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2018年5月 3日 (木)

二人の兵士(擲弾兵)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詩:ハインリッヒ・ハイネ、作曲:ロベルト・シューマン、日本語詞:堀内敬三

つめたき 囚獄(ひとや)いでて
帰る兵士 二人、
故郷(ふるさと) 近づきしころ、
いたみし心に
国の便りと聞きしは
「フランスついに敗れ
大軍崩れ 今は はた
皇帝 捕われし」と。
悲しき便り 聞きて
涙せし二人、
語りつ

「死は近し、かくも 傷うずくは。」
答えつ
「こと やみぬ。
死も 今 いとわじ。
されども 妻子(つまこ)
いかになすべき。」
「うれいそ、妻子を。
われら死にて後(のち)
乞食(こつじき)とならばなれ、
皇帝、捕われしを。

わが語るをきけ。
われ 今 死せば
わが屍(かばね)たずさえて
フランスの地に埋めよ。
名誉の十字をば
わが胸にかけ、
(つつ)をわが腕に
(つるぎ)を腰に。

かくてわれ 墓より
祖国をば 護らん、
砲音(つつおと)やおたけびの
またもひびく日まで。
やがて皇帝 かえりて
わが墓の上に
軍勢 つどわん時
墓をいでて 起たんかな
わが皇帝のために。」

     Die beiden Grenadiere

Nach Frankreich zogen zwei Grenadier',
Die waren in Rußland gefangen.
Und als sie kamen ins deutsche Quartier,
Sie ließen die Köpfe hangen.

Da hörten sie beide die traurige Mär:
Daß Frankreich verloren gegangen,
Besiegt und zerschlagen das tapfere Heer,-
Und der Kaiser, der Kaiser gefangen.

Da weinten zusammen die Grenadier'
Wohl ob der kläglichen Kunde.
Der eine sprach: Wie weh wird mir,
Wie brennt meine alte Wunde!

Der andre sprach: Das Lied ist aus,
Auch ich möcht mit dir sterben,
Doch hab’ ich Weib und Kind zu Haus,
Die ohne mich verderben.

Was schert mich Weib, was schert mich Kind?
Ich trage weit bess’res Verlangen;
Laß sie betteln gehn, wenn sie hungrig sind,-
Mein Kaiser, mein Kaiser gefangen!

Gewähr' mir, Bruder, eine Bitt':
Wenn ich jetzt sterben werde,
So nimm meine Leiche nach Frankreich mit,
Begrab’ mich in Frankreichs Erde.

Das Ehrenkreuz am rothen Band
Sollst du aufs Herz mir legen;
Die Flinte gib mir in die Hand,
Und gürt’ mir um den Degen.

So will ich liegen und horchen still
Wie eine Schildwacht, im Grabe,
Bis einst ich höre Kanonengebrüll
Und wiehernder Rosse Getrabe.

Dann reitet mein Kaiser wohl über mein Grab,
Viel Schwerter klirren und blitzen;
Dann steig' ich gewaffnet hervor aus dem Grab,-
Den Kaiser, den Kaiser zu schützen.

 

《蛇足》 1820年にハイネが作った詩に、1840年にシューマンが作曲した作品。『ロマンツェとバラーデ、第二集(Romanzen und Balladen Heft 2)』の最初の曲(作品番号49)です。

 作品の舞台は、1812年のナポレオン軍によるロシア侵攻と敗退。
 同年6月24日、ナポレオンが率いる約60万人の大陸軍
(フランス、およびその従属国と同盟国の軍隊)がロシアに攻め込みます。しかし、ロシア軍の焦土作戦とゲリラ戦などを駆使した巧みな攻撃により、大敗を喫します。

 同年10月末に撤退を開始しますが、大陸軍の兵士たちは、飢えと強烈な寒気、ロシア軍の攻撃により続々と倒れます。
 ロシア国境までたどり着いた者は全軍の約5分の1、本国に帰還できたフランス兵は出兵時の2パーセント弱、4,5千人にすぎなかったといわれます。

