知床旅情
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 知床(しれとこ)の岬に はまなすの咲くころ |
《蛇足》 昭和35年(1960)に北海道・知床半島の羅臼(らうす)で、東宝映画『地の涯に生きるもの』の長期ロケが行われました。戸川幸夫の小説『オホーツク老人』の映画化で、主演は森繁久弥。
ロケ期間中のあるとき、森繁久弥は『オホーツクの舟歌』という歌を仲間に歌って聞かせました。それは、知床住民の間で昔から歌われてきた曲を基にした歌で、歌詞の採集やメロディの採譜には、ある若手助監督が重要な役割を果たしたと伝えられます。
歌詞は、知床の冬の厳しさに続いて、春の訪れの喜びと国後への望郷の思いを表現したもの。
ロケの最終日、森繁久弥は集まった羅臼の人びとに、『さらば羅臼よ』という歌を披露しました。それは、『オホーツクの舟歌』のメロディに、今日『知床旅情』として歌われている歌詞をつけたものでした。
昭和37年(1962)の第13回NHK紅白歌合戦で、彼は『知床旅情』を歌いました。それによって、この歌の存在が多くの人びとに知られることとなりましたが、レコードとしてはあまり成功しませんでした。
全国的なヒットとなるきっかけに作ったのは、加藤登紀子でした。彼女は、昭和45年(1970)にリリースした自分のアルバム『日本哀歌集』にこの歌を組み込み、さらにシングル・カットも出したのです。
たまたまこの年、JRの前身である日本国有鉄道が、個人旅行客の増加を目的としたキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」を展開していました。
その影響もあって、北海道ではカニ族と呼ばれる若いバックパッカーが増えていました。この若者たちが好んで歌ったのが、『知床旅情』でした。
なお、『オホーツクの舟歌』は森繁久弥自身のほか、倍賞千恵子もレコーディングしています。
森繁久弥の本業は俳優ですが、その独特の情感を込めた歌い方は「森繁節」として多くの人に愛されました。持ち歌の『銀座の雀』のほか、『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』『戦友』『月の沙漠』など多くの歌をレコーディングしています。
(写真は羅臼港から国後島を撮ったもの)。
(二木紘三)
コメント
この歌には思い出があります。昔、アメリカの大学に留学していたとき、加藤登紀子が歌う「知床旅情」のカセット・テープを持っていたので、ときどきこのテープを聴いていました。大学のドーム(寮)のアメリカ人のル-ムメ―トがこの歌はいい歌だ、I like it.と言っていました。卒業後は彼とは音信不通でしたが、2011年3月11日の東日本大地震のあと彼から突然「そちらは大丈夫か」というメールがアメリカから来ました。留学当時はパソコンもインタ―ネットもない時代でしたから、二人ともメールアドレスはもちろんのこと、お互いの住所も知りません。彼は、私の名前を頼りにネットで調べ、私のメールアドレスをつきとめて、安否を問い合わせるメールを送ってきたのです。その後、メールによる「文通」を再開しましたが、加藤登紀子の「知床旅情」の歌がアップされているYouTubeのURLを示して、この歌を覚えているかと聞いたら、よく覚えている、「お気に入り」にいれてときどき聴くことにしたい、と。この歌は、このアメリカ人にとっては、彼が知る唯一の日本の歌かもしれません。
投稿: KeiichiKoda | 2014年4月 8日 (火) 10時02分
「はまなす」「ピリカ」、ローカル色があって、しかも少々難解な言葉を歌詞に折りこんで、この歌を印象づけている森繁久弥は、才能のある人だと思います。
また森繁は、無名の脚本家だった向田邦子を、『重役読本』の縁で知り合って、その後、尽力して育てていますから、単なる役者ではないですね。
何度も聞いた歌ですが、これは酔っ払いの歌ではないかと、今日気づきました。酔って高い所に登り歌を歌いたがる、酔いの力をかりて女を口説く。呑み助の生態です。また別れを惜しむのが、ひとかたではないのも、酒飲みの特徴。「君に勧む更に尽くせ一杯の酒 西の方陽関を出づれば故人なからん」の例があります。
最近、隠居生活の中で思うのですが、世の中には酒を飲む人と飲まない人がいる。当たり前のことながら、問題は、お互いにその考え方や感じ方が微妙に違っているのではないか、その違いは、結局、双方わかり合えないのではないかと思うのです。
早い話が、飲まない人は、酒飲みの酔っ払った姿を<醜悪>と思うでしょう。しかし、飲む人は、そりゃあ、酔った姿はほめられたものではないけれど、ちょっと破目をはずしたっていいじゃないか、<醜悪>とは非寛容な考え方だと思う、いや思いたがる。もちろん酔っ払うも程度問題ですが・・
私は呑み助の側だ。李白の詩、山頭火の句、若山牧水の歌、山口瞳、池波正太郎のエッセイなどで、酒にまつわる部分が多く、(おおげさにいえば)彼らの思想の中心部にある。酒を飲まない人に本当にわかるのかなと思ってしまう。
投稿: 七色仮面 | 2014年4月 9日 (水) 01時09分
万葉集にも、「飲まない人は猿に似ている」という歌もありますから、飲むとそういうクダが巻きたくなるのは古今を問わずでしょうね。別に飲んで楽しけりゃ、一人で楽しめばいいのではありませんか。飲まない人をけなす必要がどこにありますか。酒を飲まなきゃ何も言えない人がいる一方で、一滴も飲まなくても、酔える人もおります。「女類」で太宰治が書いています。それは生まれ持った体質のせいか、または医者に止められているかもしれません。飲みたきゃおとなしく機嫌よくお飲みなさい。
投稿: Bianca | 2014年4月 9日 (水) 08時40分
