信濃の国
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:浅井 洌、作曲:北村季晴
1 信濃の国は十州(じっしゅう)に 2 四方(よも)に聳ゆる山々は 3 木曽の谷には真木(まき)茂り 4 尋ねまほしき園原(そのはら)や 5 旭(あさひ)将軍義仲(よしなか)も 6 吾妻(あづま)はやとし日本武(やまとたけ) |
《蛇足》明治33年(1900年)、長野県師範学校(現信州大学教育学部)教諭の浅井洌(れつ、きよしとも)が作詞した詞に、同僚の北村季晴が曲をつけて成立しました。
長野県師範学校附属小学校の遊戯用として作られたものですが、師範学校の卒業生たちが赴任先の学校で教えたことにより、県全域に広まり、やがて県民の愛唱歌になりました。昭和43年(1968)5月20日の県告示で、正式に長野県歌となりました。
どういう根拠によるのかわかりませんが、ウィキペディアでは、秋田県民歌、山形県の『最上川』と並ぶ「三大県民歌」と称された、とされています。秋田県民歌も『最上川』も、県の行事などでは歌われるでしょうが、県民や県出身者のそれらの歌に寄せる思いは、『信濃の国』に匹敵するほど深いのだろうかと疑問に思います。
平成27年(2015)に長野県庁が実施したアンケートでは、県民の約8割が『信濃の国』を歌えると回答しています。平成の調査なのでこの数字ですが、昭和前半の調査なら9割以上の数字になったはずです。
昭和20年代には、小中学校の入学式や卒業式、市町村の成人式や、役場・公民館などの落成式などで、必ずといっていいほど『信濃の国』が歌われました。
若いうちに県外に出た人ほど『信濃の国』への思い入れが深いようで、県人会や学校の同窓会・同期会、県人の趣味の会などでもよく歌われます。
近年は、この県歌を教えない小学校が多くなっているようですから、知らない人が次第に増えていきそうです。
こんな話があります。
明治維新後、廃藩置県に伴って行政区分の改廃が盛んに行われました。明治4年(1871)には、旧信濃国は北東側の長野県と南西側の筑摩県(ちくまけん)に分かれました。ただし、筑摩県には、旧飛騨国と旧美濃国の中津川地区も含まれていました。つまり、筑摩県は長野県に比べて大県だったわけです。
ところが、明治9年(1876)には、筑摩県は廃止され、旧飛騨国と中津川地区は岐阜県に、旧信濃国内の筑摩郡・諏訪郡・伊那郡・安曇郡は長野県にそれぞれ編入されました。これによって、旧信濃国がほぼそのまま長野県になりました。
形の上ではスッキリしましたが、これが旧筑摩県側に不満を残す原因となりました。長野県の傘下に入ったようで気分がよくないというわけです。以後幾度となく、旧筑摩県の県都であった松本を中心に分県運動が起こります。
昭和23年(1948)3月の県議会でも、分県が提議され、揉めに揉めました。旧長野県、すなわち北信と東信の議員は全員反対、旧筑摩県、すなわち中信と南信の議員は全員が賛成。定数は60で、賛否は30対30の同数。
いざ投票となったところに、反対派議員の1人から病気のため欠席という届けが出されました。1票差で分県決定かとなったそのとき、反対派の1人が突然、「し・な・のーのくには~」と歌いだしたのです。反対派の議員たちがそれに和し、つられて賛成派も歌い出して、議場は合唱で満たされました。その結果、投票は流れ、分県問題は有耶無耶になったそうです。
『信濃の国』が信州人にとってどんな意味をもつかを如実に物語るエピソードです。
とはいうものの、6番まで歌える人はめったにいないと思います。行事や会合で歌うのは、たいていは2番まで。3番以降は言葉がむずかしく、現代人にはあまり馴染みのない固有名詞が出てくるせいかもしれません。
歌詞は、1番と2番が地理、3番が産業・産物、4番が名所・歌枕、5番が偉人、6番が結びという構成。曲は、全体として意気軒高の行進曲風ですが、4番だけスローでメロディックなトーンになっています。
以下、いくつかの言葉に注をつけておきましょう。
■十州
