憧れのハワイ航路
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1 晴れた空 そよぐ風 |
《蛇足》 昭和23年(1948)10月にキングレコードより発売。
オカッパルこと岡晴夫は、前年1月発売の『啼くな小鳩よ』に続く大ヒットで、スター歌手の地位を不動のものにしました。
昭和21年(1946)から数年間に、アメリカないしその文物への憧れを歌った歌がいくつも発表されました。『ジープは走る』や『アメリカ通いの白い船』などで、『憧れのハワイ航路』もそうした歌の1つです。
明るく快調なメロディで、"未知のパラダイス"ハワイへの憧れをかき立てました。
この時代から昭和38年(1963)3月まで、ドル流出を防ぐため、ビジネスや視察、留学といった明確な目的がなければ、海外旅行は許可されませんでした。
同年4月に一部緩和されましたが、一般の市民が観光で海外に行けるようになったのは、昭和39年(1964)4月以降です。
しかし、持ち出せる外貨は500ドルまで。1ドル360円の時代ですから、18万円までということになります。
『憧れのハワイ航路』は、昭和25年(1950)に新東宝が同名で映画化しました。斎藤寅次郎監督で、岡晴夫が岡田秋夫という名前の主役を務めました。そのほか、美空ひばり、花菱アチャコ、古川緑波など、この時代について記憶している人には懐かしい名前が並んでいます。
題名からして、ハワイが出てくるかと思われますが、舞台は東京の下町で、主役がハワイ生まれというだけ。アメリカの観光映画からとったらしい映像が、あまり意味のない場所に挿入されています。
前述したような理由で、ハワイロケは無理だったのでしょう。
ところで、客船が出航するときに紙テープを投げる風習は、日系アメリカ人が考えたものだそうです。
1915年のサンフランシスコ万博に、東京日本橋の笠居株式会社が商品ラッピング用の紙テープを出品しました。しかし、アメリカではすでに布テープが普及していたために、まったく売れませんでした。
その窮地を見かねたのが、サンフランシスコで近江屋商店というデパートを経営していた日系移民の森野庄吉。彼は、テープの在庫を安く買い取り、港に持っていって、「送る人と送られる人が、このテープで別れの最後の握手をしませんか」と呼びかけたところ、買い求める人が続出しました。
これが欧米など各国に広まったといわれます(杉浦昭典著『海の慣習と伝説』舵社 1983年)。
当初は、見送り人が岸壁から船上目がけて投げていましたが、届きにくいというので、船客から見送り人に投げる方式に変わりました。
しかし、この風習は、欧米では廃れ、現在は日本でしか行われていないもようです。それも、ツァー会社もしくはクルーズ船が企画したときにだけ行われるようです。
テープ投げは、海を汚すというので、規制されたときもあったようですが、今は水に溶けるテープが使われており、とくに問題はないようです。
(二木紘三)
コメント
ぱっと日本が明るくなる歌です。明るい声で元気よく。見渡す限りの焼け跡に未来の明るい日本が見えるような気がします。日本をいちばん明るくした歌ですね。作った人に文化勲章を上げたいです。
投稿: ハコベの花 | 2018年8月 8日 (水) 10時04分
戦後歌謡曲黄金期の代表とも言える「憧れのハワイ航路」の登場、大歓迎です。「白い船のいる港」(東辰三 作詞・作曲、平野愛子 唄 S23)、「アメリカ通いの白い船」(石本美由起 作詞、利根一郎 作曲、小畑実 唄 S24)などとともに、好きな”船・港”ソングです。
カラオケで、自分の出番が廻って来て、”はて、この場で何を歌おうか”と迷うとき、この歌を選ぶことが多いです。明るく軽いノリで、皆一緒に楽しめる、良い歌だと思います。
《蛇足》の、二木先生の”別れテープ”に関する蘊蓄は、なかなか興味深いですね。歌詞に”テープ”が出てくる歌はいろいろあろうと思いますが、私が直ぐに思いつくのは、♪暗い空だよ きらりと光る 切れたテープか かもめの鳥か…♪の「港に赤い灯がともる」(矢野亮 作詞、八洲秀章 作曲、岡晴夫 唄 S22)、♪テープをどんなに つないでも 切れた縁(えにし)を なんとしょう…♪の「あの日の船はもう来ない」(西澤爽 作詞 、上原げんと 作曲、 美空ひばり 唄 S30)です。
投稿: yasushi | 2018年8月 8日 (水) 13時08分
