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2017年6月 1日 (木)

御身を愛す

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:Karl Friedrich Herrosee、作曲:Ludwig van Beethoven
日本語詞:堀内敬三

愛する思いは 朝夕たえず
二つの心は 離るる日なし

なやみも涙も 互いに慰め
憂きも楽しきも 共にわかたん
君と共に

いとおしの君よ
まごころ愛でて

御神は君をば 護り給(たま)わめ
御神は我等を 恵み給わめ
恵み給わめ 我等を


   Ich Liebe Dich

Ich liebe dich, so wie du mich,   
am Abend und am Morgen,
noch war kein Tag, wo du und ich
nicht teilten unsre Sorgen.

Auch waren sie für dich und mich
geteilt leicht zu ertragen;
du tröstetest im Kummer mich,
ich weint in deine Klagen,
in deine Klagen.

Drum Gottes Segen über dir,
du, meines Lebens Freude,
Gott schütze dich, erhalt dich mir,
schütz und erhalt uns beide,

Gott schütze dich, erhalt dich mir,
schütz und erhalt uns beide,
erhalt, erhalt uns beide,
erhalt uns beide!

《蛇足》 K. F. W.ヘルロッセーの詩"Zärtliche Liebe(優しき愛)" に曲をつけたもの。ヘルロッセーの詩は2節ありましたが、ベートーベンは最初の節だけに作曲しました。求愛の歌です。
 わが国では、原詩のタイトルより、"Ich liebe dich" のほうがよく知られています。

 作曲は1795年、ベートーベン25歳のときだったとされていますが、1797年説、1803年説もあります。楽譜は1803年に、ウィーンで出版されました。

 1795年は、ベートーベンの運命が大きく動き出した年でした。その2年前に、ボンからウィーンに移住し、貴族のサロンにおける即興演奏で評判になっていたベートーベンは、1795年5月、満を持して初めての公演を行いました。このとき演奏した自作のピアノ・コンチェルトによって、作曲家・演奏家としての評価が確立されたのです。
 つまり、この小品は、ベートーベンが波に乗り始めた時期の作品ということになります。

 この曲は、テンポによって印象がかなり違ってきます。発表時のテンポがどうだったかはわかりませんが、速いテンポで演奏・歌唱すると、軽快で素朴な民謡調の曲になり、遅いテンポだと、優雅かつ典麗なイメージになります。
 速めのテンポで演奏・歌唱するのが一般的なようですが、ここでは、堀内敬三の荘重な日本語詞に合うように遅めにしました。

 曲の邦題から、大久保武道・愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)の往復書簡集『われ御身を愛す』(鏡浦書房)を思い出しました。第二の"天国に結ぶ恋"といわれた「天城山心中」(昭和33年〈1958〉)の2人で、痛ましい事件でした。これに触れると、ベートーベンの曲より、こっち関係の投稿が多くなりそうだと思いつつ、つい書いてしまいました。

(二木紘三)

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コメント

 おはようございます。この曲がベートーベンだったことをすっかり忘れていました。懐かしく思わず歌ってしまいました。

 中学1年だったと思いますが、ロマン・ローラン『ジャン・クリフトフ』を読みました。確か表紙は緑系で厚さ2センチくらいで上下2冊で2段組みのものだったような気がします。なんで覚えているかというと、兄の新刊より古本のほうがいいよという
勧めがあり、一人で初めて古本屋で買った本でした。表紙の色とロマン・ローランの『大地』を読んでいたので、手に取ってみました。開くと2段組みで隙間なく文字が組まれていました。最初のページに引き込まれてしまいました。

 夢中になり、一気に読みました。この時です、母に「手伝いをしないのなら本を焼く」と言われたのは、読み終わってからの感動は表現のしようがありませんでした。これがきっかけでベートーベンの音楽に夢中になりました。この『ジャン・クリフトフ』は30歳頃まで本棚にありましたが、紙質の悪い本でしたので手放しました。

 第9を作曲するために森(?)の中を散策する描写の雰囲気が今もおぼろげながら感じることができます。

 二木先生、ありがとうございます。このサイトは私にとってなくてはならぬ存在です。「うた物語」で自分の人生の有り様を振り返っている思いがします。ありがとうございます。

投稿: konoha | 2017年6月 1日 (木) 09時25分

 すみません、また訂正です。お使いの途中で、はたと気がつきました。『大地』はパール・バックでした。先に読んでたロマン・ローランの本の題名が思い出せません。お騒がせしました。

投稿: konoha | 2017年6月 1日 (木) 15時26分

konoha様
主人公ジャン・クリストフはベートーベンがモデルといわれていますね。中1でこれを読むとは、恐るべき早熟。

投稿: 釣り人コマツ | 2017年6月 1日 (木) 15時53分

 はい。ませた娘(こ)と言われていました。(笑)『ジャン・クリフトフ』と『大地』を前後して読んで感動していたもので、間違えてしまいました。

投稿: konoha | 2017年6月 1日 (木) 16時02分

こんばんは 二木先生
  ご無沙汰しております

 全く 知らない曲でした

 先生のつぶやきに誘導されて 少し書いてみたくなりました  先生のページで何度も 心中事件 ボート遭難事件 暗殺の場 などに強く心引かれる 自分の不思議さを述べたことがありましたね