加藤登紀子の「知床旅情」の思い出を書きましたが、私がこの歌をはじめて聴いたのは、二木先生も書かれていますが、1962年の紅白歌合戦で森繁久弥が歌ったときかもしれません。司会の高橋敬三アナウンサー(?)が森繁自身の作曲だといって紹介したのをよく覚えています。森繁自身が歌う「知床旅情」でもう一つ忘れられないのは1987年の映画「男はつらいよ、知床旅情」(マドンナは竹下景子)ですが、知床の海を行く遊覧船の中で森繁が歌う「知床旅情」がバックグランドに流れている場面があり、実に印象的でした。
七色仮面さんが、森繁と向田邦子との関係を書いておられますが、NHKラジオで森繁と加藤道子出演する、あれは何という番組だったのでしょう、台本のあるディスクジョッキーで、最後に本日の台本は向田邦子作でしたといって締めくくるのです。向田邦子の名前はは当時はよく知られていなかったと思いますが、二人の軽妙なトークとともに私の印象に残りました。その向田邦子が台湾で飛行機事故で亡くなったのは1981年だったと思いますが、私は当時アメリカにいて向こうの新聞で、向田邦子が亡くなったことを知りました。飛行機事故の犠牲者の中に日本の有名な作家がいると報道していました。
投稿: KeiichiKoda | 2014年4月 9日 (水) 09時11分
「日曜名作座」動画サイトへ行って来ました。
テーマ曲も懐かしいですね。
投稿: なち | 2014年4月 9日 (水) 10時07分
私の上のコメントへの追記です。なちさん、有難うございます。森繁と加藤道子が出演したNHKラジオ番組は「日曜名作座」ですね。1957年から2008年まで50年にわたって続いたNHKラジオの(最?)長寿番組だそうですが、私が上で「台本のあるディスクジョッキー」と書いたとき頭にあったのは、「NHKラジオ喫煙室」という番組でした。たしかに、向田邦子が脚本を書いて、森繁が読み上げ、合間にレコードを流すDJ風の番組でしたが、加藤道子は出演していません。私の頭の中では、「日曜名作座」とごっちゃになっていたようです。
投稿: KeiichiKoda | 2014年4月 9日 (水) 15時54分
人によって酔う酒の量は違うのでしょうね。「5勺の酒に酔って・・・・」「一日2杯の酒を・・・・」「冷で5合温めて5合・・・・・」私などは酔う前に気持ちが悪くなってしまいます。体質なんでしょうね。
投稿: 海道 | 2014年4月10日 (木) 12時52分
私が中学1年生の時、兄が ”山と渓谷” という雑誌を買ってきました。
見開きは、知床の流氷の写真でした。
そこには、森繁久弥さんが映画の撮影の後、お世話になった村人たちに自作の歌をプレゼントしたという話が掲載されていました。(元歌があったんですねえ)
後々、ああ、あれが ”知床旅情” という歌だったんだと、思いました。
社会人になってから、会社の山岳部に入ると、部員みんながこの歌をうたっていました。
そして間もなく、テレビで加藤登紀子さんが歌うと、今に歌い継がれる歌になりました。
映画をテレビで見る機会がありました。
過疎化の問題、北方領土の問題、漁業の不振・跡継ぎ問題、独居老人の問題・・・・・50年も前からあったんですねえ。
投稿: 里山子 | 2014年4月10日 (木) 18時44分
「森繁版」、「おトキさん版」、どちらを聴いても充分な旅情感をたっぷり味わうことが出来るような気がします。
森繁バージョンは気取った所のない、優しさに満ちた遊子の語らいに似た歌唱、加藤登紀子バージョンは波のウネリを思わせるような、開放感も感じさせる歌唱。どちらも好きです。
ところで、二つのバージョンの歌詞は幾箇所か異なります。
森繁久彌 加藤登紀子
2番 「酔うほどにさまよい」 「飲むほどにさまよい」
「君を今宵こそ」 「今宵こそ君を」
3盤「知床(しれとこ)の村にも」 「ラウスの村にも」
「白いカモメを」 「白いカモメよ」
どちらかというと、加藤登紀子バージョンの方が良く歌われているみたいですが、複数人で歌われる時(あれっあれっ?)と戸惑わないようにご注意を・・・。
投稿: かせい | 2014年4月13日 (日) 01時11分
旅情歌としてよい歌だとは認めますが、歌詞の中に?と思う箇所が何か所かあったので、調べを進めていくうちに元歌の「オホーツクの船(舟)唄」に辿り着きました。解説(蛇足)にもありますが、この元歌を採詞・採譜したのは、映画「地の涯に生きるもの」(監督 久松静児、主演 森繁久弥)の助監督だった 吉松安弘だということが分かりました。吉松安弘といえば、ノンフィクション作家で「東條英機暗殺の夏」を書いた、かれかと思い調べましたら、やはりそうでした。助監督から監督になったのに辞めて、大学教授になり、一方で、作家活動もしていたのですね。
『知床旅情』は作詞・作曲 森繁久弥になっていますが、長期ロケ期間中に本職の仕事の傍ら、埋もれていた元歌を掘り起こした、かれ(吉松安弘)の努力がなければ、多分『知床旅情』は日の目を見ることもなかったように思います。その後、加藤登紀子がカバーして、レコードの売り上げ140万枚を記録したそうですが、かれにいくらかでも印税が入った、ということはなかったようです。
歌詞の中の?の部分は何か。「白夜」は北海道にあるのか、「君」とは誰か、「ピリカ」とは何か、などを調べてみるのも面白いかも知れません。
投稿: ひろし | 2014年4月15日 (火) 16時39分
当時から強く思っていました。「白いカモメを」と「白いカモメよ」では意味が全く違ってしまうが、加藤登紀子はどういうつもりでこの歌を歌っていたのか理解できない。
投稿: 慎兵衛 | 2014年5月11日 (日) 18時12分
ピリカ・・・ピリカメノコ、美しいアイヌ娘のことではないのですか。エトピリカという海鳥がいることを後に知りましたが・・
白夜・・・白々と夏の夜が明けていく様では
今、歌詞を見てみると、不思議なのは、~君は出て行く 峠を越えて~、旅人は、俺たちではないのか、~俺たちは出て行く~。
~忘れちゃ嫌だよ、気まぐれカラスさん~、カラスとは「君」か、それとも知床の鳥カラスのことか?
