宮さん宮さん
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1 宮さん宮さん お馬の前で |
《蛇足》 昭和30年代くらいまでは、子どもでも知っていた歌ですが、近年では、高齢者以外はほとんど知らないようです。
ラジオの歌謡番組でやるような歌ではなかったのに、20年代に小学生だった私が覚えているのは不思議です。
戊辰(ぼしん)戦争から明治にかけて歌われた歌で、作詞:品川弥二郎、作曲:大村益次郎とされています。
明治に唱歌の編纂に携わった伊沢修二が、品川に「閣下が作詞に関わったのでしょうか」と問い合わせたところ、「そうだ」との返事をもらったので、音楽教科書には「作歌者:尊攘堂主人」と掲載されたといいます。
尊攘堂は、品川が師・吉田松陰の遺志を受けて、尊皇攘夷のために死んだ志士たちを顕彰するために京都に建てた建物。のちに新築して京都帝国大学に寄贈されました。
曲については、品川弥二郎と深い仲だった祇園の勤王芸者・中西君尾が品川の作った歌詞に節をつけて歌ったのが始まりとする説もあります(『日日新聞』など)。
なお、『日日新聞』は慶応4年(1868)閏4月創刊で、明治5年(1872)創刊の『東京日日新聞』とは別です。
また、曲を作ったのは品川と大村だが、それにトコトンヤレトンヤレナという囃子詞を付け加えて歌ったのが中西君尾だったという説もあります。
当時の倒幕志士たちがよく祇園に通っていたことを考えると、品川と大村が意識的に軍歌として作ったというよりも、酒席で即興的に作った歌のような気がします。
その酒席に連なった人たちから討幕軍に広まり、戦争の進行とともに軍歌としての体裁が整えられていったのでしょう。
品川弥二郎が作った歌詞も、1番だけか、せいぜい2番ぐらいまでで、東征の過程で新たな歌詞が付け加えられていったのではないでしょうか。
以上、あくまでも推測ですが。
明治に入ると、この歌は、『宮さん宮さん』もしくは『トンヤレ節』として民衆にも広まりました。そこで、この歌は、日本最初の軍歌であり、また日本最初の流行歌であるともいわれています。
戊辰戦争では、品川は会津降伏後、整武隊参謀として奥羽から蝦夷へ出陣、大村益次郎は東京で事実上全軍の総司令官として活躍しました。明治新政府では、品川は農商務大臣や内務大臣などを歴任しましたが、大村は、明治2年(1869)、兵部大輔として兵制の近代化に努力中、攘夷派浪士に襲われて負傷し、療養中に死亡しました。
歌詞にある宮さんは、東征大総督・有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王。一天万乗は、全世界を治める位またはその人の意で、天子のこと。
上の絵は、彰義隊など旧幕府軍の残党と官軍が戦った上野戦争を描いた錦絵の一部。題辞は、新政府をはばかってか『本能寺合戦之図』となっています(歌川芳盛画)。
(二木紘三)
コメント
宮さん宮さんは生まれた時から聞いていたような気がしまが、1番しか知りませんでした。調子がいい歌なので、周りの大人が良く歌っていたのを覚えたのだと思います。歌詞の本がありましたので見ていたのですが、2番以下は意味が分からなかったので覚えなかったのだと思います。侍に交じって野心のある農家の若者が自分の村を通る行軍に加わり、功をあげ、のちに官吏に採用されて出世したと聞いたことがあります。旗を立て太鼓をたたいて行軍したと何かに書いてありました。戊辰戦争だったのですね。
私の祖母は文久2年生まれでした。街中の叔母の家に住んでいました。デパートに行くとき寄ると巾着袋から2,30円いつも「帳面や鉛筆を買えよ」とくれました。鉛筆が5円、帳面が10円だったと思います。全部駄菓子に消えました。
「ああ、私は江戸の人としゃべっていたのだ」と気が付いた時、急に江戸が近くなりました。私が6年生の時、91歳で亡くなりました。江戸の人とお話しした方いらっしゃいますか。もっと話を聞いておけば良かったと思います。江戸が目の前にあったような気がします。勿体ないことをしました。
