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2015年9月 3日 (木)

涙の渡り鳥

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:西條八十、作曲:佐々木俊一、唄:小林千代子

1 雨の日も風の日も 泣いて暮らす
  わたしゃ浮世の 渡り鳥
  泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
  泣けば翼も ままならぬ

2 あの夢もこの夢も みんなちりぢり
  わたしゃ涙の 旅の鳥
  泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
  泣いて昨日が 来るじゃなし

3 懐かしい故郷(ふるさと)の 空は遠い
  わたしゃあてない 旅の鳥
  泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ
  明日(あす)も越えましょ あの山を

《蛇足》 昭和7年(1932)、ビクターから発売。
 歌ったのは、覆面歌手第一号として知られる小林千代子で、この頃には本名で歌っていました。大ヒットしたので、翌年、松竹で映画化されました。

 作曲者の佐々木俊一は、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)卒業後、ビクターの楽団でドラムを叩いていました。この曲は彼の最初の作品で、それが大ヒットという、作曲家として実に幸運なスタートを切りました。

 その後、彼はおもに佐伯孝夫と組んでヒット曲を連発しましたが、昭和32年(1957)に49歳という若さで亡くなってしまいました。
 『
無情の夢』『燦めく星座』『新雪』『桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン』『明日はお立ちか』『高原の駅よさようなら』『月よりの使者』『アルプスの牧場』『野球小僧』『白樺の小径』は、いずれも佐伯孝夫とのコラボ作品です。

 佐々木俊一は浪曲(浪花節)のファンで、とくに春日井梅鶯(かすがい・ばいおう)が好きだったそうです。常々、「浪曲には大衆の好むものが潜んでいる」といい、作曲の際には梅鶯のレコードに耳を傾けていたといいます。

 この楽譜を見たとき、私は「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」のフレーズがすぐに口をついて出てきました。生まれる10年も前の流行歌の一節がすぐに出てくるというのは、なんとも不思議です。私が小学生だった昭和20年代にも、この歌がラジオや催し物で流されていたのでしょう。
 もちろん、歌いやすく特徴のあるメロディだったことも重要な条件でしょう。近年、記憶に残りやすい印象的なメロディ/フレーズの含まれた曲が少なくなったのは残念です。

(二木紘三)

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コメント

懐かしい歌をありがとうございます。 1965年ごろ
歌声喫茶の流れをくんで、職場の有志が休憩時間に口ずさんでおりました。 もちろん今のようなカラオケは想像もつきませんでした。

投稿: 河嶋 国盈 | 2015年9月 3日 (木) 19時44分

この曲が流れて來るとは夢にも思いませんでした。
感謝、感激で胸一杯です。ありがとうございました。
このサイトでの演奏では、原曲とは違い特に「リズムセクション」が軽快で素晴らしかったです。
この曲との出会いは、30年程前から戦前戦後の流行歌のSP盤収集に明け暮れておりました。
そんなある日、ある神社での骨董市で出会うことができました。
改めて、蓄音機で原曲を数度聴いてみましたが、購入時を想い出し感無量でした。
小林千代子さんの澄み切った素直な歌唱力には心をうたれます。
ありがとうございました。

投稿: 一章 | 2015年9月 3日 (木) 21時08分

戦前のこと、学齢前の私が「泣くのじゃないよ」と歌って踊り、「「泣ぁけぇばあぁ」の所で腕を組んで足を踏ん張って見得を切ると、正月で京都から来ていた伯父が涙を流さんばかりに腹を抱えて笑い、「もう一度やれ」「もう一度」と繰り返させた、と親が話していました。TVのない時代ですがだれの真似だったか、幼いときにはパフォーマンスの才能があったのでしょうか、その後まったく失ってしまったとは、返す返すも残念です。

投稿: dorule | 2015年9月 4日 (金) 10時34分

小林千代子は覆面歌手のはしりだと聞きましたが、当時はラジオが主流ですから、実際には覆面(仮面)はしてなかったんだろうなと、わたしは想像していましたが、リリースされたレコードジャケットの写真を見ると、実際に仮面を着けていたので驚きました。覆面(仮面)歌手としての名前は“金色仮面”と書き、「ゴールデン・マスク」と英語読みだったそうで、何でも当時人気があった、江戸川乱歩の「黄金仮面」からヒントを得たようです。
 小林千代子に限らず、藤山一郎やミス・コロンビア(のちの松原操)など、昭和初期に出て来た歌手には覆面歌手(表に顔を出さない者も含む)が何人かいますが、これは当時、正規の音楽学校(今の音楽大学)に在籍する学生には、流行歌(今の演歌・歌謡曲)を歌わせなかったという理由によるものです。「ブルースの女王」と言われた淡谷のり子は、経済的事情でやむを得ず流行歌を歌って除籍された過去があります(のち復籍)。
 どうしてこのようなことが起こったのでしょうか。当時の社会は、音楽などの分野では、クラシックやオペラの正統な音楽は上位、流行歌のような大衆音楽は下位とする見方が厳然とあったからです。
 現在でも、その見方はないとは言えません。わたしは芸術などの文化は、上下関係ではなく、並列的に見るべきだと思っています。