~私を泣かすな白いカモメを~、カモメは誰?此処のところも分からなくなりました。
投稿: 華 | 2014年5月15日 (木) 15時39分
華様がコメントされているように、3番は主体と客体が混沌としています。1番も矛盾の多い叙述が見られます。
①季節
『ハマナスの咲くころ思い出しておくれ』ということは、この詩が書かれた季節は夏になる前ということになります。しかし『飲んで騒いで丘に登れば….白夜は明ける』ということ、季節は夏でハマナスが咲いている筈です。
②白夜
白夜は太陽が沈まない状態ですから、北半球では北緯66.6度以北の地でないと見ることができませんし、厳密には白夜が明ける筈はありません。しかし。北緯60度くらいの高緯度地域では、太陽は完全に沈むものの、真っ暗にならない薄明のまま朝になることがあるのでこれも白夜ということがある(ウィキペディア)とのことですので、この程度の緯度の地域では『白夜が明ける』という現象はありえます。しかるに知床地方は北緯44度に過ぎません。
題名の無い音楽会で故黛敏郎氏が、日本の歌詞は西洋の詩では絶対あり得ない叙述――特に過去から現在、そしてまた過去というような時系列の混沌――がある、ということを述べていましたが、上記の矛盾も日本の歌詞の特徴として理解すればよいのかも知れません。しかし、かなり破天荒な詩ではあります。
投稿: Yoshi | 2014年5月15日 (木) 23時55分
この歌で使われている「白夜」は、北欧地域など高緯度で観られる「白夜」のことを表しているのではなく、華さまがおっしゃっているように、「夜が白々と明けて行く様子」のことじゃないかなと、私も思います。 『思い出しておくれ‥‥』
は、季節が巡ってまた来年になってハマナスが咲く頃になったら思い出しておくれ、ということじゃないでしょうか。
『主体、客体の混沌』のことですが、確かに、1番に俺たち、
2番に君、3番にまた君、私、と出て参りますね。難儀ですね。
そこで私はこう考えました。1・2番は『旅人』側から、3番
は『地元娘』側からの歌詞ではないかと・・。
2番 君を今宵こその『君』=地元娘=3番の白いかもめ
3番 君は出て行くの『君』=旅人= きまぐれカラス
3番は1番・2番の「返し歌」と考えたのですが……、ちょっと
苦しいかなぁ‥‥。
深夜にコメント書くと、眠さ半分でマトモな文章にならないです。ごめんなさい。
投稿: かせい | 2014年5月16日 (金) 01時26分
羅臼へ何度か行きました。もうだいぶ昔のことです。この地で生きるというのは、大変なこと。そんな感想を行く度に思ったものです。オレはこの、シレツクの地には住めない、と。サツマの嫁と1歳になったばかりの娘を乗せてこの地に”遊び”にも行きました。5月になっても雪がありました。
”お父さん、もう帰ろう”
そうサツマの嫁は言うので、この地からも、この生まれ故郷からも、”帰り”ました。時々、酒を飲んではこの曲を歌います。酒もそうであるように、この”地”で歌わないとダメなようで、しばらく歌っていませんでした。ちょっと昔を思い出させてくれました。その娘もこの5月に38歳になりました。子供はいません。
投稿: にしちゃん×2 | 2014年5月19日 (月) 10時10分
この歌、難しく考えすぎの嫌いがあるように思えるのですが・・・
昭和35年ころの日本は、海外渡航もままならぬころで、作者とて厳寒の国の「白夜」など思いも及ばなかったのでは。
29年ころに「白夜の妖女」という映画が有りました(原作・泉鏡花「高野聖」)。たぶんこの白夜は、この歌同様「月夜」のことではないでしょうか。
「月の砂漠」の二木先生の「蛇足」に、「朧にけぶる月の夜を~」砂漠で、おぼろにけぶる月夜のような現象はありえないというような記述があったと記憶しております。(削除されていました)
歌の世界では、そんなに厳しく考えることもないのでは。
峠の向こうの部落からピリカがロケ現場に見物(あるいはお手伝い)にやってきました。このピリカはコケテイシュで手強く、気まぐれで、森繁さんの恋心?も翻弄されっぱなしだった、というようなところではないでしょうか。~抱き寄せんと岩陰によればピリカが笑う、この「笑い」の意味も解るような気がします。
白いかもめは、チュホフの「かもめ」を考えてみました。チエホフも、飲んで騒いで夜を彷徨するような人であったようです。
この歌の出だしは、~春は名のみの風の寒さや~の「早春賦」のメロデイですね。
投稿: 華 | 2014年5月27日 (火) 11時52分
何人かの人が指摘していますが、「知床旅情」の森繁久弥版と加藤登紀子版の歌詞の違いについて。
この歌が大ヒットして、何かの週刊誌にお二人が対談している記事を読んだ記憶があります。
その時に森繁さんがお登紀さんに、”「私を泣かすな 白いカモメを」と「私を泣かすな 白いカモメよ」の歌詞では意味が違ってしまうので、この箇所は「私を泣かすな 白いカモメを」と歌わなければいけないのです” と言っていた事を今でも覚えています。
その後、加藤登紀子さんは時々「白いカモメを」と歌っていたようでしたが、なんせレコードが「白いカモメよ」で録音されているし、懐かしの歌などで「知床旅情」を歌うときは、もう完全に「白いカモメよ」と歌っていましたね。
投稿: kai | 2014年7月 8日 (火) 23時39分
まだ紅顔の青年の頃、採用の仕事で寅さんの如く単身で各地を旅していました。昭和44年と思いますが北見から札幌への特急の中、若いお母さんが娘さんに教えていたのが知床旅情でした。なんとなく覚えてしまいましたが、翌年旭川の駅前でスピーカーから大きく流れていたことを思い出します。加藤さんとの歌詞が問題視されていますが私もラウスの村では詩的でないと感じます。「かもめを」か「かもめよ」かについては、森繁さんの元歌が良くわかりますが加藤さんのように女の立場からすると「(私は)白いかもめよ」と今にも泣きそうな余情が感じられるのですが。かつてのソ連の有人宇宙機での「ヤーチャイカ(私はかもめ)鷲よ応答して」を思い出します。
投稿: しょうちゃん | 2015年3月 8日 (日) 20時50分
今夜ABCのTV歌番組でオホーツクの舟歌を森繁久弥が歌う映像が流れました。「オホーツクの海原・・」で始まる1番だけの放送でしたが、格調の高い詩だと感じました。
投稿: しょうちゃん | 2015年6月21日 (日) 21時48分
数ある青春歌のなかでもこの歌は特別な存在です。
目を瞑れば二十歳代の自分と友人たちがいます。
8月の上旬、私を除いて当時大学生だった彼等、彼女らとの蔵王登山の一日が蘇ります。
にわか雨に降られながらも、高山植物を愛で一緒に歌ったのがこの曲でした。昨日、級友女子4人でランチ会をしたばかりなので今夜はこの歌に酔い痴れたい気分です。
「私たち、もう高齢者なのよね」と語り合いながらのランチ会でした。(お互いに気分は高校生の乙女のまま)往時茫々。
投稿: りんご | 2015年6月24日 (水) 20時23分
加藤登紀子と森繁久弥の歌詞の違いについて、
詩を忘れて感情論で言ってる人が多いような気がします。
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いかもめを
出て行くのは「黒いカラス」であり、
残されるのは「白いカモメ」であるので、
意味的にも「白いカモメを」が森繁の意図するところでしょう
投稿: 丸めがね | 2015年10月19日 (月) 22時13分
丸めがね様
仰っている意味が、何度読んでも、わかりません。
わかるように教えてくださいませんか。
なぜ、そういえるのか、詩の中に根拠をしめしながら。
他の方々の御意見も、感情論とも思えませんが。
投稿: 紅孔雀 | 2015年10月19日 (月) 22時35分
名曲であるが為に拘りが生ずるのでしょうね。
頬笑ましいと思います。
これも平和であればこそと思えます。
さて、私は丸めがねさまに賛同いたします。
出て行くのは気まぐれカラス置き去りにされるのはカモメ
私は「かもめ」
当時は「を」と「よ」の違いに拘泥することもなく聞いたものです。むしろ語感から「かもめよ」が正しいのではと思っていました。しかし人生の黄昏時を生きる今、そこはかとない乙女心の哀れが偲ばれます。
白夜云々は「月の砂漠」同様あえて名曲の浪漫を科学で検証するのは野暮というものではないでしょうか。
投稿: りんご | 2015年10月20日 (火) 08時46分
この歌を聴いたり、口ずさむと20数年前に亡くなった親父を思い出します。酒席での親父の持ち歌でした。
大正3年生まれの親父は タバコが好きで、酒を愛し、男気があり、正義感が強い人情家でした。貧乏暮らしでしたが毎日「お客さん」が来て酒を飲みながら「封建的な村の民主化」、「産業振興」などを論じていました。
母が小学生だった私たちのために夕食のおかずを作っても、不意にきたお客さんの酒のツマミになってしまうことも度々ありました。私たちはご飯に醤油をかけて・・。
親父は宮崎大学を卒業して満鉄に合格、満州にわたりケナフの研究などをしていたようで、その話を村の青年たちが聴きに来ていました。話の途中から酒盛りにかわり みんなで歌ったり、踊ったりしますので、私たち子供は小学校の宿題もできなくなり親父を恨んでいました。
宴が盛り上がる頃 親父の十八番「知床旅情」が出てきます。森繁久弥と親父は満州で親交があったようです。
私が大人になったら「酒飲みで貧乏をなんとも思わない親父みたいにならない」と何度も思いました。
親父が亡くなると親父の生き方が羨ましく、「もう少し親父に優しくして置けばよかった・・」と思うようになりました。親父みたいに「知床旅情」を情感込めて歌えませんが、この歌を聞くたび親父を思い出し懐かしくなります。
2016年9月6日、友人と知床峠に旅をして「知床旅情」を歌えたことで親孝行できたように思いました。
そしてし知床峠を降りて「森繁久弥」の名前のある碑まで行ってきました。
この「うた物語」に「知床旅情」をとりあげていただき感謝しています。
投稿: けん | 2016年11月23日 (水) 13時48分