投稿: ハコベの花 | 2017年5月 1日 (月) 11時07分
「錦の御旗」が引掛らないようにと、この地では植木屋が徹夜で松の下枝を切ったと言われています。松江藩は徳川の親藩でしたから、一同びくびくしていました。鎮撫使の中には薩摩の乱暴者もいて、刀の先にさしたかまぼこを芸者に喰わせようとしました。肝っ玉芸者は平然と受けて立ちました。その勇敢な「玄丹お加代」は、銅像になっています。いまだに「九州の方から来た連中が悪いことをする」と思っている人もいます。私はそうじゃないんですがね。
投稿: Bianca | 2017年5月 5日 (金) 10時05分
Bianca さまにつづいて
松江藩は 江戸時代 幕末 明治維新 と 徳川の親藩松平でありながら うまく立ち回り また 隠岐の島に対しては 島の人たちを 土人 と呼び 書き ひどい政治をしていました 現在も 土人発言があったり 政府の 庶民 国民に対する処し方 昔とかわらないですね
皆が 大きな格差なく ゆっくりと 思いやりを持ち合える日々がきてほしいものです
内閣 官僚の 嘘の数々 都合の悪い事実の隠蔽
駄目ですね 恥ずかしくなります
子供達に どう 話せるのでしょうか
投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年5月 5日 (金) 18時50分
大阪市中央区上町に此処で亡くなったといわれている「兵部大輔大村益次郎卿殉難報国之碑」があります。
小さい頃よく歌っていた「宮さん宮さん」を作曲、しかも日本最初の流行歌で軍歌だと知り夢の中のような白黒の映画のワン・シーンを思い出しつゝ、あらためて日本の近代化へ命を賭けた大村益次郎(村田蔵六)をさらに偲びたくなりました。
「二木紘三のうた物語」でいつも学ばせていただいています。
投稿: 尾谷光紀 | 2017年5月 6日 (土) 10時18分
子供の頃祖母に「好きな歌、うたって」とせがんだら、宮さん宮さん♪、と歌いました。ハコベ様の江戸時代生まれのおばあ様との対話、もう現在ではありえない貴重な体験ですね。”文久2年”をネットで検索してみましたら、ペリーの来航から9年目、生麦事件があった年ですね。まだ大名行列がなされていた頃です。このことからわらべ歌”鞠と殿様”(西条八十作詞)がふと思い出されました。てんてんてんまりてんてまり♪・・・。 てまりが転がってお殿様の籠に乗っかり紀州にまで運ばれ蜜柑になってしまったという歌です。合田道人氏著「童謡の謎」によるとこの歌の背景は残酷で恐ろしいですね。てまりを追っかけて大名行列に入った女の子が惨殺されその魂がてまりに乗り移って紀州で蜜柑になったというお話(推測)だそうですが・・・。
一方、当時(幕末から明治)日本を訪れた多くの外国人が残した日記には、日本の社会をほめたたえる記述がたくさんあるのですね。私も渡辺京二氏の「逝きし世の面影」を読んでよく知りました。
投稿: yoko | 2017年5月 7日 (日) 00時00分
お祖母ちゃんの子供の頃の話を聞いておけば良かったですね。私が小学校の頃は耳が遠くなっていてあまり会話が出来ませんでした。この祖母の田舎の親の実家には今でも屋敷林があり、大きな蔵が建っています。それにしてもこの祖母の縞の巾着袋にはお金が沢山入って居るように見えました。じゃらじゃら音がしていましたから昔の銅貨や銀貨がかなり入って居たと思いますが、間違えないで、よく十円札を出してくれたと思います。呆けて居なかったのですね。私も90歳までは呆けないかもと期待しています。祖母は随分色んなものを見てきたと思います。私も姪や甥に戦時中の大変だった事を話しておきたいと思います。
投稿: ハコベの花 | 2017年5月 7日 (日) 00時56分
