おもいで
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 ふたりはうれしくて 笑っていたのに |
《蛇足》 昭和28年(1953)に発表されたNHKラジオ歌謡の1つ。放送後は、ほかの何十というラジオ歌謡と同じく忘れ去られていました。私も、一度も聞いたことがありませんでした。
自然の中で生い育つ少年を歌った『少年時代』、幼なじみに心を寄せる思春期の少年を描いた『少年の秋』。その延長線上に、青春期の短い恋と別れをテーマとしたこの『おもいで』があります。
『少年の秋』と『おもいで』は、私が70代半ばになって初めて知った歌で、その出会いをうれしく思います。
青春期の恋と別れを歌った作品は数多くありますが、それらのなかでも、この静かな歌は、とりわけ自分の青春期を思い起こさせ、枯れかけた心に一掬の水を注いでくれる歌になりそうです。
「うれしくて笑っていたのに、涙がこぼれた」「黙っていても、切ないまでのしあわせ」……いとおしさが深まると、悲しみが出てくる。「愛(かな)し」は「悲し」と背中合わせなのです。悲しくなるまでに人を好きになれる人は少ない。
しかし、それほどの恋でも、別れはやってくる。別れが苦しければ苦しいほど、その恋の自分にとっての価値が高かったことになります。別れで恋が終わるわけではありません。別れたあとの苦しさまで含めて1つの恋なのです。
作詞者の中原淳一は、昭和2、30年代に思春期・青春期を送った人、とくに女性ならだれでも知っている名前で、今さら紹介するまでもありませんが、ほんの少し述べてみましょう。
終戦後、若い女性向けの『それいゆ』『ひまわり』『ジュニアそれいゆ』『女の部屋』を創刊、編集長として女性誌の基礎を作りました。画家として、それらの雑誌に独特の少女像を描くとともに、ファッションデザイナー、スタイリスト、インテリアデザイナー、人形作家、詩人などとして多彩な才能を発揮しました。
当時の少女雑誌や女性誌では、日本画の伝統を引いた挿画が主流でしたが、彼の描く少女像は、長いまつげに大きな瞳の西洋人形のような顔立ちでした。黒目の中に白い点を入れる手法は、その後の女性漫画家たちに大きな影響を与え、「大きな黒目の中のキラキラ星」という女性漫画特有の描画法が編み出されました。
多くの詩や訳詞も書いています。シャンソンのなかで私が最も好きな『ロマンス』の日本語詞は、中原淳一によるものです。
石川皓也(いしかわ・あきら)は、作曲家・編曲家として多くの作品を作っていますが、とりわけビゼーの曲をベースに編作曲した『小さな木の実』は、彼の創造力が遺憾なく発揮された傑作で、多くの人に感動を与えました。
(二木紘三)
コメント
物侘しい曲で「霧と話した」を思い出しました。
遠い昔の悲しい思い出を連れて来ました。
肌寒い中で聴くと、余計に心が傷みます。
CD ラジオ深夜便 『ラジオから聞えてきた思い出の歌、懐かしの歌』
http://www.nhk-ep.com/products/detail/h15163B1
投稿: なち | 2016年9月23日 (金) 06時14分
思い出というものは、年月を経ないとその時が自分にとってどのくらい価値があったのか、気が付かないものなのですね。悲しいことや辛いことに出会うと過去の楽しかったことが燦然と輝くのです。別れの悲しさまでが切ない甘さに変わってしまうようです。別れの歌を作る人はその切なさを何回も経験されているのでしょうね。私は今、何人の人に恋をしたのだろうと考えます。そして一番好きだった人は誰だろうと思います。真面目な秀才、容姿端麗で80歳になってもきちんとしている人、手紙を段ボール箱2杯くれた人、私を困らせた夫、あの世に逝く時、手を繋ぎたい人は誰なのか自分でもわかりません。
思い出に残る人は誰になるのでしょうか。ちょっと楽しみです。恋というものは不可思議なものです。