若いころ定年したら幸せの黄色いハンカチの竹田鉄矢のように北海道一周旅行して知床にも寄ろうと夢見ていました。実際には、孫の世話や諸事に追われ実現しそうにもありません。そのうちに体力も気力も弱まってきました。今はせめてもの慰めで時折風呂で歌い心の夢の旅行をしています。その夢の旅行の中で、知床で知り合った素敵な女性から、気まぐれの黒いカラスのようなあなたは大阪に帰るけれど、この白いかもめのような私を忘れないでねと言われているのです。
投稿: SK2 | 2017年3月24日 (金) 18時05分
私は知床には足を運んだ事も、縁も所縁もない人間ですが、この歌は、私が生きている限り忘れてはならない歌です。
平成20年の10月、私はその年の初めから体調の悪かった母を癌で亡くしました。既に父も姉も他界し、私は孤独の身となりました。
ずっと母といっしょに暮らしていながら、いちばん母の近くにいながら、自身の忙しさに追われていた私。8月下旬に入院した時には余命2か月を宣告され、そのとおりに2か月後には逝ってしまいました。
なぜ気付いてあげられなかったのか、自身の情けなさと悲しみに打ちひしがれ、仕事も手に付かなくなり、生きる意味さえ見失っていた私を、ある時、優しく温かく包んでくれるようにどこかで聴いた歌が、この「知床旅情」だったのです。
あれから9年、私はすっかり元気を取り戻し、新しい仕事で第二の人生を歩んでいます。でも今も「知床旅情」を聴くとつい涙してしまいます。
いつか知床に行ってみたく存じます。
投稿: 羅臼岳 | 2017年6月28日 (水) 16時26分
羅臼岳様、心からお悔やみを申し上げます。
親って、体調の悪さを子供に隠すものだと思っています。よほど辛く寝るようになるまで、子供の前では「なんでもないふり」をしてしまいがちです。私は大病をしたことはありませんが、子供には身体の不調をみせません。子供達それぞれ生活があり、心配かけたくないと思ってしまいます。
親自身が100歳になり子が70過ぎても、親は子の心配をしてしまいます。つくづく親は幾つになっても親なんですね。こればかりは仕方がありません。
お元気になられて本当によかった、知床半島はいい所ですよ、ぜひお勧めです。
投稿: konoha | 2017年6月28日 (水) 19時31分
二木先生
こんばんは ご無沙汰いたしております
久しぶりに 涙を流しながら きいています
知床旅情は いわずもがなの名曲
でも 僕の涙は 倍賞千恵子さんの歌う 語る
オホーツクの舟唄からです
倍賞さんの三十歳前後の 映像でしょうか
何地から吹きすさぶ 朔北の吹雪よ
わたしの胸をさすように
オホーツクは今日も海鳴りの中に明け暮れていく
父祖の地のクナシリに 長い冬の世が明ける日を
白いカモメが告げるまで
最はての茜の中で 私は立ちつくす
何故か 目がしらの涙が凍るまで
という科白から 始まります
歌詞は オホーツクの海原 -----
とつながります
曲終わりには オホーツクの漁師の櫂をこぐ姿を 千恵子さんのダンス能力が表現してくれます すごい迫力です
最後の締め は クナシリ(北方領土)への郷愁の心です
何日の日にか詣でん 御親の墓に 眠れ静かに
と結ばれます
戦後70 年がすぎ 以前のソ連 今のロシアの不誠実さ をみるにつけ(もちろん 日本外交の最高級のふがいなさが 主たるものかもしれませんが) 北方領土が返還されることはないだろうと 暗澹たる気持ちになります
じゃあ アメリカから返された沖縄が 真の日本にもどったか を考えると これも理不尽な状況にありますね
ほんとうに どうしようもない状態 関係 多すぎます
小さなことでは 森友の建設途上の建物 あの土地 森友と同じ結果になるだろう 加計の今治の建物 土地 どれだけの 無駄遣いをすれば気がすむのでしょうか 以前にもありましたね 無駄な高速道路 ダム 有明海の堰 権力をにぎると 自分の財を利するため 箱物ばかりをつくるのですね
都合が悪いと 籠池氏のように はしごをはずされる
ほんとうに 腹立たしい毎日が続きます
僕の単純な思考では 何をきっかけにしても 暗い暗い この一点に集中してしまいます
もっと きれいな感情を 曲にのせたいのですがーー
今は無理です 申し訳ありません
投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年6月30日 (金) 01時33分
「私を泣かすな 白いかもめを」という歌詞は自分の瞳に映る女性(白いかもめ)が涙で見つめることができなくなってしまうという意味に僕は解釈しています
投稿: 真次朗 | 2017年8月 4日 (金) 19時36分
未だに訪れたことのない知床をあれこれ想像し風呂の中でよく歌いますが3番の歌詞はやっぱりしっくりきません。2番で抱きしめんと思う相手の君(女)と3番の羅臼を出ていく君(男)が異なるのは違和感があります。そもそも女が男に「君は出ていく」というのも抵抗があります。そこで私は3番を「別れの日は来たラウスの村にも、明日は出て行く峠を越えて、忘れちゃいやだよ気まぐれカラスを、私を泣かすな白いかもめよ、と勝手に変えて歌っています。気まぐれな旅人(黒いカラス)が地元の娘(白いカモメ)につかの間の恋をしたのです。まさに旅情ですね。
