こげよマイケル
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
黒人霊歌、日本語詞:二木紘三
Michael, Row The Boat Ashore |
《蛇足》 『深き河(Deep River)』、『聖者の行進(When the Saints Go Marching In)』、『ジェリコの戦い(Joshua Fit The Battle Of Jericho)』などと並ぶ黒人霊歌の代表曲。
歌詞・メロディとも単純で歌いやすいことから、各国でさまざまな歌詞が作られ、歌われています。
黒人霊歌は、西南アフリカから強制連行され、アメリカ南部のプランテーション(大農園)などで奴隷として働かされた黒人の生活のなかから生まれた歌です。白人の宗教歌にアフリカ音楽の特徴が加わって生まれた歌謡とされています。
それは、辛い労働と差別に苦しむ黒人奴隷たちにとって、慰藉の歌でありました。
かつてはNegro Spiritualsと呼ばれていましたが、negroが差別語とされてからは、Black SpiritualsとかAfrican-American Spiritualsと呼ばれるようになり、現在では単にSpritualsと呼ぶのが一般的になっています。この変遷は、黒人霊歌は黒人のもの、という意識が薄れてきたことを物語っています。
サウスカロライナ州とジョージア州の沿岸部には、大小の島が複雑に入り組んだシー・アイランドと呼ばれる群島があります。『こげよマイケル』はその島の1つ、セントヘレナ島で生まれました(ナポレオンが流されたセントヘレナ島とは、位置が全然違います、念のため)。
シー・アイランドにもいくつものプランテーションがありましたが、本土とは大きく違っている点が2つありました。
1つは、本土のプランテーションは大半が綿作を業としていたのに対し、群島部のプランテーションでは米作が主要産業であったこと。
もう1つは、本土では白人が黒人より多かったのに対し、群島部では黒人のほうがはるかに多かったこと。
この2点は、おもに気候の違いによります。群島部は湿度の高い亜熱帯気候で、水が豊かでした。この気候を利用して、米作技術をもつ黒人奴隷たちに米作りを行わせたのです。シー・アイランドは、米の一大産地となりました。
また、奴隷船がアフリカから持ち込んだ蚊により、マラリアや黄熱がしばしば流行したこと。これらの病気に対して、黒人ほど抵抗力のない白人たちは、流行期には本土に避難しました。
ことに南北戦争中(1861年4月12日-1865年4月9日)の4年間は、農園主はじめ白人の大半は本土に去り、群島内のプランテーションは、ほとんど黒人だけの世界になりました。
つまり、群島部の黒人たちは、白人による束縛や強制の少ない環境で、自律的に米作(ほかに藍栽培なども)を行い、そのなかで独自の文化と言語を形成していったのです。その文化はガラ文化、言語はガラ語と呼ばれます。
ガラ語は、いわゆる黒人英語の1つですが、本土の黒人奴隷より白人との接触が少なかった分、西アフリカと中部アフリカの諸言語の影響が色濃く残っていました。
リンカーン大統領による1863年1月1日の奴隷解放宣言によって、奴隷たちは解放されました。黒人たちは土地を望みましたが、それは果たされませんでした。島に戻ってきた農園主たちは、以前と同じように黒人たちを使って米作などを続けようとしたからです。
しかし、自由民になった黒人たちは働く気がなく、生産力は著しく落ちました。加えて、1890年代には何度も強いハリケーンに襲われて、農園が荒廃したため、ついに農園主たちは土地を放棄して島から去りました。
土地を得た黒人たちは結束して、セントヘレナ島にコミュニティ・センターを置き、学校も開きました。
上の写真は、1877年7月4日に、森の中で独立記念日を祝うセントヘレナ島の黒人たちを撮したものです。男女とも白人と同じような服装をしており、本土の南部の黒人たちに比べて、生活に余裕のあったことがうかがえます。
『こげよマイケル』が世に広まるきっかけを作ったのは、チャールズ・ピカード・ウェアというハーヴァード出の青年です。戦争中にセントヘレナ島で黒人たちへの援助に携わっていたウェアは、解放奴隷たちが舟を漕ぐときなどに歌う歌に興味をもち、歌詞とメロディを記録しました。その1つが『こげよマイケル』の原曲でした。
戦後の1867年、ウェアは、いとこのウィリアム・フランシス・アレン、およびルーシー・マキム・ギャリソンとともに、『合衆国奴隷の歌』 (Slave Songs of the United States)を出版、そのなかに『こげよマイケル』も収録されました。
その歌が下記です。口承で歌われてきたため、異本がいくつもありますが、ほぼ共通しているのは、旧約聖書にあるエクソダス(出エジプト)に、自分たちの自由への渇望を重ね合わせている、という点です。
Michael row de boat ashore, Hallelujah!
