岩尾別旅情
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞・作曲・唄:さとう宗幸
1 北の涯(はて)知床(しれとこ)の |
《蛇足》 昭和53年(1978)5月5日に発売したデビュー曲『青葉城恋唄』がいきなり大ヒット。これに続いて、同年11月21日にリリースしたのがこの曲。
前作で示された独特のリリシズムは、この曲でも遺憾なく発揮されています。
歌の舞台となった「岩尾別の宿」は「知床岩尾別ユースホステル」(上の写真)で、北海道斜里郡斜里町岩尾別にあります。さとう宗幸が滞在したころは、まだ電気がなく、ランプだったようです。現在は自家発電を行っていますが、電線はまだ通っていません。
知床が世界遺産に指定されて観光開発が進んだ今も、交通は不便ですが、その不便さを愛する若者の来訪があとを絶たないといいます。
『岩尾別旅情』が発表されてから、宿泊中の若者たちがこの曲を合唱するのが習わしになっていたと聞きますが、今はどうなんでしょう。
学生時代、私も何度かユースホステルを利用しました。人といっしょに何かをするのが苦手な私には、ペアレントと称する管理人のリードのもと、宿泊者たちがゲームをしたり、歌を歌ったりする「ミーティング」が嫌でした。
相部屋であること、夜10時に全館消灯されてしまうこともマイナスポイントでしたが、とにかく安いので、我慢して使いました。
こうしたシステムが不人気だったためか、現在ではミーティングをしないユースホステルが多くなったそうですし、消灯後も食堂兼用の集会室では明かりがつけられ、仲間と語り合ったりすることができるようになっているようです。
歌詞に出てくるエゾニューは、セリ科シシウド属の多年草で、夏に花を咲かせます。北海道のほか、本州中部以北の比較的標高の高い地域に分布しています(右の写真)。
私にとって忘れがたいのは、伊豆・湯ヶ島と松崎のユースホステル。ああ、あれから長い年月が経ってしまいました。
(二木紘三)
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コメント
ユースホステル(YH)はドイツから起こった宿泊施設の一形式で、若者に安価で健全な旅の宿を提供する運動(YH運動)としてヨーロッパを中心に広がりました。同じくドイツから起こったワンダーフォーゲル運動と相俟って、国立公園などの自然豊かな環境に設立されることが多かったようですが、わが国では民間の宿の一部を安く提供してもらっただけの『相部屋の民宿』に過ぎない施設も多かったのが実情です。私は旅が好きでしたので、よくYHを利用させてもらいました。北海道には当時の若者の間で有名な名物YHがあり、夏の間は予約が難しいこともありました。
学生時代北海道を一周した際に知床へも行っていますが、岩尾別は不便過ぎて行っておりません。さとう宗幸さんには、青葉城恋歌がヒットする前に歌声喫茶で歌っているのに出会っています。場所は東北一周の旅をしている最中に、何気なく入った仙台の喫茶店でした。
YHにはペアレントの他、ヘルパーと呼ばれるアルバイト学生が居て、食事の支度や掃除などの雑用を行っていました。時々、ギターと歌が上手なヘルパーがミーティングで合唱をリードしているYHがありました。そのようなヘルパーにはフォーク歌手志望のフリーター?と思われる人が多かった気がします。
投稿: Yoshi | 2016年3月18日 (金) 15時43分
私は青葉城恋歌も。彼の「フオ、フオ」という歌声も大嫌いでしたが、ダークが唄っていたこの「岩尾別旅情」の凛々しいメロディに嵌ってしまいました。
ほんとにいい歌だと思います。
投稿: ゆく | 2016年3月18日 (金) 21時09分
この歌は初めて聞きました。沈んだ、寂しい旋律ですが、綺麗な抒情歌ですね。思わず口ずさみたくなります。しかし、どこかロシア民謡を思い出させる部分があります。出だしと終わりの小節にとくに感じるのですが、皆さんはどう思われますか。岩尾別という、北の最果ての地、オホーツク海にも面したロシア領に近いロケーションが、さとう宗幸をして、この歌を無意識にロシア民謡的調べにしたのでしょうか。
