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2014年7月24日 (木)

学園広場

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:関沢新一、作曲:遠藤 実、唄:舟木一夫

1 空にむかって あげた手に
  若さがいっぱい とんでいた
  学園広場で 肩くみあって
  友と歌った 若い歌

2 涙流した 友もある
  愉快にさわいだ 時もある
  学園広場に 咲いてる花の
  一つ一つが 想い出さ

3 ぼくが卒業 してからも
  忘れはしないよ いつまでも
  学園広場は 青春広場
  夢と希望が ある広場

《蛇足》 デビュー曲『高校三年生』、次作の『修学旅行』に次いで、舟木一夫の3曲目として、昭和38年(1963)10月に発売されました。
 すぐに日活で映画化され、12月15日に封切られました。1か月前の11月16日に、『高校三年生』が封切られたばかりでした。

 映画は43分の短い学園コメディで、主役の山内賢のほか、舟木一夫、松原智恵子、堺正章などが出演しました(写真)

 学園広場とは、ヒマラヤスギや桜など校地によく植えられている樹木の下、部室棟の前など、生徒たちが自然に集まる場所を指しているのでしょう。

 私は、高校に入学してまもなく、満開の桜の下で、男女の上級生6、7人が楽譜を手に『カチューシャ』を合唱しているのを見て、(ああ、中学とは違う世界に来たんだ)としみじみと感じました。

 私が田舎の中学で音楽の時間に学んだ外国曲といえば、イギリスやドイツの民謡、フォスターの曲ばかりで、ロシア民謡を聴いたのは、それが初めてでした。初めて聞いたロシア民謡(実はソ連のポップスでしたが)のエキゾチックなメロディに感動したものです。
 その後、コンパなどさまざまな集いで、ロシア民謡や反戦歌をシャワーのように浴びることになるのですが。反体制的思潮に多くの若者が惹かれていた時代でした。

 高校の前庭で近くの女子高の生徒たちと同人誌の合評会をしたこと、昇降口で授業の開始ベルを無視して不良連中と映画談義を続けたことなど、"学園広場"にまつわる思い出は多々あります。
 そうした記憶は、10数年前まではカラーでリヴァイヴできましたが、今ではほとんどセピア色、せいぜいパートカラーでしか浮かんでこなくなりました。

(二木紘三)

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コメント

昔、女学校の教師をしていたことがある父が風呂帰りに歌ってくれたヴェニスの舟唄(高木青葉曲、後藤紫雲詞)にこの学園広場の旋律は似ているように思われます。ゴンドラの唄といい、昔の人はなぜかヴェニスに憧れていたのでしょうか。

投稿: 樹美 | 2014年7月25日 (金) 11時36分

懐かしく思い出のある曲です。でも保存・削除の繰り返しです。青春そのものが、まさに不安定で脆弱そのものだったのでしょう。連続再生はいいですね。お元気でがんばってください。

投稿: にしちゃん | 2014年8月22日 (金) 10時01分

ほのぼのとした学園ソングで遠い青春時代を思い出します。2番の歌詞の「涙流した友もある、愉快にさわいだ時もある」は、「涙流した時もある、愉快にさわいだ時もある」の方がよかったのではと聞くたびに思っていました。「友もある」は「友もいる」の方がよさそうだし、次句の「さわいだ時もある」の「時」にそろえてスムーズにつながるように思います。

投稿: 黒部太陽 | 2014年9月17日 (水) 15時26分

↑ 同意。プロの作詞家がこんな整合性のとれない歌詞を作るはずがありません。レコーディングのとき舟木一夫がまちがえて歌ったのが定着したのではないでしょうか。

投稿: 元ブンブン | 2014年9月17日 (水) 16時04分

なるほどそうですね、たしかに言葉がぎくしゃくしてますね。
次の様に推測してみました。
「涙流した友もある」は次の三つの苦し紛れの合体ではないでしょうか?

