修学旅行
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:丘灯至夫、作曲:遠藤 実、唄:舟木一夫
1 二度とかえらぬ 思い出のせて |
《蛇足》 昭和38年(1963)年8月発売。
この2か月前の6月に発売された『高校三年生』と、2か月後の10月に発売された『学園広場』を合わせて"学園三部作"と呼ばれました。『学園広場』は関沢新一作詞ですが、他の2作は丘灯至夫作詞。作曲は3作とも遠藤実。
デビュー作の『高校三年生』ほどではありませんが、この歌もかなりヒットしました。
歌詞に『汽車は行く……』とあるところを見ると、このころはまだ蒸気機関車だったようですね。まあ、路線によって違うでしょうが。
昭和38年には、私は大学3年でしたが、中央東線はすでにディーゼル化されていたと思います。
私の学んだ高校には、修学旅行はありませんでした。入学のとき、旅行は各自好きなところに行くようにといわれました。旧制中学の気風がまだ色濃く残っている高校だったので、ドイツのギムナジウムのようなwandern(徒歩旅行・遍歴する)を推奨する意図があったのかもしれません。
しかし、実際には、wandernした同期生がいたという噂は、私の耳には届きませんでした。2級上のTさんが自転車で東京に行き、野宿しながら東京探訪をして帰ったという話が伝説のように語られていた程度です。
Tさんは東京芸大を出て彫刻家になりましたが、残念なことに60代で亡くなってしまいました。
徒歩旅行ではありませんが、私は高2の夏、友人と2人で中学時代の恩師を訪ねて上田市まで自転車で行きました。松本から北東に向かい、最後の人家を過ぎると、人も車も通らず、杣道より多少ましという程度の蛇行道を5時間ほどもかけて走りました。
先生は酒を用意して待っており、2階の先生の書斎で痛飲しました。私がトイレに行きたいというと、先生は「下まで行く必要はない」といって窓を開け、車がビュンビュン通る街道に向かって、3人並んで用を足しました。
旧制高校の寮では、こういうのを寮雨といったそうで、1階の学生はけっして窓から顔を出さなかったといいます。以前読んだ早坂暁の『ダウンタウンヒーローズ』にも、寮雨の話があったような気がしますが、記憶があやふやです。
未成年に酒を飲ませたということで、先生の責任が問われるところですが、私の年齢から推測しても、とうの昔に時効でしょう。
現役の先生は、このようなまねはけっしてなさらないようにお願いします(-_-;)。
若者の野放図さを愛し、よしとする先生がいた時代のお伽噺だと思ってください。
高3の7月には、別の友人と、自転車で夜間塩尻峠を越えて、諏訪清陵高校の学園祭に行ってきました。真闇の中、旧道の痕跡が残る勾配のきつい道を、何か所か自転車を押して登らなければなりませんでした。そのうち降り始めた土砂降りの雨に濡れそぼち、体の芯まで冷えて、さんざんでした。
9時ごろ諏訪に着き、入ったラーメン屋で古新聞をもらって、上着の下に入れて、駅で寝ていたら、おまわりさんに不審尋問をされました。身元をいうと、「諏訪の不良はおっかねえぞ。こんなところで寝ていちゃだめだ」といわれ、交番にとめてもらいました。
5年後に松本から諏訪まで婚約者とバスに乗ったら、完全舗装されていたうえ、坂道程度の緩やかな街道になっていたのには驚きました。彼女に高3の時の冒険譚を語るつもりでいたのですが、まるっきりインパクトがなくなってしまいました。
この歌の修学旅行のイメージからほど遠い思い出になってしまいました。男女が班に分かれて、それぞれの計画に従って名所旧跡を巡るという爽やかな修学旅行のかたちは、その経験がない私にはピンときません。うちの娘たちは、修学旅行から帰ったあと、とても楽しそうに話してくれましたが。
(二木紘三)
コメント
高校三年生、修学旅行、学園広場の三部作は、作詞家の丘灯至夫さんは貧しくて高校に行けず、作曲家の遠藤実さんは中学にも行けぬ貧しい環境で共鳴したお二人の、いわば憧れを歌にしたと言われていますね。最初の高校三年生は、来年は東京オリンピックという時期に合わせて、美しいワルツ風に作った原曲をやめて、マーチ風に変えたこともヒットの原因とされています。この修学旅行も同じようなメロディーラインですが、軽快で歌いやすい曲ですね。
