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2018年11月22日 (木)

ノルマントン号沈没の歌(2)

ノルマントン号沈没の歌(1)』の続き

 イギリス船籍の貨物船ノルマントン号は、明治19年(1886)10月23日午後6時30分、横浜港を出港して神戸港に向かいました。船には雑貨のほか、船長ジョン・ウイリアム・ドレーク(John William Drake)はじめ、乗組員39人と日本人乗客25人が乗っていました。

 翌24日午後7時半ごろ、ノルマントン号は暴風雨のため和歌山県樫野崎(かしのざき)の沖合で暗礁に激突、船長ら29人の乗組員は救命ボートに乗って離船しましたが、日本人乗客25人と下級船員8人が船に取り残されました(このほか1人は救命ボート準備中に過失死、1人は浮き輪を着け漂流)

 翌朝、救命ボートは串本付近に漂着、船長・船員は地元民の手厚い救護を受けました。漂流中に1人を救助しましたが、寒さや疲労により4人が死亡し、助かったのは26人でした。26人は、イギリス領事館のある神戸に向かいました。
 船は暗礁激突後1時間半ほどで沈没、置き去りにされた日本人乗客と下級船員は、全員が溺死しました。

 日本人乗客の数については、資料によって25人説と23人説とがあります。23人説は、神戸の海難審判においてドレークや船員たちが23人と陳述したことに基づいているようです。
 しかし、後述する横浜の裁判における判決書には、25人の氏名が列挙されていることから、25人が正しいと思われます。

 さて、ここからが問題。助かった26人のなかには、インド人や中国人も数人いましたが、ほとんどはイギリス人とドイツ人、すなわち白人でした。それぞれ数は、記録により揺れがあり、確定できません。取り残された下級船員と漂流中亡くなったのは全員がインド人でしたから、過失死の白人1人を除けば、日本人乗客と合わせて有色人種だけが亡くなったわけです。

 船長のドレークは、同年11月1日、神戸のイギリス領事館で、領事裁判権に基づく海難審判を受けました。
 領事裁判権とは、領事が、駐在国の自国民に対して、自国の法律に従って裁判を行う権利です。

 日本では、安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約に、「日本人に対して法を犯したアメリカ人は、アメリカの領事裁判所がアメリカの法律で裁き、アメリカ人に対して法を犯した日本人は、日本の役人が日本の法律で裁く」旨の条項(第6条)があり、その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスと締結した同種の条約にもこの定めがあります。
 実際には、領事裁判では、外国人には有利、日本人には不利な判決が出やすく、被害を受けた日本人は、ほとんど公正な裁判を受けることができませんでした。

 ドレークは、海難審判において、「船員は日本人に早くボートに乗り移るよう勧めたが、日本人は英語がわからないので、その勧めに応じず、船内に籠もって出ようとしなかったので、しかたなく日本人を置いてボートに移った」という奇っ怪な陳述をし、その結果、「過失なし」と裁決されました。

 この判決が新聞によって報道されると、ドレークらの人種差別行為と不平等条約による領事裁判権に対する国民の憤激が、全国で巻き起こりました。
 判決の不当性を訴えた主張のなかから、『郵便報知新聞』の明治19年
(1886)11月7日号の記事を掲載しましょう。『郵便報知新聞』は『読売新聞』の前身の1つです。
 『郵便報知新聞』の記事は、上の記述とダブる部分はありますが、そのまま掲載します。表記は現代仮名遣いにしました。

 去月二十四日午後七時頃、紀州大島沖にて神戸行きの英国汽船ノルマントン号が暗礁に衝突して破沈せし折柄、その船長及び水夫合せて二十六名は無事端舟(はぶね)にて性命(ママ)を逃れ乗客日本人二十三名と水夫十三名は助かるべき便(よすが)もなく悉(ことごと)く溺死せしとの奇怪の悲報は去る二日の本紙に載せたりしが、昨日のメールを見るに五日発の神戸電報を録し「ノルマントン号難船に関する事情審査済の上船長ドレーキ氏は一切咎(とが)なしと決せらる」と云い、又社説に左の一論を掲げたり、英人自ら筆を執りて英国汽船乗組員の挙動を議したるものなれば余輩はその日本人の事に関する処丈の要領を摘訳して世人の感如何(いか)なるかを問わんと欲するものなり。