わたしの学生時代(昭和30年代前半)には、ユースホステル(YH)は、まだ施設も少なく、利用者も少なかったように思います。わたしの学生時代によく利用したのは、各大学の寮でした。とくに夏季休暇には、帰省する学生が多いため、ほとんどただ同然で泊まることができましたが、プライベート尊重の今の時代では、あり得ないでしょうね。また、今の安全、衛生、清潔をよしとする時代風潮では、他人の寝具を借りて寝るなんて考えられないでしょう。弊衣破帽をよしとし、腰に汚い手拭いをぶら下げて、大道を闊歩する旧制高校生の名残りを、まだ留めていた時代の話です。
投稿: ひろし | 2016年3月22日 (火) 13時39分
二木先生ご無沙汰いたしております
久しぶりに 二木ワールドに 彷徨いはいって楽しませていただいています 大好きな曲 岩尾別旅情 が掲載され
また ユースホステル 北海道旅行が話題となり 心さわぎ書かせていただきます お許しください
今 古い 埃のつもったアルバムをひっぱりだしてきました 北海道一周旅行のものです
昭和42年8月1-22日
Yoshiさまが書かれておられるように 岩尾別は我々も行きませんでした 秘境だったからか 知名度のためだったのか 今では定かではありません シュラフをかついで貧乏旅行でしたので 野宿もあり 駅舎を宿とした日もありました ですから行こうという意志さえあればいけたのにーー 残念な気持ちになっています 共にめぐった仲間にきくと理由は明らかになるかもしれません
知床は ウトロに13日に着き 知床五湖 を廻り
ウトロの 王昭君泊 翌14日 知床半島を船で一周するつもりが その日は波たかく欠航 一日をウトロで過ごし その日も王昭君泊 王昭君の三姉妹に良くしていただいたと記録されています 毎日移動していたので良き休息だったのでしょう 15日 ウトロから羅臼まで遊覧船 こうして 夢のような古きよきページがすぎていきます
ところで これからは僕の記憶の問題です 実は この時 地元甲子園では 夏の高校野球の真最中 応援していた報徳がでており この知床周遊のあたりで期待に反して そのころはまだ弱小地域の東北のチームに負けたと記憶していたのですが アルバムには 14日ウトロで野球をみる 報徳が逆転勝ちした と記載されています
さて どちらが正しいのか ネットで調べましたが不明でした アルバムの方が正しいのでしょうね
逆転の報徳という言葉が使われだしたのは 昭和35? 36?年ごろの 報徳ー倉敷工 の奇跡の逆転劇からです 報徳 甲子園初出場の時でした 以後 しばらくは やせた もやしのような子達 が逆転でよく勝ちました なつかしいですね この記憶を共有する方も少数派となっていると感じると 過ぎ行く時の残酷さを思はざるをえません
奇跡の逆転劇の秘話を知ったのは その試合の二十年くらいたってからだったでしょうか 詳しくは書きませんが 監督が 勝負より 生徒たちとの約束を重んじた その決果 大逆転劇がおこっしまったのです 今ならマスコミは あの采配はおかしいと弱いものいじめをするでしょうね 真実がわかったとき ほっと胸をなでおろしたものです 監督と生徒たちとの約束が守られたことに 何ともいえぬ温かさを感じました 最近のスポーツには 数字 記録を追いかけすぎる傾向にあるのでは と思うこのごろです 甘いとお叱りをうける覚悟で クーベルタンの オリンピックは参加することに意義がある という言葉をつけさせていただきました
因みに 高校野球の最高の試合は と質問されると
これしかない 星陵ー箕島 の一戦 というでしょうね 鳥肌のたつドラマでも書けないストーリーでした
また 勝手なこと縷々かいてしまいました
二木先生 お許しください
この場を お借りして ひろしさま ご無沙汰いたしております 赤ひげ 何とかがんばっております ご安心ください 顎ひげは 真白になりましたがーー
投稿: 能勢の赤ひげ | 2016年6月30日 (木) 23時55分
全国高校野球選手権大会 昭和42年
1回戦 報徳学園(兵庫) 4 ― 3 大宮 (西関東・埼玉)
2回戦 東奥義塾(北奥羽・青森)2 ― 0 報徳学園(兵庫)
1回戦で報徳が後半点数を入れて、2回戦はゼロ点です。
書いてある順番に試合があったのなら、1回戦、2回戦は何日頃でしょうね。
朝日新聞 大会主催者が発行する年史からのようです。
http://www.asahi.com/koshien/
記録↓
http://www.asahi.com/koshien/stats/summer/y1967.html
