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2015年7月12日 (日)

村祭

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


文部省唱歌、作詞:不詳、作曲:南 能衛

1 村の鎮守(ちんじゅ)の神様の
  今日はめでたい御祭日
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  朝から聞こえる笛太鼓

2 年も豊年満作で
  村は総出(そうで)の大祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  夜までにぎわう宮の森

3 治まる御代(みよ)に神様の
  めぐみ仰ぐや村祭
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  ドンドンヒャララ ドンヒャララ
  聞いても心が勇み立つ

《蛇足》 明治45年(1912)に発行された3年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌』に収録されたのが初出。以後、昭和54年(1979)まで一貫して小学校3年生用の音楽教材として扱われてきました。

 お祭りの風景を見るたびに思い出す歌です。歌詞については記憶が曖昧な部分がありますが、音楽の時間にはまちがいなく歌っていました。タイトルの上にあった横長の挿絵まで覚えています。左端に石段があり、そこを登ると幟が並んでいて、右端に本殿があるといった構図でした。
 歌詞もメロディも、待ちかねたお祭りに心躍らせる子どもの気持ちをみごとに表しています。

 私が子ども時代を過ごした集落では、春には神社、夏には寺院の祭礼があり、そのほか、夏休みに小学校の男児だけで行う道祖神のお祭がありました。
 神社と寺院の祭礼では、多数の露店が並びました。友達と露店を見て回り、親からもらったわずかな小遣いでモノを買うことのなんと楽しかったことか。

 よく買ったモノ……かみかんピストル、かんしゃく玉、プリズム、水風船ヨーヨー、メンコ、綿あめ、ニッキアメ、ゼンマイ自動車など。

Kamikan かみかんピストルは、直径1.5センチぐらいのロール式火薬(紙火薬…右の写真)が入っていて、引き金を引くとパンと音がするものです。弾は出ません。
 かみかんは紙火薬がなまったものだと思われます。追加で紙火薬を買うこともできましたが、たいていは、セットで買った紙火薬を撃ち終えると、ピストルもご用済みになりました。

 露店がともすカーバイド・ランプ(アセチレン・ランプ…右下の写真)の独特の匂い。行き交う人びとのさんざめき。子どもたちはもちろん、大人たちもみんな楽しそうな顔をしていました。

 カーバイド・ランプは、炭化カルシウムと水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるという単純な構造のランプですが、けっこう明るかったと記憶しています。
Lamp 露店の照明が電灯に変わったのは、電力事情が好転した昭和20年代末あたりだったと思います。

 それから映画。神社でも寺院でも、宵祭の夜には露天にスクリーンを張って映画が上映されました。人びとは持参したゴザなどに座って観覧しました。上映されたのは、東映の時代劇が多かったような気がします。

 翌日の本祭の寂しさ。ほとんどの露店が引き払っており、詣でる人もまばらで、ウロウロしているのは、前日の楽しさが忘れられない子どもたちばかり。夏休みが終わって、明日からは学校という日の白茶けた気持ちと同じですね。

 昭和の大合併、平成の大合併を経て、村は激減しました。平成26年2014)4月5日の時点で、市が790、特別区が23、町が745に対して、村はたったの183。栃木県など13県には、村は1つもありません。

 しかし、村祭まで激減したわけではありません。村祭という呼び名には合わないかもしれませんが、今も、合併される前の神社・寺院のエリア単位で祭礼を行っているところが多いようです。
 ただ、ゲームなど多様な娯楽が増えた現在、子どもたちは、かつての子どもたちのようにはお祭に心を沸き立たせなくなっているかもしれません。

(二木紘三)

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コメント

故郷を離れてもうじき半世紀。
子供の時のお祭り、楽しかったなぁ。
僕に何か出来ることはないだろうか。
旧友とも連絡をとってみたいです。
望郷の念に駆られています。

投稿: yoko | 2015年7月12日 (日) 17時03分

初投稿。昭和9年生まれ「小学校に行っていない」(国民学校入学、国民学校卒業)唯一の年代です。いつも二木さんの知見に畏敬の念を抱きながら拝見拝聴しています。「村祭」学校で教わる前から歌っていた懐かしい歌です。ところで、授業では「御祭日」のメロディが、「ソラシレド」ではなく「ソソラレド」と教わり、違和感を覚えた記憶があります。単なる記憶違いなのか、それとも異本があるのか、ご教示いただけませんか。

