オー・ソレ・ミオ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:Giovanni Capurro、作曲:Eduardo Di Capua
& Alfredo Mazzucchi、日本語詞:徳永政太郎
1 晴れ晴れと 光射して 'O SOLE MIO 1. Che bella cosa na jurnata 'e sole 2. Lùcene 'e llastre d'a fenesta toia 3. Quanno fa notte e 'o sole |
《蛇足》 1898年、ナポリの日刊紙の文化部記者、ジョヴァンニ・カプッロ(Giovanni Capurro 1859-1920)は、ナポリを舞台とした3聯の詩を書きました。彼はその詩への作曲を、エドゥアルド・ディ・カプア(Eduardo Di Capua 1865-1917)に依頼しました。
当時、ロシアのオデッサに滞在していたカプアは、ナポリ市民なら知らない者はいないという、ある女性をイメージしながら曲を作ったといいます。ナポリ市の第1回美人コンテストで優勝したアンナ・マリア・ヴィニャーティ・マッツァ、愛称ニーナという女性で、ノーブルな美貌で知られ、のちに上院議員と結婚しました。
ところで、古い曲集や楽譜では、作曲者としてカプアの名前しか載っていません。しかし、近年は、アルフレード・マッツッキ (Alfredo Mazzucchi 1878-1972)も共同作曲者として記載されています。
実は、カプアは、1897年に23曲のメロディをマッツッキから購入していました。カプアは、そのうちの1つを取り込み、そのころスペインから入ってきたハバネラの曲調でアレンジして『オー・ソレ・ミオ』を作ったのです。ハバネラは、ハイチ→キューバ起源の民族舞曲で、西欧各国の作曲家たちに大きな影響を与えました。
マッツッキの死後、その娘が、カプアが作ったという『オー・ソレ・ミオ』を含む18曲が、実際にはマッツッキが作ったメロディであると申し出ました。1972年にそれが法廷で認められ、以降、マッツッキも『オー・ソレ・ミオ』 の共同作曲者として記載されるようになったわけです。
『オー・ソレ・ミオ』は、1898年、ナポリの伝統的な祭り、ピエディグロッタ・フェスタの歌謡祭で発表されました。2位を獲得したにもかかわらず、なかなか人気が出ませんでしたが、やがて全国に、さらに世界に広まり、イタリアを代表する民謡・カンツォーネの1つとなりました。
原詞の内容は、ほぼ徳永政太郎の日本語詞どおりです。
1番では、さんさんと日光の降り注ぐナポリ湾の清麗な景色を賛美し、2番では、恋する人を太陽にたとえて、その窓の下で、熱い思いを語り、3番では、夜になると、日が沈むのと同じように、恋人の姿が見えなくなって寂しくてたまらず、彼女の窓の下に立ち続ける――といったストーリーです。
カプッロの歌詞は、標準イタリア語ではなく、ナポリ語で書かれています。ナポリ語と標準イタリア語、およびピエディグロッタ・フェスタについては、『サンタ・ルチア』で触れていますので、そちらをご覧ください。
ナポリ語で書かれたために、変なというか、おもしろい誤解が生まれました。タイトル、および歌詞中に2か所出てくる 'O sole mio の「'O」を多くの日本人が感嘆詞と思っていました。もちろん、私もその1人です。日本語のタイトルとして定着している『オー・ソレ・ミオ』のオーがそれを端的に物語っています。
「'o 」は男性名詞に係る定冠詞です。『'O sole mio』は、標準イタリア語では『Il sole mio』となります。
ヨーロッパ語の歌で、定冠詞を長く伸ばして歌う歌はほとんどないと思います。『オー・ソレ・ミオ』を原詞で歌っている歌手は、多少の違いはあっても、いずれも「'o 」を短く歌っています。
ナポリ語の定冠詞は、昔は、単数の男性名詞に係るものが lo、同じく女性名詞に係るものが la でした。これがいつごろか、l が取れて、それぞれ 'o, 'a となったようです。
複数形にかかる定冠詞は、男性がli、女性が le でしたが、あるときから男性・女性とも 'e になりました。
そういうわけで「'o 」は感嘆詞ではありませんが、歌詞が太陽や太陽のような思い人への熱い思いを表していることを考えると、'o は「オー!」という賛嘆の言葉と思いたいですね。『オ・ソレ・ミオ』では、なんとなく落ち着きません。
エスペラント版の歌詞が見つかったので、掲載しておきます。
trad. Karl Vanselow
1. Kiom ĝojigas sunobrila tago,
Post uragan' ĉielo plenserena;
L'aero freŝa ŝajnas festoplena…
Kiom ĝojigas sunobrila tago!