投稿: ハコベの花 | 2016年9月26日 (月) 21時01分
なち様のご紹介くださった「霧と話した」という歌を始めて聞きました。恋をした時の霧の中に迷い込んだような不安感が戻ってきたような気がしました。私の22歳は希望と不安が入り混じったまさに霧の中に包まれたような状態だったと思います。今でもその感覚は残っています。
加藤様、舘山寺を訪ねて下さって有難うございました。私が彼とボートに乗った日は初夏の穏やかな日でした。彼が入社した会社のヨット部だと言ったのでボートぐらいは漕げるだろうと思ったのです。私も何回か漕いだことはありました。おまけに言ってしまったのです。ボートが転覆してもこの湖の距離ぐらいは泳げるから大丈夫と・・・
何年かしてあのロープウエイの掛かっている距離を見た時、何と恐ろしいことを言ってしまったのだろうと、ぞっとしました。湖と言っても海と同じです。湖面の下は流れも速いし、服を着たままでは100メートルも泳げなかっただろうと。彼は慣れた手つきで漕いでいたから何事もなくて良かったと今でも思います。それとも二人で湖底に沈んでしまったらもっとロマンチックではなかったかと、恋は永遠になっていたかも。指先も触れないで別れてしまったけれどボートに乗って本当に良かったと思っています。
心の片隅にいつもボートに乗っている2人がいます。この思い出がなかったら私は夫との気の合わない結婚生活に耐えられなかったと思います。加藤様青春時代に帰ることができました。有難うございました。
投稿: ハコベの花 | 2016年9月29日 (木) 20時49分
この歌は初めて聴きました。もっとも、ラジオ歌謡は昭和21(1946)年8月から37年(1962)3月まで、全846曲(日本ラジオ歌謡研究会調べ)が放送されたそうですから、わたしの知らない歌が圧倒的に多いのも当然ですが。
それにしても、ハコベの花様はお幸せですね。叶わなかったとはいえ、若い頃の甘美な恋の思い出を詰めた「宝石箱」をお持ちなのですから。そして、今になって、その「宝石箱」をそっと開ける楽しみをお持ちなんて羨ましい。わたしの持っているのは、「箱」は「箱」でも「パンドラの箱」の類で、開けたら何が飛び出すか、危なくて閉めたままです。出来れば死ぬまで開けたくありません。まあ、これは冗談ですが。閑話休題。
作詞家の中原淳一は画家としてだけでなく、作詞家としても活躍していたのですね。《蛇足》に「長いまつげに大きな瞳の西洋人形のような顔立ち」の少女を描いたとありますが、わたしがこどもの頃、かれの絵にカルチャーショックをうけたことを思い出しました。確か小学校5年生の頃です。教室の片隅にある学級文庫、といっても小さな本棚が一つだけの、粗末な文庫ですが、児童図書とともに、少年・少女用の雑誌類も置かれていました。その中に、「ひまわり」という少女雑誌がありました。この表紙絵が「西洋人形のような顔立ち」の少女だったのです。5年生くらいになると、意識的に異性の雑誌を見ようとしません。みんなに冷やかされるのが嫌だったからです。見たい欲求はあるのですが、わざと関心がないように装うのです。わたしもそうでした。ですから、わたしがこの「ひまわり」を手に取ったのは、誰もいない放課後でした。この時のドキドキ感と、その「西洋人形のような」少女の絵の強烈な印象は、今でもよく覚えています。明らかに、それまでの竹久夢二や蕗谷虹児の描く「線の細い、なよなよした」感じの、伝統的な少女の絵とは違ったものでした。今の漫画やアニメに登場する少女の原型が、中原淳一にあるのも頷けます。
投稿: ひろし | 2016年10月 3日 (月) 15時26分
