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2023年12月31日 (日)

ないしょ話

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:結城よしを、作曲:山口保治

1 ないしょ ないしょ
  ないしょの話は あのねのね
  にこにこ にっこり ね、母ちゃん
  お耳へ こっそり あのねのね
  坊やのおねがい きいてよね

2 ないしょ ないしょ
  ないしょのおねがい あのねのね
  あしたの日曜 ね、母ちゃん
  ほんとにいいでしょ あのねのね
  坊やのおねがい きいてよね

3 ないしょ ないしょ
  ないしょの話は あのねのね
  お耳へこっそり ね、母ちゃん
  知っているのは あのねのね
  坊やと母ちゃん 二人だけ

2024 ↑ 2024年の年賀状用に描いたもの。生成AIの技術を少ばかり使いました。

《蛇足》 昭和14年(1939)9月20日、大塚百合子の唄でキングレコードから発売され、広く愛唱されました。

 作詞者の結城よしを(本名は芳夫)は、大正9年(1920)3月30日、山形県東置賜郡宮内町(現・南陽市)の生まれ。家が貧しかったため、高等小学校卒業後、上級学校に進むことなく、山形市内の書店の住み込み店員になりました。

 よしをは、文芸への志向が強く、17歳のとき、数人の友人に呼びかけ、童謡の同人誌『おてだま』を創刊しました。彼は、作曲家・山口保治のもとに、『おてだま』だけでなく、自分の童謡原稿を盛んに送りました。山口保治は、『かわいい魚屋さん』(加藤省吾作詞)を大ヒットさせた童謡の人気作曲家でした。

 『ナイショ話』は、よしを19歳のときの作品で、それを気に入った山口がキングレコードに売り込みました。売り込みは成功し、これがよしをの最初のレコードとなりました。
 原詞は全文カタカナでしたが、上の欄では、読みやすいようにひらがなにしました。

 昭和16年(1941)7月に召集されたよしおは、北方から南方へと転戦を繰り返しました。国内に戻って、山口県の巌流島で防空の任についていたとき、パラチフスで亡くなってしまいました。24歳という若さでした。

 歌詞は、幼い少年が何か願い事をお母さんに囁いているといった内容です。誰かに聞かれて困るようなことではないのに、お母さんと二人だけの秘密といった絆を持つのが嬉しいのです。

 『なっとく童謡唱歌』の池田小百合は、次のように書いています。

 この歌は、単なる親子の「ナイショ話」の情景描写ではなく、幼い頃の思い出を呼び起こす歌なのです。そして「ネ、母チャン」と歌った時、すべてが一体となります。「ネ、母チャン」に作者の強い思いが込められています。作者の思いが伝わるので、私たちの心に響くのです。
 近年は、母と子の絆を歌った歌はなかなか登場しません。「ネ、母チャン」という呼びかけが欠けているのです。そのことを歌が教えてくれています。

 母親との明るく楽しかった幼時の記憶は、甘酸っぱい初恋の味にも似ています。年老いてから、母親とのエピソードを思い出すたび、胸の奥にぽっと灯がともるような子ども時代を、だれもが送ってほしいものだと願っていますが、現実にはなかなか……。

(タイトル下の写真は、南陽市熊野大社の境内にある『ナイショ話』の歌碑)。

(二木紘三)

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コメント

『ナイショ話』は、子供の頃から知っていました。まあ、愛唱歌というほどではありませんでしたが、…。
この歌に関連して、二木先生が年賀状用として掲載されました絵が、私には、戦前昭和の日本の原風景のように映り、心なごみます。
家事姿の母親が正座して縫物をしており、その肩に、坊や(幼い倅)が手を掛けて、何か話かけています(ナイショの話?)。縁側には、猫が安らいでいて、人間と動物が穏やかに共生しています。外を見れば、空は晴れて、花は咲き、小鳥は歌う、桃源郷のような風景。つい、このように想像が膨らみます。

投稿: yasushi | 2023年12月31日 (日) 14時16分

二木先生の絵とそれについての yasushi 様の御文章に感動いたしました。これまで全く知らずにいた結城よしをさんのことを知りたくなりました。 二木先生が載せられた熊野神社の歌碑のそばに、そのお父さんで歌人の結城健三さんの歌碑「宮柱のかげより我の稚児舞を見ていたまひし母が恋ひしき」が建てられていることを知りました。こちらの歌も「ナイショ話」と同様、母親の愛情が心に迫る美しい歌だと思いました