1)友達がいた。
2)その友達のことを思い私は涙を流した。
3)そのような時もあった。

また、次に続く句「愉快にさわいだ時もある」との韻を踏むため、涙を流すのも、愉快に騒ぐのも私で、
”・・・もある”と揃えて止めたかったのかもしれません。

「涙流した時もある」としますと、友が消えてしまいますし、「涙流した友もいる」としますと、涙する人は私でなく友であるように思えます。

私のこじつけかも知れませんが・・・
たしかに変な文章ですね。

投稿: yoko | 2014年9月17日 (水) 18時50分

失礼、上記コメント訂正します。

2)その友達のことを思い私は涙を流した。

は誤りで、学園祭やスポーツ大会などで、共に喜びあい、感激しあって涙を流した、と理解すべきだろうと思います。

投稿: yoko | 2014年9月17日 (水) 19時03分

数年前ですがTVで遠藤実先生が出演されておられまた。
会話の中で高校には行けなかったが、今でも憧れが有ることを少年のように語っておられました。
もし高校に行かれていたら、この曲のような素直で夢見るような作曲はできなかったのではと思います。
遠藤先生の作曲には、多くの人の心を和ませるものがありますが、人一倍苦労されたゆるぎない土台があるので時代を経ても色あせない凄味も感じます。

投稿: お散歩おじさん | 2014年10月20日 (月) 23時38分

最新の”青春のパラダイス”という題名に惹かれてコメントしたかったのですが、少し世代がずれているせいか私の知らない曲でした。
そこで、学園広場”にコメントします。

>もし(遠藤先生が)高校に行かれていたら、この曲のような素直で夢見るような作曲はできなかったのではと思います。

そうだったんですか。納得できます。
これは同様に私についても言えることかもしれません。もし私が明るく快活でさわやかな高校生活を過ごしていたなら、このような曲に惹かれることもなかったかも知れません。

私の高校時代は暗くて長いトンネルだったです。私はスポーツが苦手でした。朝、校門をくぐり、今日は3時間目が体育だなぁ、などと思い浮かべていると、苦しくなって校舎の入り口で足が止まり、くるりと向きを変え帰宅しました。学校には病欠の連絡をしました・・・。そんな日もありました。

体育の時間は、バレーボール、バスケットボール、サッカーが主体でした。チームの編成が決まると、私の背中からは「チッ」という舌打ちの声が聞こえました。私が組み込まれたチームのメンバーからです。私はうなだれているしかありません。

ゲームが始まり、笛が吹かれてゲームが終了するまでの時間が何と長く感じられたことでしょう。私はボールに触ることなく、ウロウロとコートの中を動き回っているだけでした。体育の時間が終るとホッとします。今日も一度もボールに触らなかったなぁ、と屈辱となさけない思いで一杯でした。

それに輪をかけて辛くなるのが、時折女生徒達が数人集まってコートの外から男子のプレーを見学しているときです。
リっちゃんがあの中にいるだろうか、という恐れがありました。リっちゃんとは僕の家の近所に住んでいる同学年の幼馴染です。こんなみっともない僕の姿をリっちゃんにだけは見られたくない、という思いがありました。

この恐れは高じて、常時、彼女を避けることになりました。

こんな生徒でしたから授業の方も上の空です。教室ではぼんやりとあらぬことを空想していました。

担任の先生と会話した覚えはありません。父兄懇談会で、先生は私の母に、成績はクラスの最下位で大学は無理だ、と宣告したようです。

暗く長いトンネルも過ぎてしまえばアッと言う間ですね。
それから50年も経ってしまえば、そのトラウマも薄まってしまいます。

今、当時は拒んでいた、舟木一夫の青春の歌も大好きです。

♪ 君たちがいて僕がいた ♪
♪ みんなみんなどこに行く、
  街に花咲く乙女たちよ ♪

投稿: yoko | 2015年6月 9日 (火) 12時36分

私が母や妹達と生まれ故郷の広島に帰ってこれたのは、中学校3年の新学期が始まる時でした。
田舎の中学校は、1クラス40人足らずで3組しかありませんでしたので、殆どの同級生達とは何の偏見もなく親しく語り合え、がむしゃらに勉強などしたこともありませんでした。
 
