« 死ぬほど愛して | トップページ | 折り鶴 »

2014年8月28日 (木)

紅(あか)とんぼ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:吉田 旺、作曲:船村 徹、唄:ちあきなおみ

1 空(から)にしてって 酒も肴も
  今日でお終い 店じまい
  五年ありがとう 楽しかったわ
  いろいろお世話に なりました
  しんみりしないでよ ケンさん
  新宿駅裏 紅とんぼ
  思い出してね 時々は

2 いいのいいから ツケは帳消し
  貢ぐ相手も いないもの
  だけどみなさん 飽きもしないで
  よくよく通って くれました
  唄ってよ騒いでよ しんちゃん
  新宿駅裏 紅とんぼ
  思い出してね 時々は

3 だから本当よ 故里(くに)へ帰るの
  だれももらっちゃ くれないし
  みんなありがとう うれしかったわ
  あふれてきちゃった 思い出が
  笑ってよ涕(な)かないで チーちゃん
  新宿駅裏 紅とんぼ
  思い出してね 時々は

《蛇足》 昭和63年(1988)、テイチクから発売。

 歌詞に「新宿駅裏」とあることから、新宿駅西口の北側にある通称「しょんべん横丁」が舞台になっているのは、まずまちがいないでしょう。ここで居酒屋を営んでいた女性が店仕舞いすることになり、その最後の一夜を歌った作品です。

 しょんべん横丁は、青梅街道から新宿駅北端に至る線路際の商店街。30×100メートルほどの狭い空間に、小さい店がびっしり建ち並んでいます。洋服店やチケット店もありますが、大半が焼鳥・もつ焼き店、居酒屋、ラーメン店、一般食堂などです。

 新宿駅の西側は、今では超高層のビジネスビルやシティホテル、デパート、大型電器店が建ち並び、先端的なビル街になっていますが、その片隅にあって、昭和20年代~30年代の雰囲気を色濃く留めているのが、しょんべん横丁です。

 商店会では「思い出横丁」と呼び、その名前の看板も掲げていますが、時の流れに取り残されたかのようなたたずまいを愛する古手の常連たちは、愛着をもってしょんべん横丁と呼んでいます。

 思い出横丁の公式ホームページによると、始まりは敗戦直後の"焼け跡闇市"。昭和21年
(1946)ごろは、駅の西側に青梅街道から甲州街道まで食べ物や日用雑貨を売るよしず張りの露店がびっしり並んでいたそうです。
 それが火事で焼失。その後は戸板で仕切った露店商のマーケットに変わりますが、やがて駅前再開発の波に追われて、大半の店が消え、現在の思い出横丁
だけが残ったという次第です。

 戸板1枚で仕切られたマーケット時代の名残で、現在も壁1枚で隣と連なっている店の多いのが特徴です。

 この飲食店街がしょんべん横丁と呼ばれるようになったいきさつですが、露店時代はトイレがなかったため、尿意を催した酔客が露店の裏で放尿したのが始まりとされています。

 店を冷やかすことを隠語で「しょんべん」というそうですが、しょんべん横丁は、露店時代に冷やかし客が多かったことからきたとする説があります。しかし、これは疑問です。

 冷やかしとは、品定めや質問だけして買わないことですが、これは通常、物品を商う店にだけ通用する言葉です(遊里では遊女についても)。飲食店にも、冷やかし客がいないわけではありませんが、一度入ったら、何かしら飲み食いする人が大多数でしょう。しょんべん横丁の由来としては、弱いと思います。

 しょんべん横丁という呼び名を知っているのは、おそらく80歳以上。この人たちは次々と世を去り、もうこの呼び名は消えるでしょう。

 新宿駅周辺では、西口の思い出横丁のほか、駅東側の歌舞伎町1丁目に、有名な新宿ゴールデン街があります。こちらもごみごみした街で、得体の知れない人物から文化人、サラリーマンまで、多種多様な人びとのたまり場になっています。

 西口も東口も大規模開発が行われるそうですから、もしかしたら、思い出横丁もゴールデン街もなくなってしまうかもしれません。

(二木紘三)

« 死ぬほど愛して | トップページ | 折り鶴 »