私の高校の修学旅行は関西でした。その頃の関東の高校の定番ですね。でも、中学の修学旅行は鎌倉でしたが、私は貧しくて体調が悪いと言って行きませんでしたので、これらの曲のエピソードには共鳴するところがあります。
投稿: 吟二 | 2016年10月 9日 (日) 21時07分
中学時代は 熊本から京都、奈良、大阪へ、高校時代は熊本から東京への旅行でした。
修学旅行に参加できない同級生も数名いました・・・。
私が修学旅行に行けるよう旅行費用を捻出してくれた両親に感謝しています。
旅行中 4人掛けの椅子に板を敷いてごろ寝したような記憶があります。網棚の上で寝る生徒もいました・・。
シニアになっても ホテルで枕投げをして先生に叱られたこと、♪♪きれいなバスガイドさん♪♪にアタックする同級生のことなど思い出します。
投稿: けん | 2016年10月 9日 (日) 22時13分
昭和29年9月下旬に、中学の修学旅行で箱根、東京、日光へいきました。あの頃はお米が配給だったので何合か忘れましたがお米を持って行きました。寝巻は皆、浴衣持参でした。東京は本郷の朝陽館という旅館でした。夜、窓を開けたら目の前に下宿屋があって、4,5畳半の部屋に大学生が2人ずついて勉強をしているのが見えました。3部屋ぐらいの中が丸見えで、こちらに気づいた学生が「どこから来たの」と声をかけてくれました。「浜松」と大声で答えてそれからしばらく話をしました。朝、窓を開けたら戸を開けたまま、パンツ1つで学生たちが寝ているのが見えました。私たち女学生はは皆でそれを見て大笑いしました。今、思うと場所柄あれは東大の学生だったのではないかと思います。思い出すと何だかほのぼのとした気持ちになります。彼らはその後、日本を動かす人になっていたのかもしれないと思うと嬉しくなります。修学旅行の1番の思い出になっています。高校は京都、奈良、大阪でしたがあまり楽しいことがありませんでした。ああ。舞妓さんを呼んで先生がお酒を飲んでいました。白塗りの舞妓さんを見て嫌な文化だと思いました。何十年後にガンぐろが流行ったとき舞妓の反対が出たと思いました。
投稿: ハコベの花 | 2016年10月10日 (月) 00時25分
修学旅行は小学校の時は、長崎・雲仙でした。雲仙から島原のバスの中でガイドさんが教えてくれたのが「島原地方の子守唄」でした。中学校の時は、別府・宮崎・鹿児島への汽車の旅でした。宮崎で曲名は忘れましたが、「もろた、もろたよ、いもがらぼくと、日向かぼちゃのよか嫁女」という歌。高校は関西・関東・日光への修学旅行でした。「ひ」と「し」の区別ができない、本当に江戸っ子らしいガイドさんが、西田佐知子さんの「エリカの花散るころ」を教えてくれました。さらに50歳のころは鹿児島のある役所で修学旅行担当で、機会あるごとにそこの伝統だというので、この歌を熱唱したものでした。
投稿: 江尻 陽一 | 2016年10月10日 (月) 22時13分
学生時代ははぐれもので、学園ソングが歌えるような男ではないことを自覚していました。で、このような歌は拒んでいました。年月も経ちこんな呪縛からも解き放たれ、いまでは船木一夫の歌も大好きです。だけどまだまだ人前で歌うことはできません。
中学の修学旅行は関西でした。旅行の半年前から”行きたくない、行きたくない”、と人知れず悩んでいました。出発の日が近ずくに連れ、死にたい、消えてしまいたい、と沈み込んでいました。
皆と一緒にお風呂に入り裸を見られるのが怖かったのです。しかし案ずるより産むが易しでした。旅館では、風呂に入りに行く振りをして入らないことで解決しました。
夜の8時過ぎ、旅館では玄関の白黒テレビで力道山のプロレスが放映されていました。男子生徒達は集まって見ていました。力道山はその年の12月に亡くなりましたね。
デパートのエスカレータの乗り口では白い手袋をした制服姿の美しいエスカレータガールが僕たち田舎の子供にも丁寧にお辞儀をされていました。級友の悪ガキが、彼女に「オウ、ごくろうさん」と声をかけました。
大阪駅に向かう帰途のバスは渋滞に見舞われ、ノロノロと進みました。窓の外の歩道で、中学生らしい男子生徒と女子生徒が手をつないで歩いていました。バスは彼、彼女に追い付いては止まり追い付いては止まりし、しばらくの間一緒に並行して進みました。
都会の中学生ってすごいなぁ、手をつなぐなんて・・・ 田舎じゃ考えられない。新鮮な驚きでした。田舎なんて早くおさらばしたい、と思いました。