投稿: kazu | 2023年12月31日 (日) 16時25分

昭和14年の歌だったんですね。小学校1,2年の頃よく歌いました。母親といっしょに。
にこにこにっこり、ね母ちゃん。のところがとくに好きだった。
私の母は1926年、大正15年10月生まれだったが、人に聞かれたら、昭和元年生まれと言っていた。これはありえない話。大正天皇は大正15年12月25日におなくなくなりになったから、昭和元年生まれは、12月26日から31日の人だけのはず。それを昭和元年生まれと言ったのは、若く見られたいからだと、笑いながら言っていた。

二木先生の絵がすばらしい。私も絵のように母親の耳にくっつけて秘密のお話や秘密のお願いをしていたなあ。父親にはそんなことはゼッタイなかった。やっぱり生んでくれた人だから、わかりあえる気がしていたのだろう。

先日パソコンで見た講演会で、小説家の百田尚樹さんが「大正生まれの人とは」と言ってから「戦争で焼け野原になった日本を必死で頑張り、立派な日本にしてくれた人」と説明し「自分のためにではなく、人のために生きた世代」と感慨深げに言っていた。全くその通りだと思います。年の初めに亡き母そして父へ感謝したいと思います。

投稿: 越村 南 | 2024年1月 1日 (月) 11時05分

「ナイショ話」現在も歌い継がれている日本の童謡名曲の中でも、私の一番好きなこの童謡がここにアップロードされたことを心より嬉しく思います。

幼いころにはいつも呼んでいた『かあちゃん』という、この呼び名は、私にとってはどんなものにも代え難い、今も私の脳裏に焼き付いて離れることのない、想い出の呼び名です。
幼少の頃を『貧乏人の子だくさん』の我が家で育った私には、母に甘えたという記憶がほとんど想い浮かびません。それでもそんな私の心の支えは、家族の中では何かにつけ一番心配をかけたであろう、そんな私のことをいつもやさしく包んでくれた母、『かあちゃん』の存在でした。

二木先生が今年の年賀状用に描かれたという、上の絵を見ていると、いつも着物姿で針仕事をしていた若かりしころの母が、つい私の脳裏には浮かんできます。

「ナイショ話」ここで二木先生が奏でるこのメロディを何度も繰り返し聴いていると、せめて一度だけでいいから母と二人だけの『内緒ばなし』がしてみたかった、私はそんな思いにかられます。   

投稿: 芳勝 | 2024年1月 1日 (月) 19時10分

この歌を聞くと
小学1年生の頃を思い出します。

とてもいい歌です。

どうぞ今年もよろしくお願いします。

投稿: みやもと | 2024年1月 2日 (火) 06時08分

『蛇足』の中の池田小百合の文章「・・・幼い頃の思い出を呼び起こす歌なのです。そして「ネ、母チャン」と歌った時、すべてが一体となります。・・・」

 小学生のいつ頃か忘れてしまいましたが、母は家計の足しにとベビーマント縫製の内職をしていました。ミシン掛けの後の手縫いで座している母の傍に寝転んで母の語ってくれる話が好きでした。面白くいつもねだって聞いていた思い出があります。

 今から考えてみると不思議です。何を話してくれたのか全く覚えていないのです。母は手を休めず縫い物をしていましたから、話が中断することもままあり、私はそれから?とよく話の続きを催促していました。促すほどの話を何故全く覚えていないのでしょう。

 街灯がついたら帰ってくるんだよと言われるくらい、外で遊びまわっていたり、帰れば帰ったで講談本や漫画王を読み漁っていて、母の傍には寄り付きませんでした。そのような日常生活の中で、母の話を聞きたく座して縫い物をしている姿を見つけると、飼い猫がそばにいるように私も母のそばに寝転んで聞いていました。一体あの時々の話はなんだったのだろう。・・・

二木先生の絵がいいですね。眺めているとほっこりしてきます。また生成AIを使われたとのこと流石です。
二木先生、同好の皆様、今年も宜しくお願い致します。

投稿: konoha | 2024年1月 3日 (水) 10時28分

この唄は幼いころから聞いた覚えがあります。作詞者の結城よしをさんが巌流島で24歳の若さで亡くなったと知り、
そんなに若くして亡くなったけど、19歳の詩が後世に残っていることを彼は喜んでいることでしょう。巌流島のそばの彦島出身の知人がいるので、次に連絡が取れる時には話してあげたいと思っています。

投稿: 江尻陽一 | 2024年1月25日 (木) 23時53分

二木先生
この歌を取り上げて下さって感無量です。
本県出身の詩人とは聞いてたがその後の作品も知らず、若くして戦争の犠牲者とは。
蛇足を読み、さらにネット検索で詳細を知り涙が込み上げました。
両親のよしをを思う短歌の哀切さに涙が込み上げました。
父、結城健三の事も初めて詳細を知り感慨を深くしました。