左回りに武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県の一部)、上野(群馬県)、越後(新潟県)、越中(富山県)、飛騨(岐阜県)、美濃(岐阜県)、三河(愛知県)、遠江(静岡県)、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)。
■物多に
「物産が豊か」の意。今でこそ長野県は物産も観光資源も豊かになり、他県からの移住希望者も多くなっているが、戦前はまぎれもなく貧乏県の1つだった。ちなみに、満蒙開拓移民は、実数でも人口比でも長野県が1位。ほんとうに豊かだったら、わざわざ満蒙には行かなかったはず。
県民に誇りをもたせ、奮い立たせようと、あえて「物多に万ず足らわぬ事ぞなき」と謳ったのだろう。
■犀川
梓川と奈良井川が松本市島内で合流する地点から千曲川との合流点までの呼び名。言い換えれば、犀川の上流部分が梓川。河川法では、梓川の水源から千曲川との合流点までが犀川。
■千曲川
信濃川の長野県内部分の呼び名。河川法では、千曲川の水源から信濃川の河口までが信濃川。
■国の鎮め、国の固め
「信濃国を護り、安定させている」の意。
■真木
りっぱな木の意。建築材として優れた杉や檜。幕藩時代には、木曾は尾張藩の領地で、杉や檜を無断で、あるいはうっかり伐ると死罪になることもあった。
■細きよすがも軽からぬ
「生糸は細くて軽いものだが、生活を支えてくれる重要なものである」の意。
■園原
古代から中世にかけて、都から陸奥へ向かう東山道では、美濃と信濃の国境にある神坂峠(みさかとうげ)が最大の難所だった。命がけで峠越えした旅人たちがホッと安堵したところにあった山里が園原で、現在の長野県下伊那郡阿智村智里。旅人たちのそうした体験が都に伝えられて、柿本人麻呂、大伴家持、紫式部など多くの歌人の歌材となった。
■寝覚の床
長野県木曽郡上松町にある景勝地。木曽川の流れで花崗岩が削られ、大小の箱が積み重なったような奇勝が南北1キロに渡って続いている。
ここにも浦島伝説があり、地元・臨川寺の『寝覚浦嶋寺略縁起』には、次のように記されている。
浦島太郎は、竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書をもらって帰り、日本諸国を経巡ったのち、木曽川沿いの美しい里にたどり着いた。ここで釣りを楽しんだり、霊薬を売ったりして暮らしていたが、あるとき里人に竜宮の話をするうち玉手箱を開けてしまい、300歳の老人と化してしまった。その瞬間、太郎は長い夢からから覚めたような気がしたという。寝覚の床という呼び名は、これに由来するとされている。
■木曾の桟
中山道(東山道の近世以降の呼び名)のうち、福島宿と上松宿の間の木曾河岸には、通行困難な断崖がいくつもあった。そいう場所では、断崖に穴をうがって桟(さん)すなわち丸太を差し込み、その上に板を敷いて渡れるようにした。これが木曾の桟道で、木曾の桟(かけはし)と書かれることもあり、歌枕として知られた。
■久米路橋
犀川中流の狭窄部に架けられた橋。かつては犀川を渡る唯一の橋だった。地形に合わせた複雑な構造だったため、中世以降何度も落ち、架け替えられた。『拾遺和歌集』に、「埋木(うもれぎ)は中むしばむといふめれば久米路の橋は心して行け」という和歌が、詠み人知らずで載っている。
あるときの架け替えの際に起こった無惨な人柱伝説が残っている。
■筑摩の湯
『日本書紀』に記載がある束間温湯(つかまのゆ)だろうと推定されている。浅間温泉か美ヶ原温泉のいずれかとされているが、浅間には天武天皇に仕えていた有力な氏族の古墳がいくつも見つかっていることから、浅間温泉説が有力。
■姨捨山
千曲市と東筑摩郡筑北村の境にある冠着山(かむりきやま)、別称更級山(さらしなやま)のことで、この地に残る姨捨伝説から姨捨山と呼ばれる。
姨捨山の善光寺平方向の斜面には棚田があり、平安時代から「田毎(たごと)の月」として歌枕になっている。能因(のういん)法師、藤原定家、松尾芭蕉など、多くの歌人、俳人が田毎の月や姥捨山について詠っている。
