ムーン・リバー
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:John Mercer、作曲:Henry Mancini、日本語詞:吉田 旺
ムーン・リバー ふるさとの 月のひかりうけ この世のくるしみ 月のひかりうけ MOON RIVER Moon river, wider than a mile Two drifters, off to see the world Two drifters, off to see the world |
《蛇足》 1961年(昭和36年)公開のアメリカ映画『ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's)』の挿入歌。
主演のヘップバーンが、アパートの窓に腰掛けて、ギターを爪弾きながら素朴に歌う場面が、ファンの胸を揺さぶりました。
その年のアカデミー賞で歌曲賞を受賞。
ジェリー・バトラー、ダニー・ウィリアムスらも歌ってヒットさせましたが、極めつけは、1962年のアンディ・ウィリアムスの歌唱。アルバム中の1曲でしたが、この歌だけが抜きん出た大ヒットとなりました。
ポップス、ジャズ、ロックなど、さまざまなジャンルに編曲され、そのカバー数は数百に及びました。
ヘップバーン演ずるところのホリーのお仕事は、簡単にいえば、古代ギリシアのヘタイラ、あるいはデュマ・フィスの『椿姫』といったところ。
ホリーとのお付き合いを求めて、いろいろな男たちが寄ってきますが、ホリーはお金があり、ある程度以上の社会的地位のある者しか相手にしません。
夜のお仕事ですから、帰りは遅い。ホリーはまだ薄暗い早朝に、五番街の高級宝飾店・ティファーニーに行き、ショーウィンドーを見ながら、デニッシュとコーヒーで朝食をとるのが好きでした。
ティファニーの中にレストランはありません。しかし、ティファニーで食事を取れないかという問い合わせが続いたため、2017年11月10日、五番街本店の4階に「ザ・ブルー・ボックス・カフェ」がオープンしました。
映画の公開から、実に62年後のことです。この映画の、あるいはヘップバーンの鉄板ファンが、いかに多かったかがわかります。
私見をいえば、ヘップバーンは清純すぎ、繊細すぎて、この役柄には合っていないと思います。体が細く、エロスが感じられないのです。
当初、この役にはマリリン・モンローが予定されていたそうです。モンローのほうがこの役柄に合いそうですが、知性のイメージに難があり、ぴったりとはいえません。
けっきょく、モンロー側から断られたので、ヘップバーンになったとのことです。その結果、脂っ気のない、しゃれたロマンチック・コメディになりました。
この映画には、ユニオシ氏(Mr.Yunioshi)という奇妙な名前の日本人が何度か登場します。日系二世の雑誌カメラマンという設定です。演じているのは、日本人ではなくて、アメリカ人俳優のミッキー・ルーニー。
映画が公開されるや、このキャラクターを巡って、人種差別だ、日本人を侮蔑しているといった批判・非難が、日本人や日系人の間で巻き起こりました。これは今も続いており、ネットで「ユニオシ」を検索してみると、批判・非難一色といった感じです。
こうした評価・印象が、私とはまったく違うので、びっくりしました。
私は、昭和40年代に初めてこの映画を見たときも、今回見たときも、ユニオシを人種差別とか日本人侮辱とは感じませんでした。個性的なキャラクターが出てきたなと思っただけです。
私には、こうした批判・非難はピントがズレているとしか思えません。
ユニオシというキャラクターは、あくまでも『ティファニーで朝食を』という作品内における存在です。ですから、この映画の枠内でどういう位置を占め、どんな意味があるのかを考えるべきではないでしょうか。
それなのに、それを映画の枠外にまで敷衍し、アメリカ社会に存在している人種差別、アジア人蔑視の風潮と結びつけて、日本人を愚弄し、貶めていると怒っているような気がします。
そこで、この映画について、ユニオシというキャラクターがなぜあのように造形されたかについて考えみたいと思います。
(1)容貌・容姿
日本人の男を、メガネに出っ歯の醜い小男といった、欧米の白人の間にある偏見と固定観念から生み出されたキャラクターとして描いている、というのが最大の批判点。
確かにユニオシは、端正ならざる容貌です。とりわけ誇張されている出っ歯のせいで、強く印象に残ります。
しかし、日本はアメリカ映画の一大マーケットで、多くの日本人が観るし、もちろんアメリカの日系人も観ます。それがわかっていて、ブレイク・エドワーズ監督が、悪意をもって歪曲した日本人男子像を、なんのためらいもなく造形するでしょうか。茶化す意図は多少あったとは思いますが。
あとでも述べますが、ホリーの特殊な職業や掴みどころのない性格を明確にするには、ユニオシがこれぐらいインパクトのある容貌であることが必要なのです。
身長についていえば、ミッキー・ルーニーは、160センチ。労働厚生省(当時)の『国民健康・栄養調査』によれば、1960年(昭和35年)における20歳日本人男子の平均身長は161.1センチですから、ユニオシをことさら小男にしたわけではありません。
正直いって、私はユニオシをそれほど醜男とは思いません。あの程度のