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2017年2月 5日 (日)

月の法善寺横町

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:十二村哲、作曲:飯田景応、唄:藤島桓夫

1 包丁一本 晒(さらし)に巻いて
  旅へ出るのも 板場の修業
  待ってて こいさん 哀しいだろが
  ああ 若い二人の
  想い出にじむ 法善寺
  月も未練な 十三夜

    (セリフ)
    こいさんが私(わて)を初めて法善寺へ連れて
    来てくれはったのは「藤よ志」に奉公に上っ
    た晩やった。「早う立派な板場はんになりい
    や」ゆうて、長い事水掛不動さんにお願いし
    てくれはりましたなァ。あの晩から私は、私
    は、こいさんが、好きになりました。

2 腕をみがいて 浪花に戻りゃ
  晴れて添われる 仲ではないか
  お願い こいさん 泣かずにおくれ
  ああ いまの私(わて)には
  親方はんに すまないが
  味の暖簾(のれん)にゃ 刃が立たぬ

    (セリフ)
    死ぬ程苦しかった私らの恋も、親方はんは許
    してくれはった。あとはみっちり包丁の修業を
    積んで一人前の料理人になる事や。な、こい
    さん、待っててや…。ええな、こいさん。


3 意地と恋とを 包丁にかけて
  両手あわせる 水掛不動
  さいなら こいさん しばしの別れ
  ああ 夫婦善哉(めおとぜんざい)
  想い出横町 法善寺
  名残りつきない 燈(ひ)がうるむ

《蛇足》 昭和35年(1960)発売。藤島桓夫(たけお)が大阪弁の特徴にぴったり合ったソフトな声で歌い、語りました。

 大衆歌謡の歌詞は、多かれ少なかれ物語性を帯びているものですが、この歌は、セリフも含めると、そうした特徴がとくに色濃く感じられます。
 若くして老舗の料理屋に入った若者が、そこの娘と恋仲になるが、親方に認められるにはもっと腕を磨かなくてはと、修業の旅に出るというストーリー。

 ある時期まで、ドイツの職人世界で盛んに行われていた遍歴修業・ヴァルツェ(Walze)を思い起こしました。そういえば、この歌は、遍歴修業に旅立つ若者が恋人に別れを告げるドイツ民謡"別れ(Abschied)"と状況がちょっと似ています。

 料理、木工、焼き物、建築、染色などいろいろな分野で一流の技術を身につけるには、多くの時間と努力が必要ですが、AIの進展でそれも変わってきそうです。
 AIが高度な技術から創造力まで備え、さらには感情まで持つようになったとき、さまざまな分野における名人上手の居場所が残るかどうか心配になってきます。

 法善寺横町は、大阪市のミナミ(中央区と浪速区にまたがる繁華街の総称)を代表する繁華街の1つで、道頓堀ととともに、多くの大阪演歌に登場しています。
 通りの一角にある水掛不動は、水をかけて祈ると商売繁盛や恋愛成就などに御利益があるというので、いつも濡れて苔むしています
(上の写真)

 3番に出てくる夫婦善哉は、法善寺横町にある甘味屋の店名。織田作之助がこの店や法善寺横町を舞台にして書いた小説で有名になりました。小説は映画化され、森繁久弥と淡島千景の名演が印象に残りました。ただし、私が見たのは、封切り時ではなく、ずっと後年になってからです。

 「こいさん」という言葉を初めて知ったのは、フランク永井の『こいさんのラブ・コール』(昭和33年〈1958〉発売)を聞いたとき。このときは、「こいさん」は女性の名前か愛称だろうと思っていました。
 船場の老舗などで妹娘のことをいうと知ったのは、数年後に谷崎潤一郎の『細雪』を読んだときでした。冒頭にいきなり「こいさん、頼むわ。――」と出てきます。
 のちに、連れ合いの母親が大阪での娘時代に、「いとさん」と呼ばれていたと聞きました。「いとさん」も「こいさん」も、はんなりした響きを持ついい言葉ですね。

(二木紘三)

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コメント

いつも楽しく拝聴しています。仕事柄東京弁と関西弁(正確には神戸播磨弁)のバイリンガルなので、これと「浪花恋しぐれ」のセリフ等は得意になって歌っています。藤島桓夫の甘ったるい声は真似できませんが、船場言葉のイメージにはぴったりだと思います。こいさんは「こいとさん」から来ていると聞いたことがあります。いとさんは私など、いとはんと言うほうがしっくりきます。昔のガールフレンドは「なかんちゃん」でした。先生の言われる「別れ」ムシデンとはなるほど同じ状況ですね。

