思えば遠くへ来たもんだ
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:武田鉄矢、作曲:山木康世、唄:武田鉄矢(海援隊)
1 踏切りの側に咲く
コスモスの花 ゆらして
貨物列車が 走り過ぎる
そして夕陽に 消えてゆく
十四の頃の僕は いつも
冷たいレールに 耳をあて
レールの響き 聞きながら
遥かな旅路を 夢見てた
思えば遠くへ 来たもんだ
故郷(ふるさと)離れて 六年目
思えば遠くへ 来たもんだ
この先どこまで ゆくのやら
2 筑後の流れに
小魚釣りする 人の影
川面にひとつ 浮かんでた
風が吹くたび 揺れていた
二十歳(はたち)になったばかりの僕は
別れた女を 責めながら
いっそ死のうと 泣いていた
恋は一度と 信じてた
思えば遠くへ 来たもんだ
今では女房 子供持ち
思えば遠くへ 来たもんだ
あの頃恋しく 思い出す
3 眠れぬ夜に 酒を飲み
夜汽車の汽笛 聞くたびに
僕の耳に 遠く近く
レールの響きが 過ぎてゆく
思えば遠くへ 来たもんだ
振り向くたびに 故郷は
思えば遠くへ 来たもんだ
遠くなるような 気がします
思えば遠くへ 来たもんだ
ここまで一人で 来たけれど
思えば遠くへ 来たもんだ
この先どこまで ゆくのやら
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《蛇足》 昭和53年(1978)9月21日にポリドールから発売。
昭和55年(1980)8月1日、松竹映画『思えば遠くへ来たもんだ』(8月2日公開)の挿入曲として再発売。
昭和56年(1981)には、映画と同じタイトルでテレビドラマが作られ、TBS系列で放映されました。3月からまず全3話が放映され、同年10月からその続編として全6話が放映されました。
映画版・ドラマ版とも、若い教師と、落ちこぼれ生徒たちとの心の交流を描いたもの。映画版は武田鉄矢、ドラマ版は古谷一行が教師役を務めました。
人生を旅に例えるのは、よく使われる比喩ですが、この歌も、歩んできた人生を追懐するという形になっています。
ただ、6年目で「思えば遠くへ来たもんだ」と追想するのはどうでしょう。
歌詞から考えると、離郷したのは20歳前後と思われますが、これから6年目で来し方を振り返るのは、早すぎまませんか。
先日、3歳の女の子が「アタチが赤ん坊のときにね…」とお父さんに話している動画を見て、かわいくてつい笑ってしまいましたが、これと大して変わらない感じ。
27歳ぐらいの時期は、迷ったりしながらも前に向かってひたすら進んでいる時期。記憶をリコールすることはあっても、しみじみと追懐する年齢ではありません。
ただ、武田鉄矢は、その後のコンサートなどでは、出郷からの年月経過を考えて、10年目、20年、30年とアレンジして唄ったとテレビで語っています。20年、30年では、音符に合わせて「目」を省略したそうです。
人によって違うでしょうか、来し方をしみじみ回顧するのは、還暦あたりからではないでしょうか。
このぐらいの歳になると、積み重ねてきたものが多く、過ぎ去った年月を偲ぶのが自然になります。
ただ、年を追うごとに、豊穣だった思い出が、突然消え、あるいはフェイドアウトして、だんだん少なくなってきます。
その結果、「アレのときのアレさ、何だったっけ?」といった、答えようがない質問をして、身近な者を困惑させたり、「忘れえぬ人はいるけど名を忘れ」(鳥居和夫…第5回シルバー川柳入選作)などと、死ぬまで絶対忘れないつもりだったことが、いつの間にか霞に覆われていたりします。
こういった衰え方を悲観するか、肯定的に取るかで、どんどん近づいてくるゴールラインまでの過ごし方が違ってきます。
画家で作家の赤瀬川原平は、平成9年(1997)、こういうボケや耄碌ぶりを”老人力”と呼んで積極的に評価しようと提唱しました。
ボケや耄碌により、細かいことが気にならなくなるし、思い出したくない過去が消えてくれる。それにより、縁側で猫を抱いて居眠りするようなゆったりした時間の流れのなかで過ごせるようになるというのです(当時は、老人力を老人の頑張りという意味に取る誤解がかなりありました)。
「はるけくも来つるものかな」と、長い人生をたびたび回想した末の最終章がこの境地。これは衰えというより、のどかで静穏な状態と考えたほうが当たっているような気がします。私も、そういう境地で最晩年を送りたいと思っているのですが、凡夫の身、ついイライラしたり、落ち込んだりします。その都度自戒はしているのですが。
なお、この歌のモチーフとキーフレーズの「思えば遠くへ来たもんだ」は、中原中也の詩『頑是ない歌』(下記)から採ったもの。モチーフは同じでも、武田鉄矢の思い出(たぶん)を付け加えているので、ちょっと違った味わいの歌詞になっています。
頑是ない歌
思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気(ゆげ)は今いづこ
雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しょうぜん)として身をすくめ
月はその時空にいた
それから何年経ったことか
汽笛の湯気を茫然(ぼうぜん)と
眼で追いかなしくなっていた
あの頃の俺はいまいづこ
今では女房子供持ち
思えば遠く来たもんだ
此(こ)の先まだまだ何時(いつ)までか
生きてゆくのであろうけど
生きてゆくのであろうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこいしゅうては
なんだか自信が持てないよ
さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質(さが)
と思えばなんだか我ながら
いたわしいよなものですよ
考えてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやってはゆくのでしょう
考えてみれば簡単だ
畢竟(ひっきょう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさえすればよいのだと
思うけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ
(二木紘三)
コメント
故郷(信州)を捨て思えば遠くへ来たもんだ。あれから
60年がたちましたが過去を振り返るどころではなく、パークゴルフ、医者通い、県人会の行事、歌謡教室と1週間が3日かと思う程です。
追伸
「ずら」は信玄と謙信の関係、あるいは長野県と筑摩県
との関係だと言う県人もいます。
投稿: 海道 | 2023年3月20日 (月) 11時28分
「思えば遠くへ来たもんだ」待ち焦がれていた海援隊のこの曲がここにアップされたことに、私は今感無量の面持ちです。少し大袈裟かも知れませんが『待てば海路の日和あり』この諺が浮かんでくるほどの嬉しい気持ちです!
武田鉄矢が書いた一聯の詩の中にもあるように、私も幼いころには線路のレールに耳を当てながらレールの響きを夢中で聞こうとしていたことがありました。またある時は道端で拾った一円玉をレールの上に置いてジーゼルカーが過ぎ去った後にペッタンコになったその一円玉に強く息を吹きかけてふわふわと浮かしながら遊んだりした記憶も蘇ります。今思えばよくもそんな罰当たりなことをしたもんだとは思いますが・・・(笑)この歌は少年時代に体験した数々の自分の想い出と何処かが合致しているような・・・この歌を聞けば聞くほど私の胸の中にはそんな思いが湧いてくる・・・今では私にとってこの歌はそんな存在になりました。
私はこの歌のレコードを購入し当時はこの曲だけを何度も繰り返し夢中で聴いていた時期がありました。ここでメロディを聴きながらその頃ことを今懐かしく想い出しています。
そしてこの映画も私は観に行きました。その映画で私が印象残ったのは、映画の内容そのものではなく、当時の清楚で綺麗だった女優あべ静江のその姿と、映画終了間際のシーンで、柔道部の生徒全員に教師に扮する武田鉄矢が、両拳での頭部側面のぐりぐりと竹刀での尻叩きをするという、昭和時代ならではのしごきの場面で、静かに流れてくるこの歌のエンディングメロディには強く魅了されましたが、この作品自体の魅力は当時さほど感じなかったことを憶えています。
そしてここで初めて知った、<蛇足>に記されている、>『・・・なお、この歌のモチーフとフレーズの「思えば遠くへ来たもんだ」は、中原中也の詩『頑是ない歌』から採ったもの。・・・』この解説は<蛇足>欄に記されている、その九聯の詩を見ればそれはまさに一目瞭然であり、私もこの解説には心から頷けます。
「思えば遠くへ来たもんだ」それにしてもこの歌の詩に付けられた、山本康世のメロディは実に素晴らしいと私は今心からそう思います。昭和45年10月に故郷を離れてから53年目になりましたが、最近の私はこの曲のイントロメロディが流れ出すだけで、つい幼少のころの想い出が次々に浮かんできてしまい、思わず胸がいっぱいになります。
今回こうしてここにこの歌へのコメントができたことを、私は今心から嬉しく思っています。
投稿: 芳勝 | 2023年3月21日 (火) 22時05分
「思えば遠くへ来たもんだ 十二の冬のあの夕べ」ーーこれは中原中也の独特の言い回しですね。、一度聞いたら忘れられない。二木先生のあげられた「頑是ない歌」の出だしの部分です。
中原中也の印象的な表現、他には
幾時代かがありまして 茶色の戦争ありました(「サーカス」)
汚れちまった悲しみに 今日も小雪の降りかかる(「汚れちまった悲しみに」)
春が来たって何になる あの子がかえって来るじゃない(「また来ん春」)
ポッカリ月が出ましたら 船を浮かべて出掛けましょう(「湖上」)
ホラホラこれが僕の骨だ(「骨」)
私の上に降る雪は 真綿のようでありました(「生い立ちの記」)などなど。