■風雅士
風流な人の意で、歌人、俳人、詩人、作家など。
■旭将軍義仲
木曾源氏の頭領・源義仲。倶利伽羅峠(くりからとうげ)の大勝など破竹の勢いで入京したことから、旭将軍(朝日将軍とも)と称された。粟津の戦いで従兄弟の源義経・範頼に敗れて戦死。『平家物語』や『源平盛衰記』では、非常に印象の強いキャラクターとして描かれている。
■仁科五郎信盛
武田信玄の五男で武田勝頼の異母弟。信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏の名跡を継いだ。諱(いみな)は盛信とする史料もある。
武田氏の滅亡時、一族・重臣の逃亡や寝返りが続くなか、伊那の高遠城に籠もり、兵3000(500とも)で織田信忠軍5万を相手に奮闘したあと自刃。首級は京に運ばれてさらされたが、胴体は信盛を敬慕する領民によって手厚く葬られた。
■太宰春台
江戸時代中期の儒学者・経世家。信濃国飯田城下生まれ。伊藤仁斎や荻生徂徠に学んだのち、江戸の小石川に塾を開き、多くの門人を育てた。その研究範囲は、政治・経済・社会・教育・軍事と幅広く、数多くの著書を残している。
■佐久間象山
幕末の松代藩藩士。号の象山は、地元では「ぞうざん」というが、一般には「しょうざん」と呼ばれる。
朱子学・和算などを学んだのち、蘭学・英学・砲術・兵学などを研究し、洋学の第一人者となった。吉田松陰、勝海舟、河井継之助、橋本左内、加藤弘之、坂本龍馬、小林虎三郎などの俊秀が象山に教えを受けた。
嘉永6年6月(1853-7)、ペリー提督の黒船が来航したとき、幕府は久里浜に上陸を許し、応接所を設けて、松代藩と小倉藩に警衛を命じた。佐久間象山は軍議役として参加した。
翌年、ペリー艦隊は再び来日し、日米和親条約の締結を求めた。ペリーは2度の航海の経験から、アジア人には武力を背景とした威圧的な態度で臨むのが効果的と知り、日本に対してもそのような交渉法を採った。実際、幕府は、アメリカ側の強引な押し付けに対抗できず、アメリカ側の要求を大幅に取り入れて日米和親条約が締結された。
役割を果たして余裕ができたペリー提督は、横浜村への散策に出た。応接所には何人もの役人がいたが、ペリーは、そのなかのひとり、佐久間象山に対して会釈をして通り過ぎたという。それを目撃した勘定奉行勝手方(財政担当)の川路聖謨(としあきら)は「ペリーが頭を下げたのは貴殿だけであろう」と嘆息したという。
佐久間象山は、身長は5尺7、8寸、すなわち172〜175cmで、筋骨たくましく大柄だった。鈴木隆雄著『日本人のからだ』(朝倉書店)によると、江戸時代前期~後期の男性の身長は平均155、6センチ、女性143、4センチだったというから、日本人としてはずば抜けた長身だった。
また、象山は、色白で彫りが深く、二重まぶた、額が広く、眼光炯々として威厳があったと伝えられている。そのような容貌から、ペリーは幕府の高官と思ったのかもしれない。しかし、川路聖謨がいうように、交渉役の幕府の高官たちには会釈しなかったようなので、やはり象山の全身から放たれる精気のようなものを感じたのではなかろうか。
しかし、象山は自信家で傲慢なところがあったため、敵も多かったようだ。とくに一橋慶喜の求めに応じて公武合体論と開国論を説いたことから、尊皇攘夷派からは目の敵にされ、河上彦斎(げんさい)らにより京都で暗殺されてしまった。
のちに河上彦斎は象山の業績を知り、愕然として、以後人斬りをやめたという。
■吾妻はやとし日本武
東国征討に出た日本武尊(やまとたけるのみこと)が相模から上総への渡海の途中、突然暴風が起こり、難破しそうになった。日本武尊の妻・弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神の怒りを鎮めようと入水(じゅすい)したところ、風波は収まり、無事渡海できた。
碓氷峠(うすいとうげ)まで来たとき、日本武尊は弟橘媛を悼んで、「吾が妻よああ」と三度嘆いたという。以後、東国は「あづま」と呼ばれるようになった。
なお、『古事記』では日本武尊、弟橘媛は倭建命、弟橘比売命と表記されている。