へー、そうなんですか。紙テープでの別れは日本だけになってしまったんですか。さすが日本のウェットな文化には残っているんですね。管理人さんの蛇足はいつも新鮮な知識を与えてくれます。
8年くらい前、私はある中国の女子大学生に日本語を教えていました。と言っても、ペンパルです。日本語学科の彼女が勉強のために書いてきた日本語の手紙を、正しい日本語に直して返信していました。数年後大学を卒業した彼女は、日本の大学院で学びたいと日本に留学に来ました。当初は、はとバスで東京見物に行きました。そして、もう3日後に帰国という日、女房と3人で車で房総半島へ日帰り旅行に行きました。帰り道、もうとっぷり日が暮れてレインボーブリッジに差し掛かった時です。今までおしゃべりだった彼女が急に押し黙ってしまいました。あとで聞いたら「この日本の夜景を永久に胸にとどめておきたかった」とのことでした。 ”異国の灯饒舌ふっと貝になる”(吟二)
何故この娘のことを書いたかというと、彼女は首都大学(まえの都立大学)の大学院に入学したのですが、ある時、学校の費用負担で教授がゼミの学生数人を連れて小笠原諸島に行ったそうです。楽しかった日々もあっという間に過ぎ帰る日、船の彼女らを島民の方々が紙テープで別れを惜しんでくれたたそうです。そして船が離れると、数隻のボートや、イルカたちまでが後を追ってきてくれたそうです。この情緒は日本の優しさを彼女の胸に忘れられないものにしたと思います。
話が変わりますが、数年前まで上野公園の夜桜見物に行っていました。その頃、毎年オカッパルの歌だけ歌うグループが歌っていました。私はいつも立ち止まって聞いていました。また、ハモニカのグループもいました。みんな4年くらい前からいなくなりました。よりお年寄りになったせいだと思います。残念です。でもオカッパルの歌は明るく元気が出ますね。
投稿: 吟二 | 2018年8月 8日 (水) 22時14分
~晴ァーれた空ァー、そォよぐ風ェー、港ォ出船のォー、ドラの音たのしイ~♪
『昭和23年、敗戦の混乱で 世相はまだ乱れたまま暗かった。 軍国主義から民主主義へ、手のひらを返すような大転換になじめず、庶民はなかば自棄の高笑いや自閉の鬱屈を抱えて暮らす。 そんな世相を吹き飛ばす歌声で、岡は時代の寵児になった。
高級船員風マドロス姿、ポマードを光らせたリーゼントの髪、鼻にかかった独特の高音、明るく野放図な歌唱、冒頭の引用で判るとおり、歌詞の歌い伸ばしには母音が多く、それが開放感を強めている。
当時の地方巡業は乗り打ちの旅、公演後に移動して 翌日は別の土地で歌う忙しさで 取引はもっぱら現金、旅先の一行の豪遊は、トランクに詰めたギャラの札束から支払われたが、翌朝トランクは全然軽くならなかったと、前座歌手からマネージャーに転じた島津晃氏から聞いたことがある。
藤山一郎に代表される それまでの歌手は、多くが音楽学校の出身。 クラシック育ちの折り目正しさで歌い、流行歌手ご法度の母校の目をそらすため、芸名や変名でレコーデイングをした。
ところが岡は、盛り場のギター流しから のし上がる。
適度の不良性が言動にあり、型破りの活力が新しい魅力として庶民に愛された。
歌の題材は、ハワイ旅行。 昨今は、日本の一部かと思うほど日本人で溢れかえっている観光地だが、出国を禁じられていた戦後しばらくは、ハワイ旅行など 夢のまた夢だった。』
昭和の歌 100
君たちが居て僕がいた
小西良太郎:著 より・・・。
投稿: あこがれ | 2018年8月 9日 (木) 14時33分
前に投稿しましたように、「憧れのハワイ航路」は大好きな歌の一つです。
そして、何度も繰り返し聴いたり、歌ったりしているうちに、私なりの(自己流の)歌い方が、身についてしまいました。
つまり、① 歌詞2番の、♪…一人デッキで ウクレレ弾けば…♪のところを、♪…一人デッキで ウクレレ聴けば…♪と歌うのです。客船のデッキでウクレレを弾いても、エンジン音にかき消されてしまうのではなかろうかと思うのです。一方、船のスピーカー(拡声器)から流れてくるウクレレ音楽を、独りデッキで聴いている情景を思い浮かべると、すんなり収まるように思えるのです。
また、② 歌詞③番の、♪…椰子の並木路(じ)…♪のところを、♪…椰子の並木路(みち)…♪と歌うのです。「人生の並木路」や「マロニエの並木路」などの歌もあり、”なみきみち”の方が収まりよく、歌いやすく感じるのです。
なお、上記は、あくまでも自己流の受け留め方であり、歌詞にケチをつけるつもりは毛頭ありません。
