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2014年1月12日 (日)

襟裳岬(島倉千代子)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤 実、唄:島倉千代子

1 風はひゅるひゅる
  波はざんぶりこ
  誰か私を 呼んでるような
  襟裳岬の 風と波
  憎い憎いと 怨んだけれど
  今じゃ恋しい あの人が

2 風はひゅるひゅる
  波はざんぶりこ
  浜の日暮れは 淋しいものよ
  たった一人は なおさらに
  こんぶとる手に ほろりと涙
  背のびしてみる 遠い空

3 風はひゅるひゅる
  波はざんぶりこ
  春はいつくる 燈台守と
  襟裳岬の 女の子
  泣いてみたいな 霧笛のように
  泣けば想いも 晴れるのに

《蛇足》 昭和36年(1961)に日本コロムビアから発売。襟裳岬の名前を全国に知らしめた大ヒット曲です。

 この年のNHK紅白歌合戦において、島倉千代子をこの歌で紅組のトリを務めました。
 昭和49年
(1974)の紅白歌合戦では、島倉千代子が再びこの歌で紅組のトリ、森進一が同名のフォークで白組のトリを務めました。
 えりも町の人びとは、"わが世の春"といった思いをしたのではないでしょうか。この頃、紅白歌合戦は視聴率が80パーセント近くあり、国民的イベントの地位を維持していましたから。

 昭和36.7年といえば、池田内閣の所得倍増政策が始まり、高度経済成長が端緒についた時期でした。しかし、交通インフラや情報インフラの整備は遅れており、地方と首都東京とではさまざまな面で格差がありました。
 島倉千代子の
昭和31年ヒット曲『東京の人よさようなら』や翌年の『逢いたいなァあの人に』と同様、この歌にもそんな雰囲気が感じられます。

(二木紘三)

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コメント

 おぼえていますよ、この曲は。昭和36年といえば、当時12歳、小学校6年生の私は、「波はざんぶりこ」が耳に残り、忘れられませんでした。今思えば、襟裳岬に限らず、どこの海でも「ざんぶりこ」ではないの?と考えたり、「大きな桃がどんぶらこと流れてきました」を連想しますが、素直でない自分にも気づきます。当時の人はそれで良しとしたのでしょうね。うらやましいほどの素直な感性です。
 紅白歌合戦は、父親が厳然とチャンネル権を持っていて、家族みんなが、年越しそばを食べながら見ていました。テレビは1台、パソコンもないし、視聴率80%になるわけてす。でも、今ふりかえって、あの時代、親父がワンマンだったとも思わないし、テレビ1台を不自由だとも思わないのですねえ。
 <蛇足>に襟裳の人たちは、全国に襟裳岬の名が知られ、わが世の春という思いをしたのではないか、とあります。ははあ、森進一の『襟裳岬』で「何もない春」と歌われ、襟裳の人々が抗議した話と、「春」つながりでからめているんですね。島倉千代子さんで、一度いい目をしたんだから、もういいじゃないか、と。二木先生もなかなか、・・・

投稿: 七色仮面 | 2014年1月12日 (日) 22時34分

昭和36年のNHK紅白歌合戦を、皆さんとともに私も見ているわけですね。40年前のTVに見入るニキビ出の少年を想像します。彼はフォークと歌謡曲の違いもわからない。40年後、何者にならないことを知らない少年… タイムマシン乗っているようです。

>憎い憎いと 怨んだけれど 今じゃ恋しい あの人が
かつての人を憎いと思ったことがあったかどうか、定かに思い出せません。けれども意識して振ったり振られたりして、そんな気分に陥ったことが在るかもしれません。もし2014年1月、むかしの相手が私を恋しいと回顧してくれるなら、幸せ冥利につきます。

島倉千代子の襟裳岬があった…、良い贈り物をいただき、ありがとう御座います。

投稿: minatoya | 2014年1月12日 (日) 23時28分

(2)番の歌詞の「ほろりと涙」の「涙」のさんずいがとれて
印刷されていませんか?