 子供のころから そうだったのですから 不思議 不思議  天国に結ぶ恋 琵琶湖哀歌 青葉の笛 鎌倉 大楠公  大好きな曲が並びます

 好きなお寺の一つに 二尊院があることも書きました
二尊院の墓所で 愛新覚羅慧生さんの墓標にであったことも その後 二三回 墓所を廻る機会はあったのですが
 以後 見つけていないことも

 それだけではありません この物語で 何人かの方が推奨されていた 時雨の記 を読み終えたところでした
 藤原定家の隠遁所 時雨亭 は小倉山にあったのですね
二尊院の墓所から 奥深く 小倉山の斜面をはいった休憩場所をみつけています そうです 祇園小唄 にかきました  近くは 釈迦堂 宝筐院  はるか遠くに 東山の風景がみれる  素晴しい所でした  ここなら 時雨亭跡 といってもいいのではと 自分で納得しています
 時雨亭跡は 特定されていなくて 厭離庵  常寂光寺   二尊院    この三箇所のうち どこかだといわれているようです

"Ich liebe dich" ドイツ語を学んだとき 一番に覚えた Ich liebe dich のセンテンスから 伊豆  天城山をめぐって 小倉山の二尊院まで 不思議です

 何らかの 縁 があるのでしょうか

  時代の潮流に流され 狂わされた女性たち

 川島芳子  山口淑子(李 香蘭)  愛新覚羅慧生  嵯峨 浩 ---
 
 そういう時代が 二度ときてはいけないのです

 何か できることはないのでしょうか
  今は 何を書いても この気持ちに集約されます
   何とか ならないのか?????

 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年6月 2日 (金) 21時00分

想像している間の恋は美しく楽しいのに、結婚してしまうと怒りと虚しさで後悔ばかり、「御身よ遠くへ去れ」と願うばかり。それが現実。初恋の人の美しさよ。永遠の人よ。もし会えたら指先が触れただけでもあふれるような喜びで胸が一杯になるでしょう。ただ並んで歩けるだけでも幸せ、それが『時雨の記』なのでしょうね。
今、日本一傲慢で幼稚な夫と妻が日本を好き勝手にしています。誰が許しているのやら、先行きは真っ暗です。

投稿: ハコベの花 | 2017年6月 2日 (金) 23時00分

能勢の赤ひげ様 Ich liebe dich 私も最初に覚えました。フランス語よりも凛とした感じですね。Der(出る)wine Das(出す)bier 半世紀前の思い出です。横浜日本大通りの「Alte liebe」移転しリューアルして最近「逃げ恥」の舞台にも使われていました。先生が蛇足で懸念されておられる愛新覚羅一家ですが、実家の嵯峨侯爵邸があった横浜日吉と今次女「こせい」さんがお住まいの西宮には多少の縁があるのであえて書かせて頂きます。平成25年に福永「こせい」さんが一家に関する資料を関西学院大学博物館に寄贈され、その後展示会と講演会が行われました。
国策に翻弄された生涯は新潮文庫の「流転の王妃の昭和史」に詳しく述べられていますが、「天国に結ぶ恋」は母浩さんにとっては違うようです。書簡集は見たことがありませんが、文庫本では大久保氏はエキセントリックないわばストーカーのように書かれています。母の欲目ということもあるかと思いますが、昭和32年12月の段階で旧憲兵のピストルと実包を持っていたのは異常でしょう。激動の人生を生きた教養ある若い女性が心中とは考えずらく、無理心中と見るのが妥当かと。 

投稿: しょうちゃん | 2017年6月 3日 (土) 07時30分

 本来ならパソコンでの検索ではなく、きちんとした資料に当たって調べるべきのものですが、ちょっと気になりましてパソコンで検索しました。

 Yahoo JAPAN 「天国に結ぶ恋 戦後最初のストーカー事件(?)高崎経済大学」ここに、しょうちゃん様のコメントにありますように「ストーカー」としての記載がありました。参考になりますかどうか分かりませんが、もし事実でしたら映画の影響は恐ろしいものです。決して心中事件なんぞ流行らなかったと思われてしかたがありません。

 慧生さんの優しいお人柄が仇になってしまったのかも知れません。その後の事件もお気の毒としか言いようがありません。息苦しさを覚えてしまいました。

投稿: konoha | 2017年6月 3日 (土) 14時29分

愛新覚羅事件について詳しく知るものではありませんが、事件の推移をネットで知る限りでは私もストーカー事件だと思います。
獲物に狙いを定め、付きまとい、連れまわし、〇人衝動を生じるのがストーカーです。