私は最近、仲良しだった従兄を思い出し、親戚に電話をしました。すると10年前に亡くなったと返事がありました。同じ市内に住んでいたのに全く知りませんでした。母方の従兄で同じ年でした。私が結婚するまでよく喫茶店でコーヒーを奢らせたり、本を貸し合ったり、恋の相談をしたり、時にはひどい喧嘩もしました。それでも付かず離れずの付き合いをしていたのです。従兄の友人たちが「付き合って下さい」というと「お前たちには付き合わせない」と全部断ってくれました。結婚後に一度道端ですれ違い「元気か」と話した以後出会ったことがなかったのです。元気でいると思っていました。亡くなったと聞いたときは本当に驚きました。今、思うと高校生の時は、友人以上恋人未満の存在だったような気がします。随分わがままを言っていじめたなあと今頃反省しています。幼い時からの付き合いをしみじみと思い出しています。逸男君いつもいじめてばかりいてごめんなさい。謝ります。もう一度会いたかった。
投稿: ハコベの花 | 2017年8月15日 (火) 21時52分
この歌を聴きながら、はこべの花さんのコメントに目を通していたら、涙でぼーっと霞んで前が見えなくなりました。あと何年がんばれるか・・・先のほうが短くなりましたが、ふっと私のことを思い出して尋ねてくれる人は果たして何人いるのだろうか?と、しみじみ思っています。
今から、六甲山荘に上がります。切ない思いを背負いながらの登山となりますが、明日は明るい心で下りてきたいと思います。
投稿: あこがれ | 2017年8月16日 (水) 08時19分
ここへ投稿してから従兄妹の数を数えたら全部で33人いました。今生きているのは11人でした。やはり年の近い従兄妹は遊んでありますから顔も覚えています。親戚は困った時に頼りになったりしますから昔は大事にしましたね。子供もいったり来たりしました。今、我が家の子供は私の実家以外全く親戚を知りません。親戚ではなく公的なものに頼るようになるのでしょう。息子に「お金だけが貴方の味方」と教えています。そういえば女の従姉の所へ泊りに行くと「ひまわり」や「それいゆ」という雑誌がありました。寝床でお菓子を食べながら読んでいました。楽しい思い出です。
あこがれ様 会いたい人がおありでしたら出来るだけ早くお会いになって下さい。小さい時遊んでくれたちょっと年上の従兄が60年ぶりに私に会いたいと言っていると聞いた時、心臓発作で亡くなっていました。その後、お墓に会いに行ってきました。お墓に会っても虚しいものです。でも、頑張って長生きしましょう。皆様とこうして会えるのが何と楽しい事か。長く生きられたお陰です。感謝です。いつの日かお目に掛かれるかも知れませんね。そう思って元気でいます。
投稿: ハコベの花 | 2017年8月17日 (木) 22時16分
1972年に最初の会社に入社しました。その年5月、沖縄が返還されました。ある日私の職場に部長に連れらた新入社員の紹介がありました。沖縄出身の少女達です。わが社で最年少の15才だそうでした。
僕が高1のときは親の庇護でぬくぬくと学校に行ってたのに彼女たちはもう家族と離れてこんなに遠くに来てしまったのか、と気がかりでした。しばらくしてそれとなく彼女たちの様子を聞いてみました。「若い連中が彼女たちの寮に遊びに行っているみたいだよ」とのことでした。会社には年齢が10代の社員も数人います。そうか、よかったなぁ、だったら寂しくないだろう、と思いました。僕(23才)は齢が離れすぎているので無邪気に彼女たちのところに遊びに行くわけにはゆきません。若者たちを羨ましく思いました。
翌年の夏、会社で六甲山のハイキングがありました。六甲山牧場を出て山道を歩いていると、視界が開け、眼下に大海原が広がりました。ウヮー素晴らしい! 大きな船、小さな船がゆったりと浮かんでいます。道は下りになりました。大海原を見下ろしながら下っていた隊列が突然止まりました。
どうしたんだ、どうしたんだ、と前方を見ると数人が集まっていて中に女の子が一人しゃがみこんでいて顔を伏せています。海を見ていて、家に帰りたい、と泣き出したそうなのです。沖縄から来たもう一人の女の子が背中をさすって慰めていましたが泣いている女の子は動きません。ハイキング仲間が集まって来て皆心配しました。