コメント

詩心も歌心もない小生ですが、おやっ 赤とんぼの歌かと思いきゃ、何とも心に沁みるメロディー。
演歌の大御所先生の元曲、で「紅」はと問えば「赤とんぼ」の下に並んでおりましたので「あかとんぼ」だと分りました。赤ちょうちんの赤を強調したのでしょうか。
二木先生の蛇足、その横顔もさることながら暫く振りで親爺に会った心境です。この歳まで赤ちょうちんに縁遠い環境で育ちました。それにしても何んとか横町は数あれど、しょんべん横町、10回も繰り返して(笑)、確かに「肩肘張らず、本音が吐ける」心の拠所が欲しいですね。叶わぬならば二木先生の大人のサイトを心情とする、この歌物語に来て存分に語ろうではないか、癒されながら、そんな心境になりますね~。

最近、嬉しいことに座して繰り返し流れる様になりましたが「アクセス数」には影響は有るのでしょうか。
有難うございました。

投稿: 権兵衛 | 2014年8月28日 (木) 11時49分

 <蛇足>に驚きました。しょんべんに始まり、しょんべんに終わるという感じの文章で、しょんべんという言葉が12回もでてきます。
 思わず、自問しました。
「いいんだろうか?二木先生のイメージが損なわれるのでは?これでは、しょんべんフェチではないか?」
 そして自答しました。
「いいんだ、これで。排泄は、きわめて重要な生命維持活動だ。英語で言えば、<ベリー インポータント>だ。どんなにエラい人もダメな人も、絶世の美人もお多福も、善人も悪人も、放尿せずにはいられない」
 しょんべん横丁を思い出横丁と書き換えたがる考え方は、とうてい人間の心理をつかんでいない。
 シェークスピアの戯曲に「きれいはきたない、きたないはきれい」というセリフがあった。
しょんべんに限らず、きたない場末の赤提灯にこそ、味のある店がある。
 学者は非合理とか、不条理とか、こけおどしの難しい言葉を使うが、要するに人は、いかがわしいものに惹かれるのであります。

 この歌は、赤提灯に集まる呑み助の心をよくわかっています。
「貢ぐ相手もいない」とか「だれも もらっちゃくれないし」とか、ママさんの思わせぶりな言い方も、
ちょうどいいかげんなところでとめているから、しゃれています。
「故里へ帰る」も、地方から出てきてがんばったんだな、とそれがまたいい。、

投稿: 屋形船 | 2014年8月28日 (木) 13時51分

新宿の「思い出横丁」には、サラリーマン時代、何度か通いました。私は酒が飲めませんので仲間と連れだって押しかけるでもなく、マスターやママさんとの会話を楽しむわけでもなく、目的はただひたすら一人で食べることのみです。好物はサンマ定食でした。「しょんべん横丁」はさすがに放送禁止用語でしょう。何らかの事件や話題があったにせよ、女子アナが口にすべき言葉ではありません。女性の足はますます遠のきますよね。もっとも「思い出横丁」の看板であれ、女性客は見受けなかったように思います。

投稿: yoko | 2014年8月28日 (木) 20時02分

ここまでのみなさんのコメントを拝見すると、「しょんべん」という言葉に過剰に反応しているようですが、反応のポイントがずれていると思います。横丁の名前は思い出横丁でもしょんべん横丁でもナデシコ横丁でも鈴蘭横丁でも何でもいいんです。二木先生がおっしゃりたいポイントは横丁の名前がどうのこうのではなくて、新宿駅周辺という現代的なビル群の谷間に昭和2,30年代の面影を遺した安らぎの場所があるという点なのではないでしょうか。

投稿: 無法コマツ | 2014年8月28日 (木) 20時38分

「二木先生のイメージが損なわれる」と言う方、「お富さん」の「蛇足」で「男の子の好きな言葉」としてこの単語はすでに3ケ月前に書かれてます。みなさんがリラックスして息抜きされるこの場所で、孤高に聖人君子であれと要求しても身がもたないでしょう。しかし!負けますね~。

