バラ色の雲
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
バラ色の雲と 思い出をだいて |
《蛇足》 昭和42年(1967)8月1日に日本コロムビアから発売。レーベルはCBSコロムビア。B面は『輝く星』でした。
非公式チャートですが、オリコンで最高2位につけ、60万枚を売り上げるヒットとなりました。
ヴィレッジ・シンガーズは、昭和42年(1967)前半から2年間ほど、若者たちを熱狂させた、いわゆるGS(グループ・サウンズ)の1つ。
このころ、長髪やエレキギターは不良の印ということで、大人社会からの風当たりが強く、GSのコンサートに行くことを禁止する中学校や高校が数多くありました。
そのなかにあって、ヴィレッジ・シンガーズや、その先輩格のジャッキー吉川とブルー・コメッツは、短髪にスーツ・ネクタイ姿で演奏したため、大人たちの受けは比較的よかったようです。
この曲の出だし、前年に発売されて大ヒットとなった西郷輝彦の『星のフラメンコ』(作詞・作曲:浜口庫之助)に似ているような気がします。メロディの一部が他の曲に似ている例は多く、だからどうということはありませんが。
(二木紘三)
コメント
難しい曲が続いたので今度はと待っていたら期待通りバラ色の雲を取り上げて下さり有難うございました。
この曲は詞が綺麗で歌手も良く懐かしい歌です。海辺と言う言葉が特に輝いている様な気がします。
投稿: 海道 | 2018年4月 5日 (木) 13時02分
ヴィレッジシンガーズのこの歌は、青春期の甘やかな感情をリズミカルに、爽やかな春風のように歌い上げていますね。「亜麻色の乙女」もいいですが、私はこちらの方が好きです。また、不良っぽい恰好やわざと汚い恰好をせずに、溌溂とした若者らしさも好感が持てました。
同じような時期にビレッジシンガースの「長い髪の少女」や、パープルシャドウズの「小さなスナック」もありますが、私はこの3曲が好きでカラオケで良く歌います。
話は変わりますが、ヴィレッジシンガーズよりも少し前にデビューしたジャッキー吉川とブルーコメッツの井上忠夫は私の高校の時の同級生です。しかも入学当時私と机が隣でした。彼は級長、私は副級長でした。日大豊山高のそのころ彼は黒ぶち眼鏡をかけており、ブラスバンド部で活躍していました。その後彼は日大芸術学部に進みましたが、当時大学祭でクラリネットか何かを持って歩いている彼を見たとき、高校の時よりもやや出っ歯な感じになっていました。私が思うに成長期にずっと笛ものを吹いていたのでそうなったのかなと思いました。ところが、成人してテレビに映った彼の顔を見てびっくりしました。眼鏡はかけていません。コンタクトにしたなと思いました。そして出っ歯は見事に治っていました。矯正したんだ、と思いました。もともと顔立ちはご存知のようにハンサムでしたから、よけい芸能人のオーラが出ていました。その才能あふれる彼も、そして愛する奥さんも、最後は自殺という思いもよらぬ結末を迎えようとは思いませんでした。人の一生は思いがけないことが多いですね。合掌。話がそれてすみませんでした。
投稿: 吟二 | 2018年4月 7日 (土) 11時13分
「亜麻色の髪の乙女」とするところを、入力ミスされたのですね。 「長い髪の少女」を歌ったグループは、ゴールデン・カップスでした。
投稿: 寒崎 秀一 | 2018年4月 7日 (土) 17時17分
寒崎さま
そうですね。よく見ると「長い髪の少女」もビレッジシンガースなんて書いてしまいました。ザ・ゴールデンカップスですね。大変失礼いたしました。
投稿: 吟二 | 2018年4月 9日 (月) 17時03分
日本のグループ・サウンズは独特の発展を遂げましたね。社会の現実とも、激しい情熱とも無縁で、フワフワとしたきれいな夢のような世界に閉じこもっています。しかし、それだけに、世のせち辛さを知ってから聞くと、早く死んだ子供のようなあどけなさがあり、何とも言えぬ哀切の感に打たれます。
投稿: Bianca | 2018年4月11日 (水) 23時20分
この曲が流行ったころを想い出すとその当時のことが懐かしく頭の中を駆け巡ります。
独身時代のある日、社交ダンス教授所の看板が目に留まり、それ以来10年数年、土曜日の午後を中心に週5日位日参していたと思います。
改めて、二木オケの軽快なリズムに誘われて、久し振りで「ジルバ」のステップを思い出しました。