因みに昭和42年8月14日は月曜日のようです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/accent/kazeno/calendar/sitemap.htm
https://duarbo.air-nifty.com/songs/2013/03/post-f44f.html
投稿: なち | 2016年7月 1日 (金) 06時43分
能勢の赤ひげ様
お久しぶりですね。赤ひげ様のコメントをまた読みたいと思っていた人は多いと思います。また楽しませてください。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2016年7月 1日 (金) 11時47分
能勢の赤ひげ様
この場をお借しりての挨拶をお許しください。
感無量です。
二木様ブログへのデビューが遅いりんごは
リアルタイムでの「能勢の赤ひげ様」はもう臨めないものと思っておりました。
みちのくのこの空も能勢に続いております。
ご活躍をお祈りいたしております。
投稿: りんご | 2016年7月 1日 (金) 13時40分
二木様、音程が違うと思う箇所があります。
「白いカモメはあそぶ」の「カモメはあそぶ」の部分がYoutubeの歌と聞き比べると音程に違いがあります。
お調べ戴けると幸いです。 京浜地区の歌声喫茶で広まりつつある抒情歌で、更に人気を呼びそうな勢いです。
投稿: タイチョー | 2017年3月17日 (金) 14時29分
タイチョー様
お知らせありがとうございました。
私が作ったmp3は楽譜(アット・エリーゼで購入)どおりでしたが、調べたところ、「かもめ」の3音がさとう宗幸のオリジナルより各1度低くなっていましたので、修正しました。
ただし、YouTubeでは、あるコーラスグループ(ボニー・ジャックスかな?)もオリジナルより各1度低く歌っています(https://www.youtube.com/watch?v=iOkmK8mBWPo)。
(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2017年3月17日 (金) 17時55分
うた物語に ご投稿の皆様 へ
今日、2019年4月1日から新しい年号「令和」に変わる歴史的な日に どなたがコメントされるのか楽しみに待っていましたが、今のところ どなたのコメントもありません。先日来、ココログのリニューアル後 いろいろなトラブルが発生して、肝心のうた物語へのリクエストが極端に減少しているのを見るにつけ、ちょっと寂しい気がしています。
交流掲示板への投稿も結構ですが、もっといろいろ聞きたい曲へのリクエストとそれに纏わる楽しいお話を聞きたいと願っています。
前置きはそのくらいにして・・・
私は北海道には3回ほど旅行し、都度レンタカーで色々廻りましたが、残念ながら岩尾別には行ったことがありません。このコメントを拝見しても、Yoshi様 や ひろし様、能勢の赤ひげ様 のような豊富な体験をされ、思い出多き学生時代を送られたであろう方々でさえ、この地に行かれたことがないと仰ってます。しかし、この曲を聞くたびに訪れたこともない岩尾別の風景が、あたかも訪れた時のような懐かしさをともなって涙ぐみたくなる程のリリカルな感情に襲われてしまいます。
柔和な微笑みを湛えながら甘くささやくような、さとう宗幸の歌声と旅情を誘うような詩とメロデイー 酔いしれますが、それにもまして、曲を聞きながらの二木先生の名解説が、潜在的に私達の胸に心地よいリリシズムの感情を起こさせてしまうことにもよるのだろうか・・・。
投稿: あこがれ | 2019年4月 1日 (月) 18時53分
あこがれさま
こんばんは
この 岩尾別旅情 素晴らしい曲ですね
北海道の 地理的特異性を基盤に
自然 と 人との ロマンチックな融合
はたまた 日露の異常な歴史 また その現実
まで 思い起こしてくれるーー
今日は ある知人が歌ってくれた
納沙布岬( 李成愛 )をYouTubeで聞きながら
一頻り 涙を流していました
かもめよ啼くな啼けばさみしさに
帰らぬ人をまた想いだす
-----
この言葉で 涙が 涙がーー
ほんの二か月前 京都の 歌の友人 (年長の女性でした)
が亡くなられました
祇園の 歌う会?? 飲む会??で知り合いになり 15年?