すると、慰めていた少女が立ち上がり皆から離れて道路の端によりました。そして、口に手をかざして海に向かって、「おかあさ~ん!」と叫んだのです。
これは当時誰もが知っているであろう有名なテレビコマーシャル”信州マルコメ味噌の、おかあさ~ん”です。
https://www.youtube.com/watch?v=xfwYrITQeiY
すると泣いていた女の子が立ち上がりました。バツの悪そうな照れ笑いを見せました。みんな良かった、良かったと思ったでしょうね。私もそうです。
翌年の暮れ、私は転職しました。その後しばらくして元の会社は無くなりました。あのハイキングに参加した社員それぞれに別れがあったと思います。あの少女二人にも別れがあったに違いありません。この曲”おもいで”はそれをしみじみと感じさせてくれます。
投稿: yoko | 2017年8月19日 (土) 10時21分
時々此方のページで聴いていたのですが、
少しでも試聴出来ればと検索したら、youtubeにありました。
大分前にアップされていたのですね。
https://www.youtube.com/watch?v=AI_RJXK2f-o
投稿: なち | 2020年10月 9日 (金) 09時42分
今朝は静かな雨が降っています。越村さま『少年の秋』ありがとうございます。ここから3ページめくりました。『蛇足』にありましたように「・・・『少年の秋』、その延長線上に・・・『おもいで』があります。」静かないい曲ですね。なちさまご紹介のtou tubeでの高 英男が歌う『おもいで』を聴きながら、中原淳一の歌詞を読んでいるうちに、こんな淡い恋をしたのはいつだろうと思いました。そしてこんな恋をしただろうかとも思いました。
遠〜い昔、小6の頃、同級生に好きだった男の子がいました。目が会うだけで嬉しかったですね。小学校卒業と同時に彼は引っ越して行きました。15歳の時、同級会があり彼と再会しました。その後何回か会いました。ある時、彼はソ連の見本市があるから見に行こうよと誘ってくれました。会場は勝鬨橋を渡った、東京湾をゴミで埋め立てた「夢の島」でした。私は見本市はさほど面白いとは思いませんでしたが、彼が熱心に説明してくれているのが嬉しかったですね。
帰りも勝鬨橋をバスで渡って帰りました。バスの一番後ろに座りました。夕日が眩しく、他の乗客が居なく二人きりでした。彼は椅子に浅く腰掛け足組みして背もたれしていました。なんだかとても静かで暖かく、隅田川がキラキラと輝いていました。 今でもはっきりとその空気感まで思い出されます。歌詞のように山並みは見えませんでしたが、勝鬨橋の鉄橋と夕日とメガネをかけた彼の姿が思い出されます。
投稿: konoha | 2021年6月14日 (月) 07時31分
これも深い歌詞と静かな旋律の曲ですね。konohaさん、教えていただき、ありがとうございます。「少年の秋」のようにすぐには好きになれそうにありませんが、<蛇足>には「『少年の秋』と『おもいで』は、私が70代半ばになって初めて知った歌で、その出会いをうれしく思います」とあり、ええっ、そんな大切な曲だったの、という気持ちです。
メロディーが地味で重い感じですが、まあ、愛というのは5年、10年、20年でいろいろ変化する感情ですから、ちょうどあっている気もします。これからじっくり何度も聞いてみます。
作詞家中原淳一のデザイン画は知っていました。また前妻がとても好きだったことも思い出しました。
3番の歌詞の最後が
「ふたりの幸せは 虹のように消えた
別れは人の世のかなしい さだめか・・・・」
とありますね。私には青春の時の乙女よりも、つい病死した前妻を思ってしまいます。
投稿: 越村 南 | 2021年6月15日 (火) 22時52分