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2016年6月 1日 (水)

孝女白菊の歌

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:落合直文、作曲:不詳

           その一

Kou1

阿蘇の山里秋ふけて 眺さびしきゆふまぐれ
いづこの寺の鐘ならむ 諸行無常と告げわたる
をりしもひとり門(かど)にいで 父を待つなる少女(をとめ)あり
年は十四の春あさく 色香ふくめるそのさまは
梅かさくらかわかねども 末たのもしく見えにけり
父は先つ日遊獵(かり)にいで 今なほおとづれなしとかや

軒に落ちくる木の葉にも 筧(かけひ)の水のひゞきにも
父やかへるとうたがはれ 夜な夜な眠るひまもなし
わきて雨ふるさ夜中は 庭の芭蕉のおとしげく
なくなる虫のこゑごゑに いとゞあはれをそへにけり
かゝるさびしき夜半なれば ひとりおもひにたへざらむ
菅の小笠(をがさ)に杖とりて いでゆくさまぞあはれなる

Kou2

八重の山路をわけゆけば 雨はいよいよふりしきり
さらぬもしげき袖の露 あはれいくたびしぼるらむ
にはかに空の雲はれて 月のひかりはさしそへど
父をしたひてまよひゆく こゝろの闇にはかひぞなき
遠くかなたをながむれば ともし火ひとつぞほの見ゆる
いづこの里かわかねども それをしるべにたどりゆく

松杉あまたたちならび あやしき寺のそのうちに
讀經(どきやう)のこゑのきこゆるは いかなる人のおこなひか
(まがき)もなかばやれくづれ 庭には人のあともなく
月のかげのみさえさえて 梢(こずゑ)のあたり風ぞふく
門べにたちておとなへば かすかにいらふ聲すなり
待つまほどなく年わかき 山僧ひとりいでて來ぬ

Kou3

いかにあやしと思ひけむ しばし見てありこなたをば
少女はそれと知るよりも やがてまぢかくすゝみより
(われ)はあやしきものならず 父をたづねてきつるなり
ゆくへを君のしりまさば 敎へてよかしそのゆくへ
少女の姿をよく見れば にほへる花のかほばせに
やなぎの髮のみだれたる この世のものにもあらぬなり

山僧こゝろやとけぬらむ 少女をおくにさそひゆき
ぬしはいづこの誰なるか つばらにかたれ家も名も
をりしも風のふきすさび あたりのけしきものすごく
軒の梢にむさゝびの なくなる聲さへきこゆなり
少女はいよいよたへがたく おつる涙をかきはらひ
妾はもとは熊本の ある武士(ものゝふ)のむすめなり

Kou4

はじめは家も富みさかえ こゝろゆたかにありければ
月と花とに身をよせて たのしく世をばおくりにき
一とせいくさはじまりて 靑き千草も血にまみれ
ふきくる風はなまぐさく 砲のひゞきもたえまなし
親は子をよび子は親に わかれわかれてあちこちに
にげゆくさまはあはれとも うしともいはむ悲しとも

この時母ともろともに 阿蘇のおくまでのがれしが
ながめられけり朝夕に なれし故鄕(ふるさと)その空を
人のことばに父上は 賊にくみしてましますと
きくよりいとゞ胸つぶれ 袖のひるまもあらざりき
あけくれ父を待つほどに はやくも秋の風たちて
雲井(くもゐ)の雁はかへれども 音づれだにもなかりけり

母はおもひに堪へかねて やまひの床につきしより
日毎日毎におもりゆき つひにはかなく世を去りぬ
父の生死もわかぬまに 母さへかへらずなりぬれば
夢にゆめみしこゝちして おもへば今なほ身にぞしむ
いかにつれなきわが身ぞと 思ひかこちてありつるに
神のたすけか去年(こぞ)の春 父は家にぞかへり來し

Kou5

母のうせぬときゝしより たゞになげきてありけるが
うき世のならひとなぐさめて この年月はすぐしたり
先つ日遊獵(かり)にといでしより 待てどくらせどかへらねば
またも心にたのみなく かゝる山路にたづねきぬ
妾の氏は本田にて 名は白菊とよびにけり
父は昭利(あきとし)母は竹 兄は昭英(あきひで)その兄は

