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2014年6月12日 (木)

霧のロンドン・ブリッジ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:Sid Tepper & Roy C.Bennett、日本語詞:音羽たかし、唄:Jo Stafford

霧のロンドン・ブリッジに 人影も絶えて
静かに眠る街に 鐘は鳴り渡る
寄り添う二人を ほのかに照らす灯(ひ)
はじめて口づけ交わす 霧のロンドン・ブリッジ
あなたとただ二人 手すりによりて
人の世の幸せを 祈る今宵
音もなく流れる 水に影映し
愛の喜び語る 霧のロンドン・ブリッジ
      (繰り返す)

   On London Bridge

I walked on London Bridge last night
I saw you by the lamp post light
Then bells ring out in sleepy London town
And London Bridge came tumbling down
The sky was hidden by the mist
But just like magic when we kissed
The moon and stars were shining all around
And London Bridge came tumbling down

Just you and I over the river
Two hearts suspended in space
And there so high over the river
A miracle took place
Two empty arms found to love to hold
Two smoke rings turned to rings of gold
A simple dress became a wedding gown
When London Bridge came tumbling down
      (繰り返す)

《蛇足》 霧のロンドンの神秘的な夜を歌った恋歌で、1956年に発表され、ジョー・スタッフォードの唄でヒットしました。
 わが国では、江利チエミ、雪村いずみ、美空ひばり、伊東ゆかり、水前寺清子、弘田三枝子などがカバーしています。

 作詞・作曲のシド・テッパーとロイ・C・ベネットは、ともにニューヨークのブルックリン育ち。1945年から1970年までの足かけ25年にわたってコラボを続け、その間300曲以上の作品を世に送り出しました。
 2人の曲は、ビートルズ、コニー・フランシス、ダイナ・ショア、フランク・シナトラ、デューク・エリントンなど、数多くの大物たちによって歌われたり、演奏されたりしました。とりわけ、エルヴィス・プレスリーのアルバムや映画の挿入曲用に42曲もの作品を提供したことは有名です。

 ロンドン・ブリッジは、よくタワー・ブリッジと混同されます。観光客の半数ぐらいは、タワー・ブッリジをロンドン・ブリッジだと思っていそうな感じです。タワー・ブリッジは、両側の塔が上部の吊り橋と下部の跳ね上げ橋によって結ばれているという特徴的な形から、ロンドンを代表する橋だと思われ、それが勘違いの原因になっているようです。

 ロンドン・ブリッジはタワー・ブリッジの上流、すなわち西側約1キロの地点にある橋です。現在の橋は1973年に架け替えられたもので、こういってはなんですが、これといった特徴のない橋です。観光客の目がタワー・ブリッジや、ビッグ・ベンが見えるウェストミンスター・ブリッジに向いてしまうのもしかたないことかもしれません。
 しかし
、ロンドンで最も古いのはロンドン・ブリッジで、ローマ時代からあります。「ロンドン橋落ちた……」の古謡で知られるロンドン橋はこちらです。

 なお、上のmp3作成に私が使った楽譜では、頭の2小節に「ロンドン橋落ちた……」のメロディが使われていますが、ジョー・スタッフォードのレコードにはありません。どういういきさつでそうなったかは不明です。

 「霧の都ロンドン」という言葉のとおり、ロンドンでは他の大都市に比べて霧がよく発生します。そのなかには、自然の霧もありますが、今日、PM10やPM2.5として知られる粒子状物質によるスモッグが多くあります。スモッグの発生は、産業革命時から急速に増えてきました。

 フリードリッヒ・エンゲルスによれば、紡織産業が盛んだったリヴァプールでは、知識層・ジェントリ地主の平均寿命が35歳だったのに対して、労働者の平均寿命はなんと15歳だったそうです(『イギリスにおける労働階級の状態 1844-45』)
 原因としては、過重な労働や栄養不足、非衛生な生活などが挙げられますが、スモッグによる呼吸器系や心臓の疾患も大きな要因でした。これらの悪条件が乳幼児の死亡率を極端に高め、それが全体の平均寿命を押し下げていたのです。
 人口の多さに比例して石炭暖房から排出される粒子状物質の多かった
ロンドンでは、状況はさらに悪かったことでしょう。