普通の男の心理は「別れたっていいじゃないか」の歌詞に示されています。

 ♪ 別れたって いいじゃないか
  恋なんて こうじゃないか
  パッと散る 火花だよ
  それっきり寂しいんだ
  ああ 男涙は
  黙って流すさ

これが正常な男の気持ちであって、交際相手を殺したいと思うストーカーの心理は異常で病気だと思います。

つい最近のうた物語で「みじかくも美しく燃え」が取り上げられていましたが、これも少女が撃ち殺された実話をもとにしたそうですね。これも本当に映像と音楽が示すような美しい悲恋の物語だったのでしょうか。私には疑問に思えます。

投稿: yoko | 2017年6月 3日 (土) 22時50分

いろいろな 問題をかかえての 恋愛

庶民でも なかなか悩ましいものです

いわんや 皇族 貴族 の方々の 恋愛 結婚

 曰く言い難し です

無理心中なのか --- 半分以上は 合意の上では

 と 思っています

 慧生さんの最後の手紙に

 私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません  と心中になるだろうとの予測の気持ちが書かれていることと

 伊豆で二人をタクシーに乗せた運転手から
慧生さんが「帰りましょう、ねえ帰りましょう」「今ならまだ間に合うから、帰りましょう」と繰り返し大久保を引き止めていた様子が語られていることからです

 いずれにしても 悲劇です

慧生さんは 「死ぬつもりはなく」「死にたくなかった」けれども、説得できず 帰るに帰れなくなり、死に引きずり込まれて行ったように読み解けるからです


 大久保家からの お話は まず出ないでしょうしーー

しょうちゃんさま の書かれた  愛新覚羅嫮生さんの展示会と講演会 行きたいなぁと思った記憶があります

 関学を下った 甲東園で 15年ほど住んでおりました

また 満州に関しては 家に満州の写真集があり 幼稚園のころから 何気なく覗き見をしていたもので 親近感がありました

 天城山心中が 学習院の 後の学生たちに 何らかの影響を与えたのか 少し気になって  心中の後 5 6年後に学習院の学生になった知り合いにたずねてみましたがーー やはり 語り継がれるようなことではなかったようです

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年6月 4日 (日) 22時14分

能勢の赤髭様 日中のかけはしー愛新覚羅家の軌跡展が関西学院大学博物館でまた開催されるとNHKで放送がありました。

投稿: しょうちゃん | 2017年6月 5日 (月) 21時57分

ベートーベンの歌曲の、名曲の一つですね。
切切とした愛情が感じられます。

投稿: 長沢 徳 | 2017年6月30日 (金) 19時41分

Konoha様へ

 話がこの曲への感想からはずれますがお許しください。
私はあまり熱心なこのサイトの視聴者?ではありませんが、このところ、このサイトの常連投稿者の「浮舟様」のお名前お見かけしておりません。
 そこで辿り着いた結論が、『「浮舟様」が投稿者名を変更されて投稿されている』という仮説です。
なんの根拠もありません。ただただ「物書きの直感」だけです。また、何の悪意もありません。

 konoha様と、「釣り人コマツ様」のやりとりの文面から
この文章の「切り返し」は「浮舟様」ではないか、と直感的に感じました。
 「文章」には必ず書き手の個性現れます。「よく似た文章の書き方」はありえるでしょう、けれどその人その人の「くせ」というものがあります。刑事物のドラマでゆけば「匂うなー」というところでしょうか。

 なんの悪意もなく、またストーカーでもありませんので、もし、「konoha様」が「浮舟」様でなかったならば、ご両人に深くお詫び申し上げます。
 どこまでも、私の「浮舟様」への懐かしさと、「私の直感の正誤」を確認したくてお尋ねしました。

投稿: 高原 勉 | 2017年7月 3日 (月) 17時06分

 高原 勉さま
 ごめんなさい、浮舟さまとは残念ながら別人です。そういえばお名前を最近拝見していませんね。
 浮舟さま、お変わりなくお過ごしのことでしょうか?
 
 二木先生の「蛇足」ファン、また皆様のコメントを拝読するほうが本を読むより心に残り、一日一回以上は「うた物語」にお邪魔しています。コメントを拝読しながら、この方はおいくつなのだろうと思い、コメントのなかに生まれ年の手がかりや生年があるときは、その情景、時を共有して拝読させていただいています。

 浮舟さまは昭和24年前後の方だと思ったのですが、間違っていたらごめんなさい。私はS19生まれです。今年の1月29日「田舎の冬」で初めてこのサイトに寄させていただきました。