その後、人生のほとんどを都会で過ごすことになりましたが、いまだに女性と手をつないで歩いたことはありません。もう大人の女性に未練はないのですが、小さい女の子とか、小学三年生位までの女の子と手をつないでいるお父さんを見ると羨ましくてたまりませんね。
投稿: yoko | 2016年10月11日 (火) 13時57分
二木先生の蛇足に似た体験があります。高校3年のとき中学校の同窓会をしました。そのとき恩師がビールを飲ませてくれました。勿論みんな未成年です。今なら即免職ものですが、だれも言わなかったのでしょう。おとがめなしでした。寮雨の経験はありません。
また、自転車旅行にもいきました。冬休みを利用して、5日間福岡まで行ったのです。宿泊は行った所の交番に行き、素泊まりの安い所はないか尋ね紹介された所に泊まりました。5日間で3千円位持って行ったと思います。食費と宿代を勘案して、大体の見当で行きました。今思うとおかしいですが、お金は浴衣の帯を腹巻きにして、その中に入れて行きました。風呂に入るときに心配でしたが、何もなくなりませんでした。交番の方も不審者扱いはなくどこにも通報されなかったようです。高校に帰ってもなにも言われなかったのです。
5日目に親類宅に着いたのです。当時電話は各家庭に無く帰ってから話しました。途中からハガキを出しておきました。
しかし、これで自分の行動に自信がついたのです。その後、自分でいろいろなことを決めました。
投稿: 今でも青春 | 2016年10月11日 (火) 19時38分
昭和38年、舟木一夫デビュー『3部作』リリースのこの年、
私は中学2年時で、「修学旅行」をとても楽しみに待ちわびていました。旅行予定日は気候が安定する「秋半ば」の筈でしたが、目的地である福岡の辺りで(コレラ)が発生してしまい、
翌年の3月に延期になってしまいました。
ルートは鹿児島発→熊本→福岡→長崎→熊本→鹿児島着。
3泊4日の『バスの旅』です。まだ高速道路がない頃ですから
一般道路を長時間運転する運転手も大変だったろうと思います。 学年8クラスありましたので、バスも当然8台使っての
一行です。熊本城、太宰府、百万都市となった『北九州市』
、東洋一の吊り橋『若戸大橋』、八幡製鉄所の大きな煙突。
間近に見るスケールの大きな大都市の諸々が、小さな島に生活している中2の少年にとっては驚くものだらけでした。 意外だったのは『平和台球場』がテレビで見てるものより、ずっと小さかったことです。カメラがつくりだす虚像も知ることができました。『西海橋』の下につくられる大きな『うず潮』も素晴しい光景でした。長崎は歴史と観光、見学スポット「てんこ盛り」の待でした。
バスガイドさんに『長崎の鐘』を教わり、『如己堂』で永井博士を偲び、『平和祈念像』をみつめて、はたして中2の少年は何を感じ取る事が
できたのか、見るもの全てがワクワク感状態では思いは浅かったかもしれません。
3泊4日の修学旅行は、父を亡くしたばかりの中2の私を確かに慰めてくれるものでした。 世の中がオリンピックに向けて猛進している半年前の頃の思い出です。
投稿: かせい | 2016年10月12日 (水) 08時33分
>かせい様
これこそ修学旅行だなぁ、すばらしいなぁ、と思いました。かせい様の修学旅行のワクワク感が伝わります。私は旅行の過程をさっぱり思い出せません。金閣寺も、宇治の平等院も、大阪城も見学したはずなのにどんなふうに見てどんなふうに感じ、その時何があったのか全く思い出せませないのです。何泊何日の旅行だったのかも・・・?きっと頭がずれていたんですね。もう一度あの日々に戻って、かせい様のようにちゃん皆と一緒に正道の精神で修学旅行を楽しみたいと思います。バスガイドさんと一緒に歌をうたって・・・
>今でも青春様
私も大学二年の時自転車旅行をしました。途中、警察につかまり、どこから来た、どこへ行く、などと聞かれました。沼津の交番で宿を尋ね”桃太郎”という素泊まりの宿に泊まりました。500円でした。宿のおばさんが「残り湯ですけど入りますか?」とお風呂を勧めてくださいました。五右衛門風呂でした。その前の夜は野宿で、寒さに震えてほとんど眠れてませんでした。その夜はぐっすり眠れました。翌朝は9時に宿を発ち、一号線で箱根を越えました。坂を登る脚力はなく、ほとんど自転車を押して歩いていたようなものです。お昼を過ぎて二時頃、最高地点(874M)に到達しました。途中すり鉢状の見通しの良い坂道があり対向車も並行車もなかったので思い切りペダルを踏んでいたら、スピードメーターは90Km/時に達しました。今、死ななくて良かったと思います。12月の快晴の日で、富士さんの眺めが素晴らしかったです。、