おこなひあしく父上の いかりにふれて家出しぬ
風のあしたも雨の夜も しのばぬ時のなきものを
いづこの空にまよふらむ 今なほゆくへのわかぬなり
これをきくより山僧は にはかに顔のけしきかへ
ものをも言はず墨染の そでをしぼりて泣き居たり
とにもかくにもこの寺に 一夜あかせとすゝめてし

Kou6

この山僧のこゝろには ふかき思ひのあるならむ
少女はそれと知りたるか はた知らざるかわかざれど
さすがに否ともいなみかね その夜はそこにかりねせり
ぬる間ほどなく戸をあけて あやしく父ぞ入りきたる
まくらべ近くさしよりて 聲もあはれに涙ぐみ
われあやまりて谷におち 今は千尋(ちひろ)のそこにあり

谷は荊棘(いばら)のおひしげり いでてきぬべき道もなし
明日だに知らぬわが命 せめてはこの世のわかれにと
子を思ふてふ夜の鶴 泣く泣くこゝにたづねきぬ
ことばをはらぬそのさきに 裾ひきとめて父上と
呼ばむとすればあともなく 窓のともしびかげくらし
夢かうつゝかあらぬかと 思ひみだれてあるほどに
あかつき近くなりぬらむ 木魚のこゑもたゆむなり

Kou7

           その二

夜もやうやうにあけはなれ 心もなにかありあけの
月のひかりの影おちて 庭のやり水おとすごし
少女は寺をたちいでて まだものぐらき杉むらを
たどりてゆけば遠(をち)かたに きつねの聲もきこゆなり
道のゆくての枯尾花 おとさやさやにうちなびき
ふきくる風の身にしみて さむさもいとゞまさりけり

巖根(いはね)こゞしき山坂を のぼりつおりつゆくほどに
みやまの奥にやなりぬらむ 人かげだにも見えぬなり
梢のあたりきこゆるは いかなる鳥のこゑならむ
木かげをはしるけだものは 熊てふものにやあるならむ
こゝは高嶺かしら雲の 袖のあたりをすぎて行く
わが身をのせてはしるかと 思へばいとゞおそろしや

Kou8

はるばる四方(よも)を見わたせば 山また山のはてもなし
父はいづこにおはすらむ かへりみすれどかひぞなき
をりしもあとより聲たてゝ 山賊(やまだち)あまたよせきたり
にぐる少女をひきとらへ かたくその手をいましめぬ
あなおそろしとさけべども 人なき山のおくなれば
山彦ならで外にまた こたへむものもなかりけり

山のがけぢををれめぐり 谷の下みちゆきかよひ
ともなはれつゝゆくほどに あやしき家にぞいたりける
やれかゝりたる竹の垣 くづれがちなる苔の壁
あたりは木々にとざされて 夕日のかげもてりやらず
内よりしれものいできたり 少女のすがた見つるより
めでたきえものと思ひけむ ほてうち笑ふさまにくし

Kou9_2

かねてまうけやしたりけむ 酒と肴を取りいでて
のみつくらひつするさまは 世にいふ鬼にことならず
(かしら)とおぼしきものひとり 少女のもとにさしよりて
汝のこゝにとらはれて きたるはふかきえにしなり
今よりわれを夫(せ)とたのみ この世のかぎり仕へてや
わが家に久しく秘めおける いとも妙なる小琴(をごと)あり

幾千代かけてちぎりせむ 今日のむしろの喜びに
かなでてわれにきかせてよ 唄ひてわれをなぐさめよ
かりにも辭(いな)まむその時は 劒の山にのぼらせて
針の林をわけさせて からきうきめを見せやらむ
少女はいなとおもへども いなみがたくや思ひけむ
なくなく小琴をひきよせて しらべいでしぞあはれなる

Kou10

風やこずゑをわたるらむ 雁やみそらをゆくならむ
軒端(のきば)を雨やすぎぬらむ 岸にや波のよせくらむ
いとも妙なるしらべには かしこき神もまひやせむ
いともめでたき手ぶりには ひそめる龍もをどるべし
嵯峨野のおくにしらべけむ 想夫戀(さうふれん)にはあらねども
父のゆくへをしのぶなる 心はなにかかはるべき

峯のあらしか松風か たづぬる人の琴の音か
ひとり木陰にたゝずみて きゝ居し人やたれならむ
たづぬる人のつま音と いよゝ心にさとりけむ
しらべの終る折しもあれ 斬りて入りしぞいさましき
刃のひかりにおそれけむ とみのことにやおぢにけむ
斬られて叫ぶものもあり 逐(お)はれてにぐるものもあり

Kou11

斬りて入りにしその人の すがたはそれとわかねども
身に纏(まと)ひしは墨染の ころもの袖と知られたり
わなゝく少女の手をばとり 月のかげさす窓にきて
なおどろきそおどろきそ われは汝の兄なるを
いざこまやかに語りなむ 心をしづめてきゝねかし
父のいかりにふれしより こゝろにおもふことありて

(あづま)の都にのぼらむと 筑紫の海をば舟出しぬ
あらき波路のかぢまくら かさねかさねて須磨明石
淡路の島をこぎめぐり 武庫(むこ)の浦にぞはてにける
こゝより陸路(くがぢ)をたどりしに ころはやよひの末なれば
並木のあたり風ふきて 衣のそでに花ぞちる
都につきしその後は たゞ文机(ふづくえ)によりゐつゝ

Kou12

朝夕ならひし千々(ちぢ)のふみ はじめて人の道知りぬ
父のめぐみを知るごとに 母のなさけを知るたびに
悔しきことのみおほかれば 泣きてその日をおくりけり
こゝろあらため仕へむと ふる里さしてかへりしに
いくさのありしあとなれば そのさびしさぞたゞならぬ
見わたすかぎりは野となりて むかしのかげもあらしふく

尾花が袖もうちやつれ つゆの玉のみちりみだる
こやわが家のあとならむ そや父母の遺骸(から)ならむ
照らす夕日のかげうすく ちまたの柳に鴉なく
たのみすくなきわが身ぞと 思ひわぶればわぶるほど
うき世のことのいとはれて かの山寺にのがれけり
朝夕讀經をするごとに はてなき事のみかこたれて

Kou13

よみゆく文字の數よりも しげきは袖のなみだなり
昨夜そなたのたづねきて かたる言葉をきゝしとき
わがうれしさはそもいかに わがかなしさはまたいかに
たゞにわが名を名のらむと おもひしかどもしかすがに
名のりかねたる身のつらさ 名のるよりなほつらかりき
あかつきふかくわかれしを 道にてこともやありなむと

汝を追ひきて今こゝに 汝をかくはたすけたり
そなたを助けし上からは 心にのこることもなし
この後なにのおもありて 父にふたゝびまみえまし
彼の世にありてまたばやと いひもはてぬに腰がたな
ぬく手も見せず一すぢに 切らむとすなりわが腹を
少女は見るより聲たてゝ かたくその手をおさへつゝ

泣きつさけびつなぐさむる こゝろの底やいかならむ
をりしも空の霜しろく 夜半のあらしの音たえて
雲間きえゆく月かげに かりがね遠くなきわたる


           その三

Kou14

四方(よも)にきこゆる虫の音も あはれよわるときく程に
ありあけ月夜かげきえて 峯のよこ雲わかれゆく
しづかにそこをたちいでて あたりのさまを眺むれば
軒の松風聲かれて あれたる庭に霜白し
手をばとられつとりつして かたみに山路をすぎゆけば
ゆふべの賊のむれならむ あとよりあまた追ひてきつ

山僧それと知りしかば はやくも少女を遁(のが)しやり
おのれはこゝにとゞまりて きりつきられつたゝかひつ
しげる林ををれめぐり 谷のかけ橋うちわたり
少女はからくにげしかど あとに心やのこるらむ
きられて痛手はおはせぬか 兄上さきくましませと
はるかに高嶺をうち眺め しのぶこゝろぞあはれなる

Kou15

道のかたへにしめゆひし 小祠(ほこら)はたれをまつるらむ
涙ながらにぬかづきて いのるもあはれその神に
そこに柴刈る翁(おきな)あり なくなる少女を見てしより
いかにあはれとおもひけむ こなたに近くよりてきぬ
事のよしをばたづねしに まことかなしきことなれば
翁は少女をなぐさめて わが家にともなひかへりけり