投稿: ひろし | 2015年9月 6日 (日) 12時18分

ひろし様へ 詳細にわたるコメンを拝読させていただき大変勉強になりました。ありがとうございました。
音楽分野等での文化についてのとらえ方について、私もひろし様と同じ考えで、上下関係なく並列だと思っています。
小生、以前からハーモニカを少々吹きますので、公民館での出前講座や福祉施設等に訪問をいたしておりますが、私の知人(ピアノ・ヴァイオリン・ギター等)からは、残念ながらあまり評価を得られていないように思います。
どうしたものでしょうか?・・・よく分かりません。
特に戦前・戦後の流行歌は、時代の流れの中で国民生活の中に密着してきたものと思っておりますが。

投稿: 一章 | 2015年9月 6日 (日) 21時40分

一章 様
 わたしのコメントを評価していただきありがとうございます。お断りしておきますが、わたしはけっして音楽の知識に詳しいわけではありません。したがって、わたしのコメントについては、いろいろご批判もあろうかと思います。
 あなた様のコメントにある「知人の評価を得ていない」という内容を、わたしなりに解釈しますと、①ハーモニカ演奏で取り上げる曲目が、あまりに戦前・戦後(昭和30年代)の曲目に偏り過ぎている(もっと昭和40年代以降の曲目も入れて欲しい)②曲目に演歌・歌謡曲が多すぎる。もっとジャズやロック調、ポップス調のものを入れて欲しい、のどちらか。あるいは、両方ではないかと思われます。あなた様のコメントからだけでは、知人の方の評価の理由は判断出来かねますが、まさかジャズやロックなどの欧米系音楽が、演歌・歌謡曲の和製音楽より上(高尚・高級の意味)だと思っておられるわけではないでしょうね。

投稿: ひろし | 2015年9月 7日 (月) 10時51分

ひろし 様
 早速、詳細にわたりご意見をいただき恐縮いたしております。
 私のコメントの内容が不十分であったことにお詫びとともに反省をいたしております。
 私が現役の頃(25年程前)に、職場内のロビーで月1回「昼休みコンサート」が開かれていました。
弦楽四重奏・ギターアンサンブルの演奏で、曲目はクラシック系が中心でした。
 ある日、代表世話人の方に「ハーモニカ演奏」の概要について話をしましたが、自分たちのグループで継続して行う旨を伝えられ断わられました。同じ職場の仲間ですからそれ以上のことは言えませんでした。ハーモニカ音楽について少しは理解してほしいと思いましたが・・・
 ところで、私とハーモニカとの出会いは、小学5、6年の時に、当時の器楽合奏部でハーモニカを担当したのがきっかけで、40歳代にプロから2年程指導を受け、その後は独学です。
 演奏曲目は主に、童謡唱歌・昭和期の流行歌、歌謡曲が中心で、他のジャンルは少ないですが、自分にとっては、今のスタイルで日本文化の継承に役立てばと思っております。
(私も昔人間、昭和期の曲に拘りがあるかもしれません。)
 最近では、私の住む町でもハーモニカ人口も増え、愛好者によるコンサートなどもあり、以前からするとハーモニカ音楽に対する理解度も上向きのように思えます。
 貴重なご意見ありがとうございました。


 

投稿: 一章 | 2015年9月 7日 (月) 20時16分

涙の渡り鳥のコメントに「ハーモニカ」評価の上下についてコメントを拝見しました。
私もハーモニカを楽しんでおり、KハーモニカCでボランチィア、文化祭、ハーモニカコンサート等で演奏しております。年配の方が多いですが、若い方も見えられて楽しんでおります。今は「青葉の笛;幻想曲」を練習中ですが、分散和音が難して閉口しています。(演奏期間=4年)
次回の発表会で吹く予定です。
さくらんぼより。