投稿: yoko | 2016年10月16日 (日) 21時20分
丘灯至夫さんの歌詞が好きです。「修学旅行」の「地図をひろげて夢見た町を」とか、「高校三年生」の「甘く匂うよ黒髪が」とか「東京のバスガール」の「昨日心にとめたかた 今日はきれいな人連れて」とか。思いがこもって、まなざしがやさしいと思います。修学旅行で見た舞妓さんをガンぐろと比べられたハコベの花様の見方は私には新鮮でした。尊敬する恩師が舞妓さんに目を細める様子をご覧になった折の胸中お察しいたします。私はその折の先生と同じく、舞妓さんの女性的な優雅さに魅せられてしまうのですが(吉井勇の「叱られて悲しきときは円山へ泣きにいくなり幼な舞姫」などにじーんとなります)。
投稿: 加藤 | 2016年10月25日 (火) 11時25分
私の親戚に2人学校の先生がいました。2人とも酒飲みでした。酒嫌いの兄と父が先生は悪い奴だと私に小さい時から教え込みました。ですから私は先生を尊敬することはなかったのです。事実、先生の何人かは不倫をしたり妻を捨てたり、教師という表の顔と女たらしという裏の顔を持っていました。高校生ならそんな教師の裏側を見抜いていましたから、尊敬などは全くしていなかったのです。真面目な教師もいましたが、そういう教師は補導係などしなくて不良の教師が補導係をしていました。舞妓のお酌は何とも思っていませんでしたが、舞妓のあの白粉で塗りつぶされた顔が美しいなんて到底思えなかったのです。お化けを連想しました。赤線が廃止されるまで家の近くに遊郭が1軒ありました。かなり年増のお姉さんが夕方になると真っ白く顔を塗りつぶして道端でお客を引いていました。私は子供で意味はわかっていなかったのですが、私の顔を見るとにかっと笑ってくれました。何故か哀れで仕方ありませんでした。赤線廃止と同時にどこかへ消えてしまいました。裏の場所へ流れて行ったと思います。
修学旅行とはかけ離れてしまいましたが、白粉に塗りつぶされた顔をみると、男に媚びを売る女性が哀れに見えて仕方ありませんでした。吉井勇の歌は美しく見えますが、人形に恋しているように思われます。知性と理性を塗りつぶした顔が男の夢なのでしょうか。
投稿: ハコベの花 | 2016年10月26日 (水) 23時19分
ハコベの花様のお気持ちに反する事を書いてしまいました。考えが足りませんでした。これは申し訳ありませんので、私の先の投稿の、「まなざしがやさしいと思います」のあとを、二木先生にお願いして消していただくことを考えております....。
投稿: 加藤 | 2016年10月27日 (木) 09時14分
加藤様、私の言葉はきついと思いながら昨夜投稿しました。原因は子供のころの記憶と高校時代の先生の非行、その上結婚した夫が紅灯の巷が好きでほとんど夜は家に居なかったなどです。陰で泣くのは真面目な奥さんです。
人間には色々な人がいます。感じ方もそれぞれです。ですから加藤様が気に病む必要は全くありません。先生が非行に走っていても生徒のほうが真面目でお上品でしたので心配はないのです。私もお上品なのですが?取っ組み合いの喧嘩は強くて夫をどれほど殴った事か・・お笑いください。清濁併せて世間です。ご心配下さいませんように。
投稿: ハコベの花 | 2016年10月27日 (木) 13時46分
重ねての投稿を深くおわびいたします。 ハコベの花様ありがとうございます。一言言い訳をさせてください。 私は8年間京都に住みましたが、舞妓さんたちは、きびしい修業をして京都の文化の一翼を担っている人たちとして、京都の人々から敬意を持たれているという印象を受けました。二木先生が情感豊かに演奏されている「祇園小唄」の、月はおぼろに東山、の風情は、きびしい修業に裏打ちされているように思いました。私のいとこは美人でもないのに宝塚に入り、結局スターのはるかうしろで「その他大勢」の一員として踊るだけで終わりましたが、京都で舞妓あるいはその見習いの人たちの学舎のそばを通り一週間の授業表を見て、かつてのいとこと同じようにがんばっている若い人たちと思いました。「円山へ泣きに行くなり」にじーんとなるのは、いとこのせいもあります。