*Sed sun' alia,
Eĉ bela pli,
Sur frunto via
Ardas por mi!
Sed suno,
Sed sun' alia
Sur frunto via
Ardas por mi.
2. Brilas la vitroj de fenestro via,
Pro sia voĉo lavistino vantas,
Dum ŝi, la tukojn etendante, kantas,
Brilas la vitroj de fenestro via.
*(sama kiel nr.1)
3. Kiam noktiĝas kaj subiras suno,
Min kaptas ombro de melankolio:
Kaj mi restadus sub fenestro via,
Kiam noktiĝas kaj subiras suno.
*(sama kiel nr.1)
(二木紘三)
コメント
遥か昔、高校卒業時の茶話会で、音楽部を代表して在校生達の前で、オー・ソレ・ミオを歌いました。
♪ ケベラコーゼ ナユナタエ ソーレ ~~♪と、下手な原語で歌い ヤンヤの喝采?を受けたことを懐かしく思い出しています。
私の甥っ子が、名古屋の栄町でイタリアンのシエフをしていますが、何気なく彼の前でオー・ソレ・ミオを軽~く口ずさんでいたところ、にやにや笑いながら“おじさん それ 何語?”と言われ、以来 私の原語歌謡は、人前では止めることにしました。
ナポリが舞台ではありませんが、ベネツイアを舞台にしての中年男女の甘く儚いラブストーリー「旅情」を、思い浮かべました。
キャサリン・ヘプバーンとロッサノ・ブラッツイー演じる夢のような甘いひととき…やがて来る別れのとき、走り始めた列車から差し出すキャサリンの手と必死に追いかけるブラッツイーの顔がフラッシュバックされ、甘く流れる「Summertime In Venice」のメロデイー…
ナポリとベネツイアは、列車で5時間足らずの場所だそうですが、イタリアはいつも明るく陽気なイメージで、イタリアン料理も含めて親しみの湧く国です。
本格的なイタリア料理は、まだ食べたことありませんし、ナポリタン(パスタ)や、ピザ しか知りません。
ナポリは、鹿児島市と姉妹関係にあり、音楽祭で有名なサンレモ市は、熱海と姉妹都市だそうですね。
投稿: あこがれ | 2019年8月22日 (木) 12時42分
あこがれ様 その当時高校生でイタリア語が分かる人は多分学校にはいなかったと思いますから、よかったですねぇ。バレたら拍手より笑い声が帰ってきましたね。今、私がクスッと笑いました。この歌は音域が広いから声が出ないと歌えませんね。立派に声が出たのですからそれで十分でしょう。私も聴きたかったです。
『旅情』良い映画でした。安物のツボを高く売りつけた嘘がバレた時のブラツェーの情けないような顔、思い出すと笑えてきます。男の嘘はバレやすいですね。女の嘘はあの世に行くまでバレません。もう一度映画館で見たい映画です。
投稿: ハコベの花 | 2019年8月22日 (木) 20時59分
イタリアの歌と言えば、誰しも、まず、「サンタ・ルチア」や「オー・ソレ・ミオ」あたりを思い浮かべるのではないでしょうか。
私は、これらの歌を学校で習った記憶はありませんが、耳学問で憶え、子供の頃からよく口遊んでいました。
「オー・ソレ・ミオ」についての、あこがれ様の投稿('19-8-22)のなかで、原語(イタリア語)で歌唱されて、喝采を浴びた由、披露されていますが、私も、若い頃、イタリアのカンツォーネを原語で一生懸命憶えたことを、思い出しました。
昭和38年、社会人2年生のとき、私は会社の独身寮に同期生3人で起居を共にしていました。そのうちの一人が、大のカンツォーネ・ファンで、部屋でしょっちゅう、色んなカンツォーネを口遊んでいました。そんな彼に感化されて、憶えた歌の中に、今も、私の愛唱歌である「Mamma(マンマ)」(B.Cherubini 作詞、C.A.Bixio 作曲)があります。
1941年のイタリア映画「Mamma」の主題歌で、戦場にある兵士たちが故郷のお母さんを思って歌う、行進曲風の歌です。
記憶を辿りながら、最初の部分だけを、書いてみますと、次のようになります。
なお、日本語歌詞は、声楽家・五十嵐喜芳さんによるものです。
Mamma,son tanto felice Peche ritorno da te(マンマ ソン タント フェリーチェ ペルケ リトルノ ダ テ:マンマ 僕はしあわせ ふるさとへ帰る)