投稿: 富井雅郎 | 2015年7月14日 (火) 14時03分

富井雅郎様
 私がmp3作成に使用した『童謡・唱歌ピアノ全集』(株式会社デプロ)ではハ長調でソラシレドになっています。『こどものうた』(野ばら社)ではト長調でソラシレドでしたが、『尋常小学唱歌128』(オンキョウパブリッシング)ではヘ長調でソソラレド、『全音歌謡曲全集(1)』(全音楽譜出版社)ではト長調でソソラレドでした。
 これではどっちが原音かわからないで、童謡・唱歌研究家・池田小百合さんの『なっとく童謡・唱歌」を拝見したところ、興味深い事実がわかりました。
 それによると、初出の明治45年版から昭和7年版まではト長調でソラシレドでしたが、昭和17年版ではト長調でソソラレドに、昭和22年版以降ではヘ長調でソソラレドとなっています。どうしてこうした変更がなされたのかはわかりませんが、とにかくソラシレドが原音だということはわかりました。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2015年7月14日 (火) 16時02分

富井様にもご覧戴きたくてコメント欄に投稿させていただきます。 ソラシレド→ソソラレドについてです。あくまでも私なりの推測、私見ですので…。
 「ソラシレド」で歌うと「大人風な歌い方」、つまり「流行歌(はやりうた)的でヨロシくない」と横槍がはいったのではないかと…。昭和17年、戦時中ですしねぇ。
 「ソソラレド」だと「子供ぽくってヨロシい」と、ちょっと歌いにくいですけど。 ト長調→ヘ長調へはわかりません。
一笑に付されること請け合いです。

投稿: かせい | 2015年7月14日 (火) 22時09分

管理人さま
早速のご教示ありがとうございました。当時覚えていたメロディは「オリジナル版」で、3年生(昭和18年)で教わったのは昭和17年版だったのですね。疑問氷解です。それにしても、数日前の夕食の献立を思い出せなくなったのに、70年以上昔のことを覚えているとは、人間の記憶とは不思議なものです。

投稿: 富井雅郎 | 2015年7月15日 (水) 13時51分

 子どもの頃、露店に出ていた品物をなつかしく思い出します。「蛇足」にある、かみかんピストルという名前は、神戸では聞いたことがありませんが、ロール式の火薬を装てんするピストルは、確かにありました。また、針金で作ったピストルで、輪ゴムを弾代わりに飛ばすのも・・。私は、ハッカ味の粉砂糖をパイプに詰めて吸うというのが好きでした。パイプの形が、人形やロボットなどで心が躍りました。
 村祭り、主役は神輿、神事ですが、脇役は、子どもたち、いや、がきたちでしたね。にぎやかで、いたずら好きで、好奇心のかたまりのがきたち、今は、少子化のせいで、めっきり、その数が減りました。
 近所では。小児科専門の病院では経営が成りたたないので、つぶれたり、老人向けに改編さました。ずいぶん前のことです。
 結婚を望まない若者が増えているとか。それなら、いずれ、ファミリーレストランも、縮小していくのだろうか。
考えても詮のないことながら、日本の行く末を考えてしまいます。

投稿: 越村 南 | 2015年7月19日 (日) 12時52分

 昨日の暖かい日から一挙に今日は朝から寒いし冷たい雨です。お掃除も草むしりもお休みです。
 
 子供の頃のお祭りを思い出しています。東京の日本橋堀留にいたころの昭和24年の記憶にある御神輿はすごかったです。広い通りで大勢の男たちがハチマキに短いパッチにドンブリ、半纏姿で御神輿を担ぎ、大店の前で大声で「ワッショイ、ワッショイ、塩まいておくれ」とやると、お店の人が担いでいる男衆に何度も塩や水を威勢良くぶっかけていました。子供心にも勇壮でその熱気に興奮し飛び回っていました。

