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2022年8月12日 (金)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:ラスール・ガムザートフ、ロシア語詞:ナウム・グレーブニェフ、
作曲:ヤン・フレンケリ、日本語詞:坂山やす子

1 Ahー Ahー Ahー Ahー
  私はふっと思う 傷つき帰らぬ兵士ら
  異国の土に眠り いつしか白い鶴に
  鶴は昔から今も 訪れては声伝う
  それゆえか いつも切なく 声もなく 空見守る

2 Ahー Ahー Ahー Ahー
  日暮れの霧の空を 疲れた渡り鳥が飛ぶ
  あの列の中の隙間は もしや私のために
  やがて鶴の群れとなり 青い夕もやを飛び立とう
  大空へ 鶴の言葉で 世の人々 偲びつつ
  
  Ahー Ahー Ahー Ahー
  私はふっと思う 傷つき帰らぬ兵士ら
  異国の土に眠り いつしか白い鶴に
  Ahー Ahー Ahー Ahー

       Журавли

    Ahー Ahー Ahー Ahー
    Мне кажется порою, что солдаты
    С кровавых не пришедшие полей,
    Не в землю нашу полегли когда-то,
    А превратились в белых журавлей.

    Они до сей поры с времен тех дальних
    Летят и подают нам голоса.
    Не потому ль так часто и печально
    Мы замолкаем глядя в небеса?

    Летит, летит по небу клин усталый,
    Летит в тумане на исходе дня.
    И в том строю есть промежуток малый -
    Быть может это место для меня.

    Настанет день и журавлиной стаей
    Я поплыву в такой же сизой мгле.
    Из-под небес по-птичьи окликая
    Всех вас, кого оставил на земле.

    Мне кажется порою, что солдаты
    С кровавых не пришедшие полей,
    Не в землю нашу полегли когда-то,
    А превратились в белых журавлей.

《蛇足》ダゲスタン共和国の著名な詩人、ラスール・ガムザートフ(1923-2003)は、1965年夏、広島の原水禁大会に参加しました。その折、原爆資料館で原爆による惨害、さらには戦争の無惨さを見て強い衝撃を受けました。
 ダゲスタン共和国はカスピ海の西岸にある小国で、当時はソヴィエト連邦構成国の1つでした。現在はロシア連邦に属しています。

 ガムザートフは、広島で受けた衝撃を1篇の詩として結実させました。それが『鶴』です。
 トルコの詩人で劇作家のヒクメットは、広島・長崎の被爆を『死んだ女の子』など、反核を強烈にアピールするメッセージ・ヴァースとして書きました。

 いっぽう、ガムザートフの『鶴』は、国外で戦死した兵士は鶴となって故国に帰ってくると、静かに反戦を訴える詩です。その点、マトソフスキーの『帰らぬ人を…』や、寺島尚彦の『さとうきび畑』と共通するものが感じられます。

 ソ連/ロシアが大祖国戦争と称する対独戦で、ソ連は軍民合わせて2000万~2800万という膨大な被害を出しました。ガムザートフも、2人の兄を亡くしています。これも、『鶴』を書くモチーフの1つになったことでしょう。
 ちなみに、第二次世界大戦における日本人の死者数は、軍民合わせて約300万人です。

 ただ、ソ連が、ナチス・ドイツの侵略に対して戦う一方で、バルト三国やポーランド、フィンランドなどへの侵略を行ったことを考えると、自国の兵士だけを悼むのは身勝手ではないかと思う人がいるかもしれません。

 ガムザートフは当時ソ連最高会議常任委員を務めていたとはいえ、詩人としてそういう偏狭な意図はなかったと思います。それは、広島で受けた衝撃がこの詩を作る最初で最大のモチーフだったことからもわかります。彼が原爆資料館に行かなければ、この詩は生まれなかったでしょう。

 彼は、まだ若かった1948年に、少女たちは亡くなった恋人を空を飛ぶ鳥として認識していたという趣旨の詩を書いています。これに広島に来てから知った佐々木禎子(さだこ)の悲話が重なって、『鶴』のイメージができあがったと思われます。

 佐々木禎子は2歳のとき被爆、活発で明るい少女だったそうですが、小学校6年のとき亜急性リンパ腺白血病を発症しました。入院中彼女は、折り紙で鶴を千羽折れば病気は治ると信じて折り続けましたが、願いはむなしく、1年後に亡くなりました。
 広島平和記念公園にある原爆の子の像のモデルになっています。

 どの国の兵士かによらず、異国で戦わされ、死んだ兵士は、形を変えて愛する人たちのもとに帰ってくる。それは何かの鳥かもしれないし、風や雲かもしれない。
 ガムザートフにとってそれは鶴で、自分も、いずれはその群れの一羽になって、空を舞うだろう。戦死した兵士の家族や恋人、友人たちは、それを見て「ああ、彼が戻ってきたんだ」と、在りし日の彼を偲ぶだろう。
 ガムザートフは、戦争が個人にもたらすそうした普遍的な悲しみを謳ったのです。