深くとざしゝ柴の門 なかばやれにし竹の垣
片山里のしづけさは ひるなほ夜にことならず
木々の木葉のちりみだれ まがきの菊のいろもなく
あらしは時雨をさそひきて 虫のなく音もいとさむし
父のゆくへに兄の身に 朝夕こゝろにかゝれども
ふかきなさけにほだされて しばしはそこにとゞまりぬ

Kou16

ひまゆく駒の足はやく 二とせ三とせは夢のまに
はかなく過ぎてまた更に のどけき春はめぐりきぬ
み山の里のならひにて 髮もすがたもみだせども
色香はいかでかうせやらむ あはれ名におふ菊の花
若菜つみにとうちむれて ちかき野澤にゆく道も
ならの林に一もとの 花のまじるがごとくなり

里の長なるなにがしは はやくもそれときゝつらむ
媒介(なかうど)ひとりたのみきて 長きちぎりをもとめしが
翁はいたくかしこみて こへるまにまにゆるしたり
少女はかくときゝしとき そのおどろきやいかならむ
袖もて顔はおほへども とゞめもかねつその涙
思ひまはせば母上の この世をさらむそのをりに

妾をちかくめしたまひ いひのこされしことぞある
ある年秋の末つかた 御墓(みはか)まうでのかへるさに
つゆけき野路をわけくれば 白菊あまたさきみてり
にほへる花のその中に あはれなく子の聲すなり
かゝるめでたき子だからを いかなる親かすてつらむ
悲しきことにてありけりと ひろひとりしはそなたなり

Kou17

菊さく野べにてあひたるも ふかきちぎりのあるならむ
千代に八千代に榮えよと やがてその名をおはせにき
更に告ぐべき事こそあれ 汝はたえて知らざれど
汝の兄ともたのむべく 夫(せ)といふべき人こそあれ
はやく家出をなしてより 今にゆくへはわかねども
この世にあらばかへり來む 老いたる父もましませば

かへり來らむそのをりは ゆくすゑかけて契りあひ
夫といひ妻とよばれつゝ この世たのしくおくりてよ
母のいまはの言の葉は 今なほ耳にのこりけり
いかでか敎へをそむくべき いかでか敎へにそむかれむ
さはいへこゝに來てしより 翁のめぐみはいとふかし
とやせむかくと人知れず 思ひまどふもあはれなり

かれを思ひて泣きしづみ これを思ひてうちなげき
思ふおもひはちゞなれど 死ぬるひとつにさだめてむ
をりしも媒介入り來り 少女におくりしそのものは
にしきの衣あやの袖 げにもまばゆく見えにけり
少女のこゝろのかなしさを あたりの人は知らざらむ
見つゝ翁のよろこべば 隣の嫗(おうな)も來て祝ふ

Kou18

時雨ふりきて照る月の かげもをぐらきさ夜中に
いづこをさして行くならむ 少女はしのびて家出しぬ
村里とほくはなれきて 川風さむき小笹原
死ぬるいそぎてゆきゆけば 水音すごくむせぶなり
雲井をかへるかりがねも 小笹をわたる風の音も
にぐる少女のこゝろには 追手とのみやきこゆらむ

橋のたもとに身をかくし わが來しかたを眺むれば
遠里(とほざと)小野のともし火の 影より外(ほか)に影もなし
下に流るゝ川水の 底のこゝろは知らねども
あはれかなしきその音は 少女が死をやさそふらむ
死ぬるいのちはをしまねど かくと知らさむそのをりは
さこそなげかめ父上の いかにかこたむわが兄は

父上ゆるさせたまひてよ 兄上うらみなしたまひそ
この世をわれはさきだちて 母のみもとに待ちぬべし
南無阿彌陀佛といひすてゝ とばむとすればうしろより
まちてと呼びて引きとめし 人はいかなる人ならむ
おぼろ月夜のかげくらく さやかにそれとわかねども
春秋かけてしのびてし 兄と少女は知りてけり

