

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