黒い花びら
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:永 六輔、作曲:中村八大、唄:水原 弘
1 黒い花びら 静かに散った |
《蛇足》 昭和34年(1959)7月に東芝レコード(のち東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン)から発売。
のちに数々の大ヒット曲を生んだ"六・八コンビ"こと永六輔と中村八大のコラボによる最初の作品であり、伝説の破滅型歌手・水原弘のデビュー・シングルであり、かつ第1回日本レコード大賞の受賞作品でもあります。
『黒い花びら』の誕生については、次のような話が伝わっています。
ジャズの芸術性追究に行き詰まり、スランプに陥っていた中村八大は、相談のためにかつてのバンド仲間、渡辺晋を訪ねました。渡辺晋は渡辺プロダクションを主宰し、芸能界に大きな力を持っていました。
路線の違いから、一度は袂を分かった2人でしたが、渡辺晋は、すぐに東宝のプロデューサー・山本紫朗を紹介してくれました。
当時は、渡辺の妻で渡辺プロダクションの副社長・渡辺美佐が仕掛けた『日劇ウエスタンカーニバル』が大人気で、若い世代にロカビリー・ブームが続いていました。その人気に便乗しようと、東宝が企画したのが、夏木陽介を主演に据えた『青春を賭けろ』でした。
この映画にはいくつかの曲を入れる計画でしたが、アメリカのヒット曲を使えば高い使用料を取られるので、すべてオリジナル曲で行こう、という話になっていました。そして、ロカビリー世代にアピールする曲を作れる者がいないかという相談が渡辺晋のところに来ていたのです。
渡辺から紹介を受けた山本紫朗は、中村八大を知らなかったので、力量を見るために、翌日までに歌詞のついた作品を10曲作ってくるよう求めました。
1日で10曲作るだけでも難題ですが、もっと困ったのが、ジャズ一筋でやってきた中村には、作詞家に伝手がまったくなかったことです。途方に暮れて道を歩いていると、ばったり会ったのが面識のある永六輔でした。
中村が文化放送のジャズ番組でパーソナリティを務めていたとき、永も放送作家として関わっていたのです。
中村が事情を話して協力を頼むと、作詞の経験が皆無だったにもかかわらず、永は「それはおもしろいね、やろうよ」とすぐ引き受けました。
2人はその足で中村のマンションに行き、曲作りにかかりました。それは、たとえば明るい曲、暗い曲といったテーマだけ決めて、中村はメロディ、永は詞を別々に作るというユニークな方法でした。
それぞれが10曲分作ったあと、この曲にはこの詞が合いそうだ、この詞ならこの曲がいいだろう、といったふうに話し合い、そのあとで曲または詞を歌えるように手直ししたのです。
直しと並行して、中村が編曲して曲を仕上げていき、事前に呼んであった3人の写譜屋にオーケストラ用の譜面を作ってもらいました。
中村は次の日、突貫作業で作った10曲を持って東宝撮影所に直行、山本に楽譜を手渡しました。作品が認められて、中村は『青春を賭けろ』の音楽監督に採用されました。
映画の主題歌には、『青春を賭けろ』と『黒い花びら』が採用されました。最初は夏木陽介に歌わせる予定でしたが、曲調が変わっているので、彼には合わないだろう、ということになりました。
『青春を賭けろ』はロカビリーだし、『黒い花びら』は3連符を多用したロッカバラード風のアレンジだったので、通常の歌謡曲とは違う独特の味わいを出せる歌手が必要だったからです。
そこで中村八大は、自分が出演していた銀座のジャズ喫茶『サンボ』に、ロカビリーでデビューした歌手たちを集めて、『黒い花びら』を歌わせてみました。そのなかで、群を抜いてうまかったのが水原弘でした。即座に起用決定。
『黒い花びら』をA面、『青春を賭けろ』をB面として、6月にレコーディング、続いて東芝レコードで営業会議。
営業マンたちへの受けはあまりよくなく、曲はいいが、個性的すぎて一般向きではないということで、最初の発売は2000枚と決められました。全国に1500店あまりあったレコード店の数から見ると、これはあまりに低い数字でした。
