大原の里
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作詞:タケ司馬緒、作曲:山本 勝、唄:うめまつり
1 恋をなくした 娘は誰も 2 魚山(ぎょざん)の空を 夕陽が染めて 寂光(じゃっこう)へつづく 小さな路を |
《蛇足》 フォーク・ブーム晩期の昭和50年(1975)5月、ビクターから発売されました。
昭和41年(1966)リリースの『女ひとり』の後裔といった歌詞です。こちらの女性のほうが、年若な感じですが。失恋の1年後、以前恋人と歩いた大原にひとりで来ているといった状況ですね。
失恋に限らず、愛別した人との思い出の場所を訪ねことは、何よりの癒しになるようです。まして、大原のような清澄な山里ならば。
京都に詳しい人が多いので、あまり書くこともありませんが、大原は、勝林院・来迎院・宝泉院・実光院・三千院・寂光院など、天台宗系の寺院が多く存在する盆地です。
高野川の北西に位置する寂光院は、小規模ながら、三千院と並ぶ人気スポット。建礼門院徳子が、平家滅亡後隠棲し、安徳天皇と一門の菩提を弔ったことで有名です。
残念なことに、平成12年(2000)5月9日に放火で全焼し、本尊の地蔵菩薩立像はじめ貴重な文物が焼損してしまいました。現在の本堂は、平成17年(2005)6月に再建されたものです。
なお、「うめまつり」は、エンディングの寂光を「じゃこう」と歌っており、楽譜もそのようになっています。「じゃこう」という呼び方があるのかもしれませんが、通常は「じゃっこう」ですので、そう聞こえるように調整しました(音符は元のままで、gatetimeとdev値を変えただけ)。
2番の頭に出てくる「魚山」は声明(しょうみょう)用語。声明は、仏教の経文を韻律をつけて朗唱する、いわば聖歌で、インドから中国を経て日本に伝わりました。
中国の古代声明の伝説的な中心地が、山東省東阿県の魚山であったことから、天台系大原流声明の中心地・大原が、日本の魚山と呼ばれるようになったとのことです。
同じく2番の呂川は、三千院の南側を流れる川で、北側を流れる律川と国道367号線の近くで合して、高野川に流れ込みます。呂川・律川は「りょせん」「りつせん」が本来の名称だそうですが、地元では「ろがわorろかわ」「りつがわorりつかわ」と呼んでいるようです。
この呂川・律川も声明と関係があります。声明は、韻律の違いによって呂曲(りょきょく)・律曲・中曲に分かれますが、呂川・律川は、呂曲・律曲にちなんでつけられた名前だそうです。
ついでながら、「酔っ払って呂律(ろれつ)が回らない」などという際の呂律も、呂曲・律曲から来たもの。「りょりつ」が音韻変化により「ろれつ」になったといいます。
コロナが収まったら、また大原に行きたいと思いますが、あまり長引いたら、足が弱って行けなくなりそう。
(二木紘三)
コメント
昭和50年のこの曲、いやあ、全く知りませんでした。同じ年なら「昭和枯れすすき」「シクラメンのかほり」「冬の駅」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」などがありますから、ラジオなどで聞いていたはずなんですが・・
この曲、歌詞を読むと1番に「恋をなくした娘は必ず一度たずねるという・・大原の里」とありますが、「必ずたずねる」って言いすぎだなと笑っちゃいました。人の思いはそれぞれでしょうに。
2番は魚山、呂川とやたら難しい地名が出てきて、大原にそんな所あったかなと意味不明になりました。が<蛇足>で中国の古代声明(しょうみょう)についての解説があり、なるほどと納得しました。
二木先生の学術的説明が好きで、10年近くこのコーナーを見ていますが、普通の人が疑問に思うことを、実にわかり易く説明してくださるのがありがたい。
今回、二木先生が「コロナ禍であまり時間が長引くと、足が弱って大原に行けなくなりそう」とおっしやゃっていますが、いやあ、ぜひ行ってください。
今日2月12日は旧暦の1月1日であり、ここべトナムでは、新年おめでとうと言い合う日です。私もこの地に10年間住んで、今年72歳になりますが、新しい気持ちで人生を歩くつもりです。二木先生のこのコーナーは本当に私の元気の素です。
投稿: 越村 南 | 2021年2月12日 (金) 15時05分
この曲は存じませんでした。昭和50年と言えば、京都の大学の2回生で、大原へも行っているはずですが、安アパートにテレビは無く、FM放送も聴けなかったので知らなかったのかも知れません。『京都慕情』のコメントにも書きましたが、この頃は京都ブームで、京都をテーマにした歌が何曲か流行りました。そのブームに乗って京都の大学に入学した学生が居たと言われる程です。大原は京都市街の北東に位置する山里で、秋の紅葉が美しい地です。冬は市内よりも雪が多く、雪景色がとても美しいと言われます
投稿: Yoshi | 2021年2月15日 (月) 16時43分
大阪万博の翌年の頃、学会で一週間ほど京都に滞在しました。宿は三千院の入口近くのお寺にとりました。この唄、「大原の里」は初耳です。当時のことがよみがえります。早朝、川向うの寂光院に参詣しました。山門から中に入ることがかなわず、これが有名なお寺さん、と、さらっとみて寺をあとにしました。三千院の塔頭、実光院で薄茶をいただき、手向けの茶碗に一目ぼれ、お内儀さまを説得して譲り受けできました。いまも大事に使っています。「あなたが一生使いつづけてもこの茶碗の景色、手触りにはなりますまい」とおっしやたお内儀さまの顔がいまも鮮明です。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2021年2月19日 (金) 15時35分