投稿: Bianca | 2014年8月28日 (木) 22時43分

 「紅とんぼ」を店じまいして・・・夫を送り・・・引退・・・ファンとして余韻が残ります。
 上阪して最初に住んだ所が十三東で、当時淀川の北地域は葦が多く生えて夜は気味が悪いほどの隣接地に新幹線新大阪駅が完成、十三にはキャバレー・アルサロ・料亭が続々と出来て、故藤田まことの「十三の姉ちゃん」が大阪では大ヒットしました。
十三駅の西100m過ぎのしょんべん横丁へは、当時6日制で土曜の帰りには一番安い立ち飲みで1週間の反省と儚い未来の夢を田舎者4~5人で語り合ったものでした。
そのしょんべん横丁は今年の3/7に大火事で焼けてその後アンケート・寄付等を募り現在ぼつぼつ工事が始まっていますが、完成時の名前はやはり大阪らしく「しょんべん横丁」になるのではと期待しています。

投稿: 尾谷光紀 | 2014年8月28日 (木) 22時57分

しょんべん横丁には2,3度行っただけで、よく知りませんが、確か作家やジャーナリストが集まるバーがあると聞いたことあります。それはまだあるのでしょうか。

私がよく行ったのは新宿ゴールデン街です。昭和40年代の終わりか50年代の初めだったと思いますが、行きつけのバーに入ったら、最初は普通に話していた某有名作家と某有名評論家が、次第に大声になり、やがて「なんだ、コノヤロー、表へ出ろ」「おー」といった感じで表へ出てどつきあいを始めました。私は見に行きませんでしたが、しばらくしたら、破れたワイシャツ、ねじ曲がったネクタイの二人が戻ってきて、また元のように飲み始めました。
 昭和40年代から50年代には、全共闘崩れやら、アングラ系の演劇人など気性の激しい者がゴールデン街には多くて、こういった風景はよく見られました。懐かしい思い出です。

投稿: 元ブンブン | 2014年8月30日 (土) 20時28分

新宿西口広場のフォーク・ゲリラの残党、といっても後ろのほうで歌っていたその他大勢組ですが、警官隊に追っ払われると、仲間としょんべん横丁の店に流れました。学生でも飲める値段で助かりました。
6年ほど前に中を通ってみたら、当時よくいった店はなくなっていました。かなり年配のママさんでしたが、この歌のように故里(くに)へ帰ったのでしょうか。(二木先生の不肖の後輩です)

投稿: フォーク下痢等 | 2014年8月30日 (土) 23時43分

二木先生のメロディーを聞きながら、失礼ながら、うとうとと眠ってしまいました。はっと目を覚めれば
「紅とんぼ」が心地よく奏でておりました。パソコンは節電モードで真っ黒、何か申し訳けない様な気がしました。

尾谷光紀様、大火災に遭われお気の毒でした。「思いで横丁」の二の舞とは、あるんですね~。
三十横丁の新しいネーミングは残念ながら期待しないようにお願いします。恐らく「浪花思い出横丁」か、「なにわ思い出横丁」になるかも、男の意地で突っ張って見ても「負けますね~」でありますね。何と申しても、世につれ女性が口に出来ないような語句はもうご法度ですね。

最後に下手な文跡で添付すればちゃんと直っているんですね~、お手数お掛けします。感謝、感謝です。
有難う御座います。

投稿: 権兵衛 | 2014年8月31日 (日) 15時01分

``しょんべん蛇足``夕食後でも楽しくいただきました。数度通り過ぎたことがあります。が、行きつけは伊勢丹に近い方、狭い階段をあがって詰め詰めに十人ようやくの飲み屋でした。
 皆さん仰るゴールデン街の広い路上ど真中で、仰向けに大の字にひっくり返り泥酔した記憶が蘇ります。気が付くと仲間がタクシーにかついで入れてくれていました。この歌のおかみさんなら慰めてくれたのかも…、失恋だったんでしょうね。