投稿: しょうちゃん | 2017年2月 5日 (日) 21時16分

20代の頃慰安旅行の宴会で鼻をつまんで藤島恒夫のモノマネで歌い、喝采を浴びました。それ以来今に至るまで私の18番の一つになりました。私は今、紙芝居ボランティアで、子供たちや高齢者施設で紙芝居の実演をしていますが、もともと芝居っ気があったので、セリフのところを思い入れたっぷりに言ったら、関西の人が思わず「ちがうな」と言いました。やはり、うまく関西弁でしゃべったと自分では思っても、現地の人は違うとわかるんだなと思いました。

あの頃は、歌がヒットするとその歌手の映画がすぐ作られましたね。藤島恒夫も数本映画に出たと思いますが、この歌を聞くと、当時の自分を思い出し懐かしいです。歌ってそこがいいところですよね。

投稿: 吟二 | 2017年2月 5日 (日) 23時31分

二木先生の演奏を聴きながら内容の深い「蛇足」を
繰り返し拝読しております。
懐かしい唄です。大阪、京都に肉親、親友がいるので
臨場感さえ感じるこの頃です。
裸電球の下で繕い物をする母や
わらうち仕事をしていた父の後姿が浮かんできます。
21年生まれの私は当時14才。
紙芝居の3円~5円のお小遣いももらえず指をくわえて
輪から離れていました。(飲んだくれの父親を恨む心は
社会を恨む心に進化し、党員教師に洗脳される温床は十分でした)

吟二さま

私も小学校の読み聞かせや老人ホームで
紙芝居を演じております。
昨秋は童心社の会長である 酒井京子さんの模範演技を
沢山観賞致しました。吉祥寺のホテルに一泊して
全国の紙芝居愛好家の方々との交流を深めました。
吟二様もご活躍ください。

投稿: りんご | 2017年2月 6日 (月) 13時15分

連続投稿をお許しください。
年代的  14才は 違和感があります。
紙芝居の輪から離れて わが身の不遇を嘆いていたのは
10才前後でした。
上演の最後に 絵解きクイズがありました。
例えば  犬と貝ならば  「犬養毅~いぬかいつよし」が正解。お金を払った聴衆は  せんべいや水飴を持ってるので一目瞭然。回答率~パーフェクトの私は「お前、銭払ったか、」と咎められました。何せ  無銭観賞のほかに正解の  ご褒美の煎餅までもらっていたのですから。
その時の  口惜しさは終生のトラウマとなりました。
つい最近、かつて夫が紙芝居で近在を回ってたという90歳の女性と出会い、当時は赤貧洗うがごとしの生活ぶりであったことを知りました。わずかな収入源を、資格もなく観て、あまつさえ賞品の駄菓子」さえせしめていた私~
盗人たけだけしいのは私であったとほろ苦く述懐したものです。

投稿: りんご | 2017年2月 6日 (月) 13時46分

私も好きな歌です。

たぶん主人公にこいさんは一目惚れしたのでしょう。
それだけ若者はハンサムだった?

水掛不動にはお参りしたことがあります。

投稿: みやもと | 2017年2月 6日 (月) 18時54分

藤島桓夫は23年前に高血圧性脳出血で冥途に旅立ちましたが(自分も長年の飲酒と大食いのツケで高血圧のため病院通いの毎日です)、カミさんからはポックリいってくれればいいが、なまじ倒れたっきり寝たきりになれば女房が最大の被害者だと言われている今日この頃です。
それはともかく、『月の法善寺横町』は大阪と無縁の北関東在住の年寄りでも、何か心が安らぐ歌です。藤島桓夫のほんわかしたキャラクターがその一因ではないかと思う今日この頃です。
↓下記は藤島桓夫が出演した当時のNHK人気番組です。
www.youtube.com/watch?v=rBIxxYs9Uvg