ところが、そのレコードは、7月の発売直後から驚くほどの売れ行きを示し、映画『青春を賭けろ』が封切られると、いっそう勢いが増しました。
そして、この年に創設された『日本レコード大賞』の大賞を受賞。
日本レコード大賞は、今でこそ存在感が薄くなりましたが、古賀政男や服部良一が主導して、「新しい日本の歌を作ろう」という趣旨のもとに設けられたもので、歌謡界では最高の賞でした。
この年には、ペギー葉山『南国土佐を後にして』、村田英雄『人生劇場(再)』、フランク永井『夜霧に消えたチャコ』、三橋美智也『古城』、フランク永井・松尾和子『東京ナイトクラブ』、三波春夫『大利根無情』、スリー・キャッツ『黄色いさくらんぼ』、春日八郎『山の吊橋』など、挙げきれないほどのヒット曲がありましたが、受賞したのは『黒い花びら』でした。
「く~ろい花びら……」という意表を突く歌い出し、遠くを見るかのように上目遣いの表情、ところどころしわがれ声になる歌い方。恋人を失ったというありふれたテーマでありながら、こうした演出が虚無的な悲哀感を醸し出し、それが日本レコード大賞創設の趣旨に合致したのでしょう。
この受賞によって、売れ行きはさらに伸び、30万枚を超える大ヒットとなりました。
翌昭和35年(1960)、この曲をモチーフとした映画が東宝で制作され、水原弘が主演を務めました。以後、彼は映画俳優としても活躍することになります。
さて、その水原弘ですが、いろいろな意味で希有の歌手といっていいでしょう。酒豪、浪費、放蕩、無頼、賭博中毒……これらは、水原弘について書かれた文献には、必ずで出てくる言葉です。
山下敬二郎、平尾昌章(のち昌晃)、ミッキー・カーチスに続くロカビリーの第二世代としてステージ・デビューしたころから、すでに乱脈な生活ぶりが現れていました。『黒い花びら』でスターになると、それが急激にエスカレートしました。
その放蕩無頼ぶりは、勝新太郎に私淑することによって、いっそう昂進しました。
勝新太郎のモットーは、「芸人は、自分が稼いだ金は自分についてきてくれた者たちに散財すべきだ。しかも、落ち目になったからといって控えるようではだめだ」で、彼自身、そのとおりの豪放な散財を続け、その結果巨額の借財を遺しました。
水原弘は、そうした勝新太郎の生き方をなぞるかのように、放埒な生活を続けますが、やがてその生活にも翳りが生じてきました。ヒット曲が出なくなり、歌で売れなくなれば、映画界からのオファーもなくなります。
当然収入は激減しますが、取り巻きを連れての派手な飲み歩きや博打は止めませんでした。出演料の前借り、友人からの借金、それもできなくなると、ヤミ金融から高利の金を借りて豪遊を続けました。
昭和39年(1964)5月、水原弘は神奈川県の綱島温泉で開帳された賭博で、50万円巻き上げられました。それが警察に知られたことから、参考人として呼ばれました。賭博常習者で、裏社会とも関わりがあることが報道されると、仕事は次々とキャンセルされました。
水原の没後、このころのことが祥伝社の女性隔週刊誌『微笑』昭和53年(1978)7月29日号に書かれています。その一部を紹介しましょう。
……歌と酒の日々。その遊びは"役者の勝か、歌の水原か"と、喧伝されるほど徹底したものだった。見も知らぬ男たちを引き連れて銀座のクラブからクラブへと渡り歩く。飲む酒はレミー・マルタン。一晩で1本は確実にあけた。関西に行けば、京都・祇園の料亭にいつづける。すべて自分の金。昭和34年当時で、一晩に300万円も飲んだことさえあった。(中略)人気が続いている間は、それでよかった。しかし、芸能界の常、やがて人気は低迷する。それまで彼をちやほやしていた人も、1人、2人と彼の側から離れていく。さびしかった。人間の底にある"イヤシサ"に、彼は絶望した。その絶望、怒りを紛らすために、彼はまた酒を浴びた。
しかし、芸能界から追放された彼を見捨てず、その卓越した歌唱力を惜しむ人たちがいました。元マネージャーの長良じゅん、東芝レコードのディレクター・名和治良、『スポーツニッポン』の記者・小西良太郎などです。