Kou19

夢かうつゝかまぼろしか 思ひみだるゝさ夜中に
里のわらべのふきすさぶ 笛の音とほくきこゆなり
とひつとはれつ來しかたを きゝつきかれつゆく末を
ひと夜かたりてあかせども なほ言の葉やのこるらむ
わがふる里のこひしさに 道をいそぎて歸らむと
野こえ山こえゆきゆけば かすみたなびき花もさく

日數(ひかず)もいく日(ひ)ふる雨に ぬれてやつるゝたび衣
家にかへりしそのをりは 五月頃にやありつらむ
山ほとゝぎすなきしきり かどの立花かをるなり
しげる夏草ふみわけて 軒端をちかくたちよれば
むかししのぶの露ちりて 袖にかゝるもあはれなり
妻戸(つまど)おしあけ内みれば あやしく父はましましき

こなたのおどろきいかならむ かなたの嬉しさまたいかに
父上さきくとおとなへば 子らもさきくとこたふなり
事をこまかにきゝてより 父もあはれと思ひけむ
兄のいましめゆるしやり 妹(いも)のみさををほめにけり
親子の三人うちつどひ すぎにし事ども語りあひて
くむ盃のそのうちに うれしき影もうかぶらむ

Kou20
われあやまちて谷におち のぼらむすべもあらざれば
木の實(み)を拾ひ水のみて ながき月日をおくりにき
ある日のあしたおきいでて 峯のあたりを見あぐれば
ながくかゝれる藤かづら 上にましらの啼き叫ぶ
啼くなる聲のなにとなく こゝろありげにきこゆれば
神のたすけと攀ぢのぼり はじめて峯にのぼりえつ

うれしとあたりを見わたせば さきのましらはあともなく
木立のしげき山かげに 蟬のこゑのみきこゆなり
うき世のならひといひながら うき世の常とはいひながら
人になさけのうせはてゝ 獸にのこるぞあはれなる
父のことばをきゝ居たる 二人のこゝろやいかならむ
うれしと兄のたち舞へば たのしと妹もうたふなり

千代に八千代といひいひて ともによろこぶをりしもあれ
うしろの山の松が枝に ゆふ日かゝりて鶴ぞなく

《蛇足》 西南の役(明治10年〈1877〉)直後の九州阿蘇を舞台に、ひとりの少女の数奇な運命を描いた叙事詩で、全552行(552句)から成る、わが国ではあまり例のない長詩です。
 なお、上の表示では2句をもって1行とし、読みやすくするために6行ごとに1行空けています。これは機械的な段落分けであり、意味内容によって分けたものではありません。

 明治17年(1884)1月18・19・21日の『郵便報知新聞』に掲載された井上哲次郎の長篇漢詩『孝女白菊詩』に感動した落合直文が、かなり自由に七五調の和文叙事詩に訳出したもの。
 井上哲次郎は、阿蘇あたりで語り継がれていた伝承からこの詩を発想したといわれますが、確かなことはわかりません。
 井上哲次郎
(1856-1944)は、号を巽軒(そんけん)といい、西欧哲学をわが国に紹介した哲学者であるとともに、新体詩運動の先駆者でもありました。

 落合直文の『孝女白菊の歌』は、『東洋学会雑誌』に、明治21年(1888)2月と8月、翌22年の2月と5月の号に4回に分けて掲載されました。
 その後、これに加筆訂正したものが明治37年
(1904)刊の『萩之家遺稿』に収録されました。萩之家は落合直文の号です。
 上の詩は加筆訂正後のヴァージョンです。国立国会図書館「近代デジタルコレクション」収録の『萩之家遺稿』によりました。

 『孝女白菊の歌』は、初出以来『少年園』その他の雑誌に転載され、若い人を中心に当時の人びとを感動させました。フィクションであるにもかかわらず、いくつかの伝承を生みました。
 昭和33年
(1958)9月には、熊本県阿蘇郡長陽村(現南阿蘇村)に、松前重義(東海大学の創設者)によって石碑が建てられました。また最近、その近くに孝女白菊の像(タイトル下の写真)が建てられましたが、熊本地震でこのあたりに山崩れが起きたので、碑や像が無事かどうかはわかりません。