Michael boat a gospel boat, Hallelujah!
I wonder where my mudder deh.
See my mudder on de rock gwine home.
On de rock gwine home in Jesus' name.
Michael boat a music boat.
Gabriel blow de trumpet horn.
O you mind your boastin' talk.
Boastin' talk will sink your soul.
Brudder, lend a helpin' hand.
Sister, help for trim dat boat.
Jordan stream is wide and deep.
Jesus stand on t' oder side.
I wonder if my maussa deh.
My fader gone to unknown land.
O de Lord he plant his garden deh.
He raise de fruit for you to eat.
He dat eat shall neber die.
When de riber overflow.
O poor sinner, how you land?
Riber run and darkness comin'.
Sinner row to save your soul.
この歌は、フォークシンガーで教師のトニー・サレタンによってメロディが整えられ、歌詞も通常の英語による簡素なものに改編されました。サレタンはそれを1954年にフォークシンガーのピート・シーガーに教えました。
2人とも、それをさまざまな催しの場で歌いましたが、レコーディングはしませんでした。
最も古い録音かどうかはわかりませんが、フォークシンガーのボブ・ギブソンが1957年にカーネギー・ホールで行ったコンサートを録音したアルバムに、『こげよマイケル』が収録されています。
これ以降、世界中で多くの歌手が少しずつ歌詞を変えてこの歌を歌い、録音しています。
歌詞欄の英語詞は、私がmp3を作るのに使った楽譜についていたものです。これに合う日本語詞で、実際に歌えるものが見当たらなかったので、私が作りました。
3番の「向こう岸には乳と蜂蜜=乳と蜂蜜の流れる地」は、ノアの洪水のあと、神がアブラハムの子孫、すなわちユダヤ人(イスラム教ではアラブ人も)に与えると約束した場所・カナン(今のパレスチナ)です。「約束の地」とも呼ばれるので、日本語詞にはそれを使いました。
日本人の歌手も、おおぜいこの歌を歌っていますが、いずれも英語で歌っています。英語詞が単純で歌いやすいので、日本語詞にするまでもないからでしょう。
日本語のヴァージョンもありますが、たいていは「ハレルヤ」の繰り返しを利用した遊び歌です。「ハレルヤ」はヘブライ語で「神を讃えよ」の意。
遊び歌のうち、有名なものを2つ掲載します。NHK版は、昭和46年(1971)10月6日から、水木一郎とNHK東京放送児童合唱団の歌で放送されたもの。キャンプなどレクリエーションの場でよく歌われました。
ザ・ドリフターズ版は、『8時だョ!全員集合』で歌われたので、記憶している人が多いと思います。
いずれもスピリチュアルズの真髄はみじんもありません。
NHK版(作詞:不詳) みんなでいっしょにうたおう ハレルヤ こえをそろえて ハレルヤ げんきなこえで ハレルヤ もっともっとげんきなこえで ハレルヤ おとこのこだけで ハレルヤ おんなのこだけで ハレルヤ ぼくってかっこいいと おもうひとは ハレルヤ わたしってかわいーって おもってるひとは ハレルヤ あしたのてんきは どうだろうね ハレルヤ あさってのてんきは どうだろうね ハレルヤ きのうけんかして ないちゃったひとは ハレルヤ さいごにみんなで げんきにうたおう! ハレルヤ |
ザ・ドリフターズ版(作詞:なかにし礼) 明日の天気 ハレルヤ 雨が降っても ハレルヤ 誰より君に ホレルヤ お願いキスを サセルヤ 二人で夫婦に ナレルヤ 可愛い赤ちゃん デキルヤ なんにもほかに イラヌヤ みつめられると テレルヤ 君の答えが マテルヤ もうすぐ結論 ダセルヤ ひじてつの跡が ハレルヤ 君の彼氏が ヤケルヤ やけ酒のんで ヨセルヤ 破れた恋に ナケルヤ ハレル~~~ヤ! |
(二木紘三)
コメント
「こげやマイケル」、「深い川」そして「ドナドナ」が流行っていたとき、深い意味など考えもせずメロディが良くて口ずさんでいました。
