« 荒野の果てに | トップページ | ゆき »

2015年12月27日 (日)

おもちゃのチャチャチャ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:野坂昭如、補作:吉岡 治、作曲:越部信義

  おもちゃの チャチャチャ
  おもちゃの チャチャチャ
  チャチャチャ
  おもちゃの チャチャチャ

1 そらにきらきら おほしさま
  みんなスヤスヤ ねむるころ
  おもちゃは はこをとびだして
  おどる おもちゃのチャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ

2 なまりのへいたい トテチテタ
  ラッパならして こんばんは
  フランス人形 すてきでしょう
  はなのドレスで チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ

3 とんぼみたいな ヘリコプター
  ぐんとはやいな ジェットきは
  サイレンなれば はっしゃです
  うちゅうロケット チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ

4 きょうはおもちゃの おまつりだ
  みんなたのしく うたいましょう
  こひつじメエメエ こねこはニャー
  こぶたブースカ チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ

5 そらにさよなら おほしさま
  まどにおひさま こんにちは
  おもちゃはかえる おもちゃばこ
  そしてねむるよ チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ
  チャチャチャ
  おもちゃのチャチャチャ

《蛇足》 昭和38年(1963)、第5回日本レコード大賞童謡賞を受賞。
 平成18年
(2006)、文化庁と日本PTA全国協議会による『日本の歌百選』に選定。
 平成22年
(2010)、ベネッセコーポレーションによる『子どもにきかせたい曲』のアンケートで第1位に選出。
 と高い評価を受け、童謡におけるスタンダードナンバーの1つになっています。今後も永く歌い継がれていくでしょう。

 実は、この曲は、最初から上記の歌詞で作られたわけではありません。
 昭和34年
(1959)、開局したばかりのフジテレビで大人向けバラエティ番組『ヤマハ・タイム』が始まりました(毎週月曜日20時-21時)。三木鶏郎のプロデュースで、毎回特定のテーマについてコントと音楽でつなげるという番組でした。
 テーマは、第1回「狂
(マニア)」、第2回「賭(トトカルチョ)」……といったもので、おもちゃをテーマとした回のときに作られたのがこの曲です。作詞の野坂昭如も作曲の越部信義も、三木鶏郎を中心とするトリローグループのメンバーでした。

 なお、このグループには、ほかに永六輔、キノトール、神吉拓郎、神津善行、中村八大、桜井順、いずみたくなど、のちに文芸や音楽の分野で大活躍するメンバーが大勢いました。

 この番組の挿入曲は、それぞれの回で1度だけ使われるために制作され、放送が終われば、ほとんどが消えていきました。
 『おもちゃのチャチャチャ』もそうした運命をたどるはずでしたが、快調な歌詞とメロディを自然死させるのは惜しいという声が挙がり、童謡として新しい生命をもつことになったのです。

 吉岡治が、子どもにはむずかしい外国語を取り除き、原詞のユーフォニー(好音調)を活かした5聯の歌詞を作りました。
 この歌詞による『おもちゃのチャチャチャ』は、昭和37年
(1962)8月、NHK総合テレビの幼児音楽番組『うたのえほん』で「今月の歌」として歌われ、子どもの歌として定着しました。

 原詞をあげておきましょう。各所に押韻を使った快調な歌詞で、野坂昭如の言語的才能と音感のよさがうかがわれる作品です。
 この歌詞では、昭和35年
(1960)に、ニッポン放送のラジオ番組『トリロー・サンドイッチ』でダーク・ダックスが歌いました。このときの音源を使ったCDは今も入手可能です。

夜のとばりが おりまして
星がキラキラ 光ったら
おもちゃの箱は 目をさます
おもちゃとおもちゃの チャ チャ チャ

鉛の兵隊 アテーンション
フランス人形 ボンジュール
子羊メエメエ あひるがガァー
子熊ころころ チャ チャ チャ

だれも見てない 子供部屋
坊やとおもちゃの 夢のうた

今日はおもちゃの カーニバル
年に一度の フェスティバル
踊るマズルカ カドリール
ゼンマイ巻いて チャチャチャ
おもちゃとおもちゃの チャ チャ チャ

あやつり人形 糸を切ろ
暑けりゃ脱ぎましょ ぬいぐるみ
キューピー暖炉に 寄るんじゃない
アンドゥ アンドゥ チャ チャ チャ

踊り疲れて メチャクチャ
おしゃべりはずむ ペチャクチャ
甘茶でチャチャチャ 渋茶でチャ
チャチャチャリズムで チャ チャ チャ

だれも見てない 子供部屋
坊やとおもちゃの 夢のうた

朝の光が さしますと
夜のしじまが 消えますと
おもちゃは再び おもちゃ箱
静かに眠る チャ チャ チャ
おもちゃとおもちゃの チャ チャ チャ

 野坂昭如の経歴や業績、エピソードについてはネット上にあふれていますので、ここでは触れません。失行・失言も何度かありましたが、多くの人に愛されました。トレードマークの黒眼鏡をかけたまま棺に入ったと聞きます。
 野坂昭如ノーリターン。

(二木紘三)

« 荒野の果てに | トップページ | ゆき »

