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2018年3月25日 (日)

星落秋風五丈原

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


詩:土井晩翠、作曲:不詳

祁山(きざん)悲秋の風更(ふ)けて
陣雲暗し五丈原
零露(れいろ)の文(あや)は繁くして
草枯れ馬は肥ゆれども
蜀軍の旗光無く
鼓角の音も今しづか
丞相病あつかりき

清渭(せいい)の流れ水やせて
むせぶ非情の秋の声
夜は関山の風泣いて
(やみ)に迷ふかかりがねは
令風霜(れいふうそう)の威もすごく
守るとりでの垣の外
丞相病あつかりき

帳中眠(ねむり)かすかにて
短檠(たんけい)光薄ければ
こゝにも見ゆる秋の色
銀甲堅くよろへども
見よや侍衛(じえい)の面かげに
無限の愁溢るるを
丞相病あつかりき

風塵遠し三尺の
剣は光曇らねど
秋に傷めば松柏(しょうはく)
色もおのづとうつろふを
漢騎十万今さらに
見るや故郷の夢いかに
丞相病あつかりき

夢寐(むび)に忘れぬ君王の
いまはの御(み)こと畏(かしこ)みて
心を焦がし身をつくす
暴露(ばくろ)のつとめ幾とせか
今落葉(らくよう)の雨の音
大樹ひとたび倒れなば
漢室の運はたいかに
丞相病あつかりき

四海の波瀾収まらで
民は苦み天は泣き
いつかは見なん太平の
心のどけき春の夢
群雄立ちてことごとく
中原(ちゅうげん)鹿を争ふも
たれか王者の師を学ぶ
丞相病あつかりき

末は黄河の水濁る
三代の源遠くして
伊周の跡は今いづこ
道は衰へ文弊(や)ぶれ
管仲(かんちゅう)去りて九百年
楽毅(がくき)滅びて四百年
誰か王者の治を思ふ
丞相病あつかりき

《蛇足》 土井晩翠の長編叙事詩『星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)に曲をつけたもの。作曲者は不明です。

 この詩は、明治32年(1899)に刊行された晩翠の詩集『天地有情』のなかの1つで、とりわけ高く評価された作品です。
 6節から成り、聯数は節によって違いますが、第1節(上記の詩)は7聯で構成されています。曲はその最初の3聯につけられています。

 『星落秋風五丈原』は、希代の英傑・諸葛亮孔明の生涯を描いた詩で、全体に流れるトーンは無常感です。その第1節は、蜀漢の命運を一身に背負った孔明の命旦夕(たんせき)に迫り、全軍が打ち沈んでいるようすを描いています。
 言い換えれば、悲愴感が第1節のテーマです。

 私は、この詩に曲がついていると知ったとき、栄枯盛衰を繰り返す人の世の無常を歌った『荒城の月』のようなメロディを想像しました。
 ところが、楽譜を見ると、4分の2拍子で、典型的なぴょんこ節でした。ぴょんこ節とは、1拍を2つの音符で表す場合、付点八分音符と十六分音符で構成する曲で、スウィングするような曲に向いています。

 この曲を、速いテンポで演奏/合唱すると、行進曲のようになってしまいます。実際、この曲を明るく快活な行進曲風に歌っている合唱をYouTubeで聴きました。
 これでは、蜀軍陣営の沈鬱な雰囲気を歌うのではなく、孔明が死にそうだと知って快哉を叫ぶ魏軍の歌に聞こえてしまいます。

 そこで私は、「1拍=八分音符2つ」を基調とする4分の4拍子にして"ぴょんこ度"を弱め、テンポをかなり遅くし、また前奏と間奏を変えました。これで多少曲調が変わったかと思いますが、元のメロディが凡庸なので、悲愴感はあまり出ていないかもしれません。

 第1節では、各聯の末尾がすべて「丞相病あつかりき」になっています。このリフレーンが、蜀が柱石と頼む丞相を失いそうな悲愴感を効果的に表現しています。
 原詩では、
「丞相病あつかりき」の前にアステリスク5つから成る1行が入っていますが、上の歌詞では省略しました。
 第1節以外で
、「丞相病あつかりき」で終わっているのは1か所だけです。
 なお、曲では3番とも
「丞相病あつかりき」を2回繰り返すようになっています。