こう言う歌は若い頃の自分を歌われているようで身に沁み
ます。最近タイトルに昭和と付いた演歌が出ていますが、
歌詞が昭和ぽくない。彼女との連絡は伝言板で良い。
投稿: 海道 | 2021年3月12日 (金) 15時02分
この歌をこちらで初めて知りました
蛇足という名の素晴らしい解説でいろいろなことを知りました
ありがとうございます
~~恋をなくした娘は誰も必ず一度は訪ねるという~~
なんだか胸にせまるものがあり、しみじみと聴いています
私は片思いの切なさに雪の日に会社を休んで大原を訪ねたことが
あります・・若かった頃の感傷にしか過ぎなかったのですが
大原の里、寂光院というと平家滅亡と建礼門院徳子が、それ以上に
建礼門院に仕えた右京大夫の歌集を思い浮かべます
大原富枝の「建礼門院右京大夫」を思い出します
右京大夫は徳子の甥であり平家の公達で年下の平資盛との恋、そして
年上の藤原隆信の誘惑にも心惹かれ千々に乱れる想いを歌集(家集)にして
それが今の世に残っているのですね
右京大夫は資盛との永遠の別れのあと、その菩提を弔う日々を送りますが
「もうひとつの平家物語」ともいわれるその歌集はあの不幸な大戦に
出征する若者と見送る者との思いにも重なって当時よく読まれたそうです
青年たちは自らを資盛になぞらえて少女たちは右京大夫の運命の中に自分を
重ねていたのでしょう
寂光へ続く小さな路を今は一人で歩いているこの歌のヒロインのように
私もいつか必ず歩きたいと思います
「大原の里」という清らかな演奏を聴きながら歌詞も味わいながら
寂光院にまつわる物語を思い起こしています
りんご様 よければ掲示板をご覧ください
投稿: 夢見る薔薇 | 2021年5月 8日 (土) 22時03分
女性は恋に破れても行くところがあっていいですね。男性だって年上の女性との破局の場合などはこんな心境になるのでしょうね。「必ず一度 たずねるという」このフレーズは大原の里を印象づけるには効いていると思います。「臆病すぎた自分を責めて」ここが最高今更後悔しても仕方ないけど男女どちらにもこう言う事ってありましたよね。「あれから一年 経ちました」忘れられないのか、忘れようとしているか。頑張れ娘さん・・・・・貴方には次の新しい出会いがきっとあります。
投稿: 海道 | 2021年8月 9日 (月) 20時10分
やっぱり「女ひとり」より、こっち 可愛い。
投稿: 海道 | 2022年7月16日 (土) 15時01分
〈愛別した人との思い出の場所を訪ねることは、何よりの癒しになるようです。〉……
私達が最後に大原を訪ねたのは、妻が亡くなる4年ほど前の2016年の秋半ばの頃だったと思います。
三千院の訪れる人達の姿も疎らな平日の昼下がり、山門の石段を下りたところのお店で妻の好きな湯葉丼を食べ、その後、車で程近い寂光院へ向かいました。
途中、秋桜や彼岸花・竜胆・なでしこ等の咲き乱れる畑田の道をゆっくりと車を走らせながら、“いいね~ 癒されるよね~“と、言いながら細く曲がりくねった田舎道を抜けて寂光院へ・・
焼失前の古く侘しい姿を知っているだけに、少し抵抗感を覚えながら、それでも門前の古い漬物屋さんで、しば漬けや山椒漬け等を買い求めて、山道をくだりました。
途中、ベニシアさん宅の前を通り掛かり、妻の好きなハーブを少し見せて頂き、少しの間立ち話をしてから日暮れ近い大原の里を後にしました。
京都好きな私達ですが、どういうわけか大原は心に残る思い出の里で、あれからどうしても足が向きません。
妻の親友夫妻との粉雪舞い散る初冬の三千院でのこと…
傾きかけた陽を背にして咲き乱れる季節の花々や山々との別れのセンチメンタルな感情が、今もつい昨日のことのように思い出されます。
私達二人の思い出のアルバムを片付ける頃には、一人でしみじみと大原を旅することが、あるいは出来るかもしれませんね。
投稿: あこがれ | 2022年7月18日 (月) 17時18分
今年の大河ドラマで、またも雑踏の京都になりますね。随分まえに録画しておいた「時雨の記」を何度となく鑑賞して老いの境地を癒しています。映画の場面は鎌倉にはじまり京都、吉野を背景に華道指南の清楚な未亡人と大手工務店の重役との寄寓の愛を描いた名作です。男性は過去のすべてを流し棄て、吉野の里に庵を編み、未亡人との暮らしを目指しています。常寂光寺に残る時雨亭あとが二人を結びつけるきめてのようです。が、実現かなわず男性は急死します。愛する人を忍び吉野の桜の山里を、白一色の着物をまとい山道を登っていく姿が映画のラストシーンです。連れ合いを亡くしたこの身には気になって仕方のないシーンです。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2024年1月26日 (金) 14時26分
高校生の時、ラジオから流れるうめまつりの唄。「北山杉」と「大原の里」は京都への憧れを掻き立てる曲でした。
50年たった今も、何かの折りに口ずさむ心の唄です。
投稿: yasu | 2024年11月 6日 (水) 11時05分