Dshiragiku  『孝女白菊の歌』に感動したのは日本人だけではありません。この詩が発表 されたころ、帝国大学(のち東京帝国大学→東京大学)でドイツ語やドイツ文学を講義していたカール・フローレンツは、井上巽軒の原詩をドイツ語に翻訳して出版したのです。
 "Weißaster: ein romantisches Epos"というタイトルで、
巽軒の他の漢詩や上田万年の詩、都々逸なども含まれていました(右の写真)

Ekoujo  さらに、同じころ慶應義塾で英語を教えていたイギリス人の宣教師、アーサー・ロイドは、フローレンツの訳書から英語に翻訳し、出版しました(左の写真)
 これらは、それぞれの本国でも評判になったようです。

 上の詩に入れた20枚の絵は、昭和4年(1929)3月に大日本雄辯会講談社から発行された『修養全集・第五巻』にあった岡田なみぢの挿絵をスキャンしたもの。横書き用に原画の左右を入れ替えました。90年ほど前の印刷なので、画質が粗末ですが、筋が追いやすくなるかと思って入れました。

 曲は、落合直文の詩の「その一」が発表されるとすぐつけられたようですが、作曲者は不明です。
 楽譜は、原詞の2句分、上の表示では1行分しかありません。これをずっと繰り返して歌ったようです。あまりに単調なので、最後の2つの音符を変えて、3行分を1単位として歌うようにアレンジしました。
 曲調は、当時の書生節や、歌謡曲に進化する前の演歌に似ています。

(二木紘三)

次のページに現代語の意訳があります)。

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コメント

孝女白菊の歌がこんなに長いとは知りませんでした。戦災で家が焼かれたとき本なども全てなくなり、ただ1冊疎開先にあったのは歌詞の本だけでした。国語辞典ぐらいの大きさで厚みは辞書2冊分ぐらいありました。最初が歌謡曲の始まりという「みやさん みやさん」でした。字が読めるようになった2年生ごろからこの歌詞の本をよく読んでいました。その中に孝女白菊がありました。何と可哀想な歌だろうと何回も何回も涙を拭きながら読みました。メロディはラジオで流れた時聴きました。出だしぐらいしか覚えておりません。赤茶けた本と涙を拭きながら読んだ小学校時代を思い出しました。こんなに難しい歌だったのですね。ここに載ったのも驚きでした。

投稿: ハコベの花 | 2016年6月 1日 (水) 17時59分

熊本空港から阿蘇を回り高千穂、西都原、宮崎と旅行して6月1日に帰ってきてこのブログを開いたら孝女白菊がアップされていて、こんな長い歌があったのかと驚きました。熊本着陸の際は海から市街地を降りてゆきますが、ブルーシートが点々とあって早い復興を願いました。空港からは阿蘇の北は道が駄目で大観峰を諦め南回りのグリーンロードを使いましたが高千穂に至るまでさしたる被害も見られず走りやすい道でした。阿蘇五岳を見晴らすところには地元企業が引き受けたグリーンピアがありとてもきれいなホテルでした。お客はまばらで風評被害が心配です。この下にある道の駅あそ望の郷に寄りましたが、孝女白菊を説明した小さい看板と像があり何となく眺めていた次第です。その先が白川の水源で協力金百円、結構な量の湧水でおいしく頂きました。ここも被害は感じられませんでした。高千穂の県営国民宿舎も立派なホテルで結構お客さんは来ていました。東九州自動車道も開通し、宮崎までも楽に行けます。西都原の古墳も昔より桁違いに整備が進んで必見です。

