夢去りぬ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
夢いまだ さめやらぬ |
《蛇足》 5音短音階が主流を占めていた昭和歌謡の世界に、7音長音階の洋楽的作品で挑戦し、一大潮流を作り上げたのは、服部良一です。彼は、ジャズやブルース、タンゴ、ボレロ、ルンバ、ブギといった、それまで一部の先進的音楽ファンしか知らなかった曲調の作品を次々と発表しました。
その服部良一が満を持して発表したタンゴが、この『夢去りぬ』です。彼は、この曲に自信をもち、また愛着もあったようで、実に5回にわたり、いろいろな形で世に問うています。
最初は昭和14年(1939)2月に、洋盤として発表されました。タイトルは"Love's Gone"で、作詞:Reo Hatter & Vic. Maxwell、作曲・編曲:Reo Hatter、演奏:Vic. Maxwell and His Dance Orchestraで、ヴォーカルはVic. Maxwellでした。
この曲には、『夢去りぬ』という邦訳題名がついていました。
Vic. Maxwellはファクトマン(綴り、フォアネームは不明)の変名で 実在の人物です。日独のハーフで、このころは日本コロムビアの社長秘書をしながら、歌の勉強をしていました。
Reo Hatterは服部良一をもじったもので、R. Hatterと表記されることもあります。盤面には、Hatterとだけ表示されています。
英語で作られた歌詞は、1聯分だけで、演奏の後半部分で歌われています。
この発売の2か月後には、インストゥルメンタル盤がリリースされました。演奏は、どういうわけかL'ACCORDEONISTE HENRI RENARD et SON ORCHESTREというフランス名の楽団になっています。
実は、Vic. Maxwell and His Dance OrchestraもL'ACCORDEONISTE HENRI RENARD et SON ORCHESTREも、日本コロムビアの専属オーケストラでした。洋盤として出す関係上、外国の楽団名にする必要があったわけです。
また、同じ年の11月には、"Love's Gone"のメロディに藤浦洸が詞をつけた『鈴蘭物語』が発売されました。
さらに、翌昭和15年(1940)9月には、南雅子が詞をつけ、スリー・シスターズの歌・演奏で『夢去りぬ』が発売されました。
スリー・シスターズは日独混血の3人姉妹で、長女の雅子がヴォーカル、次女澄子がスティールギター、3女芳江がウクレレを担当するハワイアン・グループでした。そのため、このヴァージョンはタンゴにハワイアンが混じった独特の味わいの演奏となりました。
上記の詞による『夢去りぬ』が霧島昇の歌でリリースされたのは、戦後の昭和23年(1948)2月のことです。作詞は奥山靉(あい)ですが、発売目録では加茂六郎となっていました。
奥山靉の詞は、"Love's Gone"につけられた英語詞の音数に合わせて1聯だけでしたが、村雨まさをが2聯目と最後の繰り返し部分を付け加えて、上記の形にしました。
村雨まさをは、服部良一が作詞するときの名前です。この名前でかなりの数の自作曲に詞をつけています。
服部良一が最初この曲を洋盤として出したのはなぜでしょうか。
ネット上には、洋楽っぽい曲は検閲当局によって発売禁止にされたが、輸入盤は許可されていたので、外国曲に見せかけて発表した、という趣旨の記述がいくつも見られますが、これは事実と異なります。
確かに、昭和9年(1934)に始まった内務省のレコード検閲は、年を追うごとに厳しさを増していました。各レコード会社も、当局に目をつけられるのを恐れて自主規制していたので、洋楽っぽい作品が多少出しにくくなっていたのは事実です。
しかし、昭和16年(1941)の初めごろまでは、服部良一も含め、多くの作曲家がジャズ風、タンゴ風、ブルース風、ルンバ風などの作品を出していました。
だいいち、『夢去りぬ』が発売禁止や会社の自主規制のために邦盤として出せなかったという形跡はありません。同じ年に『鈴蘭物語』、翌年『夢去りぬ』が邦盤として発売されているのです。
邦盤として出せなかったので、輸入盤に見せかけて日の目を見させた、というのは、昭和14年(1939)の末に発表、即発売禁止となった『夜のプラットホーム』と混同されているのではないでしょうか。
『夜のプラットホーム』が発禁になったのは、洋楽ぽかったからではなく、歌詞や曲調が兵士の厭戦気分を助長すると判断されたからです。