投稿: minatoya | 2015年1月24日 (土) 05時59分

 店がなくなって更地になってはじめて、はて、ここに何のお店があったかなと思うことがある。
あまり縁のなかった店だ。私の場合は、呉服屋、履き物屋、金物屋、傘屋、洋服の仕立て屋など・・
店がなくなると、他人様(ひとさま)のことながら、ああ一つの人生のドラマが終わったんだなと思う。
 まして飲み屋のママさんが、店じまいのあいさつをするとなれば、それだけで、ひとつの空気ができあがってしまう。
「女手一つ」「かいがいしく」「たくましく」といった言葉も浮かんでくる。
 この歌は
「だけどみなさん 飽きもしないで よくよく通ってくれました」
 と
「思い出してね、時々は」
 というフレーズが心にしみます。
 私には、ちあきなおみの歌い方が、一番ぴたっときます。
ちあきなおみも、だんなさんが亡くなってから、歌手として店じまいをしてしまいました。
店じまいの後の人生。他人事ながら、やはり思いをはせてしまう。

投稿: 紅孔雀 | 2015年4月 2日 (木) 11時14分

↑共感。

投稿: 裏通り | 2015年4月 2日 (木) 16時25分

店がなくなって更地になって・・・。
私も共感です。
学生のとき通った食堂も更地になっていました。

半世紀近く前、人の良さそうなご主人がお客の応対をされていて、奥様が厨房で料理を作っておられました。若い奥様は美人でした。客は学生がほとんどでその学生たちの間を幼い姉妹がチョロチョロと走り回っていました。学生たちはその女の子二人を可愛がりました。可愛かったなぁ。

食事はお皿単位で注文でき、懐の乏しい私は、ときに、”ご飯とお味噌汁”、あるいは”ご飯とお漬物”、で済ます日もありました。

今、大学の近くの不動産屋を覗きますと、学生用の部屋はみなバストイレ、エアコン付きですね。当時は銭湯への往復にも二時間くらいかかり、冷暖房のない部屋を借りていた私は、勉強ができないのもその環境のせい、と恨んでいたものですが、半世紀たった今、自分には勉強の才も能もなかったのだと悟っています。銭湯もなくなっていました。その傍らにあった中華料理店もなくなっていました。ウエイトレスをされていた女性がまぶたに浮かびます。懐かしいですね。

投稿: yoko | 2015年4月 4日 (土) 20時48分

新宿のしょうべん横丁には行ったことはありませんが、ゴールデン街には時々飲みにいきました。私は19年生まれですが不惑の歳に、かって同人誌を一緒に発行していた仲間たちと再会しました。その中の一人がゴールデン街で飲みやをやっているという話がきっかけで、彼のバーに行くようになりました。彼は慶応を中退していて、オーナーに請われて跡を継ぎました。飄々とした彼の佇まいはゴールデン街の雰囲気に合っていました。その彼は一昨年逝ってしまいました。お店は代替わりしました。彼に熱燗で献杯。

投稿: konoha | 2017年1月31日 (火) 11時45分

ゴールデン街の彼の追憶をもう一つ。
彼とは高校の同級生です。3年の時の古文で「源氏物語」を習いました。
彼は往年の時代劇の大スター嵐寛寿郎に似た面差しをしていて、サラッと前髪を搔き上げた様子が素敵だったので、誰とはなしに「光源氏じゃもったいないから蛍源氏にしよう」といつの間にか「蛍源氏」と女子の間で呼ばれていました。40歳の時再会したら本当に皆より一足早く蛍源氏になっていました。彼は落語で先代の円生が好きで、私が先代の円楽の語り口の端正さが大好きといったら「落語通とはいえないね」と笑われてしまいました。大の読書家で、私が「なにか書けばいいのに」と言ったら「俺は書けないよ」と言っていたのを思い出します。再び彼に献杯。

投稿: konoha | 2017年1月31日 (火) 13時01分

二木先生、ありがとうございます。嵐寛こと嵐勘三郎と記憶違いで書いてしまいましたが、先生がきちんと目を通し訂正してくだり、お陰さまで恥ずかしい思いをしないで済みました。きめ細かいご配慮をありがとうございました。益々二木先生の虜になってしまいました。

投稿: konoha | 2017年1月31日 (火) 21時57分

またまた訂正文です。すみません。
ゴールデン街の彼の好きな落語家は5代目志ん生です。そして私の好きな落語家は圓生です。彼に「相変わらずおっちょこちょいだなー」言われてしまいそうです。床に入ってから急に気がつき、あわててパソコンに向かった次第です。明日は久しぶりに「死神」と「百川」を聞こうと思います。

投稿: konoha | 2017年2月 4日 (土) 23時25分

10年くらい前の話ですが、私が仕事を終えて、通っていた小料理屋に、長野県出身の80歳を超した女将さんが、一人で切り盛りされていた「信濃」という小料理屋がありました!