 高原 勉さま、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 
 

投稿: konoha | 2017年7月 3日 (月) 18時49分

konoha様

 ご丁寧な御回答ありがとうございます。
そうでしたか、Konoha様と浮舟様は別人の方でしたか。
悪気は一切ありませんのでどうぞ今回の私の勘違いはお許し願いたいと思います。
 わたくしも久しく「浮舟様」の音信がないことが心配になり、今回の投稿となりました。ご無事に日々過ごされていることをお祈りするばかりですが、お元気であれば、Konoha様との、このやりとりも目にされていることと思います。

 私は二木先生の「蛇足」の文面を2,3度読ませて頂いた段階で、「ああ、この方は長野県人だ」と直感し、二木先生の自序で「やはり」と自分の直感の正しさ実感した経験があります。(なぜなら私の元戸籍が長野県であり、二木先生の文章に長野県人の県民性感じたからです)

 私は神秘主義者であり、「霊媒体質」だそうですので、自らの直感を大切にしています。
今回ははずれたようですが、Konoha様との新しい出会いが
生まれましたので大切にしてゆきたいと思います。

 わたくしと「浮舟様」とのやりとりは『雨に咲く花』の項にありますのでご覧ください。
 私もKonoha様の『田舎の冬』をこれからじっくりと読ませていただきます。
 これもまたひとつの出会いです。
 こちらこそ宜しくお願い致します。

投稿: 高原 勉 | 2017年7月 4日 (火) 00時41分

 (私信になりますが、お許しください)
 高原 勉さま
 浮舟さまの文体が気になりまして遡って拝読しました。高島さまの直感は「当たらずといえども遠からず」と思いました。浮舟さまほどではありませんが、反骨精神は私も少なからず内蔵しています。同じような資質があるのかも知れません。(だからどこか文体が似通ったのかも)

 現在は何も書いていませんが、30代のころ同人誌に入り作品を書いていました。傾向は純文学ではありません。自分のことを書くのが厭だったもので、読んで面白いものを書きたいとおもっていました。ですが、この「うた物語」では思い出話として書いて楽しんでいます。

 もともと漫画をよみます。いつも「どうしてこんな展開になるのだろう」と、劇画作家の発想には感心しています。手塚治虫の『火の鳥』シリーズ、『きりひと讃歌』、『ライオンブックス』などなど今でも読んでいます。かっては白土三平『カムイ伝』、もちろん『あしたのジョー』なども読みました。

 浮舟さまのように私も「サルトル」は好きではありません。でも『壁』はひねらず素直な作品だとおもいました。よくボーヴァワール(『第2の性』の著者』)はサルトルと生涯共にしたと思います。(2人からすると、「言われる筋合いはない」と怒られるかもね)

 周恩来関係の本は読んだことはありません。偏見と独断ですが、当時のTVニュースで周恩来の映像が流れた時、中国共産主義者のなかで唯一品格の漂う人だなとおもいました。その後HNKの『映像の世紀』、『新映像の世紀』の中の周恩来首相に好感をもちました。

 ソ連最後の大統領ゴルバチョフもすごい人物だとおもいました。共産主義の国家で「ペレストロイカ」、「情報公開」を促進させた人物として、当時大変驚きました。

 長々と曲とは全く関係ないことを書いてしまいました。たいへん失礼いたしました。

 

投稿: konoha | 2017年7月 4日 (火) 14時11分

Konoha様

 浮舟様の様々な投稿文を遡ってお調べ頂いたようですね。
私の知らない浮舟様の、多岐に渡る関心の広さを、Konoha様に教えて頂きました。
 つくづくこのやりとりの場に浮舟様の参加されてないのが
残念です。
 Konoha様が漫画も読まれる方と解り安心しました。
手塚治虫先生の『きりひと讃歌』手塚先生の晩年の傑作のひとつですね。
 手塚先生は「漫画の神様」と称えられる天才ですが、晩年
台頭してくる「劇画」に対し、激しいジェラシー?or危機感をいだかれ、「虫プロ」の若い社員を皆集め、劇画作品を示し、「この作品のどこがおもしろいのか教えてくれ!」と「漫画の神様」が叫ばれた?というエピソードが伝わっています。故に、晩年の作品には「劇画の影響が色濃く出ているな」と感じます。けれど天性のストーリーテリングの上手さと、問題意識の重厚さが『キリヒト讃歌』のような傑作を生み出だされたと評価しています。
 お亡くなりになる1年ほど前に、NHKの1時間番組に出られた時に、「アイデアだけならデパートで売るほどある」とおっしゃってた記憶ですが、天才手塚治虫先生の頭の中だけに存在してたその作品群を見られるものなら見てみたいですが、永遠に我々は目にすることは叶いません。

「中華人民共和国国務院総理」周恩来、私の世界史上で最も
尊敬する人物です。あのキッシンジャーが「自分がこれまで出会った世界の指導者の中で、最も聡明な人物」と評していました。
 もう一人尊敬する人物が「悲劇の大統領・JFK」です。
あの人が生きていれば「ベトナム戦争はなかった」-これは
「逆」かもしれませんね、ある人々にとって「ベトナム戦争拡大するために一番じゃまだったのがJFK」であったのかも・・・。私はこれを原作として描きたいと思っています。