投稿: SK2 | 2018年1月18日 (木) 10時25分
森繁久彌の歌う知床旅情はこれほどまで郷愁漂わせ旅情をかき立てられるものはないと思っています。
知床半島には2回行きました。1回目は39年です。当時は森繁の歌う知床に憧れ、若者が知床へと行きました。私もその一人で斜里からウトロで一泊しました。民宿でした。お風呂の脱衣所で中から知床旅情の歌声が密やかに聞こえてきました。同行の友と思わず顔を見合わせてしまいました。友とは言葉を交わさなかったのですが、お風呂場の響きのよい歌声になんだか同じ思いがしました。
2回目は免許証を夫婦で返納してからです。その頃は夫が体調を崩しがちでしたので、無理のないゆっくり旅をと思い、北斗星車中1泊の4泊5日でいきました。知床のウトロ港は結構観光地になっていて驚きましたが、あの海に突き出た岩山は45年前と変わりませんでした。当時と同じように岩山をバックにして写真をとりました。帰宅後2枚並べて笑ってしまいました。今も折にふれ歌いますが、思い浮かべるのはあのお風呂で密やかに歌っていた背中です。
投稿: konoha | 2018年1月18日 (木) 11時40分
「知床旅情」は、多くの人に愛される、いはば、国民的歌謡曲ではないでしょうか。知床へ旅行したことはありませんが、時々、聴いたり歌ったりします。
それにしても、投稿者各位のコメントに目を通しますと、歌詞(特に3番)の受け取り方はいろいろあるもんだなあと、驚いたり、戸惑ったりしております。
そこで、改めて、歌詞を熟読して、私なりの受け取り方を整理して見ました。
歌詞1番:まず、”俺たち”とあることから、主人公は男性でしょう。それから、”俺たち”の範囲ですが、俺(私)を含む地元ラウスの人達、旅で他所からやってきた若い女性(達)、そして、カラス、かもめも含むと考えます。カラスもかもめも、港町の住人で仲間ですから。また、”思い出しておくれ”から、歌詞1番は、歌詞3番で”君”が去ってから、しばらく(数日?、数か月?)経って、当時を回想している情景と受け取れるのでは。
歌詞2番:”君”は他所から来た若い女性で、”抱きしめんと”するのは私。それを覗き見た、地元のうら若き美しい女性(達)=ピリカが冷やかして笑う。
歌詞3番:出ていく”君”は、他所から来た若い女性。カラスよ、この楽しかった日々を忘れないでよ。そして、”君”よ、私やかもめを泣かさないでよ。
このように受け取りますと、歌詞がすんなり心の中に入ってくるように思いますが、如何でしょう。
投稿: yasushi | 2018年1月18日 (木) 14時07分
名曲と言われ長く歌い継がれている歌にしても、聞く人によって、様々な時には正反対の受け取られ方をしている「歌詞」も少なくないですね。 それだけその「歌詞」に深みがある、という言い方も出なくもないかもしれんませんが。
人は十人十色と言いますから、受け取り方も十色であって何の不思議もないと思います。
自分の理解・解釈と異なった受け取り方に接することは、自分の目を開かせることにもつながり、有意義なこともあるとは思っています。
しかしながら、極論すれば、旋律であれ、歌詞であれ、理解できるかできないか、好きか嫌いかの世界ですから、自分の当初の印象を変えることは、本当に難しいことだと、つくづく思っています。
本題ですが、2番2行目の「月は照る 波の上」の「上」を「『うえ』ではなく『え』」と歌わせる楽譜が多く、実は森繁も「え」と歌っている・・・ということに、恥ずかしながら周囲の指摘を得て最近になって知りました。
「うえ」を「え」と歌うことについての、必要性、理由、いきさつなどについてご存知の方、ご教示願えれば幸いと思っています。
投稿: 慎兵衛 | 2019年6月15日 (土) 12時16分
慎兵衛様
ご提起ありました、”♪波の上♪を♪波の上(え)♪と歌う必要性などについて、参考意見として、一私見を申し上げたく存じます。
結論的には、”字余り”解消のために、母音を省略したのではないでしょうか。
歌詞の2行目の後半部分を歌詞1番から3番まで、並べて記しますと次のようになります。
歌詞1番 俺(おれ)たちーの こーとを
歌詞2番 月(つき)は照(て)ーる 波(なみ)の上(うえ)
歌詞3番 峠(とおーげ)ーを 越(こ)ーえて
このように比較してみますと、歌詞2番だけ、後半部分が5文字(音)となり、歌詞1番、3番の4文字(音)と合わなくなり(字余り)、やや違和感が出ます。そこで、”上(うえ)”の母音1文字(う)を省略して、”波の上(え)”としたのではないでしょうか。
このように処理する他の例につきましては、”交流掲示板”に投稿させて頂きました。よろしかったら、ご覧ください。
投稿: yasushi | 2019年6月16日 (日) 14時13分
3回目の北海道旅行をしてきました。知床は1回ですが、知床旅情は仕事についたとき、近くで音楽会があり聞きに行きました。そのときに加藤登紀子さんが歌った記憶があります。
投稿: 今でも青春 | 2019年6月16日 (日) 20時39分