その店は客層も良く、魚料理も美味しく、女将さんも無口な人で、静かに酒が飲める雰囲気があり、私の好きな店で、いつも一人で通っていました。ある日、他のお客さんたちが帰り、私が一人になって飲んでいた時、日頃無口で気丈な女将さんが、淋しそうな顔をして、そろそろ体力も無くなってきたので、今月いっぱいで店を閉めることこに決めたと、打ち明けられました。
じゃ、今9時で遅い時間だけど、今日はこれから私につきあって下さいと言って、不思議な顔をしていた女将さんを、私が永年行きつけのスナックにお連れしました。
そこのママさんに女将さんの店の、その事情を話したら、お客さんが引いた後だからと言って、気を使ってくれ、店入口の看板の灯りを落としてくれました。
そして、日頃は歌うことのないママさんが、この日は景気付けにと言って、ひばりの「お祭りマンボ」を元気に歌てくれました。女将さんも美空ひばりが好きだったらしく、笑顔を見せて、とても嬉しそうでした。そして女将さんも「川の流れのように」を歌われましたが、とても上手でした。
私にも何か歌って頂戴と女将さんから言われたので、私が好きでよく歌っていた「紅とんぼ」を歌いました。それを聴いた女将さんは、こんな歌があったんだと涙ぐみながら、私にありがとう・ありがとうねと、何度も言って下さいました。

この曲を聴くと、その後、女将さんはお元気なのかなぁ、また、どうされているのかなぁ、などと思ったりします。

投稿: 芳勝 | 2018年5月 9日 (水) 01時09分

芳勝様
まるで歌詞をなぞるような胸に沁みるいいお話ですね。
妙齢の女性でなく80歳を越したということに胸を衝かれ、あれこれ思いを巡らしては涙が込み上げます。
名も存じぬその女将さんがこれからの私に灯台のような希望を与えてくれました。良いお話をありがとうございます。良い方には良い出会いがあるのですね。私も二木先生のブログで沢山の良い方たちと出会えた幸運を噛みしめています。

ちあきなおみさんはとても好きな歌手で全集を持っています。すべての歌がドラマチックですね。またとない歌手です。

投稿: りんご | 2018年5月 9日 (水) 13時06分

りんご様

いつも優しいお便りをして下さり、心から嬉しく思っています!
ここを通して、りんご様に出会えた私は、本当に幸せです。

常々、りんご様のコメントを拝読する度に、恐れながら、どなた様に対しても、愛情を持って接してお見えになるお人柄が、手に取るように感じられます。

ちあきなおみの「紅とんぼ」は、今でも私の大好きな一曲です!

私が、昨年「ふるさとの燈台」にコメントしたおり、りんご様から頂戴した、心優しいお便りは、今も忘れられません。
私にとって、こんな素敵な出会いを提供して下さる、二木絋三先生の「うた物語」は、宝物となってしまいました。
これからも、りんご様のご投稿を楽しみにしています。

投稿: 芳勝 | 2018年5月 9日 (水) 14時23分

 飲み屋さんの店じまいの歌ですが、今日の私には、なんとなく人生の店じまいを連想させます。
5年という歳月の区切りも最適・・。3年ではわからない、10年では少しダレてしまう。うぶな心をもったまま、水商売から足を洗う。
皆さん、ありがとうという言葉が多いですね。
感謝の気持ちは神様、仏様だけに向けるものではない。むしろ人間です。
このママさんは、幸せの捕まえ方を心得ているようですね。
周りの人に感謝する習慣を身につけるとぐっすり寝られるようになったという臨床試験データーもあります。(脱線)
貢ぐ相手なんかいないといってますが、もう男なんか無用というレベルに到達しているようです。
そのレベルになってはじめて、お客はドッとくるような気がする。
諸事情により故郷へ帰ります。きっぱりと未練心を断って店をたたむ。そのふるまいが潔く、美しいですね。
人生の終焉もかくありたいと妙な気持ちにさせてくれる歌です。