投稿: 加藤 | 2016年10月27日 (木) 22時59分
意がつくせず重ねての投稿になり、心よりおわびいたします(これを最後にします)。舞妓も宝塚も、きびしい修業から来る女性の踊りの優美さは良いものと思います。このたびネットで宝塚のことを見たら、「学費レッスン料衣装代など、娘を宝塚に入れると大変だろう」と書いている人がいました。 飲み屋のおばさんをして女手ひとつでいとこを宝塚にやった叔母は苦労をしたのだなあと思いました。飲み屋のおばさんの歌である「紅とんぼ」を二木先生の演奏で聞かせていただきました。しみじみとしていい歌ですね。
投稿: 加藤 | 2016年10月30日 (日) 23時47分
加藤様の京舞妓や宝塚の生徒さんについての心優しい投稿に接し、改めて舞妓さんについて、少し勉強させていただきました。
わたしの高校時代の修学旅行でも、京都では舞妓さんを呼んでいます。もう60年以上も前のことですから、ほとんど記憶にありませんが、名に聞く京都の舞妓さんが近くにいるというだけで、かなり緊張していた様子は、その時の写真からも伺い知れます。当時の田舎の高校生にとって、京の舞妓さんはどんな存在だったのでしょうか。確たる記憶や証拠はもちろんありませんが、多分「高嶺の花」的存在であって、エロチックなイメージとは遠かったように思います。彼女の発する「京ことば」や雅な所作に、すっかりのぼせ上っていたのだろうと思います。ですから、ハコベの花様が指摘された「白粉に塗りつぶされた顔」も、異様なものとは感じなかったのでしょう。
わたしは、白粉の歴史について詳しく知っているわけではありませんが、室町末期に出てきた阿国歌舞伎の頃から(あるいは、それ以前から?)、顔から首筋、背中に白粉を厚く塗るのは、接客業や芸事をする女性に、普通に見られたことではなかったのでしょうか。現代でも、歌舞伎役者などが白粉を厚くしているのは、その伝統を受け継いでいるからでしょうね。ハコベの花様は赤線時代の娼婦を例に出されましたが、歴史的に見れば、「性を売る」者(遊女など)と「芸を売る」者(役者・芸者)との根源的な差異はなかったのかも知れません。しかし、現代でははっきりと分かれている、とわたしは思うのですが。もっとも、「枕芸者」という俗称もありますから、「芸者」の中にもそれらしき者がいるのかも知れません。
舞妓は未だ「芸を売る」芸妓に達しない修業中の女性を指すそうですが、加藤様のコメントにあるように、普段の生活そのものが厳しく、さらに歌や踊りの修業をしなければならないので、舞妓志願者は結構いるようですが、仕込み期間(半年から1年)中に辞める者が大半だそうです。お茶屋(原則は、お座敷を提供するだけ)が働く場の舞妓さんは、歌や踊りだけでなく、お客にお酌をする機会もありますから、「媚を売る」場面ももちろんあります。だからと言って、舞妓は「媚を売る」商売と決めつけるのは可哀そうな気もします。この辺の私見について、ハコベの花様から痛烈な反撃があるかもしれません。どうぞお手柔らかに願います。
ただ、京都の「伝統文化のシンボル」だからとの理由だけで、修学旅行に舞妓を呼ぶ企画については、わたしは判断を留保します。原則「一見さんおことわり」の舞妓さんに接するには、修学旅行でなければ生涯無理でしょう、という業者や旅行会社の思惑が透けて見えるからです。
投稿: ひろし | 2016年10月31日 (月) 15時43分
舞妓を見た時、同級生の多くは「かわいい」「きれい」と言いました。私にはそんな感情はありませんでした。嘘の顔が嫌だと思っただけです。好みの違いでしょうね。「首に白粉を塗るのは年を隠すためなのよ」と昔芸者をしていた人が言ったことがあります。近所にいろんな人が住んでいましたから面白かったですよ。それぞれの裏話を聞くことも出来て、同級生より多少世間を知っていたかもしれません。でもやっぱり修学旅行に舞妓を呼んで先生にお酌をさせるのは旅行会社のやり過ぎでしょうね。鼻の下が伸びた先生はいただけません。
投稿: ハコベの花 | 2016年10月31日 (月) 21時33分
この歌の流行した時は高校2年生でした。ちょうど修学旅行で場所は関西でした。