yasusiさんへ
余りにも素人っぽい質問に、早速の回答をいただき恐縮しています。 掲示板の内容とともに、有難く参考とさせていただきます。 私は、知床旅情を初めて聞いた時から、ずっと「波の上(うえ)」と思って歌っていましたが、最近になって楽譜を見る機会があり、「上」が「え」となっているのはミスプリントだろうと発言した際に、周囲の人からの指摘を得てやっと気づいたような次第です。
私はこれまで「波の上(うえ)」と歌って、全く違和感を感じることはかったのですが、そんな人はごく少数派ということでしょうか? 私の場合、歌詞そのものやその意味、またメロディや譜割も間違って覚えていることが少なくないのですが、若い頃に間違って覚えた歌って、なかなか修正ができないものですね。
投稿: 慎兵衛 | 2019年6月17日 (月) 23時13分
万葉にも 上 うへ を へ と読む例があるようです。現代かなづかいにすると え ですね。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/197844/meaning/m0u/%E3%81%B8/
尾上 おのへ (山の頂) というのもありますね。
投稿: Hurry | 2019年6月18日 (火) 10時23分
「うた物語」にもupされている『桜井の訣別』の歌詞1番にも、♪ 忍ぶ鎧の袖の上(え)に♪とあります。 Hurry様が指摘されてますように、万葉の時代には「うへ」を「へ」とも表していたようですね。「上(へ)」は「表面」の意味を持っていたとのことです。音数の関係でも、「うえ」より「え」のほうが理に叶っていると思われます。
投稿: かせい | 2019年6月19日 (水) 17時49分
何とも言えないただただいいメロディーだなあと思います。
いつもお風呂の中とかで口ずさんでいて、世界のどこにもないこの種のメロディー、心に沁みるような、ゆさぶられるような。 日本の歌の中でも、最も好きなものの一つです。
ずっと昔、セルビアのベオグラードに滞在していたことがありました。 そのとき偶々ある日本の男性とセルビアの方との結婚式がありました。 この手のめでたい行事には立ち合い人は多いほどよろしかろうと、ぜんぜん他人の私まで招待されました。 日本人とギリシャ正教徒との式次第がどのように行われたかはわかりませんが、そのあとのパーティー、広いホールに集まった人、およそ四百。そのうち日本人はおよそ三分の一。時はあのユーゴスラヴィア紛争の真っ最中にこれほどの日本人がなおセルビアに居住しているとはちょっとびっくりしましたが。
このパーティーの幹事が日本大使館の方で、カラオケ狂とかで、日本から持ち込んできていたカラオケセットをしつらえ、日本人参集者につぎつぎに歌わせます。
私はちょっと考え、結婚当事者の日本の方に対するよりも大勢のセルビア人に対してなにか日本的なメロディーをと、この「知床旅情」を唄ったのでした。 一番を歌い終わった時からもうすでに大変な拍手です。 終わった時にはもう盛大な拍手なのでした。 いえいえ、私の歌が上手かったなどとはさらさら言うつもりではありません。 このメロディーがセルビア人に大変に好まれたようなのでした。 とくに日本大使館に勤めるグループは、すでにかなり日本という国の雰囲気を身に収めていたのでしょうが、あらためてこの歌が大変に日本的だと気にいった様子でした。
私もこの曲、世界の人たちに分かってもらえる日本的なメロディーの、ほんとに素晴らしい歌だと思います。 あの森繁さんの独特の声でのこの歌、心に響きます。
投稿: 田主丸 | 2019年6月21日 (金) 22時36分
新聞の切り抜きを整理していまして、「エトピリカ」が出てきました。
※日経新聞 2008/12/28、ネーチャー・クライシス、失われる多様性 29
歌詞2にある「ピリカ」を何気なく歌っていましたが、この「エトピリカ」かとひらめきました。
Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%94%E3%83%AA%E3%82%AB
エトピリカ(花魁鳥、アイヌ語:Etupirka)Fratercula cirrhata は、チドリ目・ウミスズメ科に分類される海鳥の一種。鮮やかな飾り羽とくちばしが特徴の海鳥である。
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きれいな鳥で、絶滅危惧種のようです。
Googleで「ピリカ」では出てきません。
私的に、一つ解決しました。
投稿: 崇 | 2020年2月26日 (水) 05時18分
前々からの計画に基づき、この夏、北海道(道央、道東)ドライブ旅行する機会を得ました。計画は倅(3男)が立て、同行は私、妻、計3人。
コースには、知床半島の西側のウトロ、東側のラウスも入っていました。
新千歳空港に降り立ち、レンタ・カーを借りて旅を続けるうち、確か、ラウスには「知床旅情」の歌碑があったはず、と思い至り、そこへの立ち寄りをリクエストしたところ、意外にも、スマホでの調査結果、すぐOKがでました。
