さのさ節
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1 恋しさに 雨戸引き明け眺むれば |
《蛇足》 明治30年(1897)ごろから流行り始めた大衆歌謡。大正の初めまでが流行期でしたが、その後もお座敷唄として歌い継がれてきました。
次々と歌詞が付け加えられ、また歌詞の組み合わせも変わったので、これがスタンダードという歌詞はありません。どの歌詞でも、各聯の最後に「さのさ」という囃子詞がつくことから、『さのさ節』と呼ばれるようになりました。
上の歌詞は、高山彦九郎や曾我の兄弟が出てくることから、初期の歌詞の1つだと思われます。
『さのさ節』は、明治初期から昭和初期まで歌われた『法界節(ほうかいぶし)』から出たものとされます。歌の中で、「ホーカイ」という言葉が繰り返されるのが曲名の由来。法界は囃子詞のようなもので、とくに意味はないようです。
『法界節』は、門付け芸人の主要なレーパートリーの1つでしたが、ほかの歌を歌う芸人も法界屋と呼ばれました。
法界屋は、明治から昭和初期までは、日常生活におけるありふれた存在だったようで、芥川龍之介の『本所両国』『追憶』、岡本綺堂『銀座の朝』、夢野久作『悪魔祈祷書』、志賀直哉『真鶴』には、法界屋とか法界節という言葉が出てきます。
『法界節』の原曲は、江戸時代に清国から長崎に伝わった『九連環』という恋歌だとされます。最初は長崎の花街で歌われ、そこから全国に広まったようです。こうした経緯から、『九連環』は『唐人節』とか『長崎節』とも呼ばれました。
『九連環』からは、江戸時代から幕末にかけて庶民に歌われた『かんかんのう』(『かんかん踊り』とも)も生まれています。歌詞は、中国語の歌詞の音訳がさらに変化したもので、意味はちんぷんかんぷんです。
私が『かんかんのう』という歌を知ったのは、古典落語の『らくだ』でした。気の弱いくず屋が、頓死したやくざ・らくだの兄貴分に強制されて、大家の家でらくだの死体に『かんかんのう』を踊らせるという話です。
気弱なくず屋と強面(こわもて)のやくざの立場が次第に逆転していく過程が愉快でした。
上の歌詞に出てくる高山彦九郎は、江戸・寛政期の尊皇思想家。同時期にロシアに対する海防論を唱えた林子平、海防論者で尊皇思想家の蒲生君平(がもう・くんぺい)とともに、「寛政の三奇人」と称されました。
奇人と呼ばれたのは、その思想や業績が尊敬される一方で、奇行が多かったことによります。
高山彦九郎は、上京するたびに三条大橋で皇居の方向に向かって土下座し、「草莽(そうもう)の臣、高山彦九郎でございます」と叫んだといいます。
三条大橋の東のたもとに、「高山彦九郎皇居望拝之像」という銅像が建っています。その姿は、膝と手をついているものの、顔を上げているため、土下座ではないという人もいますが、まず土下座をしてから皇居を望拝したと思われるので、土下座でもまちがいとはいえないでしょう。
ついでながら、土下座とは地面に直に座って平伏することなので、畳や床の上で平伏するのは土下座とはいいません。
高山彦九郎については、足利家の菩提寺・等持院にある尊氏の墓を、「この国賊め」とののしりながら、何十回も鞭で打ったという話が伝わっています。
曾我兄弟の仇討ちは、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行った際、曾我祐成(すけなり)・時致(ときむね)の兄弟が、父親の仇である工藤祐経(すけつね)を討った事件。
荒木又右衛門・渡辺数馬による伊賀・鍵屋の辻の決闘、赤穂浪士の討ち入りとともに、「日本三大仇討ち」の1つとされています。
私は、「日本三大仇討ち」という言葉を聞くたびに、なぜ浄瑠璃坂の仇討ちが入っていないんだろう、と疑問に思ったものです。浄瑠璃坂の仇討ちは、赤穂浪士討ち入りの30年前に起きた大事件です。
宇都宮藩・奥平家の内紛に端を発した仇討ちで、参加人数の多さや劇的な展開は、赤穂事件に劣るものではありません。
赤穂浪士たちは、討ち入りの方法や本懐を遂げたあとの進退などについて、浄瑠璃坂の仇討ちを参考にしたといわれます。