投稿: 越村 南 | 2018年5月11日 (金) 08時12分

ある私鉄の駅の片隅に飲み屋がありました。飲み屋といってもカウンターがあるだけで椅子も4~5つ程度です。
切り盛りしていたのはおばあちゃんです、僕が30才の時、彼女は70才は超えていただろうな~。客が押し寄せる飲み屋でもないので僕一人の時も多かったです。僕は酒は飲まないので酒のつまみを食べに通っていました。

おばあちゃんはむっつり怒ったような顔で笑顔のない人でしたが、他に客もいないので僕にはよく話しかけてくれました。

あるとき駅前の小さなビルを指してあのビル私のビルだよ、と話しました。資産家のおばあちゃんだったみたいです。

結婚して離れた場所に転居し、その店に通うこともなくなりました。おばあちゃん寂しがってるかなぁ、と時々思いだしました。独身を続けていたら店じまいまで通ったかもしれません。

先日、小学校の同級生の女の子に電話しました。彼女には高校卒業以来会っていません。「会いたいなぁ~」と言ったら、「もうおばあちゃんよ」と言っていました。でも嬉しそうだったなぁ、誘っても大丈夫だろうか。

投稿: yoko | 2018年5月11日 (金) 10時37分

 20代後半から45歳くらいまで、私は巣鴨の小さな小料理屋に通っていました。母娘で経営しており、娘は私と同じくらいの年でした。一時期親戚の姪も手伝っていましたが、結婚のため去ってからも母娘は頑張って、私も頑張って通っていました。私は娘を私の姉妹のように感じていましたが、娘はどちらかというと私は「お母さんのお客さん」という認識のようでした。
 ある日、駅周辺の大開発のため、そのあたりの飲み屋街は移転させられることになりました。お別れの日、小さな店は常連でいっぱいになりました。まさに「紅とんぼ」の歌のようにです。すでにお母さんは体に不調が出ていました。埼玉県のローカル駅の方に行くとのことでした。娘はまだ45歳くらいなのでどうやって食べて行くのだろうと思いましたが、多分行った先で飲み屋をひらくつもりのようでした。ちあきなおみの「紅とんぼ」を聞くと、いつもあの店、あの娘を思い出します。今頃どうしているのだろう。生涯独身を通したのか、生きていたらもう81歳になっていると思うけど、まだ店をやっているなら会いに行きたいと思っています。

投稿: 吟二 | 2023年2月23日 (木) 21時11分

 
 『蛇足』に始まり皆様のコメントをとても懐かしく読み返しました。どれもが頷くばかりです。ゴールデン街の飲み屋の風景をBS1の「クールジャパン」で取り上げた時がありました。私が飲みに行っていた頃とは大分様子が変わっていました。あの頃は外国人の姿を一度も見たことがありませんでしたが、外国人の訪れる様子に驚き、健全な飲み屋街になっているのに一抹の寂しさを覚えました。でもそれで良かったのかも知れません。ゴールデン街は都市開発の影響などで閑古鳥が鳴いたりして様々な影響を受けていましから。

 吟二さまが『紅とんぼ』に寄せてくださったお陰で彼のことを思い出しています。
いつ頃だったかは忘れてましたが、まだ22時頃だったのにかなり酩酊している男女の二人組が顔を覗かせ入ろうとしたら、「もう看板だよ」と断っていました。その日は空いていたのに、私が目を見開いて彼の顔を見たら「いいんだよ」と素知らぬ顔で言ったのです。(客を選ぶんだ)と肩をすくめて無言で言ったら、彼はうんと頷き、手にした氷を割るとカランとグラスに入れました。