 『三国志』好きの多さでは、日本は中国に劣らないといわれます。たいていの人が、一度は『三国志』を読んでいるのではないでしょうか。
 『三国志』には、正史系と演義系の2系列があります。
正史系は文語で書かれた歴史書、演義系は口語で書かれた物語ですが、両者重なり合う部分が多く、とくに明・清以降、両者にあまり違いがなくなってきたといわれます。
 正史系の代表格は西晋の陳寿による『三国志』であり、演義系では元末明初の羅貫中
(らかんちゅう)の作とされる『三国(志)演義』が最も有名です。

 『星落秋風五丈原』の第1節は、孔明による6次にわたる北伐(対魏戦)のうち、最後の戦いのクライマックス場面を描いています。
 なお、正史系では北伐は5次までとしています。第3次北伐のあと、蜀は魏の侵攻を受け、これを撃退しますが、演義系ではこれを第4次としているので、全部で6次の北伐となるわけです。

 第1聯に出てくる「祁山」は甘粛省(かんしゅくしょう)天水(てんすい)の西南50キロにある山で、孔明はここで魏と2度戦いましたが、魏を攻略できませんでした。
 「五丈原」は、陝西省
(せんせいしょう)宝鶏市(ほうけいし)の渭水(いすい)南岸にある秦嶺(しんれい)山脈から突き出した台地で、南北約4キロ、東西約1.8キロ。
 台地の最も狭い部分は5丈しかなかったことから、五丈原と呼ばれるようになったといわれます。長さの基準は、時代によって違いますが、三国・西晋の時代では、5丈は約12メートル
(1丈は10尺、1尺は24.2センチ)

 第1聯に祁山と五丈原がいっしょに出てくるので、近いように感じますが、実際には西と東に約250キロ離れています。
 両者がほど近いような印象を受けるのは、羅貫中の『三国(志)演義』に、第6次の北伐で蜀軍の本陣が祁山に置かれ、司馬懿
(しばい)父子を焼き殺し損ねたあと、五丈原に移った、と書かれているからです。羅貫中がそう書いたのは、この地域の地理に疎かったからといわれています。

 「零露」は、草の葉から落ちる露のしずく。それが文(あや)模様のようにびっしり連なっているさまを表現しています。
 「鼓角」は太鼓と角笛で、
軍中の信号用に使われました。角は竹か銅で作られました。

 第2聯の「清渭」は、水が澄んだ渭水の意。渭水は、甘粛省渭源県(いげんけん)の西にある鳥鼠山(ちょうそさん)から流れ出し、陝西省潼関県(どうかんけん)で黄河に流れ込みます(黄河が急角度で東に曲がる部分)
 渭水は、西安市の北東部で涇水
(けいすい)を合わせますが、涇水は黄土高原から流れてくるため、粘土の細粒や細砂を多く含んでいます。そのため、渭水も合流点以東は水が濁っています。
 なお、渭水、
涇水とも、現在では渭河、涇河と表記するのが一般的なようです(涇は簡体字)

 「関山」は、関所が置かれた国境の山々。
 
「令風霜」は「令、風霜」で、軍令は秋風や秋霜のように厳しい、という意味。
 「とりで」は、のちに「諸営」に「とりで」というルビが振られる形に改められました。
「諸営」は、諸方に設けられた砦。北伐では、ときに兵を屯田させたほど滞陣が長引いたので、かなりしっかりした砦が設けられたようです。

 第3聯の「帳中」は、寝台を囲む帳(とばり)の中の意。帳は布製の囲い。
 「短檠」は背の低い灯明台。
 「銀甲」の「甲」は、かぶとではなくて鎧
(よろい)。したがって、「銀甲」は銀色に輝く金属製の鎧を示します。
 「侍衛」は、孔明の身辺近くで警護する衛兵。

 第4聯の「風塵」は、風に吹き上げられる塵や埃ですが、ここでは戦乱の比喩。
 「三尺の」は、漢の高祖劉邦が「三尺の剣を提
(ひっさ)げて」(『漢書』の高祖紀・下)天下を統一したことを示す言葉。
 「松柏」の柏はヒノキ科の植物一般を指す言葉で、松柏は常緑樹を示します。「三尺の」と合わせると、蜀漢が再び天下を統一するための戦いで、その意志に変わりはないものの、松柏のような強い生命力も衰える時節が来ている、となります。