三大美女、三大夜景、三奇人など、三で括る場合、どれかを落とさざるを得ず、仇討ちでは浄瑠璃坂の仇討ちが落とされたのでしょう。「江戸時代の三大仇討ち」という括りなら、当然、浄瑠璃坂の仇討ちが入るはずです。
『さのさ節』からは編曲された歌がいくつか生まれています。私の記憶に残っているのは、江利チエミが歌った『さのさ』。三井良尚の作詞で、レコードは昭和33年(1958)11月に発売されました。かなり編曲されているので、上のメロディでは歌えないかと思いますが、歌詞を挙げておきます。
なんだ なんだ なんだ ネー
あんな男の 一人や二人
欲しくばあげましょう のしつけて
アーラ とはいうものの ネー
あの人は 初めて
あたしが ほれた人好きなのよ 好きなのよ
とっても好きなの
死ぬほど 好きなのよ
だけれど あなたにゃ わからない
アーラ それでいいのよ ネー
あたしだけ 待ちましょう 待ちましょう
来る春を…
でも さみしいのよ
(二木紘三)
コメント
江利チエミの歌う「さのさ」は、粋な着物と日本髪が記憶に残っています。彼女の中でも好きでした。元の歌詞はこのようだったのですね。俗謡と言いつつ、ある種の品があって、今と比べ、当時使われた言葉の水準の高さが感じられます。
投稿: Bianca | 2016年4月28日 (木) 14時51分
チエミの「さのさ節」の歌詞
前半がいいね
べそをかきたいのを辛くもこらえての
強がりのセリフ
いいね
彼女の表情がとっても素敵だったわ。
今は遠い昔語り
想い出は美しすぎて・・・
Au revoir
投稿: トッコ | 2016年4月28日 (木) 20時00分
『蛇足』に、さのさ節は法界節から出たと考えられるとあります。なるほど、曽我兄弟や高山彦九郎などの教訓めいた話もふくまれるわけです。最近のほとんどの歌は、聞けば聞くほど教養から遠ざかっていくような気がします。
私ごとながら、昔、説教節に興味をもち「俊徳丸」「山椒大夫」「刈萱」などは現地(東大阪、若狭、高野山)に行くほどのめりこみました。民間の口承文芸というのは、素晴らしい。小沢昭一さんがそういう芸能を伝えようとがんばってましたね。
さのさ節も、都都逸、新内、小唄、端唄と同じく、お座敷歌ですが、歌う人と聞く人が一体になって一種の歌垣を作っていたように思います。アドリブで出てくる歌詞もあるわけで、聞くほうも、一句一言聞き漏らすまいという真剣さがあった。
今のカラオケはどうでしょう。他人が歌っている時に、自分の次に歌う曲目をせわしなく選んでいる。あるいは、スマホの画面をのぞいている。歌い終わった時だけ、おあいその拍手をする。「ナイスよ!」とか言って・・聞いたふりしてるだけじゃないか。
私、カラオケが、どうも好きになれませんわ。
投稿: 紅孔雀 | 2016年5月 3日 (火) 14時47分
この歌は、ここに投稿されている方はみな江利チエミの歌詞が馴染み深いように思います。私もそうです。
二木先生をはじめ、皆さんの教養に教えられ、とても勉強になります。やはり、このサイトは「人は自分をもっと高めたい本能がある」と、どなたかが昔言われたことが「本当だな」と思わせるところが楽しいです。
投稿: 吟二 | 2016年5月 6日 (金) 18時48分
『蛇足』関連のコメントです。
浅学にして、浄瑠璃坂の仇討ちは知りませんでした。
67歳、「たどりきて いまだ山麓」(升田名人)の心境です。すこし勉強しました。
浄瑠璃坂の仇討ちは決起した理由が、なにかわかりにくい。幕府の裁定が不平等かどうか、判断の別れるところ。しかも、切りかかった方が断然人徳があった。そうなると仇討ちが逆恨みっぽい。
赤穂の場合は堪え性のない単純な殿様で、それでも仇討ちをした。最後はみんな死ぬ。
日本人は玉砕が好きみたい。白虎隊で生き残った者や特攻隊で生き残った者が、どれほど生きづらい思いをしたことか、・・。死んだらクリアーされるっておかしいですね。
日本人はいい意味でも悪い意味でも、世界でもまれな単細胞な民族だと思います。
投稿: 七色仮面 | 2016年5月15日 (日) 15時05分