あこがれの郵便馬車
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作詞:丘灯至夫、作曲:古関裕而、唄:岡本敦郎
1 南の丘を はるばると 2 レモンの花の 咲く道を 3 峠を越えて はるばると |
《蛇足》 昭和26年(1951)12月、日本コロムビアから発売。すぐに大ヒットしました。
明朗で楽しい歌詞や曲調からラジオ歌謡と思われていますが、一般歌謡です。
この歌で使われた「晴れ晴れとした快活さをストレートに打ち出す」という手法は、同じトリオによる 『高原列車は行く』で遺憾なく発揮され、岡本敦郎の最大のヒット曲となりました。
日本における郵政事業は明治4年(1871)に東京・京都・大阪で始まりました。郵便事業が各地に拡がり、取扱量が増えたため、郵便馬車が使われるようになりました。
郵政博物館所蔵の『郵便馬車賃銭記』に、郵便馬車の挿絵が載っています。これを見ると、郵便馬車は乗合馬車も兼ねていたようです。
この絵で、もう1つ興味深いのは、郵便馬車の前を1人の男が走っている点です。日本では長い間、走る馬車という概念がありませんでした。そこで、都会地では人身事故を防ぐために、人びとが慣れるまでの間、郵便馬車を先導する男を走らせたようです。
郵便馬車は、東京では大正の末あたりから使われなくなりましたが、地方ではも少しあとまで使われたようです。その後はトラックが使われるようになりました。
『あこがれの郵便馬車』のころには、もちろん使われていません。でも、嬉しい便りを待ち焦がれる気持ちは、郵便馬車のほうが強く感じられますね。
(二木紘三)
コメント
今まで軽快で楽しい歌と思っていたのですが、昭和26年に郵便馬車の歌?
大正生まれの両親は郵便馬車を知っていたのかな?
曲名検索で「古関裕而・・のページを読んでいましたがリンクは連絡が必要なので、
「全国町村会」のアドレスを入れておきます。
https://www.zck.or.jp/site/column-article/4502.html
投稿: なち | 2019年11月29日 (金) 21時41分
この曲、待望しておりました。私、昭和18年の生まれですが、昭和30年前後の歌謡曲(三橋美智也や美空ひばりの全盛期にあって、なおかつ戦後歌謡と呼ばれる青春復活の息吹き一杯の明るいメロディの名曲がひしめいてましたね)、そんな歌謡曲達に、私、中学生早々にして生意気にも若干通じておりました。満州から引き揚げて来た一家8人(裕福→一転極貧に対してもへコタレない両親・兄弟6人)の音楽好きの影響だったかと思います(そう言えばよくNHKラジオ・夜のひととき、サトーハチローの「歌は結ぶ」を兄と一緒によく聴き入っておりましたっけ)。そんななかで、この曲、夢を乗せた希望の便りが遥か峠からこちらにやって来る郵便馬車の光景を岡本敦郎さんが例によって清純・朗(ほが)らに奏でて下さって、実にお気に入りでした。数年後に日本でもヒットしたビリーヴォーン「峠の幌馬車」の軽快さは本曲の・・かな?とさえ断じてました。それほどのファンでして昔も今もカラオケで、「ある雨の午後(ディックミネ)」「浜辺の歌(唱歌)」「喫茶店の片隅で(松島詩子)」「新雪(灰田勝彦)」「港は別れていくところ(美空ひばり)」と共に愛唱に欠かせません。二木先生、本曲のご着目ご登用!有難う御座いました。
投稿: 小成 | 2019年11月30日 (土) 18時47分
小学生の頃、ラジオでよく聞いていた気がします。自分でも歌ったかどうか記憶にないのですが、とても懐かしく思いました。当時の父母は歌謡曲を好んで聞いていたか定かではありませんが、耳にするラジオから聞こえてくる歌の類いは明るい歌が多かった気がします。「花の街」や「あこがれの郵便馬車」の持つ明るい雰囲気が戦後の日本人の気持ちを明るくしたのでしょうね。
下記のアドレスは岡本敦郎の歌と共に昭和26年から28年の出来事をほんの少し見せてくれています。『笛吹童子』のポスターも出て来きます。「ヒャラーリ ヒャラリコ ヒャラーリ ヒャラリコ どこで吹くのか不思議な笛よ・・・」思わず歌ってしまいました。
https://www.uta-net.com/movie/43561/
投稿: konoha | 2019年11月30日 (土) 21時35分
皆様
昨12月4日、福島県二本松市(有機農家への縁農)のローカル列車での帰途、郡山駅から乗った列車の乗継の待合せ時間(磐越東線、小野新町駅。いわき駅方面への次の列車は2時間後)を利用して、「丘灯至夫記念館」へ立ち寄って来ました。この歌の作詞家であり、昭和38年、舟木一夫さんの「高校三年生」の作詞家の生地でもあります。作曲の古関裕而さんは、福島市のご出身で、福島県コンビの歌です。
記念館の玄関先に「高校三年生」(作曲は、遠藤実さん)の歌碑があり、ボタンを押すと、メロディーが流れました。
「あこがれの郵便馬車」の話題とは、少し外れましたが、ご容赦下さい。
投稿: 竹永尚義 | 2019年12月 5日 (木) 18時18分
ほら、ほら、ほら、郵便馬車がやってきた。季節は夏、銀色に波打つ麦畑の中を、茄子、スイカ、トウモロコシ畑の中を、石ころ小道をやってきた。麦わら帽子を被り袖なしシャツの男の子たちは皆真っ黒に日焼けして元気いっぱいだ。
郵便馬車を見たことはありませんがそんな情景が目に浮かびます。懐かしく楽しい歌ですね。
投稿: yoko | 2019年12月 5日 (木) 20時02分
ラジオから流れるこの歌は懐かしいです。特に三番の
「3 峠を越えて はるばると
郵便馬車の みえる頃・・・」
の歌詞の郵便馬車は郵便船に置き換えて鼻歌していました。昭和26年から27年は小学校の高学年で、夏休みは農耕に使役する黒牛3頭の世話を終日していました。段々畑の山道での道草食わせ(ひっきゃぁ:引き飼い)です。山道からは玄界灘に面した入り江が眼下にみえます。11時にになるときまって郵便船が視界の左手に姿をあらわし、ほどなく岬に続く小高い山にかくれます。しばらくすると右手の瀬戸に南にむかって進む姿をみせます。この光景がわたしにとっての畑中での時計でした。木陰に座り込んで反芻に余念のない牛たちを立ち上がらせて家路に帰る時刻です。午後は晴れて海辺で遊ぶ自由の時です。沖合いに帰りの郵便船が見えるころは午後2時です。家の手伝いが待っている時間です。この郵便船は壱岐と西唐津を結ぶ連絡船でした。
投稿: 亜浪沙 | 2019年12月10日 (火) 13時24分
天安門事件の数年前に中国の河北医科大へ行ったことがあります。夜、丁度そこの職員の学芸会が催されていた(日本の演芸会と同じ雰囲気) 。合奏でこの曲が流れてきてびっくりでした。『これ、日本の歌です』と言っても信じてもらえなかった記憶があります。
私も”蘇州夜曲”を答礼として歌ったのですが、後で通訳に『あの選曲はまずかったですね』(=当時は中国侵略の禁止曲)と指摘されました。ほんと時代の流れというものです(当時、そこの副院長の月給が8000円程度でした)。
DAMの電モクに両曲ともあるので今でも歌います。そして、幼時に返ります。
投稿: ザジ | 2020年3月25日 (水) 11時34分