彼らは、気むずかしいことで知られた作家・作詞家の川内康範を口説き落として詞を書いてもらい、新進作曲家の猪俣公章に作曲させました。こうしてできたのが、『君こそわが命』です。『黒い花びら』を陰の歌とすれば、それは朗々と歌い上げる陽の歌でした。
メンバーは、曲の制作前から、さまざまなプロモーションを行い、水原弘をマスコミに取り上げもらうよう各方面に手を打ちました。
レコーディングは、たった3分37秒の曲に12時間かけるという、前例のないものでした。水原弘は、何度も癇癪を起こしながらも、最後にはパンツ1つになるほど汗みどろになって歌ったといいます。
こうした努力は、みごとに実を結びました。昭和42年(1967)2月にリリースされると、初日から売り切れ店が続出し、数か月で100万枚を超える売り上げとなりました。
そして、その年の日本レコード大賞の歌唱賞を受賞。芸能界を閉め出されてから2年目、まさに"奇跡のカムバック"でした。
しかし、水原の放埒な生活ぶりは収まりませんでした。取り巻きを連れての毎夜の豪遊、大酒。これでは、いくら収入があっても足りません。しかも、彼には以前からの数千万円に及ぶ借金がありました。闇金から借りて別の闇金に返すという自転車操業。
借金は生活を崩壊させ、大酒は体をむしばみます。アルコール性の急性肝炎で何度も入院し、それが慢性肝炎に移行、やがて肝硬変を発症しました。病院で大量の吐血を繰り返した末、昭和53年(1978)7月5日永眠。カムバックしてから11年目、42歳の若さでした。
戦後の歌謡史に記録されるレジェンドの1人です。
(二木紘三)
コメント
昭和34年は私の中学卒業でした。黒い花びらは大学の頃聞いた記憶があります。すぐには地方に広がらなかったのだと思います。それから4年かかって高校を卒業し、地元に就職しました。定時制ではありませんでしたが、健康上の事情がありました。。
この歌にはいろいろなエピソードがあったのですね。はじめて知りました。
投稿: 今でも青春 | 2017年11月24日 (金) 09時09分
「黒い花びら」を歌う水原弘は、まだ高校1年生だった私にほかの歌手とは全く違った印象を与えました。良い悪いは別にして、それこそ大人の世界を覗かせる生々しい雰囲気がありました。
いつもながらの、二木先生が調べられた優れた解説を読ませていただきまして、この歌が「中村八大」「永六輔」コンビの作品だったことを初めて知りました。
名曲が世に出る時は人知の及ばない偶然の重なりがあるのですね。
水原弘がいつの間にかテレビで見られなくなり、そして42歳の若さで亡くなっていたのですね。 『蛇足』にあるような、無頼漢ような生き方にとってそれでよかったのかもと思ったりしてしまいました。なんとも言えなく素晴らしい歌い手でしたとおもいます。ご冥福をお祈りいたします。
はなしは変わりますが、この歌詞の1番2番の3行目からの詞は、初恋の後の大人になってからの私の恋と同じです。辛くて2度と恋なんかするものかと思いました。それから数年経って知り合ったのが、夫です。「5番街のマリーへ」で釣り人コマツさまご指摘された通りです。
投稿: konoha | 2017年11月24日 (金) 11時53分
1956年に石原裕次郎が「太陽の季節」で映画界にすい星のように現れ、歌も歌える映画スターとして、爆発的な人気者になりました。その頃低音ブームで、彼のほかにフランク永井、三船浩、神戸一郎などが居ました。その流れもあって、3年後の1959年に水原ひろしが低音の甘い声で「黒い花びら」を歌いレコード大賞になりました。
高校生だった私もこの頃これをまねて、「黒い砂浜」という歌謡曲歌詞(黒い砂浜 真夏の 狂乱の太陽に どす黒く焦げて 虚しい憂いに 凍っている)などという、今見ると赤面するような詞を書いたりしていました。それほど「黒い花びら」はインパクトがありましたね。
しかし、私はこの歌のほかに、4か月後に発売された「黄昏のビギン」も大好きでした。後年ちあきなおみがこれを歌い、彼女のファンたちから絶賛を受けているようですが、私はやはり水原ひろしが歌っている方が好きです。よく大酒のみだったのに声が荒れなかったなと感心しています。