投稿: yasushi | 2018年8月20日 (月) 14時00分
もう20年位前のことです。カラオケでこの曲がかかりある若手の人がこの歌を歌いました。私は「こんな昔の歌を」と思いましたが、なんだか明るいのですね。
投稿: 今でも青春 | 2018年8月22日 (水) 17時40分
この歌をカラオケで歌おうと思ったことは何回もありますが、その都度心にストップがかかり、歌えません。「アメリカないしその文物への憧れを歌った歌」であることがその原因のようです。
その僅か数年前には「鬼畜米英」が怒号され、この歌が発売された昭和23年には、まだ中国大陸では残留孤児たちが彷徨い歩き、東京の上野駅の地下道には戦災孤児たちが差別と侮蔑の視線を浴びていた頃、当時の大人達はどうして孤児たちへの想像力もなく、この歌を能天気に歌えたのだろうと、どうしても考えてしまいます。
憧れのハワイには「パールハーバー」があることを忘れていたのでしょうか。
「一人もとり残さない」どころか、その存在すら忘却されきった孤児たちのその当時に立ち返り、リアルタイムに想像力を働かせると、孤児たちはどんな気持ちでいたのだろうかと思うと、今更乍ら胸が痛くなります。
もう70年も前のこと、言うても詮無いことを言うなと言われそうですが、風化はさせたくありません。
この歌は我々日本人の浅薄さ―――私の中にも十分にある―――を象徴する歌のようで、他の人が歌っているのを聴いていると切なくなります。
投稿: 中川秀夫 | 2020年10月 2日 (金) 16時59分
「憧れのハワイ航路」岡晴夫さんの数あるヒット曲の中から、あえて代表曲を一曲あげるとすれば、私は何と云ってもこの歌になろうかと思います!
軽快なテンポの良さがそうさせるのか、私はここでこの曲を聴いているといつのまにか心が爽快になってきます。
そう云えば、昔一世を風靡したお笑いコンビ・コント55号の坂上二郎さんが、各局のテレビ番組でこの歌を好んで歌っておられたそんな光景が、私の記憶には今でも残っています。
『実はこの曲は、石本美由紀と江口夜詩の「長崎のザボン売り」コンビが、小畑実のために書いたのですが、岡がぜひ歌わせてほしいというので、岡の歌う予定だった「波止場シャンソン」と交換したのです。小畑は大漁を逃しました。』(昭和の流行歌・保田武宏氏解説より)
リアルタイムでは知らない岡晴夫さんの歌の中での私の好きな曲ベストスリーは、成人になってから知り大好きになった「逢いたかったぜ」・幼いころにはいつしか好きになり口遊んでいた「啼くな小鳩よ」・そして数年前にここで初めて知り感激して以来、今も愛聴している「青春のパラダイス」この三曲です。そんな私ですが、岡晴夫さんの数あるヒット曲のその中から、代表曲をあえて一曲だけ選ぶとすれば、海外への憧れにめざめはじめた昭和23年当時の大衆に最も愛され大ヒットした、岡晴夫絶頂期の歌といわれる「憧れのハワイ航路」私は文句なしにこの一曲だと思います。
投稿: 芳勝 | 2022年10月 1日 (土) 13時40分
戦後アメリカの爆撃で全財産を失った日本人の心がパッと明るくなるような歌ですね。
市街地の一面の焼け野原に流れるこの歌に心が救われた人は多かったと思います。政府はあっても無いに等しく毎日
泥棒を追いかけていた日々を思いだします。
配給で来たお米は黒く焦げていてしかも雨に浸かっていた嫌な臭いがしていました。そこにパッと心まで解放される様な歌が流れてきたのですから忘れようにも忘れる事の出来ない歌になっています。こんな元気になるような歌がまたどなたか作って下さると嬉しいです。今ならハワイではなく宇宙のどこかの星でしょうか。明るい声の歌が良いですね。
投稿: ハコベの花 | 2022年10月 6日 (木) 11時58分
随分と前、LPレコード時代に「貸しレコード屋」というものが存在しておりまして、その頃の話です…。私も何枚か借りたことがありましたが、その中にタモリのLP盤がありました。
それは、タモリがナツメロの題名と歌詞を代えた内容で、しばらくたってから発売禁止となってしまったようです…。記憶を辿れば、春日八郎の「お富さん」は「オカミさん」で、「死んで欲しいよ、オカミさん、生きていたとてシラケ鳥だよ…」といった感じでした。
その他で覚えているのは「憧れのハワイ航路」変じて「憧れのオワイ航路」で、「割れた桶、臭う風。オワイ航路の肥の香、楽し…」も覚えています。レコードは著作権の問題で発売禁止になってしまったようですが、今にしてみれば録音しておけば良かったなあ…と思わせる出来栄えでした…。
