田舎の冬
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 ましろにおく霜 峰の雪 |
《蛇足》 昭和6年(1931)10月、『新尋常小学唱歌(五)』に掲載ということ以外はわかりません。10月は発行時期を示すものだと思われます。
小学校時代(昭和20年代)に覚えた唱歌のうちでも、好きな歌の1つです。
むら雀は村の雀だと思っていたし、「つづる」「たるひ」などわからない言葉が多かったけれども、とくに疑問ももたずに歌っていました。
今の子どもたちがこの歌を歌うことはもうないでしょうが、いちおう意味を書いておくと、「むら雀」は群れている雀であり、「かり田」は稲を刈り取ったあとの田んぼ、「ひなたにつづるは古ごろも」は日の当たる縁側かどこかで古い衣服を繕っている光景を示しています。
「たるひ」は垂氷と書き、氷柱(つらら)のことで、それが解けて水がしたたっている光景です。「かん烏」は寒烏で、冬の烏のこと。
「ほだ」は、漢字では榾と書き、「ほた」ともいいます。薪(たきぎ)、すなわちいろりやかまど(「くど」とも)で燃やす木のことです。『いなかの四季』に出てくる「そだ」も同じですが、ほだは割った木(まき)、そだは切った木の枝や柴(小さな雑木)をいうことが多いようです。
作曲の島崎赤太郎(明治7年〈1874〉-昭和8年〈1933年〉)は、日本最高のオルガニストといわれた人で、唱歌のほか、仏教関係の宗教歌を作曲しています。
上の絵は2017年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです。亡母の生家をイメージして描きました。
実際の生家は、右端に居間があり、左側には土間と縁側がありました。庭には植え込みと、池に流れ込む遣り水があり、川縁には農具小屋がありました。正月や春休みに遊びに行くのがとても楽しみでした。
その家は、何回か建て直され、とうの昔になくなっています。
(二木紘三)
コメント
二木先生はじめ皆様方
明けましておめでとうございます。
新春にふさわしい演奏と心あたたまる絵ですね。
初めて聴く歌ですが私の生い立ちに重なり懐かしさ一入です。当地の山間部では先生の絵そのままの家屋がまだ残っております。少し離れた市街地に家を建てて息子家族が下りた後も老いた夫妻が家を守っています。
50数年前、中学の音楽で「故郷の廃家」を習った時には
~門辺の小川のせせらぎも慣れにし昔に変わらねど、住む人絶えて無く~が不思議でならない私でした。今市街地でも住む人絶えてない立派な家屋が増えています。
先日の週刊誌の見出しに(新聞広告だったかな?)わが県が住む人絶えて無い家屋率の上位にあるのを見て愕然としたものです。話題がそれました。悪しからず。
今年もこの場で皆様とお会いできるのを生きる縁としたいものです。
投稿: りんご | 2017年1月 1日 (日) 11時00分
二木先生;
あけましておめでとうございます。
日々の喜怒哀楽の繰り返しの中で、今年も「うた物語」で、心を癒され、楽しませて頂けることを心から感謝しております。
「田舎の冬」・・・新年早々、こんなにも懐かしく綺麗な歌を聴くことができるとは! 子供のころに習って久しく忘れていた好きな歌です。 美しい日本語の歌詞と心に沁みるメロディー。時代が移り世の中がどのように変わろうとも、歌い継がれていってほしいものです。
投稿: ばってん | 2017年1月 2日 (月) 03時30分
皆様あけましておめでとうございます。二木先生の素晴らしい絵と音楽に癒されています。メロディーは初めて聞くものですが、昔が思い出され懐かしも少し寂しく感じさせられています。こんな寂しい曲が小学生向けの曲かなぁ~、とは思いますが・・・
白壁の土蔵の絵に目がひかれました。私の父の家は戦前倒産し、戦後父は一つ残った土蔵の中で祖母と暮らしていました。私は幼いころ母の実家と父の土蔵の家を行き来しており、土蔵の中で音が出たりでなかったりするラジオのダイヤルを回して遊んでいたのをぼんやりと覚えています。土蔵は二木先生の絵にあるような美しい白壁ではなく黄土色の生の土壁(泥壁)でした。
トイレはどうしてたのだろうか、お風呂は? 炊事は? 煙突はあったのだろうか、などと疑問が生じたときは、もう父も母も亡くなってしまった後でした。今では土蔵もありません。