 彼のお店は彼が亡くなってからお店を愛している若い人が引き継いでいて、一度だけ行ったことがあります。店主が変わると空気感が変わりますね。

投稿: konoha | 2023年2月24日 (金) 21時17分

ちあきなおみは素晴らしい歌手ですね。紅とんぼの後4年程で休眠するのですが、喝采、矢切の渡し、カスバの女など独特の歌唱で惜しいことです。しかし百恵と同じく潔さが心を打ちます。昭和35年頃たまに東京に遊びにくることがあって、女友達が阿佐ヶ谷に住んでいたので新宿に降りることがありました。当時夜の西口は正面に淀橋浄水場が黒々と広がり遠くに十二社の森がまた黒々と広がっていました。警察も淀橋警察署でしたね。まだ未成年で大ガード方向の・・横丁は無縁でした。十三の・・横丁も復活していますが、関西人にとって・・といえば由緒のある、正弁たんごでしょう。一時廃業と言われながら引き継がれて法善寺に根をおろしています。
紅とんぼでも「ア」にアクセントがありますが、この方が歌にしっくりきますね。

投稿: しょうちゃん | 2023年2月24日 (金) 22時07分

ちあきなおみのことが取り上げられる度に思い出すのは入社直後に子会社へ出向させられ、そこは自動車部品、用品を全国で扱う販売会社でした。モータリゼーションの走りの時代でカーステレオが大変よく売れました。そんな折。虎ノ門にあた本社へ歌手で新人賞を獲った千賀かおるとちあきなおみがレコード会社の人に付き添われて挨拶に来ました。当時の私はあまりよく知らず、ちらっと姿を見ただけで後になって非常に上手な歌手だと分り残念な思いをしたことを今でもよく覚えています。

投稿: 栗さん | 2023年2月25日 (土) 11時40分

「紅とんぼ」昭和も終わりかけたころに私がよく見ていたテレビ番組「演歌の花道」で、ちあきなおみがこの唄をしんみりと歌っているその姿を見ていた時、私は何故かしら思わず胸が熱くなったことがありました!

また、この哀切漂う船村徹のメロディはギター好きの私には堪らなく魅力を感じるナンバーでもあります。今思えばこの唄が流行っていた頃の日本はバブル景気の最只中でしたね。

30年前に芸能活動を休止したあと、マスコミには一切姿を見せることのない、ちあきなおみの歌をこれだけ多くの人たちが支持して止まないのは、やはり彼女の歌唱力が為せる業ではないでしょうか。彼女のその歌唱力はもはや名人の域に達しているのでは・・・私は今心からそう思っています。

投稿: 芳勝 | 2023年2月25日 (土) 15時45分

 私は昔、ちあきなおみは喉で上手にコントロールする歌い方で、それはそれでうまいんだけど、時には思い切りシャウト(吠える)して欲しいいう気がしていました。しかしその後私は、自分が間違っていたと気づきました。なぜなら、彼女の歌はいつも私の心に刺さったからです。船村徹氏が言われるように「歌は心で歌うもの」は彼女が示してくれていると思いました。特に、この「紅とんぼ」は絶品ですね。夫の郷鍈治氏が亡くなってから、夫の遺言(「好きな歌だけ歌え」)か、悲しみのあまり、なのか分からないけれど、そこからきっぱりとメディアに出なくなった潔さも、何か好ましい気がします。

投稿: 吟二 | 2023年2月25日 (土) 19時50分

 北団地さまの「赤とんぼ」からA君に会いたくなって「紅とんぼ」にやってきました。『蛇足』と皆様のコメントがいいですね。この歳になってくると夜の街には繰り出さなくなってしまい、もっぱらランチでささやかな乾杯をしています。ちあきなおみの歌の臨場感がいいですねー。
 A君が亡くなってから、彼の追悼の小冊子が出ました。彼は早稲田と慶応とも受かったのですが、高校時代に彼が付き合っていたアイちゃんから慶応にしなよと言われ、慶応に行きました。え?そんなんで決めたのと小冊子を読んで思いました。中退して飲み屋の店主になりました。早稲田だったら彼の自宅から都電で一本で通学できて卒業できたかもしれませんが、彼に勤め人が出来たかは甚だ疑問です。ゴールデン街の当時の街の雰囲気に馴染んでいましたから。

投稿: konoha | 2023年6月24日 (土) 21時29分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 死ぬほど愛して | トップページ | 折り鶴 »