あまり歌にまつわる皆様の思いでからかけ離れますと、またご批判を頂くことになりますので、この辺にて納めます。

「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉がありますが、
この言葉が正しいとすれば、その「世」を問わずして、「歌」は存在しえないことになります。
私の無くなりました父は、初年兵で満州送りとなり、すぐにソ連軍の侵攻により、シベリア抑留、若かったが故に生き延びて復員、今の私が存在する訳です。
 いつも下手なギターで歌っていましたのが『田端義夫の帰り船』と、『霧島昇の誰か故郷を想わざる』でした。
私の子供心に染み付いております。

 故に私は戦争を憎みます。このところの政治の右傾化を懸念します。だから私の原作の背後には日本の歴史を背負って
描いているつもりです。
 これ以上、政治的発言に傾きますとあとあと問題となりますので、この辺にて。

投稿: 高原 勉 | 2017年7月 5日 (水) 01時05分

 二木先生、皆々様へ、再び私信となりますが、どうぞお許しください。
 
 浮舟様
 浮舟さまの投稿文を再読させていただきました。ハンドルネームから私は『源氏物語』の「浮舟」を連想し、てっきり女性とばかりに思っていました。どの投稿文も語り口は穏やかですが、どうしてどうして、繊細さをもって辛辣でこの骨っぽさ、女性にはなかなか書けない文章です。

 でも向田邦子の生き方が好きと書かれているところをみると女性かなともとれますが・・・

 浮舟さまのコメントに、高原 勉さまと同じように私もファンになりました。何か機会がありましたら、再び投稿されてください。お待ちしております。

 

投稿: konoha | 2017年7月 5日 (水) 16時07分

 高原 勉様
 いやあ、お久しぶりです。あいかわらず熱い人ですね。
私はベトナムのハノイに7年住んでいまして、電波環境が変わったのか、1年ほど前から投稿ができなくなり、二木先生にもその旨お伝えし、何度もアドバイスをいただきました。しかし、状況は変わらず、『うた物語』は、見るだけで投稿できないブログになってしまいました。
二木先生からは「管理人への連絡」へ送れば、コメント欄へ転送しますとの有難いお言葉もありましたが、根が気弱な性格でそれもできずに・・(ウソです)
今日、『雨に咲く花』で忘れられぬ名前となった劇画作家の高原さんのコメント、さらにkonohaさまとのやりとりを読んでびっくり。これは二木先生を煩わせてもコメントを書かねばと、念のためコメント確認ボタンを押したら、送信OK状態になっているではありませんか。これはベートーベンの霊魂のなせる業でしょうか(ウソです)
 コメントが遠のいていた事情の説明だけで字数がいっぱいに・・また次回のコメントで、内容的にからませていただきます。
 少しだけ・・高原様にお伝えしたいことの一、『周恩来秘録』(高文謙)は、私がベトナムにもってきた愛読書の一冊です。周恩来伝の最高傑作だと思います。お互い、どこか通じますね。
二、私、絵を描くのも好きで、ベトナムの街角や、人物画では眠狂四郎、机竜之介の殺陣姿を描いたりしています。
三、ハンドルネームの複数使用、うーむ、鋭いですね。その通りです。久保 稔、越村 南、音乃、紅孔雀・・。悪気はありません、発想が変わりそうなので、使いました、皆様、お許しください。
 
konoha様
 愚にもつかないコメントをていねいに読んでいただき恐縮です。昭和24年の男です。今後ともよろしくお願いします。

投稿: 浮舟 | 2017年7月 7日 (金) 23時29分

 浮舟様
 初めまして、こちらこそよろしくお願いします。このサイトは自分を含め、年配の方が多いので「どうなさっているかな」と思いましたが、お元気な様子でなによりです。

 私も絵を描きます。昔は油絵でしたが、今は水彩画を描いています。ものをみる視点というか、そんなところで、似通った文体になっていたのかも知れませんね。今回のことでもしや「音乃」さんは「浮舟」さん?と感じた文章がありました。やはり出るものなのですね。(なにがでてくるのでしょうか、こわいですね)

 高原さま、今回の件とても楽しませていただきました。ありがとうございました。

 

投稿: konoha | 2017年7月 8日 (土) 03時01分

何と何と
あの音乃様、紅孔雀様が 浮舟様の分身であられたとは。
ビックラポーンものです。
こんな面白い展開もあるのですね。
ますます  二木紘三のうた物語からの卒業が遠のいた
りんごです。
浮舟様  分身様の益々の健筆をお祈りしております。