 こちらに越してきてからは、地元の鎮守は天祖神社のお祭りで賑やかでした。『蛇足』の写真の帯状のかんしゃく玉が懐かしいです。兄がピストルで打ち鳴らしていて、なかなかやらせてもらえず、しつこくまつわりついて、やっとやらさせてもらいバンバンやったら直ぐ取り上げられてしまいました。普段は貰えないお小遣いで、セルロイドの容器に入った粉のハッカを真っ先にかいました。それを首にかけハッカを吸いながら、あっちの屋台こっちの屋台を覗いて回ったことを思い出します。

 今はあの頃のお祭りとは子供が少ないこともあり全く「隔世の感」です。それでも地元の商店街の人々が頑張っているくれています。ありがたいですね。

 

投稿: konoha | 2017年4月11日 (火) 10時12分

二木紘三さんの蛇足を読みながら、またkonohaさんの文を読みながら子供時代を思い出しました。
小4の時に初めて子供神輿を担いだことが忘れられません。早く担げるようにと待ちに待っていました。みんなで大声を出して、ワッショイ、ワッショイと担ぎ、大人たちからバケツの水をかけられ、大喜びでした。
当地は岡村天満宮のお祭りで夏休みも間もなく終わる8月の24、25日でした。
今では子供神輿も担がなくなり、町内会長に聞くと子供が怪我をすると危ないからと親からの苦情が続いたためとのことでした。
もっと元気あふれる子供たちに育って欲しいとおもうのですが。

投稿: 栗さん | 2017年4月11日 (火) 10時47分

北関東は鹿沼秋まつり(鹿沼市)、とちぎ秋まつり(栃木市)、筑波山もみじ祭り(つくば市)など今月から来月にかけて秋祭りが目白押しです。
なお村祭とは真逆?の天下御免?の激しい祭りと言えば↓岸和田だんじりの独断場です(あくまで個人的感想)。
(KAIDOU街道さん提供)http://www.youtube.com/watch?v=9tXMONH6WQc

投稿: 焼酎 | 2018年10月 6日 (土) 23時16分

 長崎のsitaruです。季節外れですが、この「村祭」、確かに小学校三年生の教科書で習い、その後もよく聞きました。ただ、私はその快活なリズムと笛や太鼓の擬音を心地良く感じたのであって、歌詞の意味はピンと来ませんでした。私が生まれ育った集落では、これと言った秋祭りは無く、近くに神社も無かったからです。子どもの頃、そういう行事に慣れ親しんでいなかったせいか、大人になっても、お祭りにはほとんど興味がありませんでした。
 長崎には、お盆の「精霊流し」、秋の「長崎くんち」と、全国にその名を知られたお祭りがあり、小学生の頃、「長崎くんち」を見に行った記憶はありますが、その目的も、「龍踊(じゃおどり)」などの出し物を楽しむためにではなく、出店で売られているおもちゃのピストルや風船、綿菓子などを見たり買ったりすることが目的でした。「精霊流し」も、子どもの頃、小さな藁づくりの精霊船を作り、お盆の供え物などを乗せて、家の近くの川に流すという風習は、毎年楽しみにしていましたが、テレビで放送されるような市街中心部を大きな精霊船が行進するおなじみの風景には何の興味も持てませんでした。

投稿: sitaru | 2021年7月15日 (木) 05時21分

 2017.4.11konohaコメントの中の昭和24年という時代は終戦20年から数年経っただけです。あの頃、小伝馬町にあった十思小学校の幼稚園に通っていた登園の朝、生地問屋の生地大安売りで血相を変えてなだれ込んできた主婦たちに何が起きたのかと思いました。訳は後で母親に聞いてわかったのですが、その時はとても怖い思いをしました。

 そんな時代だったので、戦争が終わり帰還した若い男性たちの神輿を担ぐ解放された熱気が半端なものではなかったのでしょう。記憶の残っている老いも若いも関係のないあの熱気を今だに本物の祭りとして刻まれています。