まだ、新幹線が開通していなく東京から東海道線の夜行列車でした。板張りの床とすわり心地の悪い客席は夜行といっても仮眠もできる環境ではありませんでした。
ある生徒が○○(教師のニックネーム)が講義をしてくれないかな。すぐに眠くなるのだけど・・・・等と言っていたのを思い出します。
投稿: タケオ | 2017年3月 3日 (金) 21時47分
皆さんの修学旅行に寄せるコメントに いいな~うらやましいな~と、思いながら拝見していました。
子だくさんで(7人兄姉妹)母子家庭の我が家では、丁度私の中学~高校時代が一番苦しくて貧しい時代でした。
疎開先の田舎からやっと広島に帰ってきたのが、中学3年の新学期、1クラス70人x11クラスのマンモス学校にも驚きましたが、なによりもショッキングなことは、1クラス
に3~4人位は、顔や頭、腕等に原爆による無残なケロイドを負った学友達がいたことでした。
それでも彼らは、きつい体育の時間を欠席するでもなく我々と同じように懸命にこなしていました。高校時代にもケロイドを負った級友は数名いましたが、そんな彼らから悩みを相談されたり、文通相手にラブレターまがいの手紙を一緒になって考えたりすることで一体感を味わえ救われたような気持になったこともありました。
それでも、楽しみにしていた修学旅行に参加できない級友たちが1クラスに6~7人位はいました。
高校を卒業してから、通信教育で大学講座を卒業しましたが、その時の仲間が今の私の財産です。
憧れの信州や京都に夢中になれた青春は、やっと30才を過ぎた頃からですが、思い出は数え切れないくらいあり幸せです。
投稿: あこがれ | 2017年3月 4日 (土) 13時36分
あこがれ様
何か広島に縁のある方とお見受けします。
私は、九州・小倉市の生れ育ちですが、高校2年、3年は広島市でした。今は、茨城県で定年農業です。
小倉の高校の修学旅行は2年次、広島は1年次終わっての春だった様で、行けませんでした。彼らは、九州に向かった様です。
昨年、卒業50周年同期会に、もう最後と思って、広島市まで出かける事が出来ました。私としては、多分「終活旅行」でしょう。平和公園近くの母校の「原爆慰霊碑」にも初めて参拝しました。行けただけでも、幸せな事でした。
先生にもケロイドと思われる傷を負っておられる方もいました。視界不良の為、原爆投下を免れた小倉市の代わりに、長崎市が被曝しました。2年後に、私は生まれました。
今、北160kmで起こった福島第1原発事故の近く茨城県で、有機農業を営んでいます。福島県の故郷を追われた沢山の方々が居ます。「原爆」も「原発事故」も放射能には違いが無いと思います。
投稿: 竹永尚義 | 2017年4月 1日 (土) 16時43分
竹永尚義 様
コメント有難うございます。
私は、昭和14年(1939年)9月、広島市水主町で生まれ昭和20年7月(頃だと思いますが)山口県玖珂郡玖珂町(現:岩国市)の母方の祖母の里に疎開をしました。その1ヵ月後に広島に原爆が投下され、父親と父方の祖母がなくなりました。今考えると母親も私達家族もタッチの差で助かったわけですね。そこで中学校の2年生まで野山を走り回り自由奔放に過ごし、やっと中学校3年の新学期に広島に帰ってきました。先日、広島の中学校のクラス会の案内がきましたが欠席しました。たった1年間(3年生時)しか在学しなかったマンモス中学校のクラス会に毎回ご丁寧に案内がくるのか不思議に思っていましたが、先日、今でも親しくしているポン友から連絡があり、“なんでか知らんけど毎回お前の噂がでるんよのう~。幸せなやつじゃのう~お前は…”とのことでした。見てもさっぱり分からない15名の写真も送られてきましたが、あまりの老人の集まりに「俺もこんな姿形なの?」と、我が身を重ねてぞっとしました。鏡を見る限り、自分はもっと若い!…はずだ??と、自問自答してますけど。
定年後、有機農業とは、憧れますね。TVで「人生の楽園」を見ては、いいな~とため息をつきますが、私のキリスト教会の仲間も16年前から有機農業をしており時々畑をのぞきますが、その大変さはよく分かります。
竹永様の母校は平和公園の近くとか、私の母校は市立舟入高校で当時と今とでは校舎も環境も随分変わっていますし、高校の数も随分増えたようですね。昔からおとなしい真面目な学校でしたが、今はどうなんでしょう?
