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2022年10月18日 (火)

急げ幌馬車

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:島田芳文、作曲:江口夜詩、唄:松平 晃

1 日暮れ悲しや 荒野(あれの)ははるか
  急げ幌馬車 鈴の音(ね)だより
  どうせ気まぐれ さすらいものよ
  山はたそがれ 旅の空

2 別れともなく 別れて来たが
  心とぼしや 涙がにじむ
  野越え山越え 何処(どこ)までつづく
  しるす轍(わだち)も 片あかり

3 黒馬(あお)はいななく 吹雪は荒れる
  さぞや寒かろ 北山颪(きたやまおろし)
  嘶(な)くな嘆くな いとしの駒よ
  なけば涙も なおいとし

《蛇足》 昭和9年(1934)2月、コロムビアのレーベルで発売。

 これがかなりヒットしたので、コロムビアは、翌年9月、同じ作曲者・歌手で『夕日は落ちて』という曲を発売しました。作詞は久保田宵二に変わりました。
 テーマは同じで、幌馬車または馬で夕暮れの荒野をさすらい、別れてきた恋人に思いを馳せるといった内容。曲調もよく似ています。

 この荒野がどこかですが、日本が盛んに大陸進出(侵略)を行っていたという時代性を考えると、満蒙、すなわち満州かモンゴルでしょう。シベリアという可能性もあります。

 征韓論あたりから、不平士族など民間壮士たちが満蒙に渡り、国家主義的な見地から、軍部と組んで現地の政情や民情、地理などを探りました。彼らは大陸浪人と呼ばれました。
 明治33年(1900)6月、ロシア軍が清国人の老若男女を大量虐殺して黒龍江(アムール川)に投げ込んだという目撃談を日本に伝えた石光真清(まきよ)も大陸浪人でした(『アムール河の流血や』)

 大陸浪人は、大言壮語して青少年の大陸雄飛の夢を刺激する一方で、満蒙の厳しい気候や、日本とは桁違いの広大な荒野をさすらうなかで、つい寂しさや望郷の思いにかられてしまうことが多かったようです。

 『金色夜叉』の作詞作曲者・宮島郁芳は、大正11年(1922)、『馬賊の歌』という歌を発表しています。作曲者は不明。
 この歌の1番では、「俺も行くから君も行け/狭い日本にゃ住み飽いた/海の彼方にゃ支那がある」と景気よくぶち上げますが、3番、4番と進むにつれて、別れてきた恋人や幼なじみを懐かしみ、浮き草のように荒野をさまよう寂しさや辛さを訴えるようになります。
 
さすらいの唄』『幌馬車の唄』『国境の町男一匹の歌』などは、いずれもこの系列の歌です。

 これがまあ、多くの大陸浪人の本音だったと思われます。軍部から私的に資金を出してもらって調査活動をした大陸浪人はほんの一部で、それ以外は、胡散臭い仕事に手を出すか、軍に入って兵隊になるかする程度で、"雄飛”できなかった者がほとんどだったはずです。

 しかし、なかには映画的というか劇画的な活動をした者もいました。その典型が小日向白朗(こひなた・はくろう 明治33年〈1900〉- 昭和57年〈1982〉)
 彼は17歳のとき中国に渡り、関東軍の坂西利八郎大佐に気に入られます。その庇護のもとで拳銃や柔剣道、中国語を学びました。
 19歳のとき、北京公使館の武官におだてられて、情報収集のためモンゴルのウランバートルを目指しますが、その途中、馬賊に捕まり、下働きにさせられてしまいました。

 満蒙では政府のガバナンスがゆるく、多くの馬賊団が跳梁していました。馬賊といってもいろいろで、強盗を業とする一団、そうした連中から住民を守るために結成された自衛団、自衛する一方で強盗も行う馬賊団などがありました。

 小日向が捕まったのがどのタイプだったかはわかりませんが、彼は戦いのたびに手柄を立て、ついにその団の頭目に上り詰めます。さらに、馬賊の聖地とされる道教の千山無量観で修行を積み、大長老に認められて中国名と破魔の銃「小白龍」を与えられました。これにより、小日向は中国全土の馬賊の総頭目となりました。