そんな環境から、1クラス70人、11組・・2部授業というマンモス中学校に編入してきた時には、環境の激変とカルチャーショックから立ち直るのに随分苦労しました。

高校に進学する前に転居した為に、今までとは違う校区の高校となり、1年間苦労して築き上げてきた交友関係も又一からの構築となり、結局 幼なじみという感触を味わうことも大した感慨もなくすーっと通り過ぎた学園生活のような気がいたします。

経済的な事情もあり、大学進学は諦めざるを得ませんでしたが、その後友人の薦めで知り得た「通信教育大学講座」が、今までの消化不良を一挙に解消してくれ、私の青春と学園生活は、ここから始まったと言っても過言ではありません。
勿論 文部省の認定ではありませんし、学ぶ意欲のある人達の為だけのものでしたが、國學院大學教授 高瀬謙介氏(人生論担当)を主幹にして、錚々たる指導教授陣で、ロシア文学=和久利誓一 東京外大教授、宗教学=仁戸田六三郎 早稲田大学教授、哲学=森進一 京大教授、生物学・科学史=湯浅明 東大教授、英米文学=高村勝治 筑波大学教授、世界文化史=松田寿男 早稲田大学教授 等々指導教授20人 20科目中4科目以上を2年間でレポート提出が 卒業の条件でした。
スクーリングで上京したり、指導教授に地方講演して頂いたりと支部活動も活発で、仲間や同志との集いは楽しく、まさに学園広場(青春広場)そのものでした。

大勢の仲間達の失恋も結婚も、見たり味わったりしました。私はA県の支部長をしてましたが、支部活動?の方が忙しくレポート提出も四苦八苦しながら、やっとの思いで卒業しましたが、ガリバー旅行記やトムソーヤの冒険、シャーロック・ホームズ、オリエント急行殺人事件 くらいしか読んでない英米文学を専攻し、レポートを提出したら
75点 もっと沢山の本を読みなさい!と、赤字で添削してあり、冷や汗をかきました。

その仲間達との交流が、半世紀もの時を経た今も尚脈々と続いていることに感謝しています。会だよりも年2回発行、63号も間もなく届きますが、楽しみです。

投稿: あこがれ | 2018年2月28日 (水) 23時08分

あこがれ様 今朝ほど驚いたことはありません。高瀬謙介先生のお名前があったからです。『いずみ』という女学生向けの雑誌の主幹をされて居られました。いずみ社には寮があって地方の生徒が無料で宿泊出来るるようになっていました。高校2年の3月に学校をさぼって東京の大学見物に行きました。2日ぐらい寮に泊めて頂きました。思いがけなくそこで後に日本女子大の学長になられた青木生子先生とお会いして火鉢で手を温めながらお話をしました。1年後、早稲田をひやかしに受験して『いずみ』社ご挨拶に伺ったら国学院に入るように言われましたが、吝嗇な兄嫁の猛反対にあって大学をあきらめてしまいました。道は開けていたのに能天気な私はその後後悔ばかりの生活を送ることになりました。仁戸田六三郎のお名前も懐かしいです。多分何かで書かれたものを読んでいたのだと思います。青春時代のちょっとした行き違いでずっと後悔が続く事になりました。あれから60年経ちました。昨年兄が亡くなり数十億の遺産が兄嫁の物になってしまいました。恨むまいと思ってはいますが・・・・

投稿: ハコベの花 | 2018年3月 1日 (木) 11時10分

はこべの花 様

このサイトをご覧になってる方の内、どなたか必ず大学講座の受講生の方がいらっしゃるに違いない、と祈りにも似た気持ちで 今更個人情報云々でもなかろうと、思い切って実名でコメント投稿させて頂きました。