投稿: 吟二 | 2017年11月24日 (金) 14時41分
二木先生の蛇足にはいつも感銘を受けるりんごであるが
「黒い花びら」の蛇足は圧巻でした。
先生の謙遜を鵜呑みにして「蛇足」などと書いては
いけないほどの鮮烈な印象でした。
吟二様同様に水原弘「黄昏のビギン」もいいですね。
いきなり話は飛躍するが川内康範の「月光仮面を」から
ここぞという時に的確なコメントを投稿なさる「なちさま」を重ねました。月光仮面のようななちさま
実は二木先生=なちさま~であったりなどと~。
「なちさま」は何物などと暇に任せて考えるのも
このサイトならではの妙味です。
投稿: りんご | 2017年11月24日 (金) 18時45分
水原弘はおミズの愛称で昨今の芸能人にはいないタイプの豪快人間した。本曲解説「この曲をモチーフとした映画が東宝で制作され、水原弘が主演…」の関連で、仲代達矢が「この主役の演技ができるのは水原弘だけだ」と褒めたそうで(Wikipedia)、一流大物俳優が太鼓判押したくらいだから大したものです。
↓水原弘プレイバック(ネット動画提供dogatokosite2さん)
http://www.youtube.com/watch?v=9Itpw06sr6I
投稿: 焼酎 | 2017年11月24日 (金) 19時24分
小さいバーの片隅でジンフィーズ1杯飲んで、交際を断ったのに、いろんな事情が絡んで今の夫と4年経って結婚してしまいました。この歌を夫は絶対歌いません。私が断った時に流行っていた歌だったからです。全くの小チンピラみたいな男を教育してやろうと思ったのが私の思い上がりだったのですね。不良は治りません。治らないなら「生かさぬように殺さぬように絞りとる」という歴史に学ぶことにしました。夫の不良のレッテルはだいぶん剥がれてきています。でも今でも素敵な人と小さなバーで美味しいカクテルを1杯飲んでみたいと夢見ています。その時この歌をレコードで聴きたいと思っています。夢で終わらせたくないですね。
投稿: ハコベの花 | 2017年11月24日 (金) 22時15分
りんご様
申し訳ありません、私(二木)は検索名人のなち様ではありません。(*^_^*)
投稿: 管理人 | 2017年11月24日 (金) 22時27分
管理人さま(二木先生)
りんごの願望を込めた推察は敢え無く消えました。
二木先生のコメントに前後する「なちさま」の対応にも感銘いたしました。(それとなく同一人物ではないことを示唆するコメント(ああ上野駅~管理人様云々)それこそが月光仮面の優しさに通じます。暗くおぞましいニュースの絶えない今日この頃、敬愛するお二人のコメントに上品?我ながら)な笑いが込み上げました。二木先生ともども「なちさま」もご自愛なされて今後とも啓もうさせてください。
ハコベの花様
更生の高い志もご主人には届かなかったのですね。
一重に同情致します。
彼はハコベの花様を手中にしたことで人生のほとんどの目的を達成され、結婚が免罪符の様になり更生のこの字も芽生えなかったと推察します。
何はともあれ半世紀以上持続生されたハコベ花様には努力賞を差し上げたい心境です。単なる男女の愛を超えた人間愛に通じ素崇高な精神を讃えます。
素敵な男性の隣で美味しいカクテルの夢~素敵ですね。
投稿: りんご | 2017年11月25日 (土) 09時27分
たびたび失礼します。
芸名水原弘(本名高和正弘)はdogatokosite2さん提供の動画にもあった通り“42才で散った天才”でした。二木先生が解説に書かれていた通り、おミズは破滅型、酒豪、浪費、放蕩、無頼、賭博中毒の典型でした。しかし川内康範の後押しで当時新進気鋭の猪俣公章作曲で蘇ったのは9回裏逆転満塁サヨナラ弾でした。
芸名は最大幸運数(15画)や天恵運(6画)があったものの、浪費運(14画)や姓名合計画数の非業破壊数(19画)が運命を暗示していたのかと勝手に解釈する今日この頃です(当たるも八卦当たらぬも八卦(信じる信じないは勝手の姓名判断です))。占いがかったコメントで大変失礼しました。
投稿: 焼酎 | 2017年11月25日 (土) 11時54分
ほんとに懐かしいですね!