コメント

「フランス人形ボンジュール」という歌詞があった筈だと思っていましたが、原詞だったのですね。でも、原詞のままだったら子供には難しくてあまり歌われなかったかもしれませんね。単純で分かりやすい歌詞になって、子供にも素直に受け入れられ歌い継がれているのだと思います。
三木鶏郎の歌は面白い物が多かったですね。私たちの世代は「ピーコポン太郎世界の旅」をラジオで聴いていました。エスキーモーの歌は今ならちょっと問題になったかもしれませんがあまりに面白かったので覚えています。余談ですが今こそ「日曜娯楽版」の復活を切に願っています。

投稿: ハコベの花 | 2015年12月27日 (日) 22時50分

大人が集まって、とことん楽しみながら、でもどこまでも真剣に作った曲が、子ども達に届けられ永く愛される…。大人は、子ども達に本物を届ける義務を負っていることを、再確認させていただきました。野坂昭如さん、そして偉大な作曲家、越部信義さん。素晴らしい作品の数々、本当にありがとうございました。

投稿: ピーちゃん | 2015年12月29日 (火) 23時45分

管理人様の説明文で、多くの事実を知り得て楽しい日々でございます。35年前から名作【蛍の墓】の生れた西宮市に居住しております。毎年尼崎に住む「辻川氏」がホタルの墓を歩く会を開かれています。縁あってあの場所近くに住んでおりました関係で、毎夕方犬の散歩には原作に出てくる「ニテコ池」辺りを好んで歩いていました。静かな場所でとりわけ夕暮れになるとしんみりと感傷的になってしまう場所でした。
地震以降【甲子園】方面に引っ越しましたが、桜のころは山手方面をぐるっと回る市バスに乗り、あのあたりに足が向く土地柄です。野坂氏にはホタル関連で,フアンが多いのですが、ご本人には会えずじまいでした。
あの原作は短い小説ですから、あの小説を見事なアニメにした会社の功績が大きいと思っています。
先生が書かれた文章で、あのサングラス姿で旅立たれた由、思わず深夜に大声で「え~!」と叫んでしまいました。ご冥福をお祈りいたします。又良き奥様と出会われて長い人生を深く野坂氏を理解されていた由、おしあわせなご夫婦でしたね。野坂さ~ん、お会いしたかったです!

投稿: mitsuko | 2016年1月13日 (水) 03時46分

ハコベの花さん

古賀さと子のピーコポンの歌はいまも覚えています。

 ピーコポン、ピーコポン ポンピコポン
 世界を回るよポンピコポン

ラジオ深夜便で流れていたのを録音したことがあります。

洞爺丸台風で青函連絡船の事故があり
あとからできたこの映画に古賀さと子が出ていたことを思い出します。

投稿: みやもと | 2016年1月20日 (水) 19時44分

何年か前にピーコポン太郎のSPレコードをネットで買いました。昨年古賀さと子のCDが出たのでそれも買いました。昼間焼け野原を走り回って遊び、夕方バラックの狭い家に帰ってラジオの子供向け番組を聴くのが何よりの楽しみでした。私たちの事を『鐘の鳴る丘世代』と呼ぶのだそうです。物はなくても楽しかったですね。泥棒がやたら多くて自転車泥棒を大人と一緒に何回も追いかけました。映画にしたら面白いでしょうね。あれこそ「狭いながらも楽しい我が家」だったと思います。家族が助け合わないと生きていけない時代でした。貧しさに郷愁さえ覚えます。飢えて亡くなった人には申し訳ないと思いますが、私たちも栄養失調で死と隣り合わせでした。生きていられて運が良かったのだと思います。普通に食べられるようになったころ、おもちゃのチャチャチャが歌われるようになりました。古賀さと子さんも可愛いお婆さんになられたでしょうね。

投稿: ハコベの花 | 2016年1月20日 (水) 22時15分

ハコベの花さま。いつもありがとうございます。
きっとあなた様と同じ世代だと思いますが、【鐘のなるおか世代】本当にそうでしたね。母親の声で【もう帰りなさい】と言われても帰らず遊び呆けていても【ラジオ】からいつもの曲が流れると一目散に我が家へと帰りました。
おぼえているのは兄達の影響でしょうか「鞍馬天狗」をよく聞きました。鞍馬天狗の島田正吾さんの低い渋い声が、たものしくて大好きでした。【鐘のなる丘】は映画館まで行ってみました。当時は各家でクリスマスなんてしない時代に、施設にいる子供たちがクリスマスをしているのを見て、どこに行けばあの学校があるのだろうとか、ひそかにあこがれて羨ましかったことを憶えています。【戦後は遠くなりにけり】ですね。

投稿: mitsuko | 2016年1月21日 (木) 01時28分

 野坂昭如を知ったのは、「プレイボーイ入門」という本を出した時でした。サングラスのいかにも当時のプレイボーイ風でした。ところが、その後、あまり女性に持てた経験がない人だと知りました(ホントかどうか知らないけれど)。
 本当は「火垂るの墓」のような純文学作家だったんですね。酒乱で、大島渚のパ-ティで大島渚を殴ったり、キックボクサーになったり、田中角栄の金権政治を批判して、対抗馬になって選挙に出て落選したり、挑戦者でした。
 志賀直哉と対象的に、文章が長いのも特徴でしたね。でも、やりたいことをやって逝ったのですから、幸せな人生だったのでしょうね。戦争で妹をなくした痛恨の経験が痛ましいけれど…。

投稿: 吟二 | 2016年1月22日 (金) 23時10分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 荒野の果てに | トップページ | ゆき »