<蛇足>に「歌詞から考えると、離郷したのは20歳前後と思われますが、これから6年目で来し方を振り返るのは、早すぎまませんか」はまったく鋭いご指摘です。その通りです。26歳,27歳で中原中也の名文句「思えば遠くへ来たもんだ」をパクっても絶対にふさわしくありません。人生を語るには若すぎるというものです。
私も武田鉄矢と同じ昭和24年生まれの74歳ですが、「思えば遠くへ来たもんだ」は70歳を超えてからの独特な感慨だと私は思います。
人生を全力疾走している時には過去を振り返ることはほとんどありませんでしたから。それに中原中也の詩がだんだんわかってきたのもごく最近です。人生は今、70代が一番楽しいと私は思っています。健康な体をくれた亡き父と母に感謝の日々です。ベトナムに住む私こそシャレでなく「思えば遠くへ来たもんだ」です。
投稿: 越村 南 | 2023年12月23日 (土) 11時23分
この歌は知りませんでした。
『思えば遠くに来たもんだ』人生を旅になぞらえて、知らず知らずに来てしまいました。「蛇足」紹介の「忘れえぬ人はいるけど名を忘れ」声をあげて吹き出してしまいました。
同い年の友と一杯傾けたとき「この歳までよく来たね。ここまで来るとは思わなかった。」(来年の5月で傘寿になります。)、「75過ぎる頃になると、いい時間を持てていることを実感する。50、60で死ぬのは無念で辛い。」という話が出ました。あれやこれやを心配しても詮無いこと老い先が見えているから、この刻を楽しむのが長生きした特権だねということで落ち着きました。
二木先生、越村さまに中原中也が出てきました。私が中原中也の詩に初めて出会い魅かれたのは、
「ストーブの上の薬罐が
チンチンと音を立てています
ぼくは、女のことをずっと思っています」です。
何かの雑誌にこれだけが載っていました。『中原中也詩集』を買いました。そして山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」、「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」、「てふてふ うらから おもてへ ひらひら」に魅かれていました。『種田山頭火句集』を買いました。
投稿: konoha | 2023年12月23日 (土) 20時48分
konohaさま、中原中也の詩に初めて出会った時のことがいきいきと書かれてますね。記憶力鮮明で文章が若若々しい、とても傘寿前とは思えない。
同い年の人との対話、「あれやこれやを心配しても詮無いこと老い先が見えているから、この刻を楽しむのが長生きした特権だね」いやあ、これは名言です。
ステーブ ジョブズ(アップル社、アイフォンの創始者)の言葉、「死を前にすると自分の時間が限られていることに気づきます。本当に自分の心のもとめることにしたがって生きてください。他人の考え方やつまらない自分のプライドにつきあわないように」とほぼ同じ価値を持っているように思います。
年を取るって素晴らしいことですね。
山頭火は、私もメチャクチャハマった人です。中原中也は二木先生もきっと好きなんでしょうね。
思えば遠くへ来たもんだーーじつにいい言葉ですね。
投稿: 越村 南 | 2023年12月25日 (月) 11時19分
越村 南さま、お褒めに預かりありがとうございます。「年を取るって素晴らしいことですね。」おっしゃる通りです。この歳になって初めて知ることができますね。身体の衰えに反比例して気持ちは若くなっていくようです。ただ一つ健康に気をつけて、足の筋力の衰えに留意して、元気でいることが気持ちの解放につながっていく、何よりの術ですね。
「思えば遠くに来たもんだ」この「もんだ」を「思えば遠くに来ね。」では全く違いますね。やはり「もんだ」につきます。
投稿: konoha | 2023年12月26日 (火) 09時15分
「思えば遠くへ来たもんだ」昨年の3月19日、ここに想い出が重なるこの曲がアップされてから、私は心を新たにして、これまで自分が歩んできた道のりをおもむろに振り返ってみました!
そうすると、私の脳裏には大まかに次のようなことが想い浮かんできました。
幼少、当たり前の生活がしたいと、ひたすら願った・・・
10代、勤労学生のころは、絶えず多忙を極めていた・・・
20代、妻と巡り逢えて、人生は変えれると直感した・・・
30代、この仕事で何かを極めてみたいと強く思った・・・
40代、真剣勝負の連続で、ハラハラしどうしだった・・・
50代、これで有意義な家庭生活が送れると確信した・・・
古希を迎えようとする現在、自分の世知辛い人生を懐かしく辿りながら、今素直に実感するのは、この曲名に『根底から同意を抱いてしまう』、まさにそんな心境です。
「思えば遠くへ来たもんだ」どこかに黄昏感と郷愁を帯びた、山木康世氏のこの秀逸のメロディは、今も変わることなく、私の心をふと『遠い世界へといなざう』、私にとってこの歌はそんな作品です。
投稿: 芳勝 | 2024年1月25日 (木) 16時36分