たなばたさま
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1 ささの葉さらさら |
《蛇足》 昭和16年(1941)に新しい国定教科書が編纂される際、文部省からの委嘱を受けて、権藤はなよが作詞し、下総皖一が作曲しました。
国民学校2年生用の音楽教科書『うたのほん』に掲載されましたが、他の文部省唱歌と同様、作詞者名・作曲者名は表示されませんでした。
昭和25年から、小・中・高校の教科書は、文部省の検定を受けて民間の出版社が発行する方式に変わりました。
その方式による最初の音楽教科書、春陽堂発行の『あたらしいおんがく一ねん』や二葉発行の『おんがくの本 2』では、作者は林柳波となっており、また、2番の「五しきのたんざく」が「きれいないろがみ」に変えられていました。
ここから作詞者名表示の混乱が始まります。教科書や一般向けの童謡集、歌碑などでは、権藤はなよ作詞とするもの、林柳波作詞とするもの、権藤はなよと林柳波の共作とするもの、権藤はなよ作詞・林柳波補作詞とするものが入り交じって、どれが真実なのか見極めがつきません。
こういう状況に立ち至った経緯については、池田小百合さんが詳しく調査していらっしゃいますので、そのHP『なっとく童謡・唱歌』をご覧ください。
当ページでは、JASRACの著作権データーベースに従って、「権藤はなよ作詞・林流波補詞」としました。
歌詞については、昭和30年(1955)にオリジナルの「「五しきのたんざく」に戻り、以後混乱はありません。
権藤はなよ(本名は花代)は、野口雨情と千葉省三に師事し、数多くの童謡や童話を書きましたが、今日に至るまで連綿として歌われてきたのは、この歌ぐらいです。
昭和40年代ぐらいまで、少なくとも田舎では、七夕は個々の家庭で祝うものでした。私の子ども時代、七夕の前日になると、近くの竹林から笹竹を伐ってきて、きょうだいで飾り付けをするのが楽しみでした。
都会化の進行で、田舎でも竹林が少なくなりました。まして都会では、笹竹を入手するのは困難です。クリスマスの季節に、もみの木の鉢植えが花屋の店先に並んでも、七夕の前に笹竹が並ぶことはほとんどありません。
ある世代以下では、七夕祭りは家庭の思い出ではなく、幼稚園や保育園、子ども会の思い出だという人が多いのではないでしょうか。それはそれで、また心ときめく記憶でしょうが。
(二木紘三)
コメント
五色の短冊が消滅しそうだったと、今、知りました。陰陽五行でいう五色は青赤黄白黒です。黒には字が書けないから、紫に変わることもあります。それぞれの色はそれぞれの力を持っています。
また五は、例えば五穀豊穣のように、総てという意味にもなります。
五色は総ての色のほか、美しい色にも意味が敷衍しました。五色沼はこの例になります。すると、五色の短冊は→きれいな色紙でもよいのかもしれません。
投稿: よな | 2014年7月 5日 (土) 23時58分
この歌は、二番の歌詞からして女の子が歌うものと思っており、息子ばかり3人できた私は子供たちに歌ってやることができませんでした。
そこで、先日5歳になった孫娘に歌ってやりました。幼稚園で教わったとのことで、ちゃんと知っていました。この優しい歌が、太平洋戦争の開戦の年に生まれたとは意外です。
孫娘は、短冊に幼い字で「はんばーがーやさんになりたい」と書いておりました。孫は本当にかわいいです。平和な世の中がずっと続いてほしいものですね。
投稿: 川口雄二 | 2014年7月 6日 (日) 19時23分
七夕祭りが家庭に定着しないのはその短冊の扱いに困るからではないでしょうか?クリスマスツリーですとその飾りつけはリサイクルで毎年使うことができますが、短冊はそういうわけにはいきません。
短冊はどうなってしまうのか?この疑問を私は小学校一年生のとき持ちました。一学期末に短冊で飾り付けたあの笹竹、どうなったのだろう、と夏休みに入って、学校に探りに行きました。笹竹は教室の前の廊下に立てかけてありました、しばらく後にもう一度探りに行きました。そのときはもうありませんでした。家に帰り、短冊が無くなっていたよ、と話したら、母は、「川か海に流したんだろう、二学期が始まったら先生にきいてみなさい」と言いました。
四年前、故郷に帰省する機会があり、その担任の女先生にお会いしました。そのとき先生は90歳でお元気で、一人暮らしでした。七夕祭りの思い出も話したのですが、やはり、どう処理したのか聞くことはできませんでした。お別れするとき先生は、「あなたがお帰りになるまで、100歳まで待ってましょうかね?」とおっしゃってくださいました。
せっかくの願い事を記した短冊、何か良い扱い方ないものでしょうか?