彼女は 常に 行動を伴にする I さんと二人
会の開かれる店は 繩手から 少しはいったところ
二か月に一度くらいのペースで参加していました
その お二人と特別親しくさせていただいて
何か所かの 良い カラオケーー 歌えるところに
ご一緒させていただきました
彼女は コーラスもやっておられ
ボリュームのある 素晴らしい歌い方でした
去年の秋に発症され 1月に M 病院の
緩和病棟に入られ 2月の初めには亡くなられました
早かったです
1月に 励ましのため 行かせていただきました
I さんもおられ 明るい話に終始しましたが
帰るとき 小さなものを手渡されました
1枚のCD と メモでした
[ 1年に一度だけでもいいから
さよならの夏のころ このCDを聴いてね
たか子 ]
彼女の歌った さよならの夏
愛の道標
スタンド アローン
の3曲のCDでした
人 との別れ ほんとうに辛いです
涙を流し 彼女を思い出しながら
道東の 根室半島 知床半島
を彷徨っています
投稿: 能勢の赤ひげ | 2019年4月 4日 (木) 03時39分
能勢の赤ひげ 様
交流掲示板に、コメントさせて頂きます。
投稿: あこがれ | 2019年4月 4日 (木) 11時53分
この曲をネットで聞いた時、なんと素晴らしい叙情歌と、我が耳を疑いました。詩が特に良いですね、3コーラスの出だし
「別れてゆく知床の、、、、、手を振る君の姿は花の影に消えた」こんな簡単な詩でも胸を打ちますね。この曲がメジャーになって欲しいです。カラオケにはありますよ。KYになりますが、あえて歌って自画自賛。((笑)
投稿: なんとかなるさ | 2019年8月22日 (木) 12時53分
北海道を主題にした曲には素晴らしいものがたくさんあります。「知床旅情」「小樽の人よ」「旅の終わりに」等々。この「岩尾別旅情」には数年前このブログでであいました。心地よいメロディーですぐ歌い始めましたが、余りに描かれた詩が美しすぎて、飽きてしまいました。美しいばかりでは味が付かないのかとバカな感想を持ちました。
しかし、3番の歌詞には思いをはせるところがあり、今も時には口ずさんでいます。
さて、私も蛇足でコメントします。
このブログを読んでいて思わぬ発見をしました。能勢の赤ひげ様と丁度同じ時期に私も「カニ族」としてユースホステルを使っての北海道旅行をしていたのです。(昭和42年7月31日~8月11日)。洞爺湖を皮切りに襟裳、釧路、網走、旭川と左周りで周遊しました。赤ひげさまと同様岩尾別には寄れませんでしたが、どこかで赤ひげ様と近接していたのではと楽しい想像をしています。
投稿: 伊勢の茜雲 | 2021年5月 3日 (月) 14時13分
この歌はさとう宗幸らしい歌であって歌い方が素晴らしいと思います。私は家族旅行の時ウトロから体調不良
で女満別空港で娘に付き添われ羽田空港に飛んだ苦い想い出があります。
投稿: 海道 | 2022年7月22日 (金) 13時32分
岩尾別YHが閉館して2年との情報があります。皆さんそれぞれにYHについての思いがあるようですが、コメントの最初にyoshiさんがお書きになっているようにドイツでシルマン氏が始めた運動で若者が容易に各地を旅し見聞を広めるのが目的で、学校や教会が宿泊施設でした。昭和35,6年は日本にYH協会が出来て10年、女子でも安心して旅行できるシステムとして人気が高まっていました。鉄筋の立派な公営のYH、旅館やお寺を利用したYHと様々ですが、単に安宿と考える向きも多かったと思います。HOSTELは仏語由来のようですが、我々はhospitality+hotelと教えられていました。今に思えば20前後の男女が幼稚園のような歌や踊りをやっていたのですがこういうミーティング抜きにYH運動は成り立ちません。シーツを封筒状にしたホステルシーツを持参し、1泊2食で400円位、ラーメンが40-50円の時代です。大学でもYHを軸にしたクラブが出来たのも此の頃で、昭和36年には浜名湖の白砂亭で東西の10程の大学でYHクラブ連盟が出来ました。オリンピックもあり海外からの客も増えYHは急増しましたが、日本も豊かになり交通も発達しYHも次々閉鎖されて行きました。しかし協会は健在で今も国内に200を超える施設があります。欧米の人はYHに馴染みがあるので需要は多いようです。トイレ一つにしてもこの50年、旧式からウオシュレットまでの変化を思うとYHも変わらざるを得ないのでしょうね。
岩尾別は訪ねたことはありませんが、後年仕事で冬の斜里に泊まったことがあります。宿にはおが屑を油で固めたバウムクーヘンのような薪ストーブがあり、斜里高校の先生と凍てつくような岸壁際のラーメン屋台で飲んだ記憶があります。
今まだ終わってはいませんが、岩尾別近く「波荒いオホーツクに」姿を消された遊覧船の人たちの「君の声」はもう聞けないのでしょうか。
投稿: しょうちゃん | 2022年7月22日 (金) 21時47分
先生は「ミーティング」がお嫌いだったそうですが、私はそれを目当てにユースホステルを渡り歩いた経験があります。誰とでも仲良く語り合えるそんな魅力がありました。個人主義と言っても孫達が対面授業を望んだのもその現れではと感じています。
投稿: 海道 | 2023年5月25日 (木) 16時17分