 海上の事変に就(つい)ては昔より船長及び乗組員が己れ等の職分責任を堅守して己れ等は船と共に沈むも勉(つと)めて乗客を助けんと尽力したる美談多く、又何も弁(わきま)えぬ尋常の水夫共にても、乗客を全(まっと)うして了(おわ)らぬ内は寧(むし)ろ死すとも我身のみを逃れんとはせざるが通例の話なり、此度のノルマントン号の如くに乗客は二十三名悉く棄て殺しとなり、船長水夫は三十九名のうち二十六名まで逃れ了(おお)せたりと云う事はメッタに聞かざる話なり。斯る話も是迄絶てなきに非ずとせば実に僅かに有るの椿事なり。聞くが如くんば「乗客二十三名は悉く日本人にしてその中には婦人も三名ありたりしが、不幸にも一人の英語を話し得る者なく、又本船乗組員の中にも更に日本語を話し得る者なかりしは、水夫等が色々と骨折りて乗客をして端舟に乗移らさんとせるにも、かの二十三名は頑固に之を拒みて、込み入る潮の身を浸すをも顧みず、只船上に一と固りとなりていたり」との事なり、又聞くが如くんば「二十三名はその際毫(すこし)も畏懼(いく)の色なく平気に構えいたり」との事なり、日本人如何なれば迚(とて)船長水夫等の慌てて逃げんとするを視ながら恐れ気もなく共に端舟に乗移る事を拒みしぞ、将た普通の人情を以て料(はか)れば、如何に言語不通なりしとて船長以下屈強の手脚二十六組ありながら、二十三名の乗客を強て端舟に誘(みちび)く事の働き出来ざりしこそ訝(いぶか)しけれ、海上の乗組員は平生(へいぜい)にありてさえ荒々しき挙動を常とする者なるに、今や一瞬生死の間に立ち何を憚(はばか)りて之を遠慮せるぞ、いま神戸の英国領事館は、船長を無罪放免に処したれども、現在明白になり居る事実だけによりて之を言えば、是の判決は世論の甚だ可認するを難んずる所なるべし。

 荒れ狂う暴風雨や波浪、沈み始めている船を見れば、犬猫でも死が切迫していることがわかります。言葉が通じなくても、身振り手振りで救命ボートに乗せることができたはずです。
 それなのに、日本人乗客は少しも怖がっておらず、ボートに乗ろうとしなかったとは、なんともふざけた言いぐさです。
 このふざけた言いぐさにも、それをそのまま認めた判決にも、日本人への、というよりアジア人への蔑視があからさまに表れています。

 判決を知った日本国民は憤激し、イギリスの横暴と非道を責める演説会が、各地で開かれました。また、各新聞は連日紙面をイギリス人攻撃で埋め、法学者たちはドレーク告訴を主張しました。
 鹿鳴館などの欧米への迎合的政策で不平等条約改正を進めていた政府も、こうした世論を無視できなくなり、兵庫県知事に命じて神戸領事裁判所にドレークを殺人罪で告訴させました。

 イギリス側は神戸で予審を行ったのち、横浜の領事裁判所に事件を移しました。さすがの領事裁判所判事も、ドレークの荒唐無稽な申し立てを認めることはできず、職務怠慢による殺人罪として、禁固3か月の判決を下しました。しかし、死者への賠償金は一文も支払われませんでした。

 これでこの事件はいちおう決着したわけですが、不平等条約改正を求める動きはさらに強まり、この事件の8年後の明治27年(1894)に領事裁判権は撤廃されました。関税自主権の回復などを実現して、列強と対等の関係に入ったのは、明治44年(1911)のことでした。

 『ノルマントン号沈没の歌』は、日本人乗客が全員溺死したとのニュースが報道されたしばらくあとに無名氏によって作られました。当初は36番までで、ドレーク無罪の判決が下ったあと、23聯が付け加えられました。
 ドレークを奴隷鬼と表記している点に、怒りの強さが感じられます。
 この事件の前後にも、欧米列強の国民が起こした横暴非道な事件はいくつもありますが、歌になって、かなり永く歌われたのはこの事件ぐらいでしょう
(未確認)

 前ページの絵は、フランス人画家ジョルジュ・ビゴーが書いたポンチ絵で、ビゴーが横浜の居留地で発行していた風刺雑誌『トバエ(TÔBAÉ)』に掲載されました。明治20年(1887)5月に上海で起こったフランス船メンザレ号の沈没を題材として、前年のノルマントン号沈没に際してドレークやイギリス領事がとった対応を風刺したもの。
 ノルマントン号の沈没を描いたものとしているサイトがありますが、そうでないことは海が凪いでいることからもわかります。
 絵の下部にフランス語で「いくら金を持っているんだ、早く言え!」、英語で「時は金なりだ」と書かれています。

(二木紘三)