昭和34年・・・私が、社会人となった最初の年、何も分からず飛び込んだ世界・・・先輩・後輩の手助けを借りながら、無事、定年を迎えられたことに今更ながら感謝をいたしております。
振りかってみますと当時は、酒もタバコも飲まず、結構真面目でしたが?・・・
その後、急転直下、職場の友人の誘いに乗り(現在では恨んでおりませんが)酒・タバコを覚え、パチンコ屋へ日参・・・今思い返せばその期間は5年程あったような記憶がありますが?
そんなある日、ラジオから流れたきたこの「黒い花びら」が痛烈に印象に残っています。
二木先生の蛇足にあるように、水原弘の波乱の人生にはともかく、水原弘の心中も理解できるような気もしますが・・・。
何はともあれ、これから先の人生、「うた物語」の仲間の皆さんとともに、楽しいコメントで過ごしたいと思っております。よろしくお願いいたします。
最後になりましたが、いつもながらの二木オーケストラの素敵な演奏・・・心が揺ったりとなるような歯切れのあるテンポ・・・特にリズムセクションが素晴らしいと思います。
ありがとうございました。
投稿: 一章 | 2017年11月25日 (土) 20時42分
『蛇足』にある裏話、感銘を受けました。二木先生の水原弘の生き方に対する深い眼差しも感じました。
この歌の出た昭和34年は10歳でした。出だしの「黒~い花びら」が妙におどろおどろしく「気持ち悪い歌やなあ、何でこんな歌が流行るのかなあ」と思った記憶があります。「黒い鼻くそ 丸めて投げた~」という替え歌が悪ガキの間で流行ってました(神戸の西部)。まあふつうの子どもは虚無感とは無縁な生活を送ってますから。
後年、一芸に秀でながら、放蕩、破滅、大酒、時に奇異な行動をする人を愛するようになりました。山頭火、坂口安吾、小池重明(将棋の真剣師)・・放蕩、破滅型の人は、まず打算的な人じゃない、また世渡りが下手で、ある意味デリケートな人が多いと思う。世の中そんな人ばかりでは困るが、器用な人ばかりでも面白くない。
水原の才能をみとめて彼を見捨てず、苦心の末『君こそわが命』で再デビューさせた人々がいたことに、世の中の温もりを感じます。
この時、水原が目を覚まして、まっとうな生き方に立ち戻ったら、ハッピーエンドだが、人生はそんな映画のようなものではない。人はそれぞれ自分の定めの道を歩いていくものだと、いつも思うことをまたかみしめたしだいです。
投稿: 越村 南 | 2017年11月26日 (日) 21時10分
二木先生のうた物語のお蔭で居ながらにして見聞を
広められるのが最大の福音です。
今朝は、越村南様にお礼を申し上げます。
「一芸に秀でながら、放蕩、破滅、大酒、時に奇異な行動をする人を愛するようになりました。山頭火、坂口安吾~」
将棋の真剣師 小池重明を初めて知りました。早速
鬼団六著 真剣師小池重明をAmazonに手配いたしました。
故人は問題を起こすたびに(酒、女)「俺は破滅型なんだ」が言い訳でした。女に優し過ぎて酒とたばこを愛し過ぎました。七人兄弟の末弟ながら 無資産無収入の母親を引きとり転勤生活を共にしました。
兄姉間の軋轢、とりわけ母親から溺愛された放蕩の兄などが常に脳裏から離れず 心の闇となったと今更ながら理解が及びました。人間 振り返って 分かること多いものです。
水原弘の破滅性も当時は理解できなかったが今ならわかるような気がします。
投稿: りんご | 2017年11月27日 (月) 08時25分
小池重明氏の名前から先日105才で亡くなられた日野原重明先生が思い浮かびました。両お父上は素晴らしい名前をお付けになったのですね。日野原先生は「生き方上手」というベストセラーをお書きになりましたね。お二方のご生涯をwikipediaで読み、ただただ感嘆するばかりです。