投稿: 荒沢 信一 | 2015年9月26日 (土) 10時09分

70年以上も前、まだ幼少の頃、母が家事をしながら「涙の渡り鳥」をよく歌っていたので、この歌を憶えました。美しいメロディは口遊みやすく、やはり、~泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ~の部分が特に心に響きます。
 時代は進んで、昭和30年代前半、しばらくの間、私は東京の町中の住宅街に下宿して予備校に通っていました。近くの店には、パンやコロッケを買いに行ったものですが、時々、ちんどん屋さんが近所を回って、商店会の売り出しの宣伝をしていました。記憶は定かではありませんが、演奏曲には「涙の渡り鳥」もあり、クラリネッが主メロディを、鉦(かね)や太鼓が調子をとって、派手ななかにも物悲しさを漂わせた演奏で、道往く人の気をひいていたように思います。
 その後、社会人になって関西に移り住み、会社の寮、団地、郊外の住宅地などと住まいが変わりましたが、時代の変化もあってでしょうか、ちんどん屋さんの演奏に巡り合うことはありませんでした。「涙の渡り鳥」を聴くと、当時の光景が懐かしく思い出されます。

投稿: yasushi | 2016年2月17日 (水) 14時29分

昭和36年頃、私(佐賀)の故郷には旅役者風の格好をし、胸に抱えたシンバル付きの太鼓・三味線・クラリネットなどを鳴らしながら、あっちこっちを流し回り、人がたくさん広場に集まってくると、歌や踊りを披露しながらその合間に商品を売る(正露丸・ショウノウ・傷薬など)という小一団が時々やって来ました。私たちは犬猫屋が来たあ と叫びながら走り、みんなに知らせに行っていた記憶があります。
そしてこの一団も、涙の渡り鳥の曲は流していました。
この歌は、私が物心ついた頃から、今は亡き母が口ずさんでいたこともあり、私もいつしか覚えていました。
背広姿の渡り鳥を歌っていた佐川満男さんもちょうどその頃に 涙の渡り鳥を歌っていたと思います。
yasushi様が仰るように♪泣くのじゃないよ泣くじゃないよ~は母を想い、私の心にも響きます。


投稿: 芳勝 | 2017年12月 5日 (火) 20時44分

一章様他のコメントを拝見し、”東京大衆歌謡楽団”の存在を知りました。戦前~戦中~戦後の昭和歌謡を主に歌っているとのことで興味を持ち、早速、YouTubeであれこれ閲覧しました。
 例えば、戦前のものでは、この「涙の渡り鳥」(S7)、戦中のものでは「湯島の白梅」(S17)、戦後のものでは「高原の駅よさようなら」(S26)と、お馴染みの歌が登場し、画像と音声で楽しむことができ、こういうスタイルも面白いなあと感じました。また、清潔・質素ないで立ち、控えめな立ち居振る舞いにも好感が持てました。

投稿: yasushi | 2018年5月28日 (月) 15時07分

 二木先生の蛇足の記事と同様「泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ」は、私にとっても、無意識に口をついて出てくる不思議なフレーズです。昭和24年生まれなのに。一度聞いたら脳幹の奥底に刻まれるような歌詞です。
同じ小林千代子が歌った『旅のつばくろ』(作詞清水みのる 作曲倉若晴生 昭和14年発表)にも「泣いちゃいけない 笑顔をみせて」というフレーズがあって、1番から3番の歌詞のすべてにでてきます。
最近知ったこのフレーズも、私の脳幹の奥底にあらたに刻まれました。
 人の世ですから、当時も今も,生きる辛さは万人に多かれ少なかれあると思いますが、「泣くのじゃないよ」「泣いちゃいけない」という言葉では、今の人はなかなか慰められないのではないでしょうか。実際そんな歌詞は最近の流行歌にはないようにおもう。
私などは子供の頃、泣いてる時に「もう泣くんじゃないよ」「泣いちゃいけないよ」などとやさしく言われると、よけいにワッと嗚咽して、鬱積した気持ちを発散して、カタルシスを感じてしまうようなところがあった。そのあたりから類推すると、昔の人は喜怒哀楽の感情のあらわし方や感情処理の仕方が素直というか、シンプルだったのではないでしょうか。それは、昔の人は気持ちが強かった、感情が安定していたということにつながっているようです。わが父母を通じての思いです。

投稿: 越村 南 | 2018年8月24日 (金) 01時15分

 二木先生には「涙の渡り鳥」を取り上げていただき有難うございます。越村南さんのコメントを拝読し 私も一気に昭和20年代後半の小学生時代に戻ってしまいました。

 yasushi様の「一章様他の皆さまのコメントから・・」下記のことを検索しました。有難うございます。
 
https://www.youtube.com/watch?v=u19VsGHGWdg

 芳勝さんの「旅役者風の・・」から「○○一座」の旅役者が 秋の稲の収穫が終わった頃 公民館等でやっていた芝居を思い出しました。「泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ♪」と勉強せずに歌っていたら 母から「勉強するかお手伝いしなさい」と叱られ、泣き出してしまったことを思い出しました。