 明治33年(1900)10月から同35年(1902)12月までロンドンに留学した夏目漱石は、日記に次のように記しています。

 1月3日 倫敦の街にて霧ある日太陽を見よ黒赤くして血の如し、鳶色の地に血を以て染め抜きたる太陽は此地にあらずば見る能はざらん
 1月4日 倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ真黒なる塊りの出るに驚くべし何百万の市民は此煤煙と此塵埃を吸収して毎日彼等の肺臓を染めつつあるなり我ながら鼻をかみ痰するときは気の引けるほど気味悪きなり
 1月5日 此煤煙中に住む人間が何故美しきかや解し難し思ふに全く気候の為ならん太陽の光薄き為ならん

 こうした状況は1950年代まで続き、とくに1952年のロンドンでは、12月5日から10日まで、場所によっては自分の足元も見えないほどの濃密なスモッグに覆われました。その結果、気管支炎、気管支肺炎、心臓病などで約1万2000人が亡くなったそうです。
 その後対策が講じられ、状況はかなり改善されました。
 いっぽう、かつては「花の都」と讃えられたパリが、
現在は霧というかスモッグの発生に悩まされているようです。

 せっかくのロマンチックな歌がシビアで現実的な話になってしまいました。

(二木紘三)

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コメント

 最近転職に伴い受験浪人以来の2ケ月程の浪人期間を経験しましたが、この機会にとロンドンへの一人旅を敢行しました。二木先生のおっしゃる通り、ロンドン橋は何の変哲もない橋で、下流にあるタワーブリッジの方が観光スポットになっています。ロンドン橋とタワーブリッジの間のテームズ河畔に佇むロンドン塔は歴史好きにはたまらない観光地です。ロンドン塔は王宮であったこともあるのと同時に、処刑場としても有名ですが、実際ここで処刑された人の数は多くありません。その中で印象に残るのはアン=ブーリンとトマス=モアです。第1王妃の侍女であったアン=ブーリンと結婚するため、ヘンリー8世は離婚を禁ずるカトリック教会と断絶してイギリス国教会設立のきっかけを作りました。しかしアンは王妃となった2年後に姦通罪の嫌疑をかけられました。一方トマス=モアは国教会設立に反対したために断罪されました。二人とも斬首刑を受け、トマス=モアの生首はロンドン橋に晒されたとのことです。
 この歌の歌詞にある、鐘の音は近くのセント=ポール大聖堂の鐘でしょうか。それともビッグ=ベンの鐘の音でしょうか。ビッグ=ベンの鐘は日本人には懐かしい曲を奏でます。学校の授業開始・終了のチャイムに採用されたからです。

投稿: Yoshi | 2014年6月13日 (金) 12時22分

霧のロンドンを知っていても、その歌があると想像だにしません。近代工業化のシンボル、英国の当時平均寿命、インテリ35才、労働者15才と言う御話に仰天しました。バーミンガムにBack-to-back housesと言う当時の裏通り住宅街が保存され、もっとも貧しい労働者階級の凄まじい生活ぶり/環境に圧倒されます。

Yoshiさん(確か`目白`通でいらっしゃる)処刑話題のTower of Londonはテ-ムズに沿う王宮(城)名と同義だと思いますが、管理人さんご指摘の通り、ややこしくて私も普段あやふやになっています。両側の橋の塔でなくて、城の一角にある塔が牢獄/幽閉施設としてバラ戦争当時から利用されてきた。

白バラのエドワード4世とエリザベス夫婦の幼い二人息子たちはここに幽閉され、歴史から消えています。エドワード弟・リチャード3世の謀略説が強いですが、妻アン(Anne)立案で単独指揮らしい…。塔直下の処刑台でマサカリ刑を受けたアン・ブーリンは確か33才と思います。王侯貴族が暗殺や処刑で若死しない場合でも、15世紀の平均寿命は近代スモッグ汚染期のそれとあまり変わらないような気がします。

アン・ブーリンの娘エリザベス1世は長生きです。彼女の母親違いの姉で前任者マリー1世は42年生涯で、マアマアの感じですね。旧教スペイン血統のマリーが新教300人を‘生き火あぶり`にしたのはアン処刑場と同じだったような気がしますが、、さて?