碓氷峠は、群馬県安中市松井田町と長野県軽井沢町の境にある峠。
(二木紘三)
コメント
先生この歌は日本一の名歌だと思います。私は久米治橋の近く、犀川のほとりで生まれ今は神奈川県に住んでいます。ここには県人会があり(県人以外でも入会可)いい歌だとよく言われます。「さくま ぞうざん」 を娘に「しょうざん」と直され、うるせいと言い返す自分も爺さんに成りました。
投稿: 海道 | 2022年4月12日 (火) 13時33分
二木先生、「信濃の国」の上奏ありがとうございます。待ちに待った名歌です。他県、それも遠い九州出の私にとって45年前に信州小諸に赴任してすぐに感銘を受けたのがこのメロディと歌詞です。市内は言うまでもなく県下のいたるところにこの歌詞が掲示されているのを見るにつけ、まさしく長野県人のこころの奥底に息づいている郷土のうたですね。すっかり今では私は信州人となりました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2022年4月13日 (水) 12時50分
「信濃の国」遂に堂々の登場、忝く嬉しく有難う御座います。
力の籠もった「蛇足」も熟読玩味しました。
この歌を聴くと必ず心臓がコトコト鳴り出し、息が次第に弾んできます。「六甲おろし」やラベルの「ボレロ」でも似た状態になりますが、その所以の深さは「信濃の国」と同日には論じられません。
若くして信州を離れた人ほどこの歌への思い入れが深いと「蛇足」で仰せですが、まさにその通りです。
私は昭和19年4月、生まれ故郷の東京の台東区根岸から母の郷里の信州南小谷村に疎開しました。2歳2カ月でした。その前後の記憶は、根岸の記憶が1つ、疎開する時の夜行列車の記憶が1つあります。しかし総じて言えば、物心ついた時私の眼前にあった風景は南小谷村の世界だったので、私の故郷は南小谷村であるとしか考えられません。しかし、その私の思いに水を差すのが2つの記憶で、そんな記憶がなければよかったと今も思います。
人は時に生みの親、育ての親を持つことがあるが故郷にも「生まれ故郷」と「育ち故郷」がある、と自死した西部邁さんが言っています。
私も同感で境遇如何によって「育ての親」の方が恋しい場合があり、故郷も「育ち故郷」の方が恋しいことがあります。南小谷村は私にとってまさにそうです。
そこで過ごしたのは昭和19年4月から28年3月まで。10年足らずの短い年月でしたが人生の原風景はそこにしかありません。
その思いを満たしてくれるのが「信濃の歌」です。
私より8つ上の姉、4つ上の兄たちは物心ついてしまっていたので、村での生活は懐かしくはあるものの飽くまで「仮住まい」という意識でいたようです。同じ兄弟でも年齢によって経験の質が違っていました。
まだ言い足りないような気がしていますが、ここまでに致します。
大分前になりますが、この歌のCDがなかなか入手できず、長野県庁に問い合わせたところ紹介してくれたのが立川清登歌唱。信濃教育会、長野県音楽教育学会、長野県人会連合会推薦という御墨付きのCDでした。小さなCDですが私の大切な宝です。
投稿: ナカガワヒデオ | 2022年4月13日 (水) 18時19分
なんと立派な県歌でしょう、驚きました。明治33年(1900年)に成立したとのことで、なるほど古めかしいことばでつづられていますが、今でも多くの長野県人が知っていて大事にしている歌だと聞き、またまたびっくり。
歌詞を見ると長野県に接する多くの県(国)から始まり、大きな四つの平野、高名な山、大きな川がそれぞれ記され、湖、谷なども地図帳に書き込むようていねいにに歌われています。そして最後に長野の偉人たちもでてきて、「古来山河の秀でたる国は偉人のある習い」と結ばれています。こういうところは、作ったのがいかにも教師らしいと思います。
故郷に生まれ、故郷で死ぬ人もいますが、異郷の地で亡くなる人もいます。その中で望郷の思いの強い人、そうでもない人もいて各人各様でしょう。私などは異国の土に埋もれてもよしと思っているので、こういう歌には、なにかまばゆいものを感じてしまいます。