 一章さんのようにハーモニカでこの曲を吹けるように草笛を練習してみます。曲の低音部の吹き方が難しいです。聞いていただく方の心に響く音色がでれば・・と頑張ってみます。

投稿: けん | 2018年8月24日 (金) 09時46分

「涙の渡り鳥」この軽快なリズムとクラリネットの奏でる音色を聴いていると、不思議なことにいつの間にか幼少の頃にタイムスリップしていきます!

今、冷静に思えば、歌や踊りを見せてくれたその一座が、ショーの合間に正露丸やガマの油などを売り込む時の「口上」が、実に巧みで、方言などを混じらせながら語っては、人を引きつけ笑いを誘いながら、場を盛り上げては客を寄せ集める、一人が買い出せばそれにつられて人が集り、次々に売れていくという光景がありました。私の母も正露丸をよく買っていました。

「泣くのじゃないよ 泣くじゃないよ」 この言葉で、五臓六腑まで沁み込んでしまうほど、大衆の心に魔法をかけてしまう西城八十は、まさに名作詞者ですね!

けん様
草笛ですが、先回ご報告の「つき」と併用しながら「うみ」に挑戦しています。正直本当に下手です。

投稿: 芳勝 | 2018年8月24日 (金) 14時20分

「涙の渡り鳥」に親子二代にまたがるエピソードがあります。50余年も前の高校生の頃、「三沢あけみ」は僕のおきにでした。おりしもこの歌が世に出て、ある時口ずさんだ時、父親が「xx、その歌をよく知ってるなぁ」と言いながら同じように口ずさみました。僕は僕で「お父さん、新曲をどうして知ってるの?」って。
「小林千代子」がさらに30年も前に歌っていたとは。

投稿: Dao | 2020年5月 3日 (日) 19時43分

「涙の渡り鳥」は、私にとって、懐かしさを感じさせる、好きな歌です。

何気なく、心軽く、♪雨の日も風の日も 泣いて暮らす…♪と口遊んでしまいます。 哀愁感を漂わせる歌詞ながらも、長調の明るいメロディに誘われるからでしょうか。

私の音源(HDDジュークボックス)には、オリジナルの歌い手・小林千代子さんの歌声が入っているのですが、最近、好んで聴いていますのは、YouTubeで見つけた、倍賞千恵子さんの歌声の方です。彼女の優しさがにじむ、美しい歌声は、心地よさ抜群です。

次いでながら、出だしの♪雨の日も風の日も…♪から、これもまた、好きな歌「お使いは自転車に乗って」(山上雅輔 作詞、鈴木静一 作曲、轟 由起子 唄 S18)の歌詞3番の、♪雨の日も 風の日も どんな天気の日も…♪へと連想が広がって行きます。

投稿: yasushi | 2020年11月 7日 (土) 13時06分

いつも懐かしい歌をありがとうございます。
この歌は、子どもの頃に聞いた憶えはなかったのですが、東京大衆歌謡楽団の演奏で定番曲のように出てきますので、何度も聴いているうちに昔から知っていた歌のような気がしてきました。
ブログ・ハーモニカ演奏の伴奏に使わせていただきました。ありがとうございました。

投稿: ゆるりと | 2021年8月14日 (土) 06時44分

昭和47年に日本ビクターから発売された「昭和の歌」という10枚組ボックスセットは、戦前編と戦後編があり、手元にあります(コロムビアにも同様のアルバムがありました)。このアルバムの解説によれば、西条八十が作った詩は「泣くのじゃないよ…」の繰り返しだったそうです。
 ところが、新人作曲家であった佐々木俊一はメロディを作った際に「泣くのじゃないよ、泣くじゃないよ」に勝手に変更し、大学教授であった西条は「泣く」の後は「ん」か「の」でなければ標準語ではないと説得したが、佐々木は頑として撤回しなかったそうです。
 佐々木は戦前・戦後にかけて「島の娘」「無情の夢」「長崎物語」「きらめく星座」「新雪」「桑港のチャイナ・タウン」「高原の駅よさようなら」「アルプスの牧場」「白樺の小径」等々の名曲を世に送り出したことはご案内の通りです。

投稿: ジーン | 2023年12月16日 (土) 13時27分

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