関東地方も仕事や私用であちこち廻りましたが、茨城県には行った事がありません。群馬県、埼玉県、千葉県(息子家族在住)くらいですかね。福島は、教会のボランテイア活動で1回くらい。
沖方 丁著「光圀伝」では、巷間伝えられた光圀とは違った、本来の国文学者としての水戸光圀が描かれており偕楽園にも一度行きたいな~と思います。
これから桜も満開期を迎え、気候も段々よくなりますがお元気で頑張って下さい。
歌と関係ないことばかり長々とすみません。
投稿: あこがれ | 2017年4月 3日 (月) 11時27分
あこがれ様
二木紘三先生、私信の様になってしまいますので、これで終わりにしますが、一言。
私も、広島市立舟入高校17期卒です。
以上です。あこがれ様、どうかお元気で。
投稿: 竹永尚義 | 2017年4月 3日 (月) 17時59分
「修学旅行」舟木一夫のこの曲を聴く度に私には幼少のころの懐かしい想い出の数々が次々と蘇ってきます!
そのころ私は佐賀県の炭鉱のある故郷に住んでいましたが、中学生になると各地にある三つの小学校と二つの小学分校からの生徒たちみんな誰もが、町内にたった一つある中学校に入学しました。
なので一学年には一つの一教室に50人くらいで、それが17組ほどもあるような、当時は大変大勢の生徒がいる中学校でした。
そして中学三年生になると、当時の修学旅行は三泊四日の南九州を蒸気機関車の貸し切り団体客列車の旅が毎年の恒例でした。
ちょうどこの唄が流行っているころ、我が家の姉が三泊四日の修学旅行に出かけましたが、その旅行を終える最終日には姉が帰ってくる夕刻に合わせ、その団体列車が止まる最寄りの駅へ、40分ほど歩いて母と一緒に姉を迎えに行ったのですが、その時に駅に着いた列車からお土産などを手にした生徒たちの一行がホームに一斉に降りてきて、あっという間にそのホームが人で埋まってしまい、平常は静かなその駅の、そのざわざわした人混みの異常な、初めて眼にするそんな光景に私はとても驚いたことを憶えています。
そしてその翌年くらいから炭鉱閉山により徐々に炭鉱離職者が地元を離れて行き、石炭を採掘していた鉱山もボタ山に姿を変えていきました。そのボタ山に七輪にくべる石炭を拾いに行っていたことを憶えています。また私が中学に入学するころにはあんなにいた生徒数も半分以下になっていました。
そして私が中学三年生になり三泊四日の修学旅行で南九州に行きましたが、そのころにはすでに蒸気機関車も徐々に廃止され始めていて、私の修学旅行は残念ながら貸し切り観光バスの旅でした。
この曲の歌詞のように私もプラットホームで発車するベル音を聴いたり、蒸気機関車の客席の窓から顔を出して風に吹かれてみたり、自然の景色を眺めたりしながら、列車の中でワイワイと楽しめるような、そんな修学旅行をしてみたかったと、時々そんなことを思ったりもします。
この唄が流行っていた当時、まだ小学生だった私の楽しみと云えば、春・秋・の学年別に指定さされた山登り遠足、早朝から茣蓙持参で見学場所取りをしていた秋の運動会、そして何と云っても日頃は見ることのなかった街へ出かけるという年に一度の修学旅行でした。
「修学旅行」このさわやかなメロディを聴いていると、私の幼少のころの想い出の数々が次々と懐かしく蘇ってきます。
投稿: 芳勝 | 2020年11月22日 (日) 15時11分
長崎のsitaruです。芳勝様、ほかの投稿者の皆様、いつも楽しいご投稿を拝見させていただいております。特に、芳勝様は世代も比較的近く、また郷里もお隣りの佐賀県でいらっしゃるとのことで、親近感を強く感じます。私も、できるだけ多く投稿して、思い出の数々をご紹介したいと思っているのですが、最近とみに目の調子が悪くなり、文字の読み書きがつらくなりました。今年8月初めに、初めて投稿させていただいた時には、右目の視野が右半分になってはいたものの、何とか視力はあったのですが、その後糖尿病網膜症と緑内障が急速に進み、現在では、右目はほぼ失明状態で、矯正視力0.2の左目に頼って生活しています。皆様のご投稿も、一旦コピーさせていただき、Wordに貼り付け、20ポイント程の文字の大きさに拡大し、明朝体では見にくいので、コシック体の文字に変換して読ませていただいております。