wikipediaではありますが大河小説を読んだ気分です。
45才で亡くなられた小池氏も水原弘氏と同じくどぶ池にひときわ美しく輝く蓮の花のような短い生涯だったのですね。
投稿: yoko | 2017年11月27日 (月) 13時44分
同じ曲への連投失礼します。水原弘と小池重明は天才破滅型で再起手助け人?(川内康範、団鬼六)がいた点が似ているようです(小池重明は昭和50年代、四間飛車で連戦連勝でした)。
↓小池重明-加賀敬冶(大阪真剣師)戦(動画提供kiyoshi329さん)
http://www.youtube.com/watch?v=Achl7ZA9qlU
投稿: 焼酎 | 2017年11月27日 (月) 17時11分
昭和20年代を日本歌謡史の黎明期だとすれば、30年代初頭期から40年代にかけては正に黄金期といってもよいと思われる程、日本歌謡史上 数々の名曲が生まれました。
二木先生の名解説から昭和34年レコード発売に至るまでの経緯や苦労談を知った上で、発売後爆発的な大ヒットとなった「黒い花びら」は、ある意味 戦後日本の歌謡史の黄金期を告げる撞鐘のようなものであったと思います。
それにしても東京オリンピックやテレビのカラー放送が昭和39年のことで、この「黒い花びら」のレコード発売が昭和34年、私や一章様、はこべの花様あたりの同級生が頻繁に見聞きした当時は、まだ白黒テレビだったのですね~。
私の家内と同級生のリンゴ様やkonoha様は、可愛らしいお下げ髪の中学生の頃、越村 南様にいたってはまだ小学生、検索名人のなち様は、あの詰め襟型のユニフォームで知られるO県高校野球の名門高校には、まだ入学されてなかったのですよね(りんご様、konoha様、家内と同級?)
あの濃い顔とセクシーな口元から かすれ声で囁くように一言一言を大切に歌う水原弘の面影と銀座あたりで放蕩三昧の水原弘のイメージが、どうもギャップが大きすぎて未だに信じられない感じです。思うに高度経済成長時代に押し流された時代の寵児だったのかも知れませんね。
先日、同窓会誌に投稿を依頼された時、この秀逸な音楽サイトから教えられ学ぶことの楽しさは単なる趣味の域を乗り越えた人生勉強の場であり、博識にも関わらず謙遜で冷静な判断力をお持ちのサイト管理者の豊富な知識体験に基づいた名解説と、コメントを寄せられる同好の諸先輩の方々のリテラシーのレベルの高さに感動の連続だと書いて投稿しましたが、耳で聞き・読んで楽しみながら学ぶ素晴らしい勉強の場を与えて下さり、ありがとうございます。
投稿: あこがれ | 2017年11月27日 (月) 17時40分
昔、新宿の三越傍にACB(アシベ)というジャズ喫茶があって、水原弘を何度か見にいきました。地下に降りていく店で、中二階に楽屋がありました。当時ジェリー藤男や森山加代子やパラダイスキング等も出ていて、田舎から出てきたばかりの若者には大変刺激になった想い出があります。黒い花びらは、三橋美智也等の歌謡曲とは違って、斬新な印象があって大好きでした。二木さんの名曲や東辰三さんの曲は、現在の音楽に馴染めない私の心の故郷です。
投稿: 大庭 弘二 | 2018年7月 7日 (土) 09時56分
ACB(アシベ)、懐かしいですねえ。半世紀を経て、またこの文字を目にしました。池袋にもありました。今のサンシャイン通り(昔の映画館通り)に入るビルの地下にありました。まだ高校生だった私はジャズ好きの不良が行く所と思っていました。あの頃ジーパンも(今はジーンズです)不良の穿くズボン(今はパンツ)といわれていた記憶があります。