投稿: 越村 南 | 2022年4月18日 (月) 12時09分
信州は今、名のある桜は吹雪と散り、桜木の木陰を白く埋めています。代わって山桜が雑木林に点々と新芽に交じって純白の可憐な一重の花を見せ始めています。
藤沢周平作の「山桜」は、映画化されたのも、原本も味わい深いものですね。この時期になると薄幸は主人公、野衣(やえ)さんがいとおしいです。越村南さん信州に足を運んでめてください。「そびえる山はいや高く・・・浅間はとくに活火山・・・」と口ずさみながら浅間をながめて日々過ごしています。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2022年4月20日 (水) 13時30分
3歳から61歳まで神戸で育った私ですが、両親は鹿児島出身で、自然に九州ファンに。大学のころから九州にはよく旅行しましたが、福岡の遠賀川、長崎の島原、熊本の天草、鹿児島の枕崎あたりは見あきるということがない。
自分では信州ファンのつもりですが、関西から信州は遠いような気がしてなかなか行けませんでした。趣味の山登りで八方尾根から五竜岳、鹿島槍が岳に行きましたが、息をのむような美しい風景はいまだに忘れられません。信州は山河美しいところ、間違いありませんね。東京への出張の後1日休みを作って上田城、松本城へ行ったこともありますが、東京からの汽車の便はいいなあと思いました。
亜浪沙さま、おさそいのお言葉、ありがとうございます。山河美しいとは木の葉の緑、草花も美しいということですね。今年は信州、東北に行く計画中。しっかり木や草花の色を確かめてきます。
投稿: 越村 南 | 2022年4月20日 (水) 22時02分
二木紘三さま
信州、信濃の国、神河内、本当にいいですね。私は徳島県の南部地方の生まれです。唐木順三さまは宮田村の生まれですね。家族や友達とで、千畳敷カールや安曇野にも幾度も訪れました。
投稿: 神野弘 | 2022年4月22日 (金) 19時42分
諏訪出身の女性に「信濃の国」を知っていますか、と尋ねましたら、勿論です、この子に「信濃の国」を教えよう、と壁にかかった「信濃の国」の掛け軸を前に父親が歌い、母親が物差しで今歌っている箇所はここ、と指していったと、遠い日のことを懐かしそうに話してくれました。これは大変な歌だと知りました。今年は諏訪の御柱、善光寺のご開帳で盛り上がっているとのこと。長野県は日本の他の所とは一味違う一つの宇宙であるように感じます。
投稿: kazu | 2022年5月 9日 (月) 20時38分
現役の鹿児島県公立高校の教員時代に出張で長野東高校と上田のある高校(上田染が丘高校?)を訪問し、上田グランドホテルに泊まりました。この歌のテープを上田の楽器店で購入しました。
立川清登さんの歌でした。何度も聞いて覚えて、カラオケで歌いました。二木先生、アップしていただきありがとうございます。
投稿: 江尻陽一 | 2022年5月 9日 (月) 22時21分
私が 「信濃の国」を知ったのは 、内田康夫の「信濃の国殺人事件」を読んでからです 。
昭和23年の分県運動を阻止した、「信濃の国」の持つパワーを驚きを持って認識しました。
それ以来 長野県には 県歌として「信濃の国」があり、県民に浸透・普及していることを知りました。
早速 YouTube から ダウンロードして、長い長い曲を一生懸命練習し、自分の持ち歌にしました。
私は長野県民ではありませんが 、カラオケに妻と一緒に行く時は、必ず「信濃の国」を歌って、
長野の地理、歴史、文化等に思い馳せ、その旅情を豊かに感じることができました。
私の勝手な思い込みですが、二木先生や長野県民の皆様は、幸せで羨ましいです 。
「信濃の国」をお持ちになり、それを郷土愛と連帯感の象徴として歌えることが出来る
からです。
お蔭様で私も、 「信濃の国」を 歌うことができて 、長野県に寄せる自分の思いが、 より具体的になり、
身近になったと嬉しく感じております。
これからも愛唱歌として、歌い続けていきます。
「信濃の国」ありがとう!