できれば、近々・・・ダンス教室に出向こうかと思っていますが・・・。
せめて、弁当等の宅配の後、夕食時の「芋焼酎」での乾杯の後、二木オケの名演奏を身体に受け止めステップを踏みたいものです。
投稿: 一章 | 2018年5月 6日 (日) 21時36分
(文中一部敬称略)
『バラ色の雲』は昭和・平成の名作曲家、筒美京平(渡辺榮吉、1940~2020)の出世作と言われておりますが、筒美といえば私の年代ですと数多くのアイドル歌手に楽曲を提供した作曲家のイメージが強いです。
名前を挙げるだけでも南沙織(内間→篠山明美、1954~)、野口五郎(佐藤靖、1956~)、郷ひろみ(原武裕美、1955~)、太田裕美(太田→福岡裕美、1955~)、岩崎宏美(岩崎→益田→岩崎→今→岩崎宏美、1958~)、石野真子(石野→長渕→石野→山田→石野真子、1961~)、田原俊彦(1961~)、近藤真彦(1964~)、河合奈保子(河合→金原奈保子、1963~)、松本伊代(松本→小園伊代、1965~)、早見優(舘野→福田一美、1966~)、小泉今日子(小泉→永瀬→小泉今日子、1966~)、藤井一子(1970~)…などなどきりがありませんが、去る12月6日、そのうちの一人であった中山美穂(中山→辻→中山美穂、1970~2024、享年54)の突然の訃報を耳にしました。
中山は14歳の時に未成年の性を題材にしたテレビドラマ『毎度おさわがせします(Part1)』(1985、TBS・CBCテレビ・毎日放送系)で衝撃的な俳優デビューを果たし、同年に松本隆(1949~)が同作での彼女をイメージして?作詞した筒美作曲の『C』でデビュー、同曲で第27回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞しました。
中山と同期には彼女と同じく筒美の作曲による『殺意のバカンス』(作詞:売野雅勇(1951~))でデビューした本田美奈子.(工藤美奈子、1967~2005)がおり、本田は『C』と同じ松本・筒美コンビによる4枚目のシングル『Temptation(誘惑)』で『第11回日本歌謡大賞』(日本テレビ・中京テレビ・よみうりテレビ系)や『1985 FNS歌謡祭』(フジテレビ・東海テレビ・関西テレビ系)で最優秀新人賞を受賞、レコ大の同賞も受賞確実と言われましたが、『歌謡大賞』とか新人歌手の登竜門だった『第18回新宿音楽祭』(文化放送・東海ラジオ他)など他の賞では全くノミネートされていなかった中山が本田を抑え最優秀賞を獲った際には結構物議を醸したことを記憶していますが、両者に楽曲を提供した筒美も複雑な心境だったに違いなかったと想像します。
のちに中山は岩井俊二(1963~)と、本田は岩谷時子(1916~2013)と出会い、その後は両者とも新境地を拓く活躍を見せたのは言うまでもないですが、残念なことに2005年11月に本田が白血病により38歳の若さで、19年後の一昨日中山も報道などで伝えられた通り54歳の若さで天に召されました。
私は本田と中山の間のちょうど真ん中の学年にあたるだけにどちらも訃報を聞いて悲しみましたが、中山の場合は闘病中だった本田と違って突然のことだけに気持ちが動転し「ミポリン(中山の愛称)、嘘だろ、ミポリン…」と泣きに泣きました。
本田も中山も筒美と同じくたぐいまれない才能の持ち主でしたが、エンターテイメントの世界でそのような人物をあのようなかたちで失ったことはド素人の私でも残念至極です。
軽々しく口にしたくはありませんが、中山美穂さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
ミポリン、40年近くオレら同年代を楽しませてくれてありがとう!
【蛇足】
中山同様『毎度おさわがせします(Part2)』(1985~86、TBS・CBCテレビ・毎日放送系)で俳優デビューし、筒美作曲の『チェック・ポイント』(1986、作詞:来生えつこ(来生悦子、1948~))で歌手デビューした藤井一子は現在は芸能活動を引退し福岡県北九州市小倉でイタリアンバーを経営しており、私は5年前に北九州を旅した歳彼女にお会いしてきましたが、50近かったとはいえアイドル当時のあどけなさが残っていてとても感動しました。
投稿: Black Swan | 2024年12月 8日 (日) 23時37分