投稿: しょうちゃん | 2016年6月 3日 (金) 23時11分

 もとになった漢詩を書いた井上哲次郎といえば、内村鑑三の第一高等中学校不敬事件の時、激しく内村を攻撃した保守思想の親玉ですが、若い時にこのような漢詩を書いていたとは知りませんでした。
 子どもが行方不明の父や母をさがすといえば、『山椒大夫』『刈萱』『傾城阿波の鳴門』『番場の忠太郎』などを思い出すが、これらの話は、主人公が親に会う途中で悲惨なめにあったり、無情な親に知らんふりをされている。孝女白菊の話では、めでたしめでたしで終わっているが、何か釈然としない。
父が行方不明になったのは、深い谷に落ちて出られなかったという伝奇的な話になっている。父の失踪の発端が、西南戦争下の熊本で、熊本鎮台攻撃、田原坂の戦いなどをリアルに連想させるだけに、行方不明の理由が数年間深い森をさまよっていたという説明がなんとも・・
また白菊と兄が家に着いたら、あれほどさがしていた父がいた。勘当されていた兄もあっさり赦され、すべての問題が解決してしまう。家に帰ったら問題が解決したというラストは、『法華経』の衣裏(えり)の宝珠のたとえを髣髴とさせます。孝女白菊の場合は、他国放浪の苦難の意味もはっきりせず、とにかくめでたし、めでたし・・
 白菊の中に捨てられた娘が、か弱い身で父や兄を求めて幾山河を越えて行く・・まあそれだけでいいのかも知れませんが、明治17年の詩を味わうのは難しい。

投稿: 紅孔雀 | 2016年6月 4日 (土) 20時06分

熊本、阿蘇地方に続いた地震、被災された方々の難儀が心痛です。孝女白菊の歌初めて中味を知り長さに驚きました。現代語意訳大変お疲れさまでした。この詩文に倣って懐かしい戦前の唱歌のいくつかはできたのでは、と錯覚します。ご解説冒頭に西南の役に触れられています。父方の曾祖母の弟が、西南戦争に別働隊第三旅団参謀部の幕僚書記として従い、提出した「西南戦闘日注」とは別に、師に宛てた私信を、阪谷朗蘆氏資料目録中に見つけました。そこで厚かましくも、孝女白菊の歌の時代背景の参考に供すべく、二通(転戦した鹿児島から報告したものか、あるいはその要旨か)の紹介方をお許しください。

明治一〇年五月七日 三月二三日植木口大進撃 熊本城連絡御船進撃ヲ観 鹿児島上陸日夜羽檄ヲ草ス 当城人気悪シ西郷アルヲ知リ朝廷アルヲ知ラズ頑愚甚シ 連夜賊徒襲撃アルモ撃退 必死ノ賊文明ノ軍ニ敵シ得ズ 彼ノ言泰西兵制ノ妙ヲ知ル
明治一〇年六月四日 馬越恭平鹿児島ニ来リ面会 今回ノ戦状ハ新聞記者描出更ニ肇ヲ要セズ 熊本城中ヨリ奥少佐一大隊賊軍突破 川尻ニテ父老迎エ子弟ノ安否ヲ問ウ 死スルヲ聞ケバ御奉公ヲ済セリトコノ一言民権ヲ振起スルニ足ル 兵士ハ土民ヨリナリ士族ノ薩族ヲシテ舌ヲ巻カシム コノ徒民権ヲ首唱スル時ハ天下誰カ従ワザル 士族ノ民権論ハ真誠ノ民権論ニ非ズ (後略)
 備考年表 明治10年2月22日 薩摩軍熊本城包囲
           3月20日 田原坂の戦い
           4月15日 熊本城攻防戦終結
           9月24日 城山戦終

この手紙を書いた植松直久氏は明治一五年三七歳で病没。学閥箕作家から嫁いだ兼夫人とともに故山に眠っています。氏を慕った甥の龍太郎氏は慶應に学ぶも自由民権運動の壮士となり、明治二〇年帝都追放されました。が、その後も民権運動に挺身し、晩年は村政に尽くしました。場違いな情報の感がありますがご寛容ください。

投稿: 樹美 | 2016年6月 6日 (月) 14時07分

大変いい内容で感動しました。「孝女白菊の歌」の現代語訳はめったになく、参考になります。
ニ、三の気づいたことですが、ご確認の上、ご検討ください。
①『東洋学会雑誌』に3回に分けてとありますが、明治21年の2月と8月、22年の2月と5月の「4回」です。
②「タイトル下の石碑もその1つで、昭和33年9月・・・松前重義によって建てられたもの」とありますが、松前のは女の子の白菊像ではなく、文字の刻まれた石碑です。「孝女白菊 画像」で検索し、画像の中で、赤で確か松前の妻が「孝女白菊の碑」と書いたものです。少女の石碑は、つい最近のものです。
③岡田なみぢ の挿絵を取り入れ、わかりやすくした配慮は 素晴らしい の一言です

