チャペルに続く白い道
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:水島 哲、作曲:北原じゅん、唄:西郷輝彦
1 ネムの並木の この道は 2 雨に嵐に 負けないで 3 暗く貧しい すぎた日も |
《蛇足》 デビュー曲『君だけを』の大ヒットを受けて、昭和39年(1964)4月15日にクラウンレコードから発売されました。
『美しい十代』などと同じく、軽快で楽しい青春讃歌。レコードでは、何か所かに「ラララ……」という女声コーラスが入っています。
歌手活動のほか、『どてらい男(ヤツ)』『江戸を斬る』などのテレビドラマや舞台でも活躍しました。最近では、ラグビードラマ『ノーサイド・ゲーム』で老社長役を演じ、健在ぶりを示しました。
(二木紘三)
コメント
「チャペルに続く白い道」この歌が発売された昭和39年4月15日は、私が小学の4年生になったばかりでした!
この歌で思い出すのは、中学3年生の姉が「君だけを」でデビューした西郷輝彦の大ファンになり、毎朝豆腐売りをして少しずつ貯めていた大切お金を握りしめ、ある日の日曜日、隣町(多久駅前)のレコード屋さんに行き、姉が初めて思い切って買ったレコードがこの曲でした。その日は私も一緒に行きましたが、レコードが買えた姉はとても嬉しそうでした。
蛇足にも記してあるように、このころの青春賛歌には必ずと言って良いほど女性コーラスが入っていますが、今思えば「君だけを」もしかり、それが実に効果的でより爽やかな清潔感を醸し出しているような私はそんな気がします。
今、久しぶりに西郷輝彦大全集CD5枚組の別紙本のページめくりながら写真を眺めていますが、デビュー当時の西郷輝彦は、実に爽やかな好青年という感じがします。
投稿: 芳勝 | 2019年10月20日 (日) 23時33分
高校三年生の放課後、受験勉強しなくちゃなぁ~と思いながら高校の図書館に入るも、広げて読むのはいつも週刊誌。
西郷輝彦さんのステージのグラビア写真も見てました。
背が高いなぁ~、足が長いなぁ~、良い顔してるなぁ~、
などとため息をつきながら・・・、それに比べて俺なんか・・・
あこがれ様の「可愛い花」へのご投稿、新宿ABCの記事、懐かしく拝見しました。
西郷輝彦さん、まだまだご活躍とのこと嬉しいことです。
同時代の女性陣では、芦川いづみさん、本間千代子さん、がダントツに好きでした。
松原智恵子さん、星由里子さんも好きだったけど、叱られても怖くなさそうなのはやはり芦川いづみさんと本間千代子さんですね。夜遅く遊んで帰ってきてもこんなお姉ちゃんが家で待っていてくれると思うとそりゃ嬉しいですよね。
投稿: yoko | 2019年10月21日 (月) 07時43分
軽快で好きな歌ですが、
教会と♪暗く貧しいすぎた日も は、何か意味があるのかな?
“デビュー曲の「君だけを」北原先生の前で初めて歌ったとき、
先生が驚きの表情を見せた。「どうしちゃったんだオマエ!その歌い方はー」
猛特訓を受けて西郷節の誕生。” (「生き方下手」より)
YouTubeで私のことを唄っているような、青春時代を思わせる新曲が流れていて、
最近の歌にしては・・と朝から晩まで毎日々聴いていました。
8年前に、舟木、西郷、三田トリオのコンサートへ行った時に、
その歌が入ったアルバムを買うと「チャペルに続く白い道」も入っていました。
ついでにCD☆ボックス5枚組も買いました。
弟は西郷輝彦さんの歌は2回程聴くとすぐ覚えていました。
私が買ったクラウンレコードのカレンダー、西郷さん1人の大きな顏写真、
一緒に写真を撮ってと言うので並べてパチリ。
投稿: なち | 2019年10月21日 (月) 11時56分
西郷輝彦の持ち歌がupされて安堵しています。有り難うございました。『君だけを』でデビュー、水島哲・北原じゅんコンビによってリリース曲が矢継ぎ早にヒットして、一気にスターダムへのし上がりましたね。
当時私は中三でしたが、地元鹿児島のラジオ局の『城山スズメ』という番組では、応援の意味もあっていつも西郷輝彦の歌声が流れていました。 役者への転身もあって、歌の世界から永く離れたせいでしょうか、現在御三家の中では歌唱力の衰えが顕著なのが、私としては残念に思えてなりません。 まだまだ頑張って欲しいですね。