 総頭目になると、人脈が広がり、蔣介石の国民党や毛沢東の共産党ともつながりができました。
 総頭目としての小日向は、中国民衆のために生きるというのが初志で、
再々日本軍との仲介をしようとしましたが、うまくいかず、結局日本軍の特務機関と連携して活動することが多くなりました。

 大戦が終わると、小日向は国民党に逮捕され、漢奸すなわち国賊として起訴されましたが、国籍が日本ということがわかったので釈放されました(国民政府の”寛大政策”による)
 帰国後は、国共両方に伝手があるという立場を活かして、政財界のフィクサーとして活動しました。池田内閣やアメリカ政府も、中国との関係をどうすべきかについて小日向に意見をきいたそうです。

 小日向白朗の活動は、朽木寒三の小説と、それをベースにした横山光輝の大作漫画『狼の星座』に描かれています。私は、この漫画を講談社の『週刊少年マガジン』に連載中に読みましたが、まさか実話だとは思いませんでした。

 ついでにもう一人、伊達順之助について触れておきましょう。
 伊達順之助(明治25年〈1892〉- 昭和23年〈1948〉)は、伊達政宗の直系子孫に当たる男爵・伊達宗敦の六男として生まれましたが、少年時代から素行収まらず、いくつもの中学から放校されました。
 立教中学時代に縄張り争いから不良学生を射殺、懲役12年の刑を宣告されました。しかし、伊達家の弁護士が奔走して正当防衛だったと立証、その結果、執行猶予となり、釈放されました。

 大陸雄飛の夢を抱いていた順之助は、満州に渡り、過激な国家主義者の大陸浪人や軍人たちの知遇を得て活動、やがて馬賊の頭目になります。蒙古独立軍に参加したのち、張作霖軍の少将となったのを機に中国に帰化、張宗援と名乗りました。
 敗戦後、中国軍に逮捕され、戦犯として昭和23年(1948)9月9日、上海で銃殺刑に処せられました。

 その破天荒な生涯は、いくつもの小説のモデルになりましたが、とくに有名なのは檀一雄の小説『夕日と拳銃』です。この小説は映画にもなりました。

 だいぶ歌の本題から外れてしまいましたが、小日向白朗にしろ、伊達順之助にしろ、勢力を得る前、荒野を一人でさまよっていた頃には、寂しさや辛さ、後悔を感じたこともあっただろう、ということで締めくくりとします。

(二木紘三)

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コメント

幌馬車と言うと何となく西部劇を思い出すのですがこの時代に日本でもよく知られていたのでしょうか。

投稿: Hurry | 2022年10月19日 (水) 21時57分

Hurry様
幌馬車については『幌馬車の唄』の蛇足をご覧ください。

https://duarbo.air-nifty.com/songs/2009/03/post-0221.html

投稿: 管理人 | 2022年10月20日 (木) 00時37分

”満州生まれの満州育ち”(昭和12年ハルビンで出生、昭和20年終戦、昭和21年日本へ引揚げ)の私にとって、『急げ幌馬車』の舞台が旧・満州だと思うと、幾ばくかの郷愁感を禁じえません。

勿論、この歌は知っていましたが、《蛇足》に述べられている”大陸浪人”については、言葉としては目にしたことはあったものの、具体的なことは何も知りませんでした。興味深く拝読した次第です。

旧・満州では、ハルビン、牡丹江など、大きな都市に住んでいたせいか、私自身、馬車(幌馬車)に乗った記憶はありません。でも、”馬車”という言葉は、何故か心に響きます。
この歌の他にも、馬車が登場する、旧・満州が舞台の歌を、今も口遊むことがあります。思いつくまま、挙げてみますと、
①『満州娘』(石松秋二 作詞、鈴木哲夫 作曲、服部富子 唄 S13)
歌詞2番に、
  ♪ドラや太鼓に おくられながら
    花の馬車(マーチョ)に ゆられてる…♪
とあります。
②『いとしあの星』(サトウハチロー 作詞、服部良一 作曲、渡辺はま子 唄 S14)
母が、家事をしながら、よく歌っていました。
歌詞1番の出だしは、
  ♪馬車がゆくゆく 夕風に
    青い柳に さゝやいて…♪ 
と、冒頭に”馬車”が登場します。

投稿: yasushi | 2022年10月20日 (木) 15時28分

管理人様、yasushi様、
大変参考になりました。
ありがとうございます。

投稿: Hurry | 2022年10月26日 (水) 21時50分

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