投稿: 末廣照男 | 2014年1月14日 (火) 00時15分

末廣照男様
恐れ入りました。ネット上から歌詞を拾ってくるといういい加減なことをすると、こういうことが起こります。何度も見直したのですが、気づきませんでした。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年1月14日 (火) 00時29分

 「風はひゅるひゅる」「波はざんぶりこ」。確かに日本語特有の『擬音語』を巧く使ってますね。丘灯至夫・遠藤実コンビは、この後舟木一夫の「高校三年生」「修学旅行」という快活な学園ソングをヒットさせていくことになるのですね。
 『襟裳岬』といえば、おおかたの人が森進一版を思い起こし且つまた口ずさむのでしょうが、私は小学生の頃聴き覚えたこちら島倉千代子版のほうが心に沁みて好きです。歌うには中々難しい唄でもありますね。

投稿: かせい | 2015年1月 1日 (木) 00時58分

〽風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ・・・お千代さん(島倉千代子女史では堅苦しいので)の美声が、昭和20~30年代歌謡曲を愛好する戦争末期生まれの耳によく残っています。
観測開始以来の記録的な6月中の梅雨明け後は典型的な?“戻り梅雨”となり(日本列島に梅雨前線停滞)、一章様の佐賀地方は豪雨だそうですが“梅雨明け”??が待たれる今日この頃です。一章様もyoko様も若い頃に最先端の電算業務に従事されていたとの由、そのご苦労の一端は、電動工具メーカー設計屋の末端に居た者としてもよく分かります。

投稿: 焼酎 | 2018年7月 6日 (金) 07時37分

焼酎さま
いつも心あるコメントありがとうございます。
九州地方の豪雨についてご心配をいただきありがとうございます。
電算事務に携わったころは若かったんですね!
今、当時のことを振り返ってみますと、もうちょっと「強い勇気」があれば、人生のシナリオは変わっていたかもしれませんが?
それが凡人の考える人生かもしれませんね!

投稿: 一章 | 2018年7月 6日 (金) 21時36分

一章様  返信ありがとうございます。佐賀を含む6県に特別警報だそうですが十分注意されて下さい。
島倉千代子は「この世の花」「東京だよおっかさん」「襟裳岬」・・・全部100万枚を超す大ヒットを飛ばしましたが、戦前(昭和11年)二葉あき子が唄った御当地ソング(西條八十作詞・古関裕而作曲「ミス仙台」)のカバーもしています。お千代さんの美声をお楽しみ下さい↓
(笠原修平さん提供)http://www.youtube.com/watch?v=00szciN4Fjk

投稿: 焼酎 | 2018年7月 6日 (金) 22時33分

「襟裳岬」この唄がヒットしたのは、私がまだ小学一年生でしたが、当時、ラジオからこの曲がよく流れていたことを憶えています!

そして、我が家の母もこの唄が好きだったようで、よく口遊んでいました。その影響なのか、幼かった私もいつしかこの唄を歌っていました。あれから長年が経った今でもふと口遊むことがあります。

それにしても、作詞家丘灯至夫が表現した『風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ』という、各聯歌い出しのこの歌詞は、まさに秀逸だと、今改めて私は実感させられます。

またこの唄が流行っていた昭和36年当時の記憶で、私が強く印象に残っているのは、『蛇足』にも記されている、当時の内閣総理大臣・池田隼人氏の発言で『私は嘘は申しません』というこの言葉を、まわりの誰もが真似をしていたという記憶です。大人たちはもちろんですが、幼い私たちも冗談交じりにこの言葉を真似てはふざけあっていたという記憶があります。そんなことも今では懐かしい想い出です。

今日は久しぶりに島倉千代子大全集『愛・歌・心』の別冊詩集を眺めながら、ここでこの曲を繰り返し聴いていますが、その冊子の数ある中の一ページには、昭和46年に北海道の現地でとり行われたという、この唄の歌碑の除幕式時の写真が載ってます。そこには歌碑の前に立つ着物姿のお千代さんを真ん中に挟み、その両脇には作曲家の遠藤実氏と作詞家の丘灯至夫氏のお元気そうなお姿が写っています。

「襟裳岬」お千代さんのこの唄が流行っていたころから、もうすでに60年の月日が経ったのですね。今では懐かしさと共につくづく時の流れの速さを実感させられます。

投稿: 芳勝 | 2022年1月13日 (木) 18時27分

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