『夢去りぬ』を最初"Love's Gone"という洋盤として出した理由について、服部良一は『上海ブギウギ1945─服部良一の冒険』(上田賢一著、音楽之友社)で、次のように語っています。
「別に深い意味はなく、面白そうだからやってみただけのことです」
「深い意味はない」といっていますが、服部良一は自分の自信作が洋楽としてどの程度の評価を受けるか測ろうと思ったのではないか、と私は想像しています。
この曲が洋楽ファンから受けた評価は、おそらく本人の期待以上のものだったろうと思われます。
耳の肥えた洋楽ファンにとどまらず、海外で本場のコンチネンタル・タンゴをたっぷり聴いてきたはずの音楽評論家たちでさえ絶賛しました。大戦間に発表されたコンチネンタル・タンゴのなかでは、最良のものの1つといっても過言ではないでしょう。
あまりに人気を博したため、戦後『夢去りぬ』として発表されたとき、ちょっとした問題が起こりました。
「服部良一は戦時中の名曲、R. ハッターの『ラヴズ・ゴーン』をそっくりそのまま盗用している」と非難されたのです。もちろん、この疑惑はすぐに晴れました。
大ヒット曲の多い服部良一ですが、この曲も代表作の1つとしてCD3枚組のアルバム『僕の音楽人生』などに収録されています。
(二木紘三)
コメント
待ちに待った曲 夢去りぬ です 二木先生有難うございます
投稿: 夢見る男 | 2013年8月18日 (日) 09時05分
1939年「夢去りぬ」こんなエキゾチックなタンゴの曲を服部良一が・・・外国の曲だとばかり思っていましたが大発見です。
1948年仁木地喜雄作曲でクラベスが良く効いた「さよならルンバ」、1954年矢野亮作詞吉田矢健治作曲でハバネラムードの「スペインの恋歌」(松島詩子歌)、これらの曲はイントロ・インタールド・エンディングがそれぞれ際立って本歌のテーマを盛り上げいや逆にテーマに盛り上げられていて不思議でドラマチックなロマンを醸し出しています。
「夢去りぬ」の演奏にも食指が湧き譜面を探そうと思っていますが、ご存知の方ご教示下さい。
投稿: 尾谷光紀 | 2013年8月20日 (火) 21時58分
尾谷光紀さま
当方アコーディオン歴35年で、あちこちの歌声サロンや施設へのボランティア演奏活動をしています。
「夢去りぬ」の楽譜を探しておられる由。以前テノールの五郎部俊郎氏のCDを聞いたあと、私なりに楽譜を起こしたのを持っております。
よろしければお役に立ちたいと思っております。
追記になりますが、わたしもこの二木氏のサイトは非常に参考にさせていただき、勉強になります。
またこのサイトに寄せる多くのファンの方々の熱い思いをも力にさせていただいております。
投稿: 山本汎昭 | 2013年11月17日 (日) 11時18分
山本汎昭先生、今日はリベリカでの『1月生まれ誕生日会&第一回歌声喫茶inリベリカ』で、先生のアコーディオンによるそれぞれ男・女のキー即対応で、青春時代にタイムスリップしたような3時間30分というHappyな時間を有難うございました。
「夢去りぬ」の譜面につきましてはお心遣いありがとうございます。後月先生の歌声の会にお伺いしたいと思いますのでよろしくお願い致します。
二木先生、このブログでのこんなご縁をありがとうございました。
投稿: 尾谷光紀 | 2014年1月30日 (木) 23時19分
夢去りぬの楽譜 全音楽譜出版社刊行 浅野 純編 全音歌謡曲大全集(1)p336に掲載されています
投稿: 夢見る男 | 2014年2月 1日 (土) 08時58分
夢見る男さま
ご教示ありがとうございました。このブログの音楽フレンドの皆さんにも感謝しています。
投稿: 尾谷光紀 | 2014年2月 1日 (土) 22時12分
最近、睡眠が上手く取れなくなって、昼間不意に眠くなったり、身体がだるくなったりで家事に支障をきたすようになってきました。お医者さんは「どこも悪い所はない」と言いますが、時、所を問わず眠くなるのは大変な苦痛を伴います。
これが年を取るという事なのかと思いますが、恋心が無くなって、もう会えないのだと思うようになったのが最大の原因のように思われます。本当に「夢去りぬ」になってしまったのだと思います。若い日の恋は「散ってしまった花びら」と同じで、拾い集めることが出来ません。初夏なのに心の中を湿った冷たい風が吹き抜けていきます。
投稿: ハコベの花 | 2019年6月 8日 (土) 20時59分