投稿: まっさー | 2022年5月12日 (木) 09時34分
横浜からの帰途、信州を巡ってきました。学生時代ユースホステルクラブをやっていたのでなにかと言うと志賀高原や霧ヶ峰美ヶ原などに出かけていました。今回は東京から新幹線で佐久平下車、駅近の「佐久の草笛」というそば店でボリューム満点の天ざるを食べ、何十年ぶりかの小海線でハイブリットディーゼル電車を味わい、ひと列車遅らせて清里に滞留して昔はなかった「萌木の村」を散策して野辺山キムチをお供にゆず風味の地ビールを堪能しました。小淵沢へ出て上諏訪の温泉宿「しんゆ」で真澄の辛口で馬刺しや岩魚、川海老の唐揚げに舌鼓を打ち、ほろ酔いで諏訪湖に光線を描く夕陽を露天風呂から見る至福の時を得ました。翌日は高島城天守から遠く富士山を望んで、大糸線に乗り入れるあずさで糸魚川まで全線を踏破するつもりが先行特急の遅れで南小谷の接続が出来ず、代行輸送のタクシーで送って貰う体験をしました。車窓から見る北アルプスはまだ雪が残り、青木湖など湖面に木々が映って綺麗でした。1泊2日でしたが会う人皆さん穏やか親切で昔ながらにいい処だと痛感した次第です。先生が言われるように身近でも満州から引き上げて御代田あたりに入植した家族がいますが粘り強い立派な家族でした。蛇足の分県運動からすると、日銀の支店が松本にあるのも筑摩県が大県だったせいでしょうね。
投稿: しょうちゃん | 2022年6月 1日 (水) 22時42分
私自身のルーツは新潟ですが、家内の父親の故郷が信州松本で深志高校出身ということもあり、松本には訪れる機会があります。清潔なintelligent cityで、私の好きな街の一つです。
ところで、信州と言えば、蕎麦。私は蕎麦が大好きですが、蕎麦は他の穀物が育たない痩せた土地でも栽培出来るため、歴史的には、貧しい農民の食物でした。ミレーの『種を撒く人』は大変有名な絵画ですが、人物が描かれている場所が傾斜地であることから、蕎麦の種を撒いているとされています。
蕎麦を使った料理を披露する、定期的な国際フェスティバルがあり、そこでは日本の蕎麦が大人気だと言われます。私は、蕎麦を麺にして食べるのは日本だけかと思っていましたが、イタリアにはsaracenoというパスタがあり、小麦を加えて調整するところまで日本蕎麦と似ているそうです。私は食べたことがありませんが、saracenoとはサラセン人が伝えたことから由来するそうで、フランスでも蕎麦のことをsarrasinと呼びます。俳優の江守徹が言っていたのですが、発音が更科と良く似ています。ということは蕎麦を麺にすることははアラビアから伝わった?
まあ、偶然でしょうけど。
投稿: Yoshi | 2022年7月16日 (土) 17時27分
来年2月の秦野市県人会フェアーは「上高地の春」&「穂高よさらば」派と「小諸わが想い出」&「初恋」派と「一茶のおじさん」どれも捨てがたい。信州は歌の宝庫であることには間違いないですね。コロナ収束を願うばかりです。
投稿: 海道 | 2022年7月24日 (日) 15時21分
「うた物語」に「信濃の国」をみつけて驚きました。二木先生が安曇野ご出身と知り、もっともなことと思ったりもします。
私も、「信濃の国」を歌えます。懐かしさを感じます。20年ほど前、大阪で行われた小さな会議のあとの懇親会で、私のほかに二人の長野県出身の人がいると知り、半分酔った勢いでむりやり、カラオケで「信濃の国」を歌おうと誘ったことがありました。もちろん、歌うことはできたけれど、お二人には迷惑だったでしょうか。
多分、小学校のときは式典曲として歌ったのだと思います。もっとも高学年になったときには「諏訪の国」?に変わり、どうして「信濃の国」でないのかと不思議に思ったことがあります。「君が代」を歌った記憶がないので、式典の歌に使われたのでしょう。中学のときは、校歌もあり、学校で歌ったのか歌わなかったのか。高校には大変な校歌があり、旧制高校の寮歌、ロシア民謡、ひどい内容の替え歌を歌っても、「信濃の国」は歌ったことがありません。その後も今にいたるまで、大阪を含めてせいぜい2度か3度歌っただけです。