今日は猛暑の祇園祭りです。今年は維新150年ということで京都の各寺などが普段非公開の国宝などを公開する催しがありました。仁和寺では後の小松宮が鳥羽伏見の戦いに臨んで掲げた錦の御旗と軍服や絵巻の展示がありました。錦の御旗は70X300センチの雲のような模様があるだけで、仁和寺に掛かっていたカーテンのようなものをありあわせに使ったとの説明でした。絵巻には宮を直近で警護するのは芸州兵と書かれていました。一説では鳥羽伏見の戦いは新政府側も勝利の確信が無く、菊の御紋を出さなかったといいます。後に長州で作らせた錦旗を東征大総督である有栖川の宮が掲げたとのこと、小松宮は征討大将軍でした。
投稿: しょうちゃん | 2018年7月17日 (火) 18時55分
久しぶりに、関西在住の先輩 しょうちゃん様のコメントを拝見しながら、維新期の京都の動乱の歴史を振り返っています。
例年、祇園祭の期間中、「屏風祭」といって山鉾町の町家では、表の格子を外して、秘蔵している屏風や美術品、調度品等を飾り、通りから観賞してもらえる様にする風習がありますが、
戊辰戦争から数えて、維新150年の今年 京都の各寺で普段非公開の国宝などが公開されるとは、京都の歴史愛好者にとっては、願ってもないチャンスですね。
私も、この暑さが和らいだら、時間を作って見にいきたいと思っています。
豊中から、池田の山越え、亀岡に抜け、京都縦貫道から、桂川を北上して、嵐山から東へ、仁和寺~龍安寺~堂本印象美術館~立命館大学~等持寺~金閣寺へと続く「きぬかけの路」と呼ばれるルートは、私のもっとも好きな歴史街道の一つです。
仁和寺といえば、別名を御室御所といって、宇多天皇 開基の門跡寺院で真言宗御室派の総本山であり、東寺・神光院(太田垣連月尼の隠棲茶室)と並んで、京の三弘法の一つとしても著名ですが、一般的に知られているのは、京都一
遅咲きで、2~3mの低木に地上を這うように咲く御室桜です。御室有明、御室お車返しや御衣黄と名付けられ黄緑色の花を咲かせる珍しい八重桜など、5月初旬から中旬の花見頃には、カメラ片手に訪れる人達で賑わいます。
小松宮は、仁和寺宮嘉明親王のことで、門跡寺院の門主であったが、当時のヨーロッパあたりの風習を真似て貴族や皇族が軍務に服することは、珍しいことではなかったようです。
鳥羽・伏見の戦いで戦線の指揮をとり、やがて有栖川宮熾仁親王が東征大総督となり、戊辰戦争へと突き進んでいきますが、薩摩・長州を中心とした新政府群が、錦の御旗をひらめかせながら、♪♪みやさんみやさん~ と、東進した裏には、会津や五稜郭の戦いに見られる悲劇の上に、明治新政府が誕生。歴史の転換点には、いずれも多くの犠牲が伴うもののようですね。
投稿: あこがれ | 2018年7月18日 (水) 16時26分
鳥羽伏見の戦いは、底なしの悲惨な内乱に拡張しかねませんでしたが、幕府側の将徳川慶喜が戦線を離脱することで、一気に収束しました。慶喜が持てる兵力を使わずあえて敗戦を選んだことで、日本は内乱の淵から救われ、旧勢力に遠慮せずに新しい時代に適応する試みができる新政府が生まれました。今やっている大河ドラマでは、慶喜はバカ扱いですが。慶喜は父親から「徳川家と天皇家が戦うようなことになったら天皇家に弓をひいてはいけない、それが我が家の家訓である」と言われたそうです(水戸光圀を祀る常盤神社の home page より)。そしてこの水戸家の伝統ですが、水戸家第一代光圀の、21 歳で亡くなった妻泰姫への愛が、妻の実家である天皇家への敬意となったと思えます。光圀は亡き妻を悼む悲痛な文を書き、年老いても、泰姫がかつて詠んだ歌に唱和する歌を詠み、泰姫の命日に剃髪しました。泰姫の短い人生が水戸家の家訓に繋がり、幕末に日本を救ったと私は思います。この歌と直接関係ないことを書いて申し訳ありませんが、鳥羽伏見の戦いには関係のあることですし、男女の愛は歌のブログの大事なテーマと思い、書かせていただきました。
投稿: kazu | 2018年7月18日 (水) 16時30分