いつもに増して『蛇足』に触発されてしまいました。セントヘレナ島はナポレオンが流された島として世界で一カ所だけと思っていました。世界地図を引っ張り出しましたが、アメリカの地図の索引にはありませんでした。それならばネット検索をと、してみましたが、だめでした。世界地図には載らないほどの極小さな島なのですね。黒人奴隷の過酷さはみな同じだと思っていました。蛇足の解説によって、環境に助けられていた黒人がいたことは「目から鱗が落ちる」ようでした。
アメリカの昔のTVで「ルーツ」がありました。クンテ・キンテという黒人の一生を描いたドラマでした。奴隷狩りでアフリカからアメリカに家畜同様に連れてこられ、過酷な労働を強いられた話でした。当時その連続ドラマを見ていて、奴隷環境もそうですが、アメリカ社会が国の恥部を大胆にドラマ化したことに驚きました。そして日本は真っ正面から見つめたこんなドラマが出来るのだろうかとさえ思ったのを思い出しました。
今回世界地図とともに『世界史地図』も引っ張り出しました。現在のアフリカ全土の地図にはありませんが、かっては「奴隷海岸」、「象牙海岸」、「黄金海岸」、「穀物海岸」がありました。いかにヨーロッパ列強国がアフリカを大ぴらに搾取していたかがわかります。
なかにし礼の作詞がすごくいいですね。これと同じように好きなのが「菩提樹」の2008.8.13付のika-chanさんの替え歌です。どうしてこんな文の発想になるのか・・・嬉しくなるくらいです。
投稿: konoha | 2019年1月28日 (月) 21時57分
konoha様
Googleマップで「セントヘレナ島 サウスカロライナ」で検索してみてください。
投稿: 二木紘三 | 2019年1月28日 (月) 22時11分
二木紘三さま
ありがとうございました。早速検索しました。また項目も沢山あり、読み応えがありそうです。最近歴史的事実において、各国の歴史資料の公開があったり、修正されたり、捏造されたり、様々なことが起きています。ネット情報が世界を駆け巡り、翻弄されそうです。ですが、やはり検索によっての情報は貴重です。知らなかった事が沢山あります。このうた物語は私にとって、音楽といい蛇足といい素晴らしい窓口になっています。これからもどうぞもよろしくお願いいたします。時節柄どうぞご自愛ください。
投稿: konoha | 2019年1月28日 (月) 22時46分
もう一度青春に戻ってボートに乗ってみたいですね。陸から離れた時の解放感、たった二人だけの空間、青春は夢の時代でした。浜名湖の弁天島で旅館をしていた友人の家に時々遊びに行き、ボートに乗って遊びました。一人で乗って牡蠣棚に突っ込んだこともありました。『アルトハイデルベルグ』を読んだときは、ケーティの気持ちに入り込みました。私の青春はボートから始まり、ボートで終わった様な気がします。「ハレルヤ」はとても声を出して言えません。帰らない青春。思い出はボートと共に戻ってきました。
投稿: ハコベの花 | 2019年1月29日 (火) 22時11分
元々黒人霊歌といわれるものの背景には、白人による圧制に虐げられ苦しめられた人生から開放され、救われたい思いを神に切実にお願いする、云わば神に対する祈りの言葉ですが、総じて悲壮感や悲哀感のようなものは感じられませんし、むしろどちらかと言うと明るい力強い感じにすら聞こえてきます。もともと彼らの根っこにあるくよくよしたって始まらない、なるようになるさ!と、いう自然体、あっけらかんとした物の考え方から来ているのかも知れません。
「こげよマイケル」には、旧約聖書《出エジプト記》にある自由への渇望が反映されているそうですが、モーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)の中でも、この出エジプト記は、1章から40章まで、まるで壮大なドラマを見ているような感じで、過去に映画やドラマで何度も上映・上演されました。(紅海が真っ二つに割れてイスラエルの人達がエジプトの大軍から逃れるところやモーセの十戒等々)
しかし、イスラエルの飢饉から逃れエジプトに下った僅か70人のヤコブ一族が、430年もの間に300万人という人口に膨れ上がり、エジプトの奴隷として働かされたが、神の召命を受けたモーセに導かれ、約束の地カナンに向けて40年間も荒野を旅して、やっと約束の地に着きます。
その40年間の苦労も並大抵のものではありませんでしたが、神に従順すれば、必ず願いは叶えられるという虐げられた者たちへの強いメッセージが、黒人霊歌の根底にあるのだと思います。
黒人霊歌ではないかも知れませんが、アメリカ南部の綿花の栽培に従事する奴隷の人達を歌った歌となると、すぐ《懐かしのバージニア》を思い出します。
Carry me back to old Virginny
There’s where the cotton and the corn and taters grow
There’s where the birds warble sweet in the spring time