投稿: yoko | 2014年7月 6日 (日) 22時39分
現在ではクリスマスのツリーやリースの飾り付けをする家庭はあっても、「七夕まつり」の為に笹竹に折り紙や短冊などを飾り付ける家庭は少なくなったかもしれませんね。 私の子供の頃は当日の朝に各家庭が一斉に玄関脇に立て掛けたものでした。翌日、飾りの付いた笹竹を海に流しに行きました。今では環境問題などから許されるべきことではありませんが、当時は素材が全て自然に帰るものを使ってましたので、咎められる事はありませんでした。今ではそうもいかないでしょうが…。
幼稚園、保育園、小学校では園児や児童が楽しく造っているのでしょうが、やはり各家庭で親子一緒になって、造るべきだと思います。そういう情景が再び見られる日本になってほしいなぁと思います。
投稿: かせい | 2014年7月17日 (木) 00時19分
『半七捕物帳』は謎解きの面白さよりも、江戸の習慣風俗が克明に描かれ、江戸情緒が味わえるのでファンから支持されている傑作です。作者岡本綺堂は旧幕臣の子どもであり、江戸時代の空気の色濃く残る中で育ったからです。
その中に七夕について、おおよそ次のような記述がありました。(『半七捕物帳』(三)の「半七先生」 光文社時代小説文庫)
七夕は、江戸時代には、お正月の書初めと並んで、年に2回の大清書(おおぜいしょ)の日であった。手習いの子(字を習っている子)は、正月の書初めは、書いた清書を稽古場の鴨居に貼り付け、七夕には色紙や短冊に書いて笹竹に吊り下げた。7月にはいると師匠の指導の下、皆いっせいに下書きをはじめ、6日の宵に清書を笹竹に吊り下げ、7日の「夜明けの晩」(午前1時)に備える。(この時刻が天の川、牽牛、織姫が最もきれいに見える)
そうしてみると本来は字の清書であるから、願い事などは書かない。せいぜい「字が上達するように」というくらいなら妥当な願い事でしょうが、「TVゲームがほしい」とか「有名中学に入れますように」というのはなんだか可笑しい。
「玉の輿に乗れますように」という短冊も、最近のおませな子どもの中にはいるかもしれない、
庶民の現世利益願望の肥大化には牽牛、織姫も苦笑いをしているのではないか。
投稿: 音乃(おとの) | 2014年8月 3日 (日) 11時57分
ウィキペディア「権藤はなよ」を御覧下さい。
投稿: Hanayo | 2014年11月 9日 (日) 12時48分
燃えるような夏も過ぎ去ってもう秋ですね。
恋などしてないのにもう恋も終ってしまったような寂しさを感じます。
気がつくと七夕さまも終っていました。
僕の織姫さまは五才の誕生日を迎えて亡くなったかずこちゃんです。
会いたいなぁ。
もし会えるなら僕も四才の子供になれるよう神様にお願いしなければなりません。
今年の夏は入院もし外歩きもできませんでした。
来年の夏は海へ行き、山を歩き、七夕様ではプラネタリウムへ行って天の川を眺めてみようと思っています。
ハコベの花さま、皆様、失礼だったコメント(消去済み)お許しください。
投稿: yoko | 2015年9月 8日 (火) 21時53分
約30年前 私は家族共々 一年のうちに2度「たなばたさま」をお祝いしたことがあります。
上の娘が小学校6年生、息子が3年生の時、7月に熊本で「たなばたさま」をお祝いしました♪
8月1日に札幌に引越し、札幌でも「たなばたさま」をお祝いしました♪♪
ビックリしたのは熊本で竹林からとってきた笹竹に飾り付けをしたのに! 竹がない札幌では「柳の枝」に飾り付けをされていました。
今でも 「たなばたさま」を歌う時 この時の驚きを思い出します。
投稿: けん | 2016年6月19日 (日) 10時07分
昭和20年代の小学生の頃は近くの山で笹竹を取ってきて庭に刺し、飾りつけをしました。
現在は山もすっかり宅地と化し笹藪はありません。
孫娘が小さい時は広告の裏紙を使って短冊として、天の川とか名前を書いたり、ひし形の小さくしたものを繋げたり、丸い輪を繋げたりしてして、洗濯物掛けにつるして孫たちと歌いながら楽しみました。
もう家庭ではその行事もなくなり、幼稚園などの行事になってしまったのですね。
投稿: 栗さん | 2017年7月 2日 (日) 15時36分
もうすぐ七夕ですね。子供の頃、新聞紙を短冊にしたものです。今は百円ショップで安い折り紙が調達できますね。
このところ老人ケア施設で何回か七夕関連の紙芝居を演じております。紙芝居のあとで必ず七夕の歌を歌います。
男性はほとんど無反応、通所者も入所者も男性は1~3割の少数派です。3割は多い方です。
終始、頭を垂れて無反応らしき女性が大きな声で歌われたのには驚きました。もう一遍の「ももたろう」は紙芝居の途中から大きな声で歌いだしました。歌が終わるとまた頭を垂れてしまわれました。それでも耳はしっかりと反応しているのですね。子供の頃覚えた歌はすぐに甦るのですね。嬉しような、寂しいような気持ちになりました。
投稿: りんご | 2017年7月 2日 (日) 17時18分
七夕の祭はもともとは裁縫や音曲の上達を祈る中国の乞巧奠に起源があります。里芋の葉の白露で歌を書く風習は、平安時代末期の和歌で確認できます。ただし当時は梶の葉に書いていました。短冊になるのは江戸時代で、子供が手習いの上達を祈願して書き、七夕の翌日に川に流しました。女子校の教諭をしていた頃、教室に竹を持ち込み、自由に願い事を書かせたまでは良いのですが、それを川に流すわけにもゆかず、みんなの見ている前で、ブリキのバケツの中でもやし、君たちの願いを煙にして天の星に届けるのだと説明したところ、生徒達は大喜びをしていました。
投稿: milk3 | 2021年7月24日 (土) 15時49分