 第5聯の「夢寐」は、眠って夢を見ること、またその間。
 「君王」は、もちろん劉備玄徳。
 孔明は三顧の礼をもって自分を迎え、存分に手腕を発揮させてくれた劉備に対して、終生義を貫き、忠誠を尽くしました。劉備の息子の劉禅は凡愚の皇帝でしたが、いささかも私心を抱きませんでした。謀反、背信
、反逆、簒奪(さんだつ)が繰り返された中国の王朝史では、希有のことです。
 「暴露のつとめ」は、露に身をさらすような厳しい征戦のこと。

 第6聯の「中原鹿を争ふ」は、通常は「中原に鹿を逐う」と書かれます。
 中原は、中華文明の発祥の地、黄河の中流・下流域を指し、のちに華北平原全体をいうようになりました。この地は、人口が多く、生産力も高かったため、ここを制するものは、中国の覇権が得られるとして、古来王侯・武将の争奪の場となってきました。
 鹿は天下の覇権ないし帝位を象徴しています。
 司馬遷の『史記』のうち『淮陰侯
(わいいんこう)列伝』にある「秦、其の鹿を失い、天下、共に之を逐う」が有名な用例ですが、それ以前にこういう表現があったかどうかは知りません。

 第7聯の「伊周」は、殷(いん)の湯王(とうおう)の宰相、伊尹(いいん)と周の武王・成王の宰相、周公旦(たん)を合わせていったもの。
 中国史では、夏
(か)・殷・周三代の古代王朝が理想の世とされ、伊尹や周公旦が担った王道政治は、どこへ行ってしまったのだろうと嘆いているわけです。
 管仲
(前720年-前645年)は、春秋時代に斉(せい)の桓公(かんこう)に仕えて天下の覇者に押し上げた政治家。
 楽毅
(生没年不明)は、戦国時代に燕(えん)の昭王を扶けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ武将。
 これらの人物が去ってから、王道を行う「帝王の師」はもういないのだろうか、と嘆いています。

 孔明は、蜀の建興12年8月23日(西暦234年10月2日)に没しました。『星落秋風五丈原』は、最後を次の言葉で結んでいます。

 「千載の末今も尚 名はかんばしき諸葛亮」

(上の写真は現在の五丈原)

(二木紘三)

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コメント

 この歌を聞いたのは高校の卒業式の午後クラス会をしましたが、そのとき担任の先生が歌ってくれました。「5丈原」という言葉が耳に残っています。その方は地図で見ると近くにお住まいのようですが、20数年前に義父の入院していた病院で名前を見たので失礼をしていますが、お元気でおられると思います。

投稿: 今でも青春 | 2018年3月26日 (月) 10時20分

昨夜この詩を見てとても懐かしく思いました。小さい時から「孝女白菊」が載っていた戦前の歌詞の本に、この歌が載っていて、意味は分からなくても荒涼とした戦場の様子が伺えました。諸葛孔明の名前を知った時からどんな曲がついているのか知りたいと思っていました。もっと寂しい曲がついていると思っていました。
歌詞は2番までずっと暗記していました。曲がもう少し詞に合っているともっと流行ったと思われます。
ここに載せていただいてこの詩を読んだ頃に戻る事が出来ました。
青年に「どんな本を読んだら良いか」と訊かれるといつも、「十八史略」と答えています。嘘も多いかと思われますが、面白いですね、戦に負けた敵の大将を塩辛にして食べたと書いてあると言うと皆、びっくりしていますが、本を買ったという青年もおりました。

投稿: ハコベの花 | 2018年3月26日 (月) 10時47分

この詩には私も思い入れがあります。小中高一貫教育の私立学校に通ったのですが、半年に一回くらいでしたか、高校の先生が小学校に来て講話をして頂く催しがありました。ある時、高校の漢文の先生が来られた時、この詩を教えて頂いたのです。