 カスピ海と黒海の間のコーカサス(カフカース)地方では、言語の異なる大小の民族が寄り集まっていくつかの国を作っています(現在は北部諸国はロシア連邦、南部諸国は独立国)。ダゲスタン共和国もその1つで、13の言語を話す10の民族から構成されています。共通言語はロシア語です。
 ガムザートフはそのうちのアヴァール人で、
『鶴』は母語であるアヴァール語で書きました。母語のほうが兵士たちの死への悲しみや反戦の思いを直截に表現できると思ったのでしょう。

 アヴァール語は、ダゲスタン共和国内では有力言語で、アゼルバイジャン語とともに公用語になっています。それでも、使用者は60万人にすぎません。そのなかで詩を読む人となるとさらに少なくなり、そのままでは『鶴』は埋もれてしまったかもしれません。

 この詩が、アヴァール語の枠を超えて広く知られるきっかけを作ったのは、著名な翻訳家のナウム・グレーブニェフ(1921—1988)です。彼は、ガムザートフを深く尊敬しており、大戦終了後ガムザートフに師事、以後、2人の親交と共同作業が始まりました。『鶴』のロシア語への翻訳も、その成果の1つでした。
 グレーブニェフによってロシア語に翻訳された『鶴』は、
1968年に文芸雑誌『ノーヴイ・ミール(新世界)に掲載され、広くロシア語圏に知られるようになりました。

 これを読んだ人気映画スターで歌手のマルク・ベルニェス(1911-1969)は、この詩をぜひ歌いたいと熱望、売れっ子のユダヤ人作曲家ヤン・フレンケリ(1920-1989)に作曲を依頼しました。

 曲はすんなりできあがったわけではないようです。ベルニェスは、原詩のロシア語版のままでは歌いにくいとテキストの手直しを求め、それに反対する翻訳者グレーブニェフとの間で激論が交わされたといいます。
 どこでどう折り合ったのかはわかりませんが、とにかく歌はできあがり、1968年に発表されました。レコーディングは翌年の7月8日。

 このころ、ベルニェスは重病を患っており、ほとんど動けない状態でした。それでも息子に支えられてスタジオに行き、ワンテイクで録音をすませました。その約1か月後、ベルニェスは亡くなり、これが大歌手の最後の録音となりました

 ベルニェスの歌い方は非常に個性的で独特です。曲調はバラードですが、そのトーンをさらに強調し、一語一語を語りかけるように歌いました。
 終戦から20年ほど経っていましたが、愛する家族や恋人、友人たちを失って心に癒やしきれない
傷を負った人びとが、ロシア語圏の至るところにいました。この歌は、そうした人びとの胸に強くアピールし、瞬く間に大ヒットとなりました。さらに各国語に翻訳されて、世界中に広まりました。

 日本でも、歌声喫茶でよく歌われ、ダークダックス、ボニージャックス、鮫島有美子などがレコーディングしています。

 今ではこの歌を知っている人は、どの国でも少なくなりましたが、肝腎のロシアで、兵士たちの死を悼むこの歌の趣旨がすっかり忘れられてしまったように見えるのはまことに残念です。

 他の国を侵略すると、その国の国民に多くの死をもたらすと同時に、自国の兵士たちに望まぬ死を与えることになります。その数は、ときに侵略国のほうが多かったりします。独裁者にとって、兵士の死は、単なる統計上の数値でしかないのです。

 ロシアの独裁者には、マトゥソフスキーやガムザートフの詩を読み直して、兵士や非戦闘員の死をマスではなく、個々の生命の喪失であると受け止めてほしいものです。ドクトリンと野心に取り憑かれた独裁者には、そう考え直すのは無理なのでしょうか。

 日本語詞としては、上記のほか、次の2つがよく歌われました。

日本語詞:中村五郎
1 オオー オオー……
  空を飛ぶ鶴の群れの中に あなたはきっといる
  きっとこのわたしを 待っている
  激しい戦いの日も 空に群れて飛ぶ
  美しい鶴の群れ あなたはそこにいる

2 オオー オオー……
  いくさにいのち捨てても 死んではいない
  あなたはきっといる きっと生きてる
  このわたしを待っている 
  激しい戦いの日も 空に群れて飛ぶ
  美しい鶴の群れ あなたはそこにいる
  オオー オオー……

日本語詞: 北島真行
1 ごらん 暮れなずむ霧の空を
  白い翼連ねて 鶴の群れが流れて行く
  静かに舞いながら 遥かな山脈(やまなみ)越えて
  羽ばたく白い炎 あれは戦に散って燃える
  帰らぬ兵士の魂(こころ)
  おー おー おー おー