ラウスへ入った日、先ず立ち寄ったのは、町中にある「しおかぜ公園」でした。そこに、”オホーツク老人”役を演じたときと思われる、長い杖を手にして立つ森繁久彌さんの銅像と、森繁久彌さん筆跡による歌碑がありました。感無量で、何枚かカメラに収めました。
そのあと、この日のメイン・イベントのイルカ・クジラ ウォッチング・クルーズを体験し、幸い、身近に、2頭のマッコウ・クジラに出会うことができ、その感動の余韻に浸りながら、ラウスを後にしました。
ついでながら、ドライブ旅行中、あちこちで、”はまなす”の紅紫色の花を目にしました。
投稿: yasushi | 2021年7月30日 (金) 11時43分
この歌が、♪知床の岬に はまなすの咲くころ…♪、で始まることから、はまなすは、夏の知床半島の代表的な花であろう、と想像します。
紅紫色のはまなすは、昨夏北海道旅行したとき、海岸べりの花園などで、よく見かけました(’21-7-30 拙コメントをご参照)。
さて、はまなすといえば、ここのところ、毎年春(5月)に訪れる、近隣のバラ公園の一角に、はまなすが植えてあるところがあったことを思い出しました。
はまなすがバラの仲間(バラ科)であることから、バラ園の中にはまなすのコーナーが設けられたのだろうと思います。
今年も、このバラ園を訪ね、バラだけでなく、昨夏の北海道のはまなすを思い出しながら、はまなすもカメラに収めました。北海道で見たのは紅紫色のはまなすばかりでしたが、ここでは、白色のはまなすもありました。
言葉だけではイメージが湧かないと思い、”交流掲示板”に、そのとき撮ったはまなす(紅紫色、白色)の写真を投稿させて頂きました。ご興味のある方は、そちらをご覧ください。
<追記>
最近、知床半島沖で観光船の海難事故があり、多くの方々の遭難が報じられています。何とも、痛ましいことです。
投稿: yasushi | 2022年5月30日 (月) 17時25分
俳優の山﨑努さんが、2022年8月12付の日本経済新聞(朝刊)「私の履歴書」で次のように記しています。
2つ目の『地の涯に生きるもの』では森繁久彌さんの即興の能力にびっくり。
あの名曲「知床旅情」はこの映画の宴会シーンで森繁さんが即興で作詞作曲したものである。撮影中に久松静児監督が突然、「ここでひとつ歌が欲しいな。繁さん、何か歌え」と言った。場面は、知床の漁師の息子(僕の役)の出征を祝う宴。森繁さんは土地の匂いのする歌をイメージしたのだろう、セットのちゃぶ台に紙片を置き、「……知床の」「……岬に」とエンピツで書きつけ、口ずさむ。昼食休憩があり、そして出来上がったのがあの曲。森繁節で見事であった。
だからあれはもともと、我が子を戦場に送る惜別の曲だったのである。あの場に居合わせた人ももうほとんどいなくなったと思うので、生き証人として記しておく。
投稿: 中村喜一 | 2022年8月13日 (土) 13時44分
中村様がコメントされた山崎努さんの「私の履歴書」について、映画を見てみたいと思いTUTAYAで検索しましたが在庫なしかつVHSだとのこと。地元ならあるだろうと羅臼町の資料館に問い合わせてみました。親切にすぐ返信があり、「この(出征祝いの)シーンは確認できない、(回答者の)私見では「撮影はされたが編集でカットされたのではないか」というものでした。
山崎さんの記事は間違いのないことだと思いますし、世界情勢がきな臭く、8月の掲載ということで山崎さんも「生き証人として」書く必要を感じられたのかもしれません。
すでにオホーツクの舟歌の曲があり森繁さんはそれに載せて出征祝いの宴の歌を作られたのでしょうが、ロケ終わっての「羅臼よさらば」とどう歌詞が違うのか確認しようがなくなりました。しかし秘話を知ると、「思い出しておくれ俺たちのことを」の俺たちは誰なのか、考えてしまいます。すばらしい抒情歌ですが、「オホーツクの舟歌」と併せて聞くときまた別の思いが湧きます。
なお、羅臼町の図書館では視聴覚の部門で映画の鑑賞が可能なので事前に確認してくれとのことでした。
再訪したい置戸(金色夜叉)とともにぜひ行きたいのですが根室中標津空港にしろ女満別にしろそこからの道のりが遠く悩んでいます。
投稿: しょうちゃん | 2022年8月25日 (木) 20時52分
上記のご説明にあるように、『知床旅情』の元歌は『オホーツクの舟歌』です。そちらの方はあまり知られていませんが、森繫久彌自身が歌い、また倍賞千恵子もレコーディングをしたと聞いて、ユーチューブなどを調べたことがあります。
すると、倍賞千恵子の歌声があまりにも美しく、また森繁の歌詞が実に素晴らしいので、感動して涙したことを覚えています。『知床旅情』も実に良いのですが、元歌の『オホーツクの舟歌』もぜひ聴いてもらいたいのでコメントを寄せました。
不肖・私のブログにも収めましたので、興味のある方は聴いていただければ幸いです。
https://blog.goo.ne.jp/yajimatakehiro/e/460259e57ab18472cc0a1cbeb5d55df8
投稿: 矢嶋武弘 | 2024年3月 6日 (水) 15時56分