子供のころも、その後も2番までが関の山。4番の旋律は、「信濃の国」とつながりがあるんだろうなどと思いながらSBCのラジオで聞いたことがあるくらい。行進曲風の1番旋律より、番組間の曲にはふさわしいと考えられたのでしょうか。この旋律でうたったことはありませんし、演奏を聞いたのも1,2度だったのに、いつ聞いたかまではっきり覚えています。その点、1番の旋律は、懐かしい記憶とは少しもつながっていません。あくまでも式典曲だったのですね。
投稿: 山浦っこじいさん | 2022年8月22日 (月) 17時31分
1980年頃、長野県出身の海軍兵学校卒業、入学者の回顧録が作られました。
タイトルが 『海こそなけれ』 。
海なし県の海軍軍人という意味でしょうが、「信濃の国」の歌詞が意識されたのだと思います。県民歌になったから、思い出したように選ばれたのか、それとも、戦前から「信濃の国」が広く歌われていたのかはわかりませんが。
長野県が、「信濃の国」を県歌として告示したときは、まだ10代だったので、歌詞も旋律も古くさいとしか思えませんでした。
そのころあるいは少し前、信越放送のテレビで流れていた、ペギー・葉山の歌う「まほろばの国」の方が、(ラジオ歌謡の曲のように)親しみがありました。この曲は信越放送が勝手に作った曲ということで、ほとんど普及はしませんでした。カラオケにないのはもちろん、CDさえありません。
旋律は懐かしさを感じさせるものでした。つい数年前になって、初めて岩谷時子の作詞であること、そして歌詞全体を知りましたが、都会人が信州を思う歌、名所をいくつも取り上げる、という感じで少しがっかり。1カ所だけ見つけたサイトからのダウンロードもせずじまいです。
いずれにせよ、県歌、県民歌、ついでに市の歌、校歌など、誰かが決める歌は、行進曲風あるいは荘重な歌でなければならないのでしょうか。どんなに親しまれても「渡瀬橋」が佐野市の、「女一人」が京都市の市歌とは、いかないでしょう。
投稿: 山浦っこじいさん | 2022年8月23日 (火) 00時59分
私が「二木紘三のうた物語」を知ったのは2019年。サイトの冒頭に「2000年2月からスタート」とあります。スタートから22年目にして「信濃の国」が紹介され欣快に堪えません。
10歳にして信州・南小谷村を離れてより信州人であることの喜びが、何ゆえか訳もなく年々歳々強まり今日に至っています。
以下は『人国記・新人国記』(岩波文庫)の信濃国の条です。
「信濃の国の風俗は、武士の風俗天下一なり。尤も百姓・町人の風儀もその律儀なること、伊賀・伊勢・志摩の風俗に五畿内を添えたるよりは猶上なり。所以は義理強くして、臆することなく、百人に九十人は律儀なり。たまたま臆病なる者ありといえども、それも他国の形の如くの人と云う程には有らずして、適ゝの物語にも、弱みの比興の事はこれ無し。若し比興の事を述べ亦なすときんば、人皆これを悪みて交わらざる故に、柔弱の人も、後には義理を知りて国風となるなり。都て智恵も余国よりは勝れたり。然れども偏鄙の国なるが故に、かたくへなき事も多しといえども、善十にして悪一、二の風俗なり」
500年程昔の文章によって、お国自慢をしても始まりませんが悪い気はしません。今も、折々、県民性というものがそこはかとなく話題になることもありますが、既に県民性というものは存在しないのか、それともコアの部分には「人国記」風のものがあるのか。
いずれにせよ、私の望郷の思いの中には人国記風の自矜、自恃の思いがあることは否定できません。
そんなわけで「信濃の国」は私の心を支える、満たす、そんな歌なのです。
来年も信州に関わる歌を数多くご紹介下さることを願っております。
投稿: ナカガワヒデオ | 2022年12月19日 (月) 13時50分