 「孝女白菊」が多くの方に読み続けられますように。また熊本の活性化になればと思います。

投稿: 大原敏行 | 2016年6月12日 (日) 17時02分

大原敏行様
ご注意ありがとうございました。資料をしっかり見たつもりですが、最近目が悪くなっているので、見間違いしたようです。さっそく修正しました。
雑な記事にお目を止めていただき、恐縮です。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2016年6月12日 (日) 22時16分

 「これは明治17年(1884)、『郵便報知新聞』に掲載された井上哲次郎の長篇漢詩『孝女白菊詩』に感動した落合直文が、かなり自由に七五調の和文叙事詩に訳出したもの」との二木先生の解説があります。 このような長編叙事詩は日本では珍しいと思いますが、私は、古代インドから広く伝わる「ラーマーヤナ」に関係するのではないかと思っています。
 これは、今から2000年ほど前に古代インドの大長編叙事詩で、ヒンドゥー教の聖典の一つであり、『マハーバーラタ』と並ぶインド2大叙事詩の1つです。サンスクリットで書かれ、全7巻、総行数は聖書にも並ぶ48,000行に及ぶそうです。成立は紀元3世紀頃で、詩人ヴァールミーキが、ヒンドゥー教の神話と古代英雄コーサラ国のラーマ王子の伝説を編纂したものとされます。いわゆる口承によってインド各地に広まり、この叙事詩を節に載せて24時間歌い続けるとか、48時間歌い続けるということを、現在のインドの大学教授から聞きました。
 日本では「ご詠歌」が似ているように思います。私は、母から物悲しい調べのご詠歌を子供の頃よく聞きました。内容はいわゆる道歌だったと思います。
 日本人(日本語)のルーツは諸説ありますが、ひとつは古代のトルコなどから、今で言う北インド→モンゴルを→朝鮮→日本へ伝わったという説です。英語や中国語と違い、どれも「主語+述語(目的語)+動詞」が共通です。
 この「孝女白菊の歌」は、北インドの一大叙事詩を詠う文化が日本に伝わったような気がしてなりません。

投稿: 吟二 | 2016年7月10日 (日) 21時01分

紅孔雀様
この場をお借りしての質問です。
ユーチューブでフランク永井の「東京午前三時」を
選んだら「紅孔雀」という方の本人歌唱の投稿でした。
偶然の一致でしょうか?
二木ブログにコメント氏の紅孔雀さまか否か気になりました。結構お上手でフランク永井の世界を再現なさってました。

なお、この孝女白菊は全く存じ上げず
話題に入れないのは残念です。

投稿: りんご | 2016年7月10日 (日) 21時14分

 りんご様
その方は私ではございません。
YOU TUBEにアップするほど歌は上手くありませんし、私、なんといいますか、もう少しシャイです。
時々「りんごの唄」をカラオケで歌いますが、その時も、目立たぬように はしゃがぬように・・です。(笑)

投稿: 紅孔雀 | 2016年7月11日 (月) 15時06分

紅孔雀様
やはり左様でございましたか?
ちょっと残念でもあります。
歌自慢の方も「ひゃら~りひゃらりこを」聴いた世代なのでしょうね。
今後ともコメントを楽しみにしております。

管理人の二木先生はじめ
ここに集う皆さまも向暑の折ご自愛ください。

投稿: りんご | 2016年7月11日 (月) 19時29分

この歌を読んだのは字が読めるようになった小学校2年生の頃でしょうか。疎開先で、字が読めないので眺めていました。戦災でたった1冊焼け残った本だと思います。本が全く無かったので毎日眺めていたと思います。字が読めるようになった小学校低学年の頃はこんなに可愛そうな女の子がいたのかと思って涙を流していましたが、高学年になると「こんな少女がいるわけがない」と思い涙を流すことはなくなりました。長い物語だったのですね。驚きました。でも本当にこんな少女が居たのかもしれませんね。二木様よくぞ調べて下さいました。涙を流しながら読んだ小学校の頃を思い出しています。最初の出だしの歌詞はまだ覚えています。時々可愛そうな美少女になった様な気持ちになります。

投稿: ハコベの花 | 2021年3月28日 (日) 16時50分

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