やはり! と、いった感じで受け止めています。
はこべの花さんには、当時の多感な受講生のかおりが今も感じられて、いつもコメントを懐かしい気持ちで拝見していました。

高瀬謙介先生 著「ちさ子への手紙」は、当時の女学生達の間で、燎原の火のごとく燃え上がり、隠れたベストセラーとして今もOB達の間で語り継がれています。
昭和47年に、東京の青年会館に1000名近くの受講生が集まり、各指導教授の列席のもとで盛大に閉校式を催した時の司会を、私がさせて頂きました。サブ司会の方は、今も演劇関係で活躍されています。
高瀬先生は、私達の結婚式にも出席して下さいました。

それにしても!!・・・世の中は、狭いということです。
悪いことをしてなくてよかった。

私的なコメントになりました。お許し下さい。

投稿: あこがれ | 2018年3月 1日 (木) 12時51分

あこがれ様 高瀬先生があこがれ様が結婚式を挙げられた時、浜松にお見えになられたのですね。その10数年前、先生は私の友人の父親が園長をしていた浜松の救護院を取材にみえたのです。その時もお会いして色々お話をしました。経済的に大学に進めない生徒を親身になってお世話して下さっていたのですね。冗談がお好きで、でも芯が通った教育者だったと思います。多くの優れた人材を育てられた方だったと思います。奇跡と思われる出会いがあって本当に驚いてしまいました。先生は身近なものをしっかり見て考えよと仰っていられたように思います。真の教育者でしたね。

投稿: ハコベの花 | 2018年3月 2日 (金) 21時32分

最近、もっと早くに このサイトに出会いたかったな~と、しみじみ思うことが多くなりました。

多くの先輩方の滋味溢れるコメントもさりながら、なによりも二木先生の名解説と人間性が伝わってきて、ただ単に好きな曲に耳を傾ける以上の何かを、享受できる楽しみが増え、同時にいろんなことが学べる、まさに「学園広場」を感じさせてくれるからです。

はこべの花 様 このサイトを通して、はからずも60年前の青春を共有できたことを感謝します。

 “Memories last forever."

思い出は、色褪せることなく永遠に残ります。
これからも、大事に育てていきたいものですね。

青木生子先生(元 日本女子大学長)は、高瀬謙介先生の教え子で、2年前に『知られざる教育者 高瀬謙介ー生涯教育の先駆者』 発行社 おうふう  を出版されました。

投稿: あこがれ | 2018年3月 3日 (土) 13時41分

数年前県都の会場で舟木一夫さんの「学園広場」を聴きました。伸びのある抒情的な声に衰えはなく 合間のおしゃべりはユーモアに富み楽しいひと時でした。
ハコベの花様
「いずみ」懐かしい。私も高校時代に人さまから借りて読んでいました。
話しは飛躍しますがハコベの花様が国学院に進んでおられたなら芥川賞作家になっておられたことでしょうに。
「いずみ」には才能ある未来の作家を連想させる素晴らしい投稿がありましたね。

投稿: りんご | 2018年3月 5日 (月) 10時11分

私信をお許しください。
あこがれ様
http://kyoto.travel.coocan.jp/
この京都うらみち案内の運営者
本田さまは京都在住、」あこがれ様と同じく
今回めでたく「京都検定二級」に合格なされた方です。
50歳前後の紳士で身長は185センチと記憶しております。
亡夫と三人で当地の名所でお会い致し、また一昨年は彼の友人たちと県都の名所で歓談。
一級への意欲を持って研鑽中、仲間同士の勉強会、交流会もあるそうですね。そのの折にはぜひお声がけして私めのハンドル名をお伝ええ下さい。「ゆきむすめ」がハンドルネームです。
又京都検定に」関わりない皆には京都観光の手助けになる有り難いサイトです。参考の為

投稿: りんご | 2018年3月 5日 (月) 10時32分

卒業シーズンを迎え、希望に胸を膨らませながら 新たに巣立っていく子供達の姿を見ながら、来し方を振り返り感慨深いものがあります。
やりたいことも、願い事も叶えられることは殆どありませんでしたが・・・でも、これでよかった!と、思えるようになりました。いいじゃないの今が幸せならば・・・と、いう心境です。