There’s where my soul and my hert have long to go
(this old darkys heart am long to go)
Ther’s where I labord so hard for old massa
Day after day in the field of yellow corn
No place on earth do I love more sincerely
Than old Virginny the land where I was born
(state)
投稿: Ruka-jiji | 2019年1月30日 (水) 17時59分
《懐かしのヴァージニア》
長くなりますが、続きがあります。
Carry me Back to old Virginny
There’s let me live till I wither and decay
Long by the old Dismal Swamp have I wander’d
There’s where my soul and my life will pass a way
(this old darkys)
Massa and missis have long gone before me
Soon we will meet on the bright and golden shore
There’s we’ll be happy and free from all sorrow
There’s where we’ll meet and we’ll never part no more
投稿: Ruka-jiji | 2019年1月30日 (水) 18時11分
上の写真を拡大してしばらく見入ってしまいました。なかなか雰囲気がある森の風景です。大人も子供も盛装して黒人たちが森に大勢集っています。こういう場所で(今の人生が終わったなら)「ヨルダン越えて ハレルヤ 約束の地へと ハレルヤ」と皆で合唱するのですね。
日本で似たような風景を探すとすれば、室町・戦国時代、重い年貢にあえいだ農民が称名念仏を唱えつつ極楽往生を願ったような場面でしょうか。
ところで日本のハレルヤの替え歌、遊び歌ですが
「明日の天気 ハレルヤ」
「雨が降っても ハレルヤ」
ならまあまあですが、
「お願いキスを サセルヤ」
「二人で夫婦に ナレルヤ」
「可愛い赤ちゃん デキルヤ」
は、やりすぎですね。悪乗りというものです。
なかにし礼さんは、どうしちゃったんだろう。
「アーメン、ラーメン、冷そーめん」という類の言葉遊びは、子供の時こそ笑いましたが、大きくなってからは、キリスト教徒に対して失礼だと思いました。ハレルヤの遊び歌も相当ひどいと思います。
「言葉遊びにいちいちメクジラを立てるのも大人気ない」という考え方もあれば、「おふざけにも限度がある」という考え方もあると思います。私は後者です。
「キスをサセルヤ」「赤ちゃんデキルヤ」と最初の一回限りの笑いを取ってみて、いったい何がおもしろいのかと、なかにし礼さんに聞いてみたい気持ちです。
投稿: 越村 南 | 2019年1月30日 (水) 23時10分
ボランティア活動で懐かしい歌を歌う間に、この「漕げよマイケル」で時々参加者の方と歌遊びをします。
大変喜んでいただいて重宝している曲です。
「該当している人は大きな声でハレルヤと歌ってください」と言ってこんな歌詞を続けます。
男の人だけでH 女の人だけでH
美人の人だけでH 昔もてた人だけでH
友達が多い人だけでH 貯金が多い人だけでH
しわが多い人だけでH 体重が多い人だけでH
体重が軽い人だけでH サイフが軽い人だけでH
ペットを飼ってる人だけでH お花が好きな人だけでH
物忘れが多くなった人H 忘れたことすら忘れた人はH
もう一度みんなで一緒にH あしたの天気はきっとH
投稿: ミスタークー | 2020年2月 2日 (日) 11時17分
2019.1.30付け越村 南さまのコメントを拝読した当時、尤もなことと思い恥ずかしかったのですが、そのままやり過ごしました。こうして一年ぶりに2019.1.28 21:57konohaコメントを再読してもやはりダメだなと思いました。当時の私のコメントの最後、言葉遊びの面白さだけにとらわれていました。決して私がおおらかだということではなく、一般的なおおらかさにの中に潜む紙一重の怖さを思いました。この場をお借りして、不愉快さを覚えた方々にお詫びしたく存じます。どうもすみませんでした。
尚、決して二木先生の解説に物申すことではなく、『蛇足』の持つ役割として、時代の背景としてのエピソードの一つとして捉えています。
投稿: konoha | 2020年2月 3日 (月) 19時00分