投稿: 焼酎百代 | 2017年2月 7日 (火) 14時36分

 「月の法善寺横町」は聞いた記憶があり、4年位前に大阪で中学の同窓会があり行きました。翌日大阪で暮らしたことのある友人が「大阪城」の他に「ここが法善寺横町だ。」と案内してくれました。「水掛け不動」にお参りし、「夫婦ぜんざい」屋にも行き、食べました。 大阪はいいなあと思ったのです。 昭和35年に発売でしたか。高校1年生です。

投稿: 今でも青春 | 2017年2月 8日 (水) 09時12分

いくつか思いつくまま。

・織田作之助の「夫婦善哉」読んでみました。主人公はどうしようもない男だと思いました。ネットの青空文庫でも読めます。

・フランク永井の「大阪ろまん」に、「夫婦善哉」が登場します。「こいさんのラブ・コール」と共に石濱恒夫の作詩です。「月の法善寺横町」と合わせて聴くと面白いと思います。藤島桓夫は大阪の出身らしく科白が自然ですね。歌詞を暗記しているのですが独特のアクセントはまねできません。

・こいさんといえば、フランク永井「こいさん恋唄」石濱恒夫作詩、和田弘とマヒナスターズ「お百度こいさん」喜志邦三作詩
 フランク永井とマヒナスターズは「めおと」と発音していますが、藤島桓夫は「みょうと」と発音しています。

蛇足
・現地の写真を見ると法善寺横丁なのですがこの歌は法善寺横町です。

・石濱恒夫 は りっしんべん で
 藤島桓夫 は きへん です。
 藤沢桓夫   きへん という小説家もいます。

投稿: Hurry | 2017年2月18日 (土) 10時18分

 法善寺横町へお出でになったらその左手小料理屋「正弁丹吾亭」前の西田当百の柳句碑
     上かん屋 ヘイヘイヘイと さからはず
そしてすぐ近くの道頓堀通りで三ツ星クラスのうどん屋「今井」の前には、“グリコ1粒300M”のキャッチ・コピーをされた川柳界の大御所岸本水府が初代中村鴈治郎の舞台姿を詠んだ
     頬かむりの 中に日本一の顔
さらに、近くには若い連中が通称ひっかけ橋と謂われていた相合橋の脇の食満南北の
     盛り場を むかしに戻す はしひとつ
も序でに鑑賞されて、法善寺界隈の歴史へ思いをはせて加えて記念に1句は如何でしょうか?

投稿: 尾谷光紀 | 2017年2月18日 (土) 11時45分

十三夜の月を見ながら考えたのですが

月も未練な十三夜

とはどういう意味でしょう。

投稿: hurry | 2018年10月23日 (火) 09時40分

自分の気持ちを月に投影しているように感じますね。

この歌を聞いて以来、法善寺横丁には一度訪れてみたいと思っていたのですが、大阪に7年住んでいたにも関わらず果たせませんでした。まだチャンスはあると思いたいです。

投稿: yoko | 2018年10月23日 (火) 15時23分

尾谷光紀さま

 もう1年前の貴兄のコメントを今読みました。私も川柳を齧っている者ですが、西田當百の句などよくご存じの方がこのサイトにいらっしゃるなんて、嬉しいです。
 私は関東の者ですが、この「月の法善寺横丁」が若いころから好きで、藤島恒夫全盛のころ社員旅行の余興でよく鼻声の藤島の物まねで、鼻をつまんでこの歌を唄いい喝采を浴びたのが嬉しくて、いまだに集りの座興に歌っています。
 「道頓堀の雨に別れて以来なり」「電柱は都に続くなつかしさ」「ぬぎすててうちが一番よいという」の岸本水府。「国境を知らぬ草の実こぼれ合ひ」の井上信子。「ちと金が出来てマルクス止めにする」の信子の父、井上剣花坊。「知っるかアハハと手品やめにする」の椙本紋太。「案の定酒屋で聞いて家が知れ」の前田雀郎。「愛咬やはるかはるかにさくら散る」の時実新子。その他たくさんの名川柳がありますが、川柳人口は残念ながら俳句人口にとても及びません。花鳥風月を詠む俳句。人間の情を詠う川柳。私ももっと文芸川柳が人口に膾炙することを願っている一人です。光紀さま、よろしくお願いいたします。
 「参観日かあさん来ない窓のばか」(吟二)
 
 
 