りんご 様
京都の春は、舞妓さんの花かんざしも梅から菜の花に変わり、もうじきして 北野をどり や 都をどり が始まると桜も満開となり、疎水に散り浮かぶ桜の花びらが あたかも万華鏡のようにきらきらしながら流されていく様は、毎年のようにひとしお京都が恋しくなる季節です。

京都うらみち案内 サイトのご紹介 有り難うございます。
運営者の方は、相当な京都通、京都探索者ですね。うらみち案内の半分はおろか 三分の一も行けてる人は少ないと思います。月に4回くらいのペースで、京都散策した私でさえ やっと三分の一くらいです。

私の場合は、京都通百科事典(メンバー登録者)や関連する書籍が主で、小説の中身を辿って散策する京都文学散歩が趣味で始まったものです。

また一つ、楽しみがふえました。
 

投稿: あこがれ | 2018年3月 5日 (月) 17時33分

「学園広場」舟木一夫歌手生活30周年記念大全集の別冊子「思い出の曲寄稿集」には、この曲について次のような興味深いエピソードが載っています!

『久しぶりに遠藤先生のお宅に「学園広場」の譜面をもらいに行きました。ところが最初にもらった譜面は皆さんが知っている「学園広場」とはメロディが違っていました。そしてリズムも当時流行していたドドンパだったのです。遠藤先生にレッスンを受けているうちに、僕の声がだんだん小さくなったのを先生が気にとめてくださって、「これ変かな」と言われたので、正直に「変ですね」と答えました。すると「そうか、ちょっと待っててくれ」と言い残して二階の部屋へ上がって行きました。しばらく待っていると「できたよ」といって見せてくださったのがこの「学園広場」なんです。
この「学園広場」がヒットした時、一安心しました。つまり「高校三年生」という少し変わった企画の作品でデビューし、「修学旅行」そして「学園広場」と、学園ソング三部作がヒットしたことにより、初めて地に足がついたような、安心感を覚えたものです。』

「学園広場」この曲がヒットしているころ私は小学三年生でした。あれから60年の歳月が流れましたが、79歳になった現在も第一線で活躍し続けている舟木一夫のその存在は、幼少のころより長年にわたり声援を送ってきた私にとって実に嬉しい限りです。