博覧強記の先生で、メモも持たずにそれぞれの句が何という漢籍のどの部分に典拠があるのかをすらすらと説明してくださったのに驚嘆したことを覚えています。例えば

「人生意気に感じては
成否を誰かあげつらふ」

が唐時代の詩人魏徴の「人生意気に感ず。功名誰か復た論ぜん」から採ったものだということを覚えております。まあ、小学校で教わったのを覚えているのか、後になって何かの本で知ったのかはもう忘却の彼方ですが、、、

ふと興味を覚えて、晩翠がこの詩を書いた時の年齢を調べて見ましたら、なんと20代なんですね。昔の人は漢籍の素養が深かったのだなぁと痛感しました。

投稿: boriron | 2018年3月26日 (月) 12時26分

確かに、いつの頃か どこかで見た(聞いた?)ことがある気がするのですが・・・。
そんな遥か昔の記憶を辿ってみても、なかなかぴんと来ませんでした。
そこで、今一度 蜀・魏・呉の群雄割拠した「三国志」のお復習いをして、五丈原の戦いの背景をやっと思い出すことができました。

三国志は、例えば司馬遼太郎の作品(歴史文学)を読んで、日本史が解ったというようなものではなく、中国2000年の歴史(秦 始皇帝以来)の中で、事実に基づいた一齣であり、それだけに歴史文学のような主観論リテラシーを排除したものとして、誰もが共通の知識を共有できる楽しさがあります。

と、私はずっと思い続けていましたが、演義系は歴史書でなくて 物語りだと二木先生の解説にありますから、やはり
私達が昔読んだものには、多少のフイクションがあったのでしょうか?

詩は文語体ですが、寧ろ 暗記するには口調がよくて、はこべの花様が、2聯までずっと暗記されていたということが
解るような気がします。

なんだか学生時代に戻ったような気持ちですが、色々と勉強させて頂き有り難うございました。

投稿: あこがれ | 2018年3月26日 (月) 22時50分

「星落秋風五丈原」は昔、高校国語教師が授業で解説していた詩です(土井晩翠が仙台出身のため教師が取り上げた可能性あり(推測))。なおサンドウィッチマン(伊達みきお、富澤たけし)の母校・↓仙台商高(旧制仙台商業学校)校歌など土井晩翠作詞の校歌が各地にあるようです。
〽南溟に翼を延すべく あこがれし 英雄の跡
五城楼 名に負う郷に 据ゑられし 我が商業校
(Wikipediaより (註)五城楼:仙台の別称)

投稿: 焼酎 | 2018年3月27日 (火) 17時36分

もう60年も前のこと。小学校4.5年生のころです。学校の掲示板のところに毎日新聞の小学生版が毎日掲示されていました。その小学生新聞に「三国志」の物語が連載されていました。作者などはもう覚えていませんが、「三国史」「三国志」に何か惹かれるものがあり、毎日楽しみにして読んでいた思い出があります。
 その後、大学生になった時、今度は、吉川英治の「三国志」に魅せられ、ストーリーだけでなく、時間をを縦糸に、人物を横糸に、そこに描かれるドラマを、凹凸の画面にし、物語に色を付けて、中国の歴史、文化。君臣の在り様、戦略の立て方、人の使い方、人の心の機微、…言い尽くせないほど、自分の生き方(おおげさですが)物事を決めるときのの参考にしてきたような思いがあります。
 今また数十年前に買った潮出版社の横山光輝の漫画三国志を、孫と一緒に読んでいます。物知りじいじの注釈を、よく聞いて感動してくれています。三国志に流れる英雄たちの生き方は3人の盟友だけでなく、孔明、趙雲また曹操、仲達・・・それぞれ日本人の心に活きつくものがあるのでしょうか?それにしても孔明の生き方は勝つため、主君もため、ぶれることなく生きて輝いています。セイラク秋風五丈原(と自分で読んでいます)の叙事詩は心を尽くしてなお余りあるものと思います。こうして載せていただき二木先生に心から感謝いたします。