 戦争がほぼ終結したころ、 ロシアの捕虜収容所から解放されて、帰国の途についた2人のフランス兵が、この歌の主人公です。ドイツにたどり着いたとき、2人はナポレオンが捕まったという話を聞きます。
 1人は重傷を負っており、もう1人に、自分が死んだらフランスに連れ帰って埋めてくれ。皇帝が復活したら、墓から出て皇帝のために戦うつもりだ、といいます。もう1人が、自分たちが死んだら妻子が心配だというと、瀕死の兵士は、皇帝が捕らわれたのに、妻子の心配などしていられない、乞食にでもなればよい――とすさまじい忠誠心を吐露します。

 この忠誠心は、2人が擲弾兵だったということから生まれたと見てよいでしょう。堀内敬三は、『二人の兵士』という題にしていますが、これだと普通の兵士という印象を受けます。
 一般には『二人の擲弾兵
(てきだんへい)』というタイトルで知られています。ハイネの原詩では、"Die Grenadiere"ですが、曲をつけた際にbeidenが挿入されて"Die beiden Grenadiere" となったようです。
 
GrenadiereはGrenade、すなわち「擲弾を投げる者」という意味です。擲弾は火薬を詰めた鉄球で、導火線に火をつけて敵に投げつける武器、要するに手榴弾です。
 余談ですが、元寇のとき元軍が使った「てつはう」も擲弾でした。ただし、鉄球のほか、陶製の球も使われたといわれます。

 ナポレオン戦争のころの擲弾は非常に重く、遠くへ投げられなかったため、敵陣に肉迫して投げる必要がありました。敵陣に接近すればするほど、撃たれる危険性が高まります。
 そのため、擲弾兵には勇猛で体力のある者が選ばれました。つまり、擲弾兵は兵士のなかのエリートだったわけです。擲弾兵はそのことに誇りをもち、周りも敬意を払ったといわれます。
 のちに擲弾は、手投げから射出機で投げる戦法に変わり、擲弾兵という兵科はなくなりますが、勇猛な兵士には擲弾兵という敬称が奉られたといいます。

 エリートとして遇されると、一般の兵士より皇帝への忠誠心が強くなります。ですから、「擲弾兵」というタイトルでないと、この激しい忠誠心には見合わないと思います。

 ナポレオンは軍事独裁者ですが、革命の継承者ないし守護者だったころから、多くの崇拝者がいました。没落してのちも崇拝者はあまり減らなかったといわれます。
 たとえば、エッカーマンの『ゲーテとの対話』では、ゲーテがナポレオンを盛んに賞賛していたと書かれています。

 また、ベートーベンの交響曲第3番変ホ長調『英雄』がナポレオンに捧げられたことは有名です。
 ただし、ベートーベンが賛美したのは、ナポレオンが、革命をつぶそうとする周辺の王制諸国と戦い続けるとともに、国内の行政制度や教育制度、法律
(ナポレオン法典)などを整備したからです。
 ナポレオンが皇帝に即位したと聞くと、「ヤツも俗物にすぎなかったか」と怒って、献辞が書かれた楽譜の表紙を破り捨てたそうです。

 『二人の擲弾兵』では、フランス国歌『ラ・マルセイエーズ』の印象的なメロディが組み込まれ、これが擲弾兵の愛国心・忠誠心を表す効果を上げています。
 ワグナーも『二人の擲弾兵』を作曲していますが、これにも『ラ・マルセイエーズ』の一節が使われています。そのほか、リストの交響詩『英雄の嘆き』や、チャイコフスキーの管弦楽序曲『1812年』、ドビュッシーのピアノ曲『花火』などでも、『ラ・マルセイエーズ』の一部が引用されています。

 『ラ・マルセイエーズ』は名曲だと思いますが、国歌としては長すぎるし、歌詞も血なまぐさいですね。よく言われることですけれども。

(二木紘三)