音量がものすごく外まで漏れていました。そのビルの前を通ると、覗いてみたい好奇心にかられましたが、一度も入ったことなく、いつの間にか外まで流れていた音が聴こえなくなり、そしていつの間にか「ACB(アシベ)」ではなく別のお店になっていた気がします。
線状豪雨で日本列島がとても大変なことになっています。
山里にお住まいの能勢の赤ひげさまはじめ、皆様の安否が気がかりです。テレビが消せません。どなたも心配なさっていることと思います。
一章さま宅配にはくれぐれもお気をつけください。
投稿: konoha | 2018年7月 7日 (土) 11時03分
二木先生の蛇足にはいつも感心しています。スポーツニッポンの最初の記事は、黒い花びらは本当に散ったのか?という記事だっと思います。この記事で世間の注目を集め、水原弘のカムバックをサポートしました。私も久しぶりにスポーツニッポンの記事を懐かしく思い出しました。
投稿: 時代遅れのリスナー | 2019年3月 7日 (木) 19時35分
この歌はどちらかと言えば左程に好きでもなく、水原弘の不良っぽいみかけも嫌でした。「蛇足」で言及された同時期の数々のヒット曲も覚えてはいるものの印象深くはありません。
高校生として斯様なヒット曲に熱心に耳を傾けた記憶はありません。
しかし、「黒い花びら」は高校時代(S33・4~S36・3)を華やかに彩りはしないものの、渋めの記憶の背景になっています。
渋めの記憶の中味は60年安保。当時、埼玉・浦和高校3年生。
昭和35年6月11且(土)午後、模造紙4枚貼り合わせて「安保反対」の大旗を作り意気揚々と校門を出ました。
総勢24名。教員5名。国電・信濃町駅の改札を出ると目の前は神宮絵画館前広場を目指す人の流れ。到着すると広場を埋め尽くす人、人、人……。
慶應病院の前の道幅一杯に横に手をつないで広がったデモ隊に沿道の人達が「頑張れ、頑張れ」と声援を送ってくれました。
国会議事堂の周りを一周し、正門の前で抗議集会。ついでアメリカ大使館へ、そして新橋駅で流れ解散。
4日後の6月15日、樺美智子さんが亡くなりました。
6月18日(土)、埼玉県高校生の抗議デモ。浦和の玉蔵院という寺で抗議集会。
全国的に盛り上がった安保反対闘争も新安保の自然成立とともに潮の退くように衰え、社会は高度経済成長の時代に入っていきました。
この闘争の評価は、戦前の天皇制国家への郷愁を露わに、体制を元に戻そうとする岸総理の意図を阻止した点にあるだろうと思っています。
こういう刺々しいささくれだった世相の中で、同じように反動的な政権に対して刺々しくささくれだった私の心に、それほど好きでもない「黒い花びら」が逆説的にアピールしたのだろうと思います。高校時代の歌は? と考えるとこの歌が真っ先に、そしてこの歌しか浮かんでこないのです。
投稿: ナカガワヒデオ | 2021年9月19日 (日) 17時30分
ナカガワ様
今日は朝から私は自分が高校を卒業した昭和33年の頃を思い出していました。「黒い花びら」の歌は私も好きになれませんでした。でも日本は大きく変わろうとしていたのですね。大学進学を我が家の家計を握り始めた兄嫁に拒否されて私の心もどん底に落ちていた時でした。丁度「歌声喫茶」がはやり始めていました。友人に連れて行って貰いましたがしっくりこなくて2度と行きませんでした
母が生きていたら違った人生があっただろうと今でも思います。
この歌を聴くたびに私の人生設計を根底からひっくり返された時代を思い出し怒りと涙が出てきます。