さて、舟木一夫さんの「修学旅行」ですが、この歌が出た1963年は、まだ小学三年生で、実感は湧かなかったのですが、その後三度の修学旅行を体験し、忘れられない思い出となっています。小学校の修学旅行は、1966年の6年生の秋で、山の中の小さな学校でしたので、私たち6年生21人と5年生14人、そして両学年の母親10数人が、一台の大型バスに乗り、熊本県内の観光地を巡る一泊二日の旅でした。まず長崎の島原半島からフェリーで熊本県に渡り、熊本市内の水前寺公園や熊本城を見学し、その後阿蘇山に向かい、草千里が原や阿蘇山の頂上の噴火口そばまで行きました。その後北側の登山道を下り、中腹にある旅館に宿泊しました。二日目は、旅館からまっすぐ天草の方へ向かいました。この年開通したばかりの天草五橋を渡る時は本当に心がワクワクしました。何号橋か忘れましたが、五橋を全部渡ったわけではなく、途中の松島というところからフェリーに乗り、長崎市郊外の茂木(ビワの産地として有名です)に渡って帰って来ました。この旅行が印象深いのは、担任の先生が写真好きで、沢山のスナップ写真を残して下さったので、一枚一枚の写真を見るたびに、思い出が蘇るからです。中学の修学旅行は2年生の秋のことで、山口県の秋吉台と九州中北部の二泊三日のバス旅行でした。初日は、九州西部を北上し、佐賀県の唐津で、虹の松原の中を通り、鏡山という市内の全景が見渡せる小高い山に登りました。その後、福岡市に入り、東公園というところで、日蓮上人の大きな仏像の下で、昼食の弁当を食べました。そして、まっすぐ山口県へ向かいました。夜は湯田温泉に宿泊し、夕食後の自由時間に温泉街にでかけ、おみやげを買いました。二日目は、秋吉台、秋芳洞を見物した後、九州に戻り、東海岸沿いに南下して、別府温泉を見物し、大分市内で宿泊する予定でしたが、福岡県と大分県の県境付近で、突然ひきつけの発作を起こしてしまい、近くの病院に運ばれました。ひきつけの発作は、中学一年の終わり頃から高校一年の夏頃までの間に、四、五回起こしました。手足が硬直し、痙攣を起こし、白目をむいて意識を失うので、周囲の人は、さぞかし驚いたと思います。私の場合は、バスの中のような密閉され、むしむしする空間が良くなかったようです。幸い、高一の時以来、発作は無く、他の病気への移行もありませんでした。ということで、二日目、三日目の予定は私だけ白紙となりましたが、行く予定だった別府温泉、阿蘇山、熊本市内は、大人になってから飽きるほど行きましたので、大して残念とは思っていません。最後に、高校の修学旅行ですが、これは通例の二年生秋ではなく、一年生の夏に実施されました。それは1970年のことで、大阪万博の開催に合わせて変更されたものでした。三拍四日の旅でしたが、一泊目は夜行列車の中での車中泊で、二日目に奈良と京都を見物し、夜は大阪市内に泊まり、次の日に吹田市にある万博会場に行きました。学校は夏休み期間中で、親子連れや他の学校の修学旅行生たちとも鉢合わせして、大変な混雑でした。月の石の展示が話題になっていたアメリカ館の前にも行ってみましたが、入り待ちの長蛇の列で、瞬時に諦め、アフリカの名前もよく知らない国のパピリオンを見た程度でした。帰りも夜行列車だったと思います。この旅行は、やはり初めて行った奈良、京都の印象が強く、その後の人生で、繰り返し訪れることになりますが、何度行っても飽きないところです。
長くなってしまいましたが、付け足しとして舟木さんの「修学旅行」の歌詞について。一番の歌詞の中の、
クラス友達 肩よせあえば
の「クラス」を、中学生くらいまで「暮らす」と勘違いしていました。教室で一緒に「暮らす」というのは何か変だなと思っていましたが。この勘違いには理由があります。私達の学校では、中学校くらいまで、classのクラスという言葉は使っておらず、「組」としか言っていなかったのです。舟木さんのデビュー曲「高校三年生」にも、
ぼくら離れ離れになろうとも クラス仲間はいつまでも
という同じことばが出て来ますが、全く同じように思い込んでいました。
投稿: sitaru | 2020年11月23日 (月) 19時58分