こうなると
二木校長率いる
二木紘三歌学園の趣が濃くなりますね。
人畜無我の二木学園よ永遠なれ。

投稿: りんご | 2017年7月 8日 (土) 13時54分

浮舟様 お久しぶりでございます。

 お元気でお過ごしのようでまずは一安心致しました。
「ベトナム」ですか・・・。「遠いお国」ですね・・・?
ベトナムくらいの距離感で「遠いお国」と言っていては、私の「世界観」が知れますが、このフレーズは、最近はまっています『雨のオランダ坂』の歌詞の影響ですので。

 私は二木先生と同じ長野県人ですので、寒さには強いのですが暑いのが苦手、中でも蒸し暑さに弱いです。
  ベトナムの気候はいかがなんでしょう?
暑くとも、空気はカラッとしているというのはありえるでしょうし・・・。

 「絵も描かれるご様子」、いろいろ趣味が重なりますね。
KONOHA様も絵を描かれる方のようですし、いろいろ共通項が出てきて楽しいですね。

 私は今、「行政書士試験」のために大学の講座に通っています。もう、作年一昨年と2度受験しています。
 目ざしていますのは「出入国管理業務」です。
日本に働きにきている外国人の方の、お役に立ちたいというのが一番の動機です。残りの人生はそれに費やそうと思っています。そして劇画原作か小説で、「ベトナム戦争」「JFK暗殺」を書きたいと思っています。
(この2つは密接に関係してると私は思ってます)

 ベトナムの朝焼けはどんなでしょう・・・。
またベトナムの夕暮れはどんなでしょうか。
ベトナムの女性のアオザイ姿は格好の絵の対象と思います。

 話は尽きませんので、浮舟様の第2信をお待ちしています。

投稿: 高原 勉 | 2017年7月 8日 (土) 19時51分

Ludwig van Beethovenが、うた歌物語に登場するとは…、歌に疎い輩には驚きです。ヨハン・ウォルフガング・ゲーテがユトレヒトの欧州初の植栽一本である銀杏を見に行き、その道中にベートーヴェンに出会ったそうです。既に欧州広く知られる文学者/政治家と声望出初めた作曲家、互いに引き合ったのでは。その出会いの真意は私に分かりかねます。ながらも、若い音楽家はその頃ボン住まいなので、ワイマールから往復したゲーテと会ったのは十分考えられますね。余談ですが、ゲーテはvon Goethe、ベートヴェンはvan Beethoven、前者は明らかに独語綴り、後者は蘭語綴り。ここからベートヴェン家は蘭系と言う説あり。当たらずも遠からず。

追伸1;浮舟/久保稔/越村南の諸氏は同人物と思っておりましたが、紅孔雀・音乃までは思いもセナンダ!ヴェトコン的と言うか、氏はパルティザンに違いない。繁くやりとりしていただき感謝。またネット事情による”投稿不許可”期間に二木さまに丁寧極まる手助けを戴いた経緯も同じ。

追伸2;能勢の赤ひげ/ハコベの花/konoha/しょうちゃん/りんご/yoko/高原勉の皆々様、キラリと光る文の数々に感銘を受けます。堀内敬三とベートヴェン、何より主催管理人さまのおかげと存じます。

投稿: minatoya | 2017年9月 4日 (月) 08時07分

minatoya 様には身に余るお言葉を頂き
生きる張り合いに繋がりました。
腰痛、肩痛、喘息発作の鬱々した気分も忘れさせてくれました。続投ではございますが、感謝に堪えません。

二木先生はじめ同好の皆様も
清々しい秋の大気を味わってお健やかにお過ごしください。

投稿: りんご | 2017年9月 5日 (火) 10時22分

minatoya様
 お久しぶりです。
私が始めてこのサイトに投稿したのは仲宗根美樹の「川は流れる」でしたが、私に続いて投稿されたminatoya様が、三島自決事件について触れられていて、つよく印象に残りました。その後、minatoya様のサイトにお邪魔しましたが南方熊楠ばりの、素人を寄せつけぬ植物学、外国語の博識に圧倒されました。そして丹後の出身とのことで、我が人生未踏の憧れの地、経が岬などを勝手にイメージとして膨らませています。お互い元気で海外で生きていきましょう。

 このサイトに集う音楽を愛する方たちのコメントを5年ほど読んで感じたのは、二木先生をはじめ外国語に堪能な方が多いなということです。つまり耳のいい人が、音楽にも外国語にも通じているということです。微妙な音を聞き分ける力のある人は、外国語の世界にも入りやすいようですね。私は、その点まったくダメな人間で、発音、声調の使い分けの多いベトナム語には悪戦苦闘、もしくはお手上げの毎日です。
聴解の力が音楽、外国語の発音の基礎です。それゆえに難聴に苦しんだベートーベンの生き方は、修行僧のような、いってみれば宮本武蔵のような、前人未踏の地を歩いた厳しさを感じます。