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コメント

私はこの歌の歌詞と二木様の解説を読んで、一人の男性の死を思いました。名前は貞二、我が家に小学校を卒業すると同時に小僧に来たそうです。私が生まれた頃(昭和15年)です。父は口やかましいだけでなく、殴る、蹴るは当たり前で、恐らく想像を絶する様な厳しさでこの人を仕込んだのではないかと思います。
やっと一人前になって、給金が貰える職人になったと同時に兵隊に取られてしいました。何年か後にアッツ島で玉砕したそうです。私の母は縫物をしながら「貞二が玉砕してしまった」と何回も言いました。わが子を亡くしたぐらいに悲しかったのでしょう。南方にいた兵士を厳寒のアッツ島に国家は夏服のまま送ったそうです。飢えと寒さと兵器もない島で戦わずに亡くった人の方が多かったと聞きました。私は貞二さんを知りませんが、赤ちゃんのころ多分、子守をしてくれたのではないかと思います。今、アッツ桜の花を大切に咲かせています。南方の花を持ってきた人が、名前を付けようとした時にラジオから「アッツ島玉砕」のニュースが流れ、即、アッツ桜と名前を付けたそうです。国を統治する人は何を思って多くの国民を殺してしまったのでしょうか。戦略もなく国を焦土にして、悪びれることもなく、また総理になる。国家とはなんでしょうか、兵士は物だったのでしょうか。この歌の中の兵士は国家や名誉が大事のように書かれていますが、そんなものより家族が平和に暮らせるようにするのが国家の務めだと私は思います。貞二さんのアッツ桜今きれいに咲いています。

投稿: ハコベの花 | 2018年5月 3日 (木) 22時53分

 「蛇足」に触発されました。
 オリンピックで金メダルを取った国の国歌が演奏されます。なにげなく聴いていたのですが、君が代以外の曲はほとんどが行進曲ですね。それでは歌詞もそれに見合っているのかと気になり、Wikipediaで検索したことがありました。

 すると、二木先生が蛇足で述べられているように、血なまぐさい歌詞がいくつかありました。多くの血を流した建国当時ならやむを得ないかなとも思いますし、また斃れていった民衆を永遠に記憶に留めようということも解らないではありません。

 しかし、国歌を詠唱し始める年端もいかない子供たちにはどうかなと思ってしまいました。まあ他国の国歌にたいして、とやかく言うことではないのですが、ふとそんなこと思ってしまいました。アフリカ諸国は賛美歌が入っているのが多いようですね。アフリカ大陸の歴史を考えてしまいます。

 日本でも君が代問題が過熱した時期がありましたね。「きみがよは」のところの「きみ」は「あなたやわたし」とし、「私たちの世の中はいつまでも平和で栄えていく」と解釈してしたらと思います。そしてこの「君が代」の歌詞は1000年まえの和歌で、歴史好きな私にとって誇らしく思っています。
 「二人の兵士(てき弾兵)」の歌からすっ飛んでしまいました。

投稿: konoha | 2018年5月 4日 (金) 11時47分

"君”は現在でもさかんに使われていますね。うた物語にも「君いとしき人よ」、「君がすべてさ」から始まって、”君”が頭につく曲が9曲も収録されています。

”君”は相手を敬い、礼節と親しみを込めて相手に呼びかけるときの言葉のように感じます。ただ、お父さん、お母さん、会社の上司、会社の社長などへの呼びかけには使えませんね。ましてや、天皇陛下に対して”君”とは、とんでもないです。(少なくとも現代の呼びかけ言葉としては・・・)

そんな風に考えますと、上下関係や、階級意識が排除された、恋人同士、仲間同士、友人同士の和の精神に基づいている国歌と言えるかもしれません。

そうであれば、おそらくこのような国歌は世界に二つとないように思えます。


投稿: yoko | 2018年5月 4日 (金) 18時22分

 「アッツ島」と聞くと、玉砕をすぐ思い出します。でも、その話だけを聞いています。アッツ島がどこのあるのかさえ正確に知らない有様です。
 この「擲弾兵」の読みも意味も先ほど知ったような若輩ものです。
 「戦争は」というとすぐ赤という時代は過ぎましたが、「何でも反対」という時代も過ぎたような気もいたします。この歌にはそういう意味が込められていると思います。ただ、「し」(過去と思われますが)の多用が気になります。