初めての旋律を聴きつつ、筋の通らない作文になりました。`蛇足`に魅了され、ついつい引きずりこまれた結果デス。深謝。

投稿: minatoya | 2014年6月15日 (日) 08時27分

 霧のロンドンの紳士はシルクハットにこうもり傘、というフレーズを若いときに聞いておりましたが、そういう固定観念が当てにならないものとつくづく知ったのは2008年の2月のこと、ロンドンで身内がロンドン塔にほど近いホワイトチャペルにある王立病院に緊急入院して、ちょうど1か月予定外の滞在を強いられた時でした。毎日見舞に通うのですが、降られたという記憶は1回しかなく、ほとんど2月いっぱいが抜けるような青空ばかりでした。なお、移動したイーストエンドの分院ではお医者さんもナースも半分以上が黒い顔で、インド人がソフトウエア分野だけでなく医療現場にこれほど進出しているというのも驚きでした、余談ですが。

投稿: dorule | 2014年6月16日 (月) 21時55分

はじめてメールさせていただきます。
いつも貴HPを拝見させていただいております。
貴HPは、歌曲の内容や背景等、非常に詳細に御紹介されており、大変勉強になります。
さて、お門違いは重々承知の上で、敢えてお伺いさせていただきたく、お願い申し上げる次第です。
実は、狩人がカバーした、イーグルスの『狩人』なのですが、
ネットでは歌詞が全然見つかりません。
歌を聴いても、ある部分が、どうしても聞き取れません。


それは、第三章のはじめの部分で、

OOOOO 運ばないと
いつかは 誰もが 気づくだろう
その時 どうして 生きるのか
その時 価値がきまるのだろう
半分死ぬ さだめの中で
君はどう生きる 教えて欲しいよ
遠い世の中 誰も一人
誰か僕に 声をかけて欲しいよ


OOOOOの部分がどうしてもわかりません。
もし資料がおありでしたら、御教示いただけませんでしょうか。お忙しい中、大変恐縮です。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

投稿: 萩崎義治 | 2014年6月17日 (火) 10時51分

狩人がカバーした、イーグルスの『狩人』なのですが

間違いました。すみません。下記に訂正させていただきます。

狩人がカバーした、イーグルスの『ホテルカリフォルニア』なのですが

投稿: 萩崎義治 | 2014年6月17日 (火) 10時57分

霧のロンドン・ブリッジ―――わたしはロンドンに行ったことはありません。しかし、この歌詞からのイメージは、人通りの絶えたロンドン橋の上で、逢瀬を楽しむ二人を白い霧がつつむ、神秘的な、メルヘンチックなシーンです。でも、二木様の解説によれば、“ロンドンの霧”はそんな甘美な、ロマンティックなものではなく、“殺人霧”ともいえる物騒な代物だったことが分かります。その霧は産業革命の鬼子として生まれ、現代に至るまで、まだ猛威をふるっているようですね、もっとも、今はその地位を中国などの発展途上国に譲っているようですが。
 ネットで“ロンドンの霧“で検索しますと、たくさんの関連記事が見られます。明治33(1900)年に渡英した夏目漱石の日記に、すでにロンドンの霧のおぞましさが書かれていること、“smoke“と“fog“の合成語である“smog“が、すでに1905年に作られていること、気象予報士の森田氏が、ある本に、「ロンドンの霧は“smog“である」と明快に書いていることなど、大変勉強になりました。
 ところで、「ロンドン」を形容するのに、「霧の都」などという幻想的な表現を頭に付けるのは、日本だけだったのでしょうか。