La mia canzone ti dice Ch’e il piu bel giorno per me!(ラ ミア カンツォーネ ティ ディチェ ケ イル ピィウ ベル ジョルノ ペル メ:今日の喜びをたからかに歌う)
この歌は、前半が短調で、控えめに出て、後半が長調になって、母を思う気持ちが朗々とうたわれる、素晴らしい構成になっています。
投稿: yasushi | 2019年9月 1日 (日) 15時25分
エルビス プレスリーが英語版で歌っています。
カラオケでうたったことがあります
イッツ ナウ・・・・・という出だしの甘い歌です
エルビスの英語版が好きです。
69才です。数え年で70歳の古稀です。
この一年で救急搬送2回。(2回目の心筋梗塞と大腸出血)
満70歳までは頑張りますよ。
投稿: プラトン | 2019年9月 6日 (金) 02時25分
1968,9年頃、私はドイツのハンブルグに滞在しておりました。 ドイツ語を本格的に勉強するためでしたが、本来なまけものなので、勉強そっちのけで、あちこち旅行ばかりでした。
69年の夏、思い立ってイタリアへ出かけていきました。
暗い北ドイツを離れ、ローマに着いてからの印象、ただただその太陽の明るさが、うわっ!という感じでした。 北ドイツとて夏ともなれば陽も輝きますけれど、ずいぶん遅くまではんなり明るさが続くというだけのことで、ここイタリアはぜんぜん別の世界にやってきた思いでした。 人々の口から出る言葉が、歩き回る動きが、そして表情が、もう明るさ一杯なのでした。 食べ物は比べるのもおこがましいほどおいしい。 ドイツ美人もすこぶる美しいのですけれど、イタリアでは女性はみんな美くしく、その表情のなんとも素敵に輝いていること。
なるほど、古来北方人がイタリアへ、イタリアへと、あるいは侵攻して、あるいは旅行で押し寄せてくる意味が十分納得できたことでした。
ああ、太陽の国! ”Le Plein Soleil”(太陽がいっぱい)の世界。
南に進みましたが、予約なしとてナポリに泊まれず、サレルノに入りました。(あのソレントまで行ってみようかという智慧もなく) 夜、ホテルの方に勧められ、あるシアター・レストランに行きました。 すこぶるつきの素晴らしい食事のあとの、歌い手の方の、その歌の、というか、歌の声の素晴らしさに驚嘆いたしました。 なんともすごい声量が、あの厚い胸からほとばしり出てホール中に響きわたります。
私はこの「オ・ソーレ・ミオ」と「サンタ・ルチア」「帰れ、ソレントへ」の三曲しか知りませんでしたが、そのほかをあわせ、十分に堪能致しました。 いえ、ほんとに素晴らしい歌い手でした。
このような声で表現するべき歌の数々が生まれるのも、やはりあの強烈な太陽があってのことなのでしょうか。
熱い熱い国、イタリアっていいですねえ。
投稿: 田主丸 | 2019年9月 6日 (金) 22時29分
燦燦と降り注ぐ太陽の光の下、故郷の丘の上に立ち、瓦屋根の街並みと日本海の大海原を見晴らしてこの曲を朗々と歌ってみたいですね。私はイタリアに行ったことはないですが、もちろん石造りの街角で、石畳みの通りに面したカフェに入り行き交う人々をボンヤリと眺めてみたいですね。
プラトン様、
私は44歳の時心筋梗塞で救急搬送され、手術しました。その時医者には死ななくてよかったね、これで70歳までは大丈夫ですよ、と言われました。その後また時々胸の痛みが発生し始め、50歳の時、血管動脈にステントを五つ入れました。
その後も胸の痛みは時々振替していましたが、仕事を辞めストレスも無くなったからでしょうか、最近は胸の痛みも無くなりました。快調です。
以前は、三浦雄一郎氏のエベレスト登頂に触発され、地下鉄の階段を力を込めて上り下りしていたのですが、最近は平地をとにかくゆっくり、トボトボと根気よく歩くようにしています。私は昨年古希になりました。70才まではと言わず、お互い気楽に頑張りましょう。できたらイタリア旅行もしてみたいですね・・・(今はお金がないから無理(笑))
投稿: yoko | 2019年9月 7日 (土) 19時44分
O Sole Mio から逸れて、映画「旅情」のことを述べます。 同じ宿に泊まっていた米国人夫婦が買ったベネチアングラスは安物で、主人公がレナードから買ったものは高級なものなのです。 ベネチアングラスには、ピンからキリまであることを、暗示しています。
映画「プリティウーマン」で、オペラを鑑賞しながら主人公が目に涙するシーンがありますね。 それは単なる感動ではなく、演目が「椿姫」で娼婦だった女性の悲劇と主人公自身の身の上を重ねての涙なのです。
米国映画でも結構奥が深く、分かる人には分かるようにつくられているのです。
投稿: 寒崎 秀一 | 2019年9月10日 (火) 20時39分