2 呼びかける 問いかける
  貴方に私に 戦争の空しさと
  生きる事の尊さを 冷たい静寂(しじま)に谺する
  祈りと鐘の響き 応える術(すべ)なく佇む
  頬を涙が濡らす
  おー おー おー おー

3 父よ母よ 妻よ子らよ
  愛しあった恋人よ 私達は哀しく還る
  別れの時を告げて 春よ大地を抱けよ
  平和よ永遠(とわ)にあれと 大空高く歌いながら
  命の故郷(ふるさと)
  おー おー おー おー

(二木紘三)

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コメント

この世の中には戦争ほどの悪はないと思っていますが、その悪事が大好きな人間が絶えることなく生まれてくるのですね。今、現在80歳ぐらいの人までしか日本の負けた戦争の実態を知らないと思います。一面の焼け野原、転がっていた善良な市民の焼けてしまって、骨だけになった遺体、浜松の市街地が一晩で焼き尽くされた風景、今でも目に浮かびます。何にもならない戦争をまだロシアが続けています。誰の為に何のために戦っているのでしょうか。
日本中の殆どの都市が焼き尽くされた風景を今の若者は全くしりません。殺人は罪です。他人の財産を焼いてしまうのも罪です。この歌を聴いて「わだつみの声」をまた読むことにしました。

投稿: ハコベの花 | 2022年8月19日 (金) 15時34分

大好きな歌をありがとうございます
2008年頃、タンゴ歌手の冴木杏奈のCDで
この歌を知りましたが
中村五郎作詞、冴木杏奈の歌唱で
数え切れないほどよく聴きました
蛇足という名の素晴らしい解説で
この歌が出来上がった経緯がよくわかりました
私は戦後生まれなので戦争を知りませが
蛇足の「戦争が個人にもたらす普遍的な悲しみを謳ったものです」という言葉に胸うたれます
旋律も歌詞もよく味わって
ずっと聴きたい歌のひとつです

投稿: ラベンダー | 2022年8月23日 (火) 19時03分

再度、投稿させていただきます
管理人さま「鶴」を取り上げていただき本当に
ありがとうございます
この歌は心に響く素晴らしい歌だと思います
先日、オーケストラを従えてロシア語で「鶴」を
朗々と歌う男性歌手のYouTubeを見つけました
バックコーラスにも負けない大地に響くような
重厚な歌声に魂が震えるような感動を覚えました
カメラが客席に向けられると中年の女性が涙を
浮かべています
歌が終わり再びカメラが客席の壮年男性が涙を
流しているをとらえました
静かに反戦を訴える詩と歌の心が伝わったのでは
ないでしょうか
長い間、拍手と歓声が止みませんでしたが
私はこの美しい銀髪の男性歌手が誰なのかを
知りませんでした
その後、ネット検索でロシアのバリトン歌手で
オペラ界のトップスターだとわかりました
ディミトリー・フォロストフスキーでした

以下、ウィキペディアより
 ★愛称はディーマ(Dima)
 ★193cm 筋肉質の堂々たる体格
 ★輝かしい銀髪
 ★端正な顔立ち
 ★ベルベットのような美声

こんなに壮大で劇的なバリトンを持つ世界的に
有名なオペラ歌手ならば、あんなふうに聴衆を
魅了するのも当然だと思いました
ところが残念なことに2017年に脳腫瘍により
55才の若さでこの世を去っています
今は亡き銀髪のDimaの歌をYouTubeで、その姿も見ることができるのは幸いです
ウクライナの戦火が止むことを祈りながら
私は毎日「鶴」を聴いています

投稿: ラベンダー | 2022年9月20日 (火) 22時56分

ラベンダー様

ホロストフスキーが「鶴」を歌っているのを恥ずかしながら存じませんでした。
教えていただき有難うございます。

確かに聴衆のこころを捉えて離さない表現力の豊かさ、素晴らしさに圧倒されますね。
本物の勁さが齎す名唱だと思います。

戦前生まれの私にとってロシアのバス歌手と云えば、真っ先にアルトゥーロ・エイゼンが思い出されます。
天性の美声と声量に恵まれながらも、それに頼らない抑制された歌唱は、その抒情性ゆえに充分にこころを潤わせてくれるものがありました。

彼が来日した折のリサイタルではロシア民謡のほかに、戦争に駆り出された夫や恋人を偲び、無事を祈る後に残された妻や娘の心情を吐露した歌もいくつか含まれていたように記憶してます。
それらは反戦というよりも、非戦の願いを切々と訴えかける人間本来の希求として胸に迫ってきました。

ホロフトスキー、エイゼン、そして多くのロシアの人たち。
個人的には愛すべき人達ばかりなのに、
何故?
残念です‼


投稿: tokusaburou yanagibashi | 2023年7月 6日 (木) 20時11分

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