投稿: 今でも青春 | 2018年5月 4日 (金) 21時07分

玉砕という言葉に引っ掛かりを感じていました。しらべてみましたら、名誉や忠義を重んじて、潔く死ぬことと書いてありました。アッツ島での事は玉砕と言っては亡くなった兵隊さんが可哀そうすぎます。最もアッツ島ばかりではなく南洋の島々、大陸でもこんなことは沢山在ったことでしょう。きれいな言葉の裏にあるものを理解したいと思います。

投稿: ハコベの花 | 2018年5月 4日 (金) 22時37分

まったく 聴いたことのない曲でした

  ハイネ作詞  シューマン作曲

 また 舞台が ナポレオン軍によるロシア侵攻と敗退


 大きな 曲ですね    考えるところは 多いです


 
 人が  戦争という大事業に 組み込まれてしまったとき   
 どう考えても 自分の命のためには 殺戮を行わなければいけない   
   異常な精神の高揚をも ともない
     正常な思考ではなくなるのですね

 この二人の擲弾兵の 言葉 思い が表していますね

 何よりも 忠誠心  自分の生 よりも
             家族よりも かな?

 こういう 異常な社会を将来させてはいけないのです


   戦争は 絶対悪です  


  戦争をできる国にすると A の親衛隊の一人
   N が講演してまわっているようですが  
  あなた 一度 シリアのダマスカス近郊に 家族と行ってごらん   
  どこから 砲弾がとんでくるかわからない戦場を経験してごらん  
  日本の若者たちに そんな軽い言葉を話せないこと自覚できるでしょう


  ひろしさまが 以前コメントされた

 「戦争絶滅受合法案」 すばらしい 考え方です 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年5月 7日 (月) 00時13分

君が代に拒否反応をするのはその歌自体より、太平洋戦争の時の使われ方に問題があったのではないかと思います。歌詞より使われ方ですね。天皇絶対の軍部の暴走が国民の拒否反応が大きくなった原因だったのではないでしょうか。戦争中に学校時代を送られた方々や、兵士となって戦争に行った方々でないと本当の事がわかりません。隣組の会合は覚えていますが、あれは国民が少しでも時の時世に反することを言ったら密告する制度だったとは知りませんでした。いかに恐ろしい時代だったかは今、理解できます。再びあの時代に戻らないように努力する必要はあると思います。

投稿: ハコベの花 | 2018年5月 9日 (水) 20時01分

私は戦後の生まれですがハコベの花様のご意見と同じです。私も長らく君が代は嫌いな曲でした。あのことさらに厳かに歌われる「君が代」にはどうしても天皇陛下を結び付けてしまいます。好きにはなれませんでした。

オリンピック等スポーツ試合での表彰式で歌われる「君が代」に、私はこの場では天皇陛下は関係ないじゃないかと思い心の中でいつも反発していました。

それでも最近「君が代」を良い歌だなぁと思えるようになったのは、「君が代」は古くからお祝いの歌として使われてきたもので、”君”が特に天皇を指しているのではない、と言う解釈があることをネットで知ったからです。

子供の日に”君が代”を歌えば君とは子供たちのことです。
成人の日に歌えば、成人になった方々のことです。
老人の日に歌えば、老人の方々のことです。
スポーツの表彰式で歌えば、表彰される人のことです。
天皇誕生日であれば、君とはもちろん天皇陛下です。

私は頭ではそんな風に考えるようになったのですが、まだまだ”君が代”=”天皇の治世”とする結びつけは感覚的に強いでしょうね。

投稿: yoko | 2018年5月10日 (木) 00時58分

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