美しいメロディーですね。もう会うことができなくなった人たちがしんみりと思い出されます。
投稿: yoko | 2017年1月 3日 (火) 22時58分
おぼろげに覚えていたのですが、改めて歌詞を見ると、朝昼夕になっているのですね。
投稿: Hurry | 2017年1月 4日 (水) 09時41分
二木先生はじめ皆様方へ
あけましておめでとうございます。
はじめて聞く歌ですが、詩もメロデイーもとても温かい懐かしい歌で、炬燵に座り年賀状に目を通しながら(ほっこりしながら)聞いていました。
私の故郷は、原爆ドームから2~3kmしか離れていない広島の町なかですが、父親を原爆で失ってから母方の祖母の田舎 山口県玖珂郡玖珂町という所に中学校2年まで住んでいましたが、山や川もきれいで柿や栗、松茸もいくらでも獲れて、それが今でも私の「ふるさと」だと思っています。思いついてネットで調べてみたら、いつの間にやら山口県岩国市玖珂町となっていました。
二木先生の名解説と絵、名演奏に癒されて今年もスタ^-トできそうです。 いつも脱線ばかりのコメントで申し訳けありませんが、今年もよろしくお願い致します。
投稿: あこがれ | 2017年1月 4日 (水) 12時54分
雪景色、美しいですねぇ。1度でいいからこんな景色見てみたいです。心が洗われる思いです。私は雪が積もった景色を見たことがありません。沢山積もった真っ白な世界ってどんな感じなのでしょうか。小さな子供の時に見ておくと人生が変わったような気がします。心がもっときれいになっていたかも。残念です。
投稿: ハコベの花 | 2017年1月 4日 (水) 14時40分
好きな唱歌の一つで時折口ずさんでいます。小学校の6年生頃に習ったような気がします。コメントを読むと初めて聞いた方もいるのですね。
今は田んぼも畑も消え、小山も崩されすっかり住宅地に代わってしまった横浜の下町で、子供のころを思い出しています。
投稿: 栗さん | 2017年1月 5日 (木) 10時19分
「うた物語」ファンの皆様、明けましておめでとうございます。本年も独断と偏見に満ちたコメントをご披露することになると思いますが、何卒ご海容のほどお願い申し上げます。
新年早々、懐かしい歌をアップしていただきありがとうございます。この歌をいつ覚えたか、おぼろげな記憶をたどると、戦後、朝鮮から家族6人が引き揚げて来て、父の実家で居候生活を送っていた頃に行きつきます。父の実家とは言いながら、既に代替わりしていて父の長兄が戸主でしたから、身一つで引き揚げて来たわたしたち家族は、長兄一家にとっては厄介者だったわけです。生存に必要な衣食住のうち、衣と住は、何とか長兄一家の善意に甘えてしのげましたが、肝心の食の方は配給の米や麦などでは空腹は満たされず、田舎にいても飢餓すれすれの食生活でした。
父の実家がある、新潟上越地方は名だたる豪雪地帯です。引き揚げ後、最初の冬(昭和20年~21年)は平年並みの積雪でしたが、それでも2m以上は降り積もりました。晴れた日は従兄のスキーやそりを借りて雪遊びが出来ますが、雪が降りつづいたり、吹雪く日は、炬燵のある部屋で、わたしたち兄妹は空腹を我慢しながら過ごさなければなりません。そんなとき決まって出てくるのは、母が食べたり、作ったりしたお菓子の話か、母の知っていた歌の数々でした。この歌も多分、そのときに覚えたように思います。しかし、ちょっと調べてみましたら、大正時代に尋常小学生だった母は、この歌を学校では習っていないはずです。とすると、母はどこでこの歌を知ったのでしょう。そこで思いついたのは、昭和4年早生まれの姉が習ったのではないか、それを母が聞き知って教えてくれたのではないか、ということです。今度、存命中の姉に会ったら確認したい気持ちはありますが、90歳近い姉のことですから果たして記憶にあるでしょうか。
それにしても、この歌の中身を、今どれほどの人がイメージできるでしょうか。おそらく70歳代までの田舎で暮らした方々だけでしょうね。遠ざかりゆく時代ををいつまでも懐かしむのは、ゴールが近い老人の通弊だとは思いますが。
投稿: ひろし | 2017年1月 5日 (木) 14時44分
昨日につづいてのコメントですが、お許しください。