投稿: 吟二 | 2018年10月23日 (火) 20時01分

 長崎のsitaruです。大阪弁の入った曲はたくさんありますが、私は藤島桓夫さんのこの曲が一番好きです。ことばは適当かわかりませんが、大阪弁特有の「泥臭さ」が少なく、鼻にかかった甘い声が魅力的でした。
 この曲の歌詞、特にセリフの部分には、大阪弁が沢山織り込まれていますが、特に注意される点があります。それは、「板場はん」「親方はん」のように、人を表す接尾語「さん」を「はん」と発音することです。この発音は関西弁の地域の広い範囲で見られ、他に「いとはん」「おはなはん」などのようにたくさんの例があります。ところが一方では、何度も出て来る「こいさん」や「水掛不動さん」は「はん」にはなりません。どういう場合に「はん」になり、どういう場合に「さん」のままなのかということについては、ネット上でも話題になっているように、基本的に「さん」の直前の音節の母音がa,e,oの場合に「はん」となり易く、それ以外の母音iとu、それから撥音「ん」、促音「っ」、長音の場合に「はん」となりにくいことが判っています。もちろん、これは法則的ではないので、例外もあります。少し古いですが、大阪がネイティヴの作家織田作之助の小説『夫婦善哉(めおとぜんざい)』(1940)の中にも該当例がたくさん出て来ますが、
 「おっさん」「旦(だん)さん」「維康(これやす)さん」「おば(小母)はん」「おく(奥)さん」「蝶子(ちょうこ)はん」「蝶子さん」「男はん」「娘さん」「お師匠はん」
などという用例を見ると、やはり上記の傾向は確かなもののようです(なぜそうなるのかということは、まだ明確な説明は出来ていません)。
 この「さん」→「はん」の変化は、子音sがhに変わる変化で、他に敬語の「(行き)なはる」(←「(行き)なさる」)、「下はる」(←「下さる」)、丁寧表現の「(行き)まへん」(←「(行き)ません」、「~でひょ」(←「~でしょ」)、否定表現の「行かへん」(←「行かせん」←「行きゃせん」←「行きはせん」)、接続詞「ほな(ら)」(←「そうなら」)などがあります。こういう変化は、歴史的には、江戸時代半ば頃から始まります。中でも早く始まったのが、「なさる」→「なはる」の変化と、「さん」→「はん」の変化で、18世紀中頃から文献に出て来ます。特に「なさる」→「なはる」の変化は、急速に広まったようで、関西以外の地方にも波及し、もともと関西の影響が強かった四国地方のほか、中国・九州地方でも、あちこちでこの発音が聞かれます。私の長崎でも、この言い方をする人は珍しくありません。さらに、この歌の中には、「くれはる」という言葉が何度か出て来ますが、このことばも、「くれなさる」→「くれなはる」→「くれはる」と変化したものであれば、やはりs→hの例といえるでしょう。ついでですが、「私」を「わて」(「あて」という場合も)というのも関西弁の特徴ですが、これは「わたし」→「わたい」→「わて」と変化したものと考えられます。ただ、「わたい」の「たい」が「て」になる変化、一般的には「あい」が「え」になる変化は、標準的な関西弁では他に類例を思いつきません。問題が残るところです。

投稿: sitaru | 2020年12月 6日 (日) 19時28分

「月の法善寺横町」この唄を聴いてると、独身時代に言葉には言い尽くせないほどの恩義を受けた焼き肉屋のご主人のお顔が浮かんできます!

当時21才の私は名古屋南区にある古い木造アパートに住んでいました。そのころある事情により私は失業をしてしまい、必死にやりくりしましたが僅かな貯金も底をつき、いよいよ家への仕送りもできずに本当に困り果てていました。

そんな状況のある夜、私は半ばヤケッパチで暖簾を潜ったお店がその焼き肉屋でした。その日のお店は常連さんらしいお客さんで満員でしたので、私が帰ろうとするとご主人が皆さんの席を少しずつ詰めてくれて私の席を一つ作ってくれました。

お客さん初めて見る顔だねと言ってご主人は私にやさしく接してくれました。そのうちに少しずつ常連さんも店を出て行き、夜10時ごろにはお客は私一人になりました。
するとご主人は閉店の時間だけど、今日はぼくも飲みたいので一緒に付き合って欲しいと言って私の隣の椅子に座りました。
今日は僕のおごりだからとことん一緒に飲もうと言ったので、そのご主人の一言に驚きながらも飲んでるうちに私も大分酔いが回り、いろんな話を長時間したことまでは憶えているのですがあまり記憶がありませんでした。
するとその翌朝、私のアパートの部屋に突然そのご主人が訪ねてきて、これ良かったら何にも言わずに用立てて欲しいと言って私に封筒を手渡すとすぐさま立ち去って行きました。私がその封筒を開けるとその中には10万円が入れてありました。
世の中には初めて会った私にこんなことをしてくれるお人がいるんだ、そう思ったら感極まり堪らず涙が出てきたことを今でも憶えています。