投稿: ひろし | 2014年6月17日 (火) 15時40分

 「ホテルカリフォルニア」狩人
  
♪半分死ぬ さだめの中で → 神のみ知る さだめの中で
♪遠い世の中 誰も一人 → この世の中 誰も一人

何方かのコメントがあるかなと思いながら、
昨日から繰り返し聴いているのですが、
2か所は上記に聴こえます。

♪OOOOO 運ばないと → カタログどうり? 運ばないと 
♪いつかは誰もが 気づくだろう → いつか別れもね? 気づくだろう

♪カタログどうり・・は、何か変ですし、
♪いつか・・もどちらにでも聴き取れます

  正しいコメントがあると良いですね。

投稿: なち | 2014年6月18日 (水) 15時05分

 「霧のロンドン・ブリッジ」の懐かしさと共に《蛇足》を読みエッ?と・・・それは霧・・・あのロマンチックを演出する霧がスモッグだったとは・・・初めて知りました。
 小畑実が歌っていた「ロンドンの街角で」も、
   1.霧深き街から街へ テームズの河岸から河岸へ 月に想いを誘われながら 訪ねまわる探しまわる あの夜の瞳
     はるのバラを召せ召しませバラを  ああロンドンの花売り娘
と60年間も何の疑いも無く歌っていて当時の現実の事情は頭に皆無で、今後は心して歌いたく二木先生ありがとうございました。
 あの頃はこの歌や暗~い歌でファドの女王と言われていたA.ロドリゲスの「暗いはしけ」や憂鬱を吹き飛ばすJ.レイの「雨に歩けば」等に嵌っていました。今でも雨の日は長靴のリズムで、
   “ジャスト ウォーキン イン ザ レイン ゲッティン ソーキン ウェット トーチャリング マイ ハート
       バイ トラィニング  トゥー フォー ゲット~
と歌いながら散歩を、しかし今年の梅雨は殆ど雨が降らず毎朝夕さつき盆栽に給水をしています。

投稿: 尾谷光紀 | 2014年6月18日 (水) 22時24分

なち様

わざわざ何度も聞き返していただき、本当にありがとうございました。
しかも、私が気づかなかったところまで見つけていただき、感謝に耐えません。

投稿: 萩崎義治 | 2014年6月18日 (水) 23時45分

 オスカー・ワイルドが、自分の詩の中で、「すべてをぼんやりと幻想的に写しだすロンドンの霧」とうたったのは画期的だったとか。
 昔、読んだ萩原朔太郎の『詩の原理』に紹介されている話です。
 それまでは、ロンドンの深い霧は、テムズ川の船の衝突事故やロンドン市街の馬車の接触事故を招く、いわば厄介ものでしかなかった。
 ところが、ワイルドの詩によって、霧の価値観が変わったわけです。霧の美しさ、谷崎潤一郎のいう陰翳の美しさに気づいた。
一編の詩が、世間の価値観を180度変えることもありうるのだ、と詩人の矜持を語るかのように萩原は書いていた。
 
 芸術の力が、マイナスの価値をプラスに転換しうるという話で、40年前、学生だった私は、大いに感じ入った。
 その後、いろいろ考えてみたら、中国・唐の水墨画は遠近法を用いて、霧にかすむ遠くの山はぼかして、近くの山は明瞭にと、書き分けている。つまり霧の美しさを十分に知っていたわけです。
 水墨画は12~13世紀の作風、、ワイルドは19世紀の人。そうしてみると、東洋の美意識を西洋が600年遅れて気づいたともいえるのではないかと思いました。

投稿: 越村 南 | 2014年7月26日 (土) 01時31分

Yoshi様がトマス=モア (1478-1535) についてコメントされましたので、彼のたくましくも勇気にあふれたユーモア精神を思い出しました。彼は「ユートピア」の作者としても知られていますが、ヘンリー8世の離婚とカトリックからの分離政策に真っ向から反対し、ロンドン塔で斬首刑になりました。その処刑の直前、彼は首切り役人に向かって、「勇気を出して君の仕事を果たしなさい。私の首は短いから、よくねらいをつけて。腕の見せどころだよ」などと話しかけ、頭が断頭台の上にのせられてからも、「私のひげは国王陛下に対して何も悪いことはしていないのだから、切ってはかわいそうだ」と笑いながら、長いあごひげを横に向けなおして、首を切られたそうです。本当のユーモアとは、まさに命がけなのですね!

投稿: Snowman | 2014年8月16日 (土) 23時27分

はじめまして。ねうねう(猫の鳴き声)と申します。
日本の歌手がカバーしていると知って聴き比べてみました。弘田三枝子がいちばん上手くて切なくて甘い!と思います。

投稿: ねうねう | 2014年8月29日 (金) 11時45分

ジョー・スタッフォードのレコードは一枚だけ持っていますが、ジャケットの写真は美人に写っているものの、戦中のジミー・ドーシー楽団(パイド・パイパーズ)時代のショットを見ると、失礼ながらとても美形とは言いかねるので(笑)。G・I・ジョーと愛称され、兵隊たちのアイドルの一人だったところを見ると、アメリカ人好みの顔立ちだったのかも知れませんが。彼女のヒットで日本で今でも記憶されるのは、この「ロンドンブリッジ」とミリオン・ヒットの「ユー・ビロング・トゥー・ミー」、それにドーシー楽団時代の「ドリーム」くらいでしょうか。

投稿: 若輩 | 2015年7月 1日 (水) 00時09分

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