学校で習わなかった、この歌をなぜ母は知っていたのか、多分姉が唄っていたものを母が聞き知って、わたしたちに教えてくれたのだろうと、わたしは即断しましたが、別の機会に知ったのかもしれません。それは、現在もつづいているNHK学校音楽コンクール第1回の尋常小学女子Bの課題曲に、この歌が選ばれているからです。通称Nコンは昭和7(1932)年に始まります。その頃には田舎にもラジオはかなり普及していましたから、母はラジオからこの歌を聞き知った可能性はあります。果たして女子Bの部では、何校出場したのか判りませんが、田舎の冬の情景を素朴に詠った課題曲とあれば、母がこの歌に聴き入ったことは十分考えられます。
投稿: ひろし | 2017年1月 6日 (金) 12時00分
`17年酉の年おめでとうございます。
島根の田舎で育ったのにこの歌は全く知りませんでしたが、郷愁を呼び戻すようなメロディや忘れかけていたそれぞれの名前に、遠い日の冬を思い出しました。
現在はすぐ除雪車が来てくれるようですが、当時は一晩で3~40㎝も積もるときもあり、1日のスタートはまず通学路確保のための雪かきで大人は工事などの仕事の前はまず除雪、今思えば雪による無駄な労力や時間が費やされていたなァと雪に対しては冷めた思いばかりでしたが・・・
近年石見瓦葺きに建て替えており先生の描かれた絵は正に以前の実家の藁葺き屋根のようで懐かしく、トイレと風呂そして牛小屋と農器具保管所はそれぞれ別棟でした。
冷たい雪の中にほわっと温かさが秘められた絵の賀状共に有難うございました。
尚、21日の『新春コンサート』では、唯一鶏の歌「ミネソタの卵売り」(佐伯孝夫作詞・利根一郎作曲)を出演者&来場者全員で歌います。
投稿: 尾谷光紀 | 2017年1月 6日 (金) 17時00分
メロデイーも歌詞も優しい曲ですね。田舎の風景を歌っているようですが、私には作者の厳しい環境に生きる弱きものへの優しいまなざしをかんじます。
こうした曲が現在では全く聞かれなくなりました。寂しい限りです。
投稿: ひつじ雲 | 2017年1月26日 (木) 19時43分
二木先生始め、ご投稿の皆さま、
今年もよろしくお願いします。私もこの歌は知りませんでしたが、何となく昔を思い出す様な懐かしい感じがします。
私は九州・小倉生まれ育ちで、高校の2年間、広島市で過ごしました。
北九州へ戻っての学生の頃、現場実習(今で言うインターンですか?)で、長野県下水内郡栄村と言う所の水力発電所で夏の2週間、実習させていただきました。最寄りの国鉄飯山線・森宮野原駅前には、「最高積雪7m85cm」と言う標柱が立っていて、驚愕しました。
今は、茨城県に定住して有機農業をしていますが、雪が積もるのは、1年に1回あるかなしかです。
雪国のご苦労を思います。
「うた物語」に繋がる皆さま、お元気で。
投稿: 竹永尚義 | 2017年1月27日 (金) 16時21分
二木先生、ご投稿の皆様初めまして。
偶然この二木先生の「うた物語」開きました。懐かしい歌が一杯収まっていて、とてもうれしくなりました。一つ一つの歌をクイックしては、その歌を歌っていた頃の情景や気持ちまでも浮かんできます。
二木先生は私の兄と同じ歳で兄も早稲田出身なのです。兄と一緒に早慶戦や早稲田祭へ行ったことが思い出されます。過ぎ去ってしまった青春のあの時代があれやこれやと
浮かんできます。
当時、夢の島といわれた埋立地でソ連の見本市が日本で初めて開催されました。都立大付属高に入学した彼に誘われて見に行きました。帰りのバスで夕日で一杯の勝鬨橋を渡っていった時の、あの空気感まで思い出されます。また60年安保の学生運動の様子を共に高校1年生の彼が熱っぽく話してくれたのが思い出されます。まるでタイムスリップしたようです。
二木先生の「うた物語」の虜になってしまいました。これからも懐かしいうたの数々をご紹介ください。楽しみにお待ちしております。
投稿: konoha | 2017年1月29日 (日) 08時23分
竹永様、定年農業良いですね。羨ましいです。「私も定年後は・・・、と夢見て園芸雑誌を取り寄せて勉強もしていたのですが実現できませんでした。私の農業歴は大したものでなく、小学生の時母と祖母の手伝いをしていた程度です。夏には麦刈り、秋には芋ほりなどして丘の上の畑と麓の納屋を往復して収穫物を運びました。