「今 授業中、これが終わったら安保反対のデモに行く」と言う彼からの葉書も大事に取って置いたのですが、兄嫁に捨てられてしまいました。それでも思い出のある事は幸せです。まさに青春だったのですね。残り少ない人生を精一杯生きていきたいですね。
自分らしく生きて居たいと思っています。
投稿: ハコベの花 | 2021年9月20日 (月) 13時46分
ハコベの花様
高校時代を振り返ると「黒い花びら」しか浮かばないと申しましたが、なお考え直すと必ずしもそうではありませんでした。
当時、日曜日の朝、ラジオでリスナー投票による「今週のベストテン」?とかいう番組が随分盛り上がっていました。
何週間もトップだった「エデンの東」が「誇り高き男」についに負けたとか、アナウンサーが興奮気味に叫んでいたのを思い出します。「波路遙かに」とか「太陽が一杯」なども登場したかと思います。
その番組で聴いたと思うのですが、ジョニ-・レイ「雨に歩けば」、ジョー・スタッフォード「霧のロンドンブリッジ」、ポール・アンカ「ダイアナ」「君は我がさだめ」、パット・ブーン「アイルビ-ホーム」「砂に書いたラブレター」、プレスリー「ラブミ-テンダー」等々、日本の歌謡曲よりはそっちの方がしっくりきていました。今より歌の寿命が長かったのか、いつまでも聴いていたような気がします。
「黒い花びら」しか浮かばない、のは日本の歌ではとの条件をつけるべきでした。
「自分らしく生きる」ーー水原弘は自分らしく生きたのでしょうか。私のような小心翼々で生きてきた小市民から見ると「何て愚かな!」としか見えませんが、DNAに予めビルトインされていたのであれば、それ以外の生き方は出来なかったはずです。
芥川龍之介の「侏儒の言葉」の「運命は偶然よりも必然である。運命は性格の中にあるという言葉は決して等閑にうまれたものではない」を思い出します。
その出所はネットによるとアリストテレスらしい(典拠は未確認)です。だとすればもう恐れいるほかありません。
どんな行動をするにも性格というバイアスがかかれば、「そのようにしかできない」わけで、もしかしたら水原弘は歩みゆくその先端に恐ろしい深淵が待っているのを予感し、あるいは知り乍ら、そして恐れおののき乍ら、それでも進んでいくしかなかったのかなと、想像しています。
そんな性格を変えようと努力できる性格の人もいるし、出来ない性格の人もいる。
花に嵐の例えもあるぞ、さよならだけが人生だ、と開き直って生きていこうと思います。
投稿: ナカガワヒデオ | 2021年9月21日 (火) 15時19分
ナカガワ様 懐かしい映画の題名が並びましたねぇ。まさに青春、そのものです。「雨に歌えば」のポスターが目の前に現れます。振り返れば夢の様な時代でした。
人生で一番楽しい時だったと思います。仲良く付き合ってくれた友人たちに感謝しています。残り少ない人生です。夢いっぱいの時代の歌を思い出させて下さって有難うございました。友人たちにたまには手紙を書いてみようと思います。夢とロマンを共有した友人たちもまだ元気でいてくれます。今夜は映画の夢を見られます様に。アラン ドロンが出てきたらどうしましょうか!!
投稿: ハコベの花 | 2021年9月24日 (金) 23時24分
追伸
この歌を聴くと失恋の哀しみを味会うことなく、60年以上も思い続けている人が居る自分をなんと表現したらよいのかわかりません。遠くから彼の幸せを願っているだけの恋、それは彼の死を知った時始めて失恋になるのでしょうか。淡い細い糸で結ばれているだけの心の奥底にある恋心、そんな恋も良い物だと思って生きています。
投稿: ハコベの花 | 2021年9月25日 (土) 00時26分