投稿: 越村 南 | 2017年9月 5日 (火) 22時52分

二木先生 こんばんは

あこがれさま  りんごさま  越村 南さま
 気にしていただき 心から御礼を申し上げます
   有り難うございました

泣き虫 赤ひげ 毎日のように涙することも 多いですが  かわらず 日常業務を務めております

今晩は 仕事終わりに チャイを飲みながら ふとテレビをつけると 天城山心中についての番組であり
 また そのあと チャンネルを廻すと 応仁の乱の真相を解明する番組に遭遇
 これは もう 京都 京都  
minatoyaさまには また 何故に京都と お叱りをうけそうですが
 擱いた 重い重い さびついた如くの 筆をもちあげ インターネットの前に 鎮座いたしております

 なかなか 筆は重く進みませんがーー

 歴史でおこったこと その事実をどう記録するか
これは 耳にたこができるくらい聞かされている 「勝者の歴史」 という言葉にでくわします
 勝者が 自分に都合よく記録に残す
   日本書紀からしてそうですね
 天武天皇 持統天皇の都合よく書かれたもの
 しかし その後 天武系が絶え 天智系の天皇の治める国にもどりますが  そのとき 歴史書は修正(改竄)されたのでしょうか  宮殿の奥深きところに原書はあったため 修正もままならなかったのでしょうか  ゆえに歴史の真相は ロマン なのでしょう


現代社会では 手っ取り早く 例を示すと もり かけ問題の 虚偽 虚偽 隠蔽 ということになります  権力者が 思うようにどうにでもできる

 
 天城山での 大久保氏 慧生さんの 真の行動はわからないとしかいえませんが 妹 嫮生さんの発言の意味は重いと思えました  すべて歴史は 能勢のこの時期にみられる 夢のように深い霧にかくれていくのですね  一部の真実は明らかにはなっていきますが  それが余計に疑問を深くする  そんな感じをもっています

 応仁の乱では 畠山義就を主人公として 彼の視点からの乱についての考察でした 新しい歴史の切り口 聞かせていただくだけで 何か楽しいワクワクする気分にもなり 筆をもつきっかけとなりました   義就が三年も 幕府の攻撃を持ちこたえた嶽山城が富田林にあり(楠正成を思い出させる戦上手だったようです) また 誉田八幡宮が 義就に所縁ある場と知り 南河内に長く勤務したところの すぐ横でしたので 散策しておれば と残念な気持ちになりました  でも その当時は 大津皇子の木簡が奈良??で発見されたときで 僕の部屋からみえるすぐ前の山が 二上山(ここに大津皇子の陵があります)でした 僕が歴史上一番好きな皇子であり そういう発見の時期に二上山の前で働ける幸せを感じたものです   歴史好きの子供のまま ふけてしまった僕ですからーーー  
 また 重い重い筆を もつこともあろうかと思います
 よろしく お願いいたします

 久しぶりに書かせていただき 相も変らぬ 推敲もない文章  恥ずかしいですが  今日の歴史遭遇の嬉しさに 免じてください
 

追記 あこがれさま この前 円通寺に向かいました
借景 比叡山に向い 左に位置する一本の紅葉の素晴しいこと  あの赤をどう表現するのか
 沢山の鈴なりの見物があり(座る場所もないくらい) 久しぶりのご住職の肉声の解説にも出会え 至極の時間でした
 古代の貴人が愛した 朱はかくなるものか
 色見本でみると赤丹か銀朱に近いような??
 40年ほど 通っておりますが 観光シーズンには行ったこともなく これだけの人に 仰天し 
 また 素晴しい赤に仰天してきました
 まだ 学術名のない紅葉だと 云われたように記憶しています  ご住職とは何度か話させていただいたこともあり 帰る際には 挨拶もでき 有り難い心豊かな日を経験いたしました 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年12月 1日 (金) 23時23分

能勢の赤ひげ 様

もう二度とお目に掛かれないかも と、思っていた“能勢の赤ひげ節”に 又お会いできることは本当に嬉しい事です。
のの三乗様でも 能勢の赤ひげ様でも構いませんから、これからもどんどんコメントして下さい。たくさんのフアンが楽しみにしておられますから・・・。

「応仁の乱」 一体何だったのでしょうね!11年もの泥沼の戦いの勝者は誰なのか? 数ヶ月前に検定の勉強の参考にと買い求めた 呉座勇一著「 応仁の乱」も、あまりに話しが込み入って ややこしく途中で読みかけたままstopしてます。畠山義就が幕府(室町)の大軍を向こうにまわして河内で孤軍奮闘し、文明9年(1477年)誉田城(現羽曳野市)を攻略、嘗て2年半も自身が籠城した嶽山城(現富田林市)を攻略し、河内王国(幕府威令の届かぬ独立国)を築いた最初の戦国大名的存在と言えようと、述べられてますが、これほど訳の分からない無駄な戦いの為に京都のあらゆる財産が焼き払われたことを思うにつけ、腹立たしいことこの上ありません。京都人が先の大戦で・・・と、言うと第二次大戦ではなく、応仁の乱のことというのも正に歴史を感じますよね。