演歌歌手 原田悠里のヒット曲に『津軽の花』というのがあります。
唄い出しの♪真冬(ふゆ)の寒さに 耐えてこそ♪というところが、『チャペルに続く白い道』の♪ネムの並木の この道は♪とメロディがほぼ同じなんですね。『津軽の花』を作曲した岡千秋もきっと『チャペルに続く白い道』を聴いて思春期を過ごしたに違いありません。
投稿: かせい | 2019年10月21日 (月) 18時10分
あの頃、御三家は橋幸夫、西郷輝彦、舟木一夫でした。それに準ずるのが三田明だったと思います。その後数十年経ちましたが、ダントツのスターと思われた橋幸夫より、俳優となり成功した西郷輝彦より、歌手としてゼニが高くとれる歌手は舟木一夫です。橋幸夫は他の5人のオールド歌手と一緒、つまり6人でワンステージ5800円です。西郷輝彦は単独コンサートは無理のようです。それに比べると舟木一夫はワンステージ8000円で満員です。
歌手としての栄枯盛衰だけをみると、舟木一夫はいつまでも若くトップです。それに対して西郷輝彦は、歌手としての寿命は他の二人より長くなかったけれど、モテ男ナンバーワンだったようです。バンドボーイの頃から背も高くカッコよく女性にモテモテで、「徹子の部屋」で彼は、後続の何人かの女がその時の彼女との別れを待っていたと豪語していました。僕も一度でもいいからそんな経験をしてみたいと思いました。酒を飲みながら書いていますので、とても下品になったことをお許しください。
投稿: 吟二 | 2019年10月25日 (金) 20時50分
何となく「チャペルの鐘」に歌詞と言うかコンセプトが似ているようで何となく違う。こんな時代もあったのかと
振り返り「若い二人」を口づさんでいる自分がいます。
投稿: 海道 | 2019年10月28日 (月) 14時07分
先日亡くなった友人であり、元同僚の有村耕作先生が独身寮で突然歌ったのがこの歌でした。私は福岡、彼は鹿児島でしたが、同じ青春時代を過ごしたのだと嬉しくなりました。
ところで、西郷輝彦さんは一時「アップダウンクイズ」の司会をしていました。その時私は出演して解答者になりました。「西郷さんは鹿児島のどこですか」と聞いたら、「僕は下福元です」との答えでした。最初に彼が鹿児島から出た私に「おやっとさあ」と鹿児島弁の挨拶をされ、うまく返せなかったのを思い出します。だって鹿児島から出ていても私は福岡育ちでしたから。
投稿: 江尻陽一 | 2019年11月10日 (日) 00時03分
「チャペルに続く白い道」二年ほど前に、幼い頃から大好きだったこの唄がここにアップされた時、私は以前からずっと気になっていたこの唄の詩の意味について、真剣にネット検索をしたことがありました!
そんな中で見つけたのが「遊星王子の青春賛歌つれずれ」というコラムの記事でした。
>『・・この二人は、チャペルの「鐘の音」に励まされつつ堪えてきた「暗く貧しいすぎた日」の記憶を共有する二人です。どういう関係でしょう。大胆かもしれませんが「同じ孤児院育ちの二人」だったのではないか、と私は想像します。・・』
(戦災孤児を想像)したという、コラム主催者のこの記事を読んだ時に、私はその内容に強い共感を得るともに、この唄の歌詞の意味がより理解できて、そしてすんなりと腑に落ちるものがありました。
西郷輝彦のこの曲がリリースされたのは昭和39年、私の微かな記憶の中に於いても、このころには戦災孤児を描いた映画作品やドラマ番組などが、確かに多かったようなそんな気がします。
「チャペルに続く白い道」ここでメロディを聴きながら、懐かしいこの唄の歌詞をじっと見ていると、私の脳裏には、もしかしたら作詞家水島哲氏は、当時はまだ多かった戦災孤児になられた方たちへの、ご自身の深い思いを込めた応援歌としてこの詩を執筆されたのではないのか、当時の時代背景も含めて自分なりに考えてみた時、私には何故かそのように思えてくるのです。
投稿: 芳勝 | 2021年12月25日 (土) 13時38分