そのお金は二か月後、私の就職が決まってから月に1万円ずつお店に返しに行きましたが、5万円目を返しに行った時、ご主人はもうこれで十分満足だと言って残りのお金は絶対に受け取りませんでした。そしてその日は嬉しいと言って豪勢に焼肉料理を振舞ってくれました。

「月の法善寺横町」今でも足を向けては寝られないその恩義ある焼き肉屋のご主人が、私の就職祝いにと言って顔を真っ赤にしながら初めて歌ってくれたのがこの唄でした。45年前の絶対に忘れられない私の大切な想い出です。

追記!

長崎のsitaru様へ、この度の交流掲示板へのコメント、「花札・麻雀・得手のトランプ」『お若き頃の勝負についての想い出』楽しく拝読いたしました!
そしてこの曲、そして先日の「島原地方の子守唄」へのご投稿コメントでの、言葉の在り方・また方言についての謂われなど、その深く追及された博識を感じさせる情報、またそのご姿勢にはいつも感服しています。

またのご投稿コメントを楽しみにしております。

投稿: 芳勝 | 2020年12月 8日 (火) 18時17分

芳勝さま

 コメント拝見しました。あまり経験できないような体験をされて、ある意味では羨ましく思います。そんな人情家もこの世にはいらっしゃるんですね。やはり芳勝さんのお人柄がそうさせたのでしょうね。飲み屋のお客さんたちも協力して席を詰めてくれて、こんな人情家の多い日本は、やっぱりいい国だと思いました。

投稿: 吟二 | 2020年12月10日 (木) 20時31分

 芳勝様「月の法善寺横町」の素敵なメロディと実際ご体験された人情家・焼肉屋のご主人のお話に感動しました。ほんとに素敵な実話ですね。
 最近、コロナ禍で自分も困っていながら、人のために汗や涙を無償で提供される方の行動に感動しています。
 
 芳勝さんは、ご主人のことを始めて紹介されました。
おそらくご主人は 芳勝様の心意気・お人柄に感激され 奥様に内緒で封筒を渡されたと思います。また 芳勝様の就職祝にこの唄を歌われたとの事、一生思い出に残りますね。地方転勤の都度、私も人情家に出逢い、お世話になったことを思い出しました。有難うございました。

投稿: けん | 2020年12月11日 (金) 12時59分

思い出せば「ほうちょういっぽん、さらしにまいてえー、たびへでるのもおー」という藤島桓夫の高く澄んだ声が今も響いてきます。この歌は昭和35年でしたか、私が小学校5年生の時にきいたことになります。大阪弁を実にさわやかに歌っているなあと思いました。それにしても恵まれすぎた環境の下で修行しているなあと思ったのはもう少し大きくなってからです。
私も芳勝様のコメントに感動しました。端的に言うとその焼肉屋のご主人の親切のふるまいかたに感心しました。「あんたを気に入ったから今日はおごりだ、遠慮するな」から始まり、芳勝さんの部屋まで訪ねて行ってお金をあげた。その後芳勝さんがお金を半分返すまでまって、それからもう返さなくてもいいよと言った。本当の親切とはそういうものだと痛切に思いました。
私の経験からそう思うのです。大学生の頃、見知らぬサラリーマン風の男が近づいてきて財布を落としたのでお金がない、近くの町まで帰る運賃だけでも貸してくれないか、必ず返すからと何度もいわれ、しぶしぶ2千円を貸してあげた。こちらの住所、電話番号も聞いてくれたがーーーーいまだにお金はとどかない。(笑い)
この経験を通して親切とは自分から勇気を出してやる自発的なものだと思った次第。
焼肉屋のご主人もお客の顔を見抜く達人ですが芳勝さんもすぐれた顔の持ち主なのでしょう。いやあ、いいお話ですね。

投稿: 越村 南 | 2024年3月10日 (日) 12時35分

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