投稿: ジーン | 2024年1月 8日 (月) 14時46分
先日、テレビ番組表を見ていましたら、『新・BS日本のうた 作詞家・石本美由起名曲集』(NHK)という番組が目に留まり、迷わず録画予約しました。
最近の歌に疎いこともあり、ここのところ、歌番組から離れていましたが、副題(?)の” 作詞家・石本美由起名曲集”に心惹かれたのです。
石本美由起さん作詞の歌といえば、私にとって、真っ先に思い浮かべるのは、『憧れのハワイ航路』(S23)です。
後日、いつ登場するだろうかと期待しながら、録画の再生を進めると、ついに『憧れのハワイ航路』が登場しました。細川たかしさん、五木ひろしさんの歌唱で、歌詞1~3番通して、楽しく視聴しました。感激でした。
ついでながら、『憧れのハワイ航路』のほかにも、下記のような、戦後昭和の港・船・マドロスの歌が幾つか登場し、現役の歌い手さんによる歌声を聴いて、楽しいひとときを過ごすことができました。
『ひばりのマドロスさん』(石本美由起 作詞、上原げんと 作曲、美空ひばり 唄 S29)
『港町十三番地』(石本美由起 作詞、上原げんと 作曲、美空ひばり 唄 S32)
『白いランチで十四ノット』(石本美由起 作詞、万城目正 作曲、美空ひばり 唄 S33)
『哀愁波止場』(石本美由起 作詞、船村徹 作曲、美空ひばり 唄 S35)
投稿: yasushi | 2024年7月10日 (水) 16時03分
(文中一部敬称略)
今日の夕方、BSテレビ東京で放送の『プレイバック日本歌手協会歌謡祭』(ナビゲーターは同協会理事長で歌手兼プロモーター兼ノンフィクション作家の合田道人(1961~))にて、生前の岡晴夫(佐々木辰夫、1916~70) が『憧れのハワイ航路』を歌唱している映像を見ました。
そのVTRはテレ東(地上波)の大晦日恒例番組『年忘れにっぽんの歌』の前身にあたる『第2回年忘れなつかしの歌声大行進』(1969年12月31日に東銀座・歌舞伎座よりカラー生中継、東京12チャンネル(現・テレビ東京)・名古屋テレビ・毎日放送など、12ch以外は元旦未明の録画ネット)だったのですが、現在テレ東に保存されている岡の歌唱映像は殆どが白黒であり、そのレギュラー版の『なつかしの歌声』(1968~74)においても岡の最後の出演回(12ch:1970年3月30日放送)自体が白黒放送の最終回であるため(翌週からカラー放送になった)、私は唯一現存すると言っていい前述の「オカッパルのカラー映像」には彼の張りのある歌声とともに鳥肌が立つほど感動してしまいました。
岡は放送の翌年5月に54歳の若さで天に召されてしまっただけに、同VTRはテレ東のみならず放送100年の歴史においてもプレミアム級映像といっても過言ではないでしょう。
芳勝さま
リアルタイムでのオカッパルを知らない私にとっても、『憧れのハワイ航路』といえば坂上二郎(1934~2011)を思い出します。
特に私が印象に残っているのが伝説のコントバラエティ番組『カックラキン大放送!!』(1975~86、日本テレビ・中京テレビ・よみうりテレビ系)の野口五郎(佐藤靖、1956~)主演コーナー『刑事ゴロンボ』で、野口扮する刑事「ゴロンボ」と研ナオコ(浅田→野口なを子、1953~)扮する婦警の「ナンシー」が犯人を追っかけるべくボルダリングの如くビルの壁を上っていく目の前を坂上がテレビ画面の下から上へ自転車をこぎながら♪晴~れた空~、そ~よぐ風~♪と通りすぎて行くシーン(カメラを横にして撮影)に大笑いしたことを今も記憶しております。
【蛇足】
話はオカッパルから離れてしまいますが、坂上と研が父娘、野口が坂上家の下宿人を演じた『カックラキン』のメインコーナー『お笑いお茶の間劇場』でスーパーの御用聞き役(アニメ『サザエさん』(1969~放送中、フジテレビ・東海テレビ・関西テレビ系)に例えるなら三河屋の三郎に相当)で出ていたのが太川陽介(坪倉育生、1959~)、各コーナーのナレーションを務めていたのが当時日テレアナウンサーだった徳光和夫(1941~)でした。
奇しくも21世紀以降太川はテレ東・テレビ愛知・テレビ大阪系で、徳光はテレビ朝日・名古屋テレビ・朝日放送テレビ系で類似した路線バスの旅番組を持つことになりますが、私もたまに未知の地において路線バスで迷うことがあるので、太川・徳光両名の気持ちがわかる気がします。
投稿: Black Swan | 2025年2月26日 (水) 22時01分