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コメント

このような事があったという事全く知りませんでした。

管理人様によって当時の日本の置かれている位置関係を学ばせて頂き感謝です。

何の気なしに「うた物語交流掲示板」を開きました。

芳勝様の「忘れない」という昨日のコメントを見ました。

「ノルマントン号沈没の歌」を開かれた方に是非とも開いていただきたいと思い投稿いたしました。

投稿: fumippe | 2018年11月23日 (金) 01時36分

 ノルマントン号海難事故は知りませんでした。2ページに渡る解説、とても興味深く拝読いたしました。<うーん>と唸るばかりです。ちょうど前回NHKで「西郷(せご)どん」で大久保利通と西郷隆盛とが袂を分かつ話でした。二木先生のお話に触発されて、幕末期の日米修好通商条約や薩摩の動きなど改めて考えてしまいました。

  以前、林望著『薩摩スチュアート 西へ』を読みました。資料に基づいた小説で一気に読んでしまいました。維新前夜の1865年に薩摩藩が選んだ若者たち19名をイギリスへ送り出します。その中には五代友厚も入っていました。イギリスに着くまでの航海日記や寄港地での見聞など、また薩摩人より2年早く長州人がイギリスに留学していたこと、渡英したあとの勉学振りなどが描かれていました。

 1858年に結ばれた日米修好通商条約は不平等条約とよく歴史書に出てきているので、さらっと知ってはいましたが、二木先生解説によって、いかに欧米諸国に都合の良いものかと知りました。
 
 1862年生麦事件、 1863年薩英戦争、 1865年薩摩藩若者密航する、 1866年薩長同盟、 1867年大政奉還、 1868年明治改元、 1877年西南戦争終結、 1885年内閣制度の発足、 1886年ノルマントン号海難事故、 1894年領事裁判権撤廃、 1911(明治44)年関税自主権の回復などを実現して、列強と対等の関係に入った(蛇足より抜粋)。(坂本太郎監修『日本史小辞典」年表参照) 
 
 半世紀をもって改善されたのですね。もしこの海難事故が起きなければ、大正期に入ってもこの不平等条約が続いたかも知れないのですね。

 昨今の政治において公文書の改ざん問題が取り上げられました。私たちの知らない所で何が行なわれているのかと想像するだけでもぞっとします。

投稿: konoha | 2018年11月23日 (金) 12時13分

私は最初に「ノルマントン号沈没の歌」の詩が59番まであることに驚きました!
その詩とここに詳細に記された解説を読んでいくうちに、まず感じたのは、この海難事故での処置は例え「不平等条約」があったとしても、理不尽の極みとも思えるもので、日本人として到底理解不能だと思いました。この詩には亡くなられた人の無念さを思うがゆえの怨念とも思えるようなものを感じます。
そしてこの海難事故の解説を読み終えた時、私は掲示版「忘れない」にコメントした「エルトゥールル号海難事故」のことをふと思い出しました。この二つの事故は、明治19年と明治23年の近い年に起きており、座礁した場所も紀州大島沖の海上というほぼ同じような場所で起きています。
一方の事故は島民の遭難者の救助活動のこと、またもう一方の事故は船長のこととの違いはありますが、私はそれぞれの国の人が持つ責任感・気質及び感情というものをどうしても考えてしまいます。
私が知る海難事故の中で最も心が打ち拉がれた事件は、楽しいはずの修学旅行で、尊い学童たちが多くの犠牲となった昭和30年に起きた「紫雲丸海難事故」ですが、この事故原因は別としてこの船長は責任をとり最後まで船にのこりました。また数年前に起きた海難事故の時、韓国の船長が我先に船から逃げる姿がテレビで放映されました。
話が飛び、大変不謹慎かも知れませんが、太平洋戦争のあの戦乱の中、ユダヤ人のために命がけでビサを発行し続けた杉浦千畝氏はこのノルマントン号事故の結末にどんなことを思ったのかと私は考えたりします。

投稿: 芳勝 | 2018年11月23日 (金) 22時55分

追記
 1886年のノルマントン号海難事故 8年後の1894年に領事裁判権撤廃になり、この年にイギリス、アメリカ、イタリアとそれぞれに通商航海条約を結びました。またロシアとは 2年後の1896年に協商条約を締結しました。
1904〜5年日露戦争があってから、7年後の明治44年に第2次条約改正・関税自主権の回復。そして1914(大正3)年第一次世界大戦が勃発しました。

 遡ればこの時代、めぐるましく世界情勢が動き、ナショナリズムの風が吹き荒れていました。過日フランスで第一次世界大戦100年記念式典が行なわれましたが、現在の国際状況は一人またもう一人の政治家によって世界規模で混沌し始めています。歴史に学べとよく言われますが、世界のあちらこちらでナショナリズムが台頭している兆しです・・・・・

投稿: konoha | 2018年11月24日 (土) 08時46分

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