円通寺(後水尾天皇の離宮 幡枝御所)・比叡山を借景とした由緒ある寺院は、5~6年前 岩倉の実相院~岩倉具視旧宅~妙満寺(安珍清姫物語)松永貞徳 作庭の雪の庭と見て回りました。実際に自分の目で見てまわると、歴史も所縁も記憶回路にインピットされて検定も怖くありませんが、訪れてない所は一々 GuGuってバーチャル世界で暗記しても、いざという時に記憶が鮮明に残らず、満点奪取目標も難しいところです。
いずれにしても、12月10日 同志社新町キャンパスが楽しみです。

投稿: あこがれ | 2017年12月 2日 (土) 11時44分

赤ひげ様
 戻ってこられてうれしいです。人生の先輩の言葉というものは心にしみ、その考え方や感じ方が、昭和の時代を反映して実に興味深いものです。私がそういう年齢になったということでもありますが。

 赤ひげ様やあこがれ様の歴史のロマンに満ちた京都の旅レポートに触発されて私もひとつ披露します。
 昔、愛宕山の山頂にある愛宕神社にいきました。山陰線保津峡駅から山登りスタイルで。途中、水尾という集落を通りますが、柚子の里の名前どおり、柚子の木に黄色い実がたくさんついて印象深かった。愛宕神社に着くと、境内には観光客というより登山客が境内にちらほらという感じ。スカートやハイヒールでは近づけない場所で、山の険しさが参拝客を選別している神社です。
この神社は本能寺で信長を討った(天正10年6月2日)明智光秀が、その謀反の直前に連歌の会を開いた(5月24日)神社で、作品は「愛宕百韻」として残っている。「時は今 雨がしたしる 五月かな」という光秀の発句が、謀反の意志を底に沈めているという解釈がある。明智は土岐源氏の末裔で「時」は「土岐」、「知る」は統(す)べると同じ意味の「統(し)る」、そこから「雨がした」は「天下」となり、「今こそ土岐が天下を統一する」という意味になる。まさに小説になる話だが、異論もある。
そういう議論を措くとしても、謀反=主殺しという大それたことを企図しながら、その実行の9日前に連歌の会を主催しているという事実に少なからず驚きます。謀反の成否を考えれば心臓は早鐘のように動悸を打ち、血潮は熱く波立つはず、そんな中で連歌の会で句をひねり、主人としてにこやかに客を接待する。来るべき修羅の所業と今日の芸術の催し、この矛盾する企画を光秀はどういう心境で乗り切っていったのか。光秀は神経の細い教養人。おそらく連歌の開催中、悶々として心休まることはなかっただろう・・
そんなことを境内で妄想していたら1時間近く経ってしまった。参拝客は2度、3度、入れ替わった様子。素人の私がいくら考えても詮無いことをあれこれしつこく考える・・(笑)
 島原・原城跡に行った時も、島原の乱で皆殺しになった3万7千人の農民たちに思いを馳せました。私の旅は、その地に立って妄想を膨らませるという旅が多いです。吉村昭の歴史小説が好きなのもその性格の延長線上の嗜好です。

投稿: 越村 南 | 2017年12月 3日 (日) 09時44分

ア行のぺージの一番後ろを引き出してみました。
メロディーを聴きながら、下の方へ移っていくと、”あれ!、ベートーベンの "Ich Liebe Dich"? ”

これは、これは。 またまた、昔を思い出します。

学生の頃、第四外国語として、文字通り独語を独習し始めました。 中学校の頃の英語の先生の教えでは、外国語を習うにはその国の歌を覚えるのが一番とて、盛んんにドイツ語の歌を集め、歌詞を理解しながら歌っていたものでした。 「野ばら」、「菩提樹」、「ローレライ」、etc.
この "Ich Liebe Dich" はどこから書きうつしたものか、詩文だけがあって、メロディーはぜんぜん耳にしてはいなかったのです。 メロディーは知らねども、この詩文には曲があって、それがベートーベンの作曲であることだけは認識しており、つまりは ”ベートーベンの "IchiLiebe Dich" ”として覚えこんでいたのでした。 辞書をひっくり返しながら、詩文を理解しようとしていたのでした。 三番目の三行目の最後、ここになぜ "mir"  が来るんだろうなど考え込んでいたことを思い出します。

五十数年ぶりの、歌詞とメロディーとの一致です。
今あらためてメロディーを聴いていると、やはりいいですね、いい曲ですね。 ベートーベンはいいですね。

昭和三十年代の頃、よく学びよく遊び(悪い遊びを含め)、よく飲んで、よくケンカをした、楽しい時代でした。


投稿: 田主丸 | 2020年8月31日 (月) 20時50分

承前、
どうも「五十年ぶりなど、数字が合いませんね、なんせ、御年83歳ですので、お許しを。

投稿: 田主丸 | 2020年8月31日 (月) 21時26分

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