との歌も格調高く心に沁み、昨今の?マークの短歌とは一線を画しています。
結城健三の短歌で心に残ってる一首

細部に誤りあるかもしれないがここに紹介します。

口喧嘩負けて帰りし子を抱きて手の届かざる梨を捥がしめ

この子が結城よしを少年だったのですね。

戦死のことを重ねては余りにも哀切と胸が痛みました。
私の生家付近でも屋敷周りに
りんご

梨、柿、柘榴などを植えてました。
おやつとして
私たち子供の身も心も癒してくれました。

加齢と共に童謡が懐かしく蘇ります。

投稿: りんご | 2024年2月 5日 (月) 09時02分

短歌の訂正

口喧嘩負けて帰りし子を抱きて届かざる枝の梨を捥かしめ

30年も前でしょうか地元紙で心に留まった短歌でした。
こんな優しい情愛に満ちた父親が居たのだと驚かされたものでした、。
今にして思えば結城よしおを取り上げだ記事。
若気の至りでナイショバナシより父健三の短歌に惹かれた私。
戦死したよしを偲んた後年の歌と思うにつけ哀切さが募ります。

投稿: りんご | 2024年2月 7日 (水) 08時39分

「ナイショ話」根っから童謡好きの私が、30年ほど前、大月書店に直接発注し取り寄せた、長田暁二氏著書・童謡歌手からみた「日本童謡史」の本には、昭和27年にこの曲を歌って注目を浴びたという、後の人気童謡歌手・子役タレントとして大活躍をしておられた、小鳩くるみさん(当時四歳)に纏わる『下記』のようなエピソードが載っています!

『・・・昭和27年は、ちょうど鳩山内閣が成立したばかり。それを実現のため談合する(吉田・鳩山の政権争いの場)を風刺した場(シーン)がありました。六景の「狸囃し」の景に出番が作られ、古ダヌキにみたてられた政治家が談合している中に、四歳のくるみちゃんがチョコンと入って、まだ舌もよく回らないけれど、天使の様な声で、ないしょ ないしょ~と「ないしょ話」をあどけなく歌ったものだから、一人で舞台の人気をさらいました。・・・』と記されています。

現在も変わることはありませんが、当時の私もこの『記事』を読み、その光景を自分で想像しながら、妙に腑に落ちて納得したことを憶えています。

投稿: 芳勝 | 2024年2月10日 (土) 18時04分

「ないしょ話」は一番好きな童謡です。特に3番の「知っているのは あのねのね 坊やと母ちゃん 二人だけ」は亡母を浮かべながら一瞬甘美な思いに浸ります。その思い出の中で、母は若く、私も幼い。もっとも、4人の姉と兄の後の5番目の末っ子だったから、物心ついた時はもう若いとは言い切れないが40歳にはまだだった。

1934年生まれの姉はたまに会うと「アタシ達には厳しかったけどお前には甘かったね」と言う。3人の孫がいる私にそんなことを言われても挨拶のしようもないが、姉の言葉は満更不愉快でもない。
小学生の頃は帰宅して母が居ないと一瞬に身も心も力が抜けた。寂しくて切なくてご近所を探し回った。
高校生になってからも勉強や何かで落ち込んだ時、帰宅して母の顔を見ると「ウン、大丈夫!」とすっかり安心して青天白日の気持ちを回復したものだ。ある意味マザコン体験を持たないまま大人になった人は気の毒だと、私など思う。

歌の中の「坊や」は一人っ子か、末っ子か。
末っ子なら上に2人以上いないと成り立たないと思う。2人だけなら不公平が生じる気がするからだ。
3人ならこの歌は成り立つが、その場合は歳が離れているほうが良さそうである。私のように上に4人いれば、母を平気で独り占めできる。

きょうだいは勿論、父親も疎外して母と2人だけの秘密の世界を持つ。何という心の震えるような、甘美な悦びでしょう。現実問題としてはそんな無邪気な秘密など「父ちゃん」に当然筒抜けになっているわけですが。

母を独占して父を疎外する、したい、というのは多かれ少なかれ男子の(男性の)本能として昔から語られてきたことですが「ないしょ話」はそんなことまで考えさせてくれます。

「坊や」にもやがて疎外される未来が待っているかもしれないと思えば、つい「父は永遠に悲壮である」という詩人の言葉も思い出します。

投稿: ナカガワヒデオ | 2024年2月20日 (火) 17時35分

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