投稿: konoha | 2021年7月15日 (木) 09時52分

お祭りのお店に浮き浮きとした気分で飛び出していったのは小学生の時までです。中学生と高校生になってからは私は引きこもりの気があったためかお祭りの記憶がありません。

勤めを始めてから村の級友に「まだお祭りのお店出ている?」と聞いたところ、「そんなのとっくの昔からもうないよ」との返答でした。今では子供の数も激減していますからね~。

私の母は子供の頃お婆ちゃんの里のお婆ちゃんのお母さん(私からはひいおばあちゃん)の家にその村のお祭りで遊びに行っていたことをよく話しました。その時必ず、「少し離れた山に、エイちゃんという男の子が住んでいた。エイちゃん今どうしているかなぁ、もう死んでしまったかなぁ」と必ず話していました。今思いますに、母がお祭りでお婆ちゃんの里によく遊びに行ったのは、エイちゃんに会いたいがためもあったのでは、と思います。母は10年前92才で亡くなりましたが、晩年まで、エイちゃんどうしてるかなぁとつぶやいていました。

私も似たようなもです。お目当ての女の子が金魚すくいをしているのを見て私も少し離れてしゃがんで金魚を眺めていました。もちろん、彼女に声をかける勇気などなかったです。

投稿: yoko | 2021年7月17日 (土) 00時40分

投稿中毒深謝。五木ひろしの♪祭りも近いと汽笛はよぶが・・や千昌夫の♪風に流れる白い雲・・。町中と言うことで自宅前でも賑やかな人々が往来し法被姿の若集と様々な形の太鼓台。
21日は父の23日は次男の誕生日。性格もよく似て温厚。
社が近い私の旅館に露天商の方が宿泊。底上げしたしょうが糖に又追加で入れてくれたのを思い出しました。随分と昔の事で懐かしいです。

投稿: 細川 和代 | 2022年10月17日 (月) 08時56分

村祭、10月の上旬になると神祭がありました。
蛇足にある「かみかんピストル」は良く覚えています。
丁度自宅が神社のすぐ横にあったものですから、宵宮から嬉しくて寝れませんでした。確か小中学校も「休校」になっていました。親に小遣いを貰って、走って買い物に行ったことでした。日本3大俄かの一つで有名ですが、その事前稽古を我家でやっていたことを思い出しました。遠い昔の思い出です。

投稿: 和田貴行 | 2022年10月17日 (月) 20時18分

二木楽団のなんとモダンな楽しい村祭でしょうか。雅楽の音は
きこえる現在ですが、こんなに楽しい “ まつり ”が今でも何処かに存在しているのでしょうか

元日の朝、氏神さまに参拝して
9日には少し離れたところにある
とても古い神社に参拝しました
若者や厄年の人たちが厄祓いを
受けたりと賑わっていました。
おみくじを引いてみました。
縁談*待ちなさい、よい人あり
結婚*年上の人がよい ! ! !
そんなはずないのに ・ ・ ・
でも一応心の内と顔はちょっと綻びましたが。『成人の日』から『二十歳のつどい』になり数年前からは『熟年成人式』という還暦から20年 満80歳の新たな門出のお祝いも出来て、なかなか彼方の郡には簡単に行けなくなりましたね。良いことです。

自身の『成人の日』が思い出されました。伯母と一緒に呉服屋さんで反物から選んで振り袖を仕立ててもらいました。後に父から聞いたのです母が涙を溢していたと・・・私の出生時は新生児仮死状態であったことへの不安や心配、他にも外科手術を2回も受け、おまけに1.5㍍程の高さから落下(そこはコンクリート) 10日間位昏昏と眠り続けたという眠り姫です。母としては色々な思い出が巡り元気に成長してくれたという安堵だったのでしょう。
このような普段考えてみることもない事実を成人の日の神社参拝によって思い出し、振り返ることが出来たことに感謝しています。

原宿駅前で待ち合わせて明治神宮を参拝しました。髪を結い、振り袖姿の私を見つけて、少しびっくりしたような表情でにっこり微笑んでくれた顔は今でも忘れていません。この頃に戻れたらいいのに・・ と 時おり思います。40年以上も続く思いになるとは考えてもいませんでしたが。

投稿: junko | 2023年1月20日 (金) 17時10分

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