丘の上からは日本海が見下ろされ、真っ赤な太陽が海に沈むのを見ました。村の後背地には山並みが連なっていて雪が積もると素晴らしい景観でした。
投稿: yoko | 2017年1月30日 (月) 16時07分
私も皆さんと同様にこの歌はとっても懐かしく、て自分で歌っていてもなぜか涙が流れてきていました。
小学校の何年生かの頃に覚えて、頭の中に歌詞がばらばらに残っていましたが、メロディはほぼ完全に残っていて、ウオークなどのときは呟くように歌ってきました。
今では素朴な昔の風景は古い歌詞とともに消えてしまいましたが、いつまでも残っていて欲しい曲です。
投稿: ゆく | 2017年1月31日 (火) 08時12分
ここ2~3日前からの寒波襲来のニュースで、東北 北陸方面の方々は大変だろうと案じております。
二木先生のお描きになられた 雪深い田舎の風景を拝見し、思わずほっとするような暖かい心持ちに誘われますが、同時に雪国の怖さを身にしみて知った20数年前の体験が、当分の間 私の中でトラウマとなって、今でもまざまざと思い出すことがあります。
晩秋の安曇野は、わずかに肌寒さを感じるものの 見晴るかす山々の木々もようやく色づき始め、信濃路の秋を存分に満喫しながら、美術館めぐりや路傍の道祖神にやすらぎを感じながらの散策でした。
梓川沿いの洒落たそば屋さんで 遅めの昼食をとり、さてこれから安房峠を抜けて奥飛騨温泉郷の福地温泉へスタートしょうと店の外に出てみると、いつの間にやら空がうす暗く 今にも大雨がきそうな天候、”これはいかん!急ごう!”と、国道を上高地方面にフルスピードで飛ばしました。どのくらい走ったか さだかではありませんが、ふと、国道の上の標識を見ると、「大雨につき、安房峠は通行不可☆☆☆」・・・“しまった!のんびりしすぎた!”
当時は、今と違ってカーナビ等はついていません。地図と道路標識だけが頼りのドライブです。助手席の家内は、踊りと洋裁・料理だけの「ザ・家庭科の女」のような人、とてもナビゲーターが勤まるようなひとではありません。
そのうち、霙まじりの冷たい雨となり、暖房を入れ窓のくもりをとりワイパーもスローからクックに切り替え、高山方面と書かれた道路標識だけを頼りに大きなダム湖の側を走り抜け、やがて鬱蒼と茂った林の中を右に左にハンドルを切りながら暗い林道を上りました。
途中、木々の間から猛烈な吹雪が吹き込んで不安は増すばかり・・助手席を気にしたり ガソリンメーターに目をやる余裕など全くありませんし、勿論 行き交う車など1台もありません!。
どのくらい走ったか全然憶えていませんが、なにしろ名にし負う中部山岳地帯~飛騨山系のまっただ中の細い林道を吹雪をついて走ることの恐怖は、今思い出しても ぞっとします。
もし、あの時、深い叢のなかにポツンと立っていた小さな『←高山方面』の野点看板を見落として、そのまま真っ直ぐに走っていたら・・・と、思うと ぞっとします。
とっぷりと日も暮れ、最終客を迎えた宿の女将さんの「それにしてもご無事で、なによりでした!」との労いの言葉を聞いた時、初めて緊張の解けた家内の顔をしみじみと眺めたものでした。
とんだ雪物語でした。長文、お許し下さい。
投稿: あこがれ | 2018年1月11日 (木) 17時03分
小学校時代に覚えた、文部省唱歌「冬景色」とともに大好きな唱歌です。
管理人様が懇切丁寧に歌詞の説明をいただいて意味がよく理解出来ました。
当時の唱歌の作者は不詳となっているケースが多いですが、作詞・作曲ともに心に響く名曲ばかりですね。
まさに、絵にかいたような情景描写ですが、今の子供たちにも歌い継がれてもらたいものですね。
投稿: タケオ | 2021年3月30日 (火) 17時43分
昭和18年岩手県生まれです。
唱歌の中でも一番いなかの情景を表していると思っています。
大好きな歌なのですが、いま住んでいるで静岡の歌声カフェで歌いたいとリクエストしても知っている人が半数もいません。
70代中心の高齢者ばかりなのですが、気候の違いで実感していないからなのでしょうか。
また童謡唱歌の本に載っていることは少ないし、ネット上でもなかなか検索にひっかからないマイナーな曲(人口が多い都市の歌ではない。)だからでしょうか。
歌詞だけでなくメロディーも優しく静かなそして易しいのに忘れられていくのは残念です。
投稿: 迷子の老い猫 | 2024年11月22日 (金) 10時57分