投稿: 遠木道程 | 2018年3月29日 (木) 01時38分

 大詩人土井晩翠は「大国民にして大詩篇なきものいまだこれあらず」と言いました。大詩人の条件として大詩篇を書く構想力を上げるべきではないでしょうか。管理人さんの行き届いた「蛇足」にあるように、『星落秋風五丈原』は全部で7節からなっています。掲出されている第1節だけでも7聯52行、これは、短い歌に慣れた私どもには覚えられそうにないのですが、7節全部では合わせると45聯350行になる長大な詩篇です。この詩を初めて読んだ時にビックリしたことがあります。詩の長さに、ではありません。自分が中学生時代に愛唱した三上卓『青年日本の歌』(俗に『昭和維新の歌』)、その中でも好きだった「功名何か夢の跡/消えざるものはただ誠」を始め幾つもの詩句が、この『星落秋風五丈原』(ここに掲出されていない第2節以降)にそっくりなことでした。驚いて友人に話したら、彼は「当時の青年将校の教養、侮るべからずですね」と言います。なるほどそういう受け取り方もあるか。海軍中尉三上卓は、昭和初期の5・15事件のリーダー格の1人で、犬養首相を襲撃しました。『青年日本の歌』は決起の2年前に作ったそうです。比べてみますと:
『星落』2節4聯 治乱興亡おもほへば/世は一局の棊なりけり
『青年日本』3番 治乱興亡夢に似て/世は一局の碁なりけり
『星落』2節8聯 見よ九天の雲は垂れ/四海の水は皆立ちて
『青年日本』6番 見よ九天の雲は垂れ/四海の水は雄叫びて
『星落』5節4聯 胸裏百万兵はあり
『青年日本』4番 胸裡百万兵足りて
『星落』6節3聯 人生意気に感じては/成否をたれかあげつらふ
『青年日本』9番 人生意気に感じては/成否をたれかあげつらふ
『星落』7節8聯 功名いづれ夢のあと/消えざるものはただ誠
『青年日本』9番 功名何か夢の跡/消えざるものはただ誠
 少し語句の異同はありますが、三上卓は土井晩翠によほど心酔していたのでしょうか。外にも『天地有情』からいくつか詩句を取っています。
 実は、『青年日本の歌』には、少年の頃は意味も分からなかった冒頭の「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ」を始め、多くの印象的な詩句が大川周明の『則天行地歌』から取られています。全10番がそれら名文句の寄せ集めみたいだと言いたくなるほどです。私の友人のように青年将校の教養に脱帽すべきか、それとも盗用と誹るべきでしょうか。

投稿: dorule | 2018年4月11日 (水) 22時58分

 この歌は、はじめて知りました。土井晩翠先生のいささか仰々しい詩をみると、逆にこの歌を理解した明治の人々の教養の深さを思います。
 吉川英治の『三国志』を高校生の時に読んで以来、中国の歴史や漢詩にハマった人間です。五丈原の戦いに出てくる「泣いて馬謖を斬る」や「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は忘れ難い我が読書遍歴の一コマです。
 中国史を読んでみて思うのは、中国はなんといっても大陸で、つねに戦乱が続き、ものの考え方が日本人とは全く違うのだということです。各民族の思考方法には、その国の歴史が強く影響しています。釜茹での刑にしても日本は熱湯(石川五右衛門)、中国は油(酈食其:れき いき)で煮殺された。温度が違います。どこか、徹底しています。
貴人が自宅に来たので、自分の子ども(赤ん坊)を料理してもてなしたという話が中国の史書に残っている。
グロテスクなどと自国の物差しで、他国を測ってはいけません。
 諸葛孔明は老いて忠節を忘れずという、日本人の思考範囲の行動をしたので、安心して賛同できる人物なのでしょう。
『水滸伝』には108人の英傑が登場しますが、この人数は、とても日本人の頭の中では、整理できないので、滝沢馬琴は8人に整理して『南総里見八犬伝』にしたといわれています。
中国人は、集団の中の一人という視点があります。また欠点のある英雄も咎めず、欠点も愛嬌として捉えるところがあります。
 かつての日本のテレビドラマの『水戸黄門』では、黄門様、格さん、助さんをはじめ善人は、何の欠点もない100%の善人で、そんなアホなことはないやろと、日本のドラマ作りにさびしい思いをしていました。

投稿: 越村 南 | 2018年5月22日 (火) 22時59分

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