コサックの子守歌
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
ロシア民謡、作詞:レールモントフ
日本語詞1:度会祐一 1 眠れや愛し子 安らかに 2 やがては旅立つ 愛し子よ 日本語詞2:津川主一 眠れやコサックの 愛し子よ КАЗАЧЬЯ КОЛЫБЕЛЬНАЯ ПЕСНЯ |
《蛇足》 帝政ロシアの詩人で作家のミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ (Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов 1814-1841)が、軽騎兵士官としてテレク河畔のある村に宿営していたとき、コサックの若い母親の歌う子守歌に感動して採譜、1838年に作詞したもの。
レールモントフの詩を見ますと、1番は、
おやすみ、私のかわいい赤ちゃん
ねんころろ、ねんころろ
明るいお月様があなたの揺り籠を
静かに照らしているわ
お話してあげましょう
歌ってあげましょう
さあお眠りなさい、目を閉じて
ねんころろ、ねんころろ
といったふうで、どの子守歌にもあるように、赤ん坊を寝かしつける母親の優しい気持ちが歌われています。
ところが、2番では「テレク川の岸を獰猛なチェチェン人が短刀を研ぎあげてよじ登ってくるわ。でもお父さんは古強者だから、安心しておやすみ」、3番では「時が来ればおまえも銃をとって馬に乗り、戦いに明け暮れるようになるでしょう」と、子守歌にはまったくふさわしくない歌詞になります。
4番以降は、息子をそうした戦いに送り出さなければならない母親の辛さ、悲しさが歌われています。
1番は、レールモントフが聞いた母親の歌をほぼそのまままとめたものでしょうが、2番以降は、彼が体験し、見聞きしたコサックの生活を描いたものだと思われます。
コサックは、タタール人のグループに、支配者の抑圧や収奪を嫌った農民や職人たちが加わって軍事的共同体を築いたのが始まり。ドニエプル川(ドネプル川)中流域のザポロージャ地方に根拠地を築いたザポロージャ・コサック、そこから分かれてドン川下流に勢力を築いたドン・コサックが有名ですが、そのほか幾つかの地域にもコサックの共同体ができました。
コサックは、自由な人とか豪胆な者を意味するトルコ語が由来で、ロシア語ではカザークといいます。騎兵戦を得意とした勇猛な民族です。
17世紀後半から18世紀にかけて、たびたび帝政政府に対して反乱を起こしました。民謡『ステンカ・ラージン』に歌われたラージンの乱や、プーシキンの小説『大尉の娘』に描かれたプガチョフの乱がとくに有名です。
19世紀に入ると、ロシアのコサックは、税金免除と引き換えに、国境警備や治安維持の兵役義務が課されました。
レールモントフが士官として勤務した地域のコサックは、テレク・コサックと呼ばれます。
テレク川はジョージア(グルジア)の北端、オセチア地方に流れを発し、ほぼ北に向かって流れ、北緯・東経とも44度付近で東に方向を変え、やがてカスピ海に注ぎます。
テレク・コサックの本拠地はこの川の西側で、東側にはイスラムの影響を受けたイングーシ人やチェチェン人が住んでいました。テレク川の南東側をロシア領にするのがテレク・コサック軍団に下された指令であり、それに抵抗するイングーシ人、チェチェン人との間に絶えず激しい戦闘が交わされていました。
すなわち、テレク・コサックの男は、大人になったら騎兵として戦うのが代々のしきたりであり、これは他のコサック軍団でも同じでした。したがって、コサックの妻たちは夫を、母親たちは息子を失うことを常に心配しなければなりませんでした。
レールモントフが書いた2番以降の歌詞は、こうした宿命を負った母親たちの苦しい心情を反映させたものといっていいでしょう。
レールモントフが採譜・作詞した子守歌は、モスクワの友人たちによって、幾つかの集まりで演奏されました。それが評判になり、やがて国内にとどまらず、国外でも愛唱されるようになりました。
ただ、ほとんどの場合、2番以降の悲劇的な歌詞は歌われないようです。上の日本語詞のうち、度会祐一の2番は、原詞の3番以降を婉曲な表現で1聯にまとめています。
津川主一の日本語詞と下記のエスペラント訳は、原詞1番の内容だけを扱うとともに、1番・2番とも原曲1聯の前半のメロディだけを使っています。しかし、両方とも、原曲と同じく1つの聯として歌っても、メロディとのズレはあまりないので、ここでは1つの聯として表記しました。
下のエスペラント訳は、私がまだエスペラントを熱心にやっていた頃の思い出の曲です。エスペラント自体は怪しくなりましたが、この歌の歌詞は戸惑うことなく出てきます。
KOZAKA LULKANTO
Dormu bebo,mia kara,
Baj baj lul baj lul.