松本公民館で和楽のコンサートがありました。和太鼓、民謡、地唄、舞踊と盛りだくさんでした。帰りは大糸線で糸魚川に出て新幹線で佐久平へと辿るルートを選びました。途中、南小谷でたっぷりの接続時間がもてて駅前の居酒屋で腹ごしらえしました。店のご主人が九州・宮崎のご出身、おかみさんが関西の出とあって田舎に帰った心地で酒肴をいただき和やかな超ゆったりの旅となりました。信濃の国は小谷村が北のはずれで、その先姫川を下ると越後頸城の里に入ります。念願の地を訪れることができました。
投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2023年8月30日 (水) 15時51分
今日図書館へ行った。
書棚を見ているうちに、ふと島崎藤村が目にとまり、取り出してざっと目を通した。
藤村の文章は優しくていいですね。 昔の、例えば森鴎外とか、二葉亭四迷とかの文章は古文みたいでもう読んではいられないけれど、藤村の文章は現代人にでもさらさら読み続けていかれます。 綺麗な文章、詩文です。 その詩文を見ていると、やさしい言葉からどうしてこんなに美しい詩ができるのだろうかと思ってしまう。
その藤村の詩で最初に覚えたのは、歌になっている「朝」でした。 昭和19年、国民学校一年の時、中学校に進学した兄から教わったのでした。
朝はふたたびここにあり、、、
(言葉遣い、むづかしい言葉、兄にきちんと
説明して貰った記憶があります)
メロディーが勇壮で、軍国少年の気持ちにピッタリでした。 さあ、頑張ろう! ということ、戦争が終わってからもいつも口にのぼせた歌でした。
藤村というと、いつも信州という国に思いが至ります。 どこかで書いたけど、信州、私が日本で最も多く訪れたところです。 日本のオヘソという、まことに「詩的」なところですね。 こういう詩的な人を育む空気があるんですね。
さてここで二木先生への質問があります。
1. 藤村の生まれた馬籠宿、せんだって岐阜県に編入されたそうですが、藤村自身はまだ信州出身と見なしてよろしいのでしょうか、それとも岐阜県人になってしまったのでしょうか。
(あの、イタリアのガリバルディ―は、当時イタリア領だったニースの生まれですが、ニースがフランス領に編入されても、ガリバルディ―はイタリアの英雄ということになっています)
2. 私が信州を訪れはじめたころ、何かの本で、古代の大和言葉で「シナ」というのは、段々のある土地という意味で、ここには「シナ」的な場所が多いので信濃国と言われるようになったということでした。 確かに山国信州、明科、豊科、埴科、更科、浅科、立科、蓼科、etc. (山がちな北信州に多いですね)
ところが、何年か前、「サンデー毎日」に松本市探訪の記事があって、そのなかに「信濃の語源となった”シナノ木”の並木道が、、、」とありました。
たしかに信州にはシナの木がたくさんありますが、信濃国に多くあるのでシナの木と呼ばれるようになったのだと思っていました。
さて、土地の名前が先か、樹木の名前が先か、分からなくなってしまいました。
二木先生、いったいどちらが正しいのでしょう?
投稿: 田主丸 | 2024年3月19日 (火) 23時20分
田主丸様
1.どの国語辞典でも、出身地は生地や出生地と同じで、その人が生まれた土地、または育った土地とあります。藤村は信濃の国の馬籠の生まれ・育ちで、その作品の多くは、信州の風土の強い影響のもとに生まれたものです。藤村はクリスタルクリアーに信州人です。
2.シナが段々のある場所という説は知りませんでした。
人々が狩猟や採集、原始的な農業で生活していた時代には、コミュニケーションの必要上、特徴的な地形や位置、植生、産物などで、特定の場所を示していたと思われます。
これが地名になり、統治体制が固まるにつれて、国名になったのでしょう。
ですから、信濃の国に多い木だからシナノキと呼ばれるようになったのではなく、シナノキ(どう発音されていたかはわかりませんが)の多い土地だから大和言葉で「しなの」という地名が生まれ、やがて漢字の国名になったと私は思います。学者がどう言っているかはわかりませんが。
投稿: 管理人 | 2024年3月20日 (水) 17時57分