投稿: 芳勝 | 2023年12月23日 (土) 12時39分

(文中一部敬称略)
二木先生が【蛇足】で挙げていらっしゃる日活映画『学園広場』(1963、監督:山崎徳次郎(1922~2000))、私も25年くらい前に日活系のCS放送「チャンネルneco」で視聴しました。
同作は舟木一夫(上田成幸、1944~)の故郷である愛知県一宮市でロケが行われたらしいのですが、もちろん私はその時代は生まれてないので知りませんが一宮市内は郷土のニュースターの凱旋ということで盛り上がっていただろうと想像します。
また、当時一宮に日本毛織(ニッケ)の工場(2015年閉鎖)があったからか、作品内では映画公開当時放送されていたニッケ一社提供の『ニッケアベック歌合戦』(1962~68、よみうりテレビ・名古屋テレビ・日本テレビ系、当時中京テレビは未開局)の公開収録という劇中劇があり、司会のトニー谷(大谷正太郎、1917~87)による舟木と松原智恵子(松原→黒木智恵子、1945~)に対しての「あなたのお名前なんてえの?」というやりとりのシーンもあり、同番組の映像が一本も残っておらず(当時ビデオテープは高額ゆえにリユースの連続で、安易な保管ができなかったため)、芸人時代の片岡鶴太郎(荻野繁雄、1954~)扮するトニーのものまねによるパロディーしか知らない私は「これが本物のアベック歌合戦か」と感動してしまいました。
また、主演の山内賢(藤瀬賢晁=やすよし、1943~2011)は私の年代だと「純烈」の酒井一圭(1975~)も歴代の主役・桜間長太郎役に名を連ねた『あばれはっちゃく』シリーズ(1979~85、テレビ朝日・名古屋テレビ・朝日放送テレビ系、朝日放送はローカルドラマ『部長刑事』シリーズ(1958~2002)放送のため先行ネット)の長太郎のクラスの担任教師役をはじめとするテレビドラマでのコミカルな役とか、教養番組の司会者、クイズ番組の解答者といった庶民的なイメージが強く、私が子供の頃はかつて山内が小林旭(1938~)や吉永小百合(吉永→岡田小百合、1945~)といった大スターと映画で共演してたということが信じられなかったくらいです。
それゆえに、山内が2011年に67歳の若さで死去した時にはとても悲しい気持ちになりました。
一方ヒロインの松原は今なお多くの映画で味のある重要な脇役として活躍されているのは同じ愛知県人、同じ中日ドラゴンズファンとして嬉しい限りです。
舟木と同じ愛知県西尾張地区出身のスターでは舟木の遠藤実(1932~2008)門下の妹弟子でもある三船和子(緒方一子、1947~、一宮市)やCBCラジオのパーソナリティとしてもお馴染みのつボイノリオ(坪井諭夫、1949~、一宮市)をはじめ新妻聖子(1980~、稲沢市旧祖父江町)、水野裕子(1982~、一宮市旧尾西市地区)、清野菜名(清野→生田菜名、1994~、稲沢市)、生見愛瑠(2002~、稲沢市)、スポーツでは元プロレスラーで小池栄子(小池→坂田栄子、1980~)の夫の坂田亘(1973~、稲沢市旧祖父江町)、箱根駅伝の「山の神」の一人でもある神野大地(1993~、津島市)、広島東洋カープのクローザー・栗林良吏(1996~、愛西市旧佐織町)などが活躍しておりますが、やはり私としても上記の芳勝さんのおっしゃる通り、今月12日に傘寿を迎えるその総領的存在の舟木が今後も第一線で活躍されることを(私の居住地は東尾張ですが)同じ愛知県人として願っております。

投稿: Black Swan | 2024年12月 1日 (日) 10時10分

「学園広場」昭和38年12月15日に公開されたというこの映画を私が姉と一緒に映画館で観たのは、小学三年生の三学期が終わった昭和39年3月の春休みでした!

当時の私は佐賀県の田舎町に住んでいましたが、今では考えられませんが、その当時私の住んでいた地域で上映されていた映画はどんな作品も、先ずは都会で上映され、さらに各市街地の映画館を転々と回った後、ようやく数か月遅れで上映されるのが常でした。
現に私がこの「学園広場」を観たころには、もうすでに次々曲の「あゝ青春の胸の血は」がヒットしていたことを鮮明に憶えています。なので、今思えば都会で封切りされた映画を当時私が住んでいた地域の映画館で観れるのは、ほぼ三ケ月ほど後だったと思います。その変わり当時の映画の料金は大人60円・子ども30円と割と安かったように思います。

また、この映画で私が今も印象に残っているシーンは、先のBlack Swan様のコメントにも記されていますが、やはり舟木一夫と松原智恵子のコンビによる、ぎこちないツイストのステップでリズムをとり、はにかみながら互いに言葉をかけあう、トニー谷司会による『アベック歌合戦』への出場シーン・そして、何と云っても私の中で最も不思議に思ったのは、この映画のラストシーンでした。大勢の生徒が校外へ一同に集まり先輩番長が空に高く投げた使い古した伝統の学帽が空に舞い上がったまま下には落ちては来ず、そこで映画が終了するところでした。今でこそそれも演出の一つだったとは理解できますが、当時まだ10歳だった私にはその終わり方に強い違和感があったことを憶えています(笑)もうあの頃から60年余りが経つのですね。

投稿: 芳勝 | 2024年12月 5日 (木) 22時23分

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