Gardas vin la luno klara
El ĉiel-angul'.
Kantas panjo,kantas pete,
Dormu do,karul'.
Fermu la okulojn prete,
Baj baj lul baj lul.
レールモントフは貴族の家に生まれ、近衛軽騎兵の士官になりました。早くから文才を認められていましたが、敬愛するプーシキンを決闘に追い込んで死なせた宮廷貴族を憎悪する詩を書いたことが、当局の忌諱に触れ、辺境のカフカスに左遷されます。
一度はモスクワに戻れましたが、決闘事件を起こしたため、また同地へ転任。刑罰としての派遣だったため退職が許されませんでした。
幾つかの戦いで、彼は先頭を切って突進するなど、コサック兵たちも驚くような猛勇を振るいましたが、これは将来への絶望から死を願っての振る舞いだったようです。
皮肉なことに、レールモントフは戦闘では死なず、些細な原因から同僚士官と決闘して負け、激情の生涯を終えました。26歳でした。
その後のコサックの運命も悲惨です。1917年にロシア革命が勃発してロシア内戦が始まると、コサックは白軍=反革命軍に加わりましたが、敗北。第二次大戦では、ドイツ軍に味方しましたが、このときも敗北。
このため、レーニンとその後を継いだスターリンによって、コサックたちは家族ぐるみ死刑、シベリアへの流刑、土地没収・強制移住による餓死などで数百万人が死亡し、共同体は姿を消しました。まさしくジェノサイド(民族抹殺)でした。
(二木紘三)
コメント
二木先生ありがとうございます。
とてもとても好きな歌でした。
50年以上も前のことです。
あのころは愛唱歌のほとんどはロシア民謡でした。
いつか忘れていました。
当時の自分の在りようまで蘇りました。
中学時代の担任(党員)に洗脳されていました。
彼が私に説いた理想国の全ては「そうではない国」となりました。彼はこう説きました。(15歳の私に)
我々の党が政権を取ったら「シューベルトの冬の旅」を誰でも家庭で聴ける時代が来ると。当時は蓄音機?テープレコーダー?。私はたちまち萌えました(今様にいうなら)
何て素敵な~是非政権をとって!平等の社会をと夢想しました。誘われて集会にも参加したものです。
徐々に疑問が芽生え遠ざかったことは正解でした。
洗脳されて諸悪の根源を社会のせいにして努力を怠る性質が形成されました。
今は渡辺シスターの
「置かれた場所で咲きなさい」を座右の銘としています。
投稿: りんご | 2015年11月 3日 (火) 17時50分
コサックの子守唄、大好きなロシア民謡です。
聞いていると胸が詰まります。
投稿: ゆく | 2015年11月10日 (火) 22時35分
二木先生、はじめまして。
コサックの子守歌は、寝つきの悪かった私に、父がよく歌ってくれた、思い出の曲です。
この歌を聴くと、晩酌のお酒の匂いの父と、その足の温もりを思い出します。
その父は今、リタイア後男声コーラスグループに入って、第二の人生を謳歌しております。
歌の力の大きさ、広さ、深さを
二木先生から一杯学んでいきたいです。
投稿: ピーちゃん | 2015年11月10日 (火) 22時43分
コサックの人たちは大虐殺されましたか。
悲しい現実です。
この子守歌は素朴なロシア民謡のメロディで、わが子に対する愛情をひしひしと感じます。
投稿: 三瓶 | 2015年12月 8日 (火) 17時07分
コサックと言えば、コサックダンスと騎兵を思い浮かべます。



日露戦争時の秋山好古の交戦相手でした。
それがロシヤ革命では白軍に加担、二次の大戦ではナチスヒットラーとは。
その選択には、いろいろと事情はあったと思いますが、誤ると民族をも滅ぼした例でしょうか。
日本も一度は同じ轍を踏む瀬戸際をまねきました。
再び道を誤ることのないよう願わずにはいられません。
投稿: ひつじ雲 | 2015年12月14日 (月) 19時58分
私が愛読した作品、現代の英雄の著者のレールモントフが戦地で採譜した曲に彼の詩を付けて出来上がった名曲です 江戸時代に紹介された日本で最も古いロシア民謡です。貴族の身分ながら当時の帝政ロシアに反抗しコサックに尊敬すらされたこの詩人は 戦場に男を磨き 孤独のうちにこの世
去りました。やがて戦場に行ってしまうわが子を心配しながらも、今ひとときの安らかな眠りを愛しむ、母の心情を 詩っています。4さいに成った孫が赤ちゃんの時に、この歌を聴かせるとなぜか大口あけて喜んでいた。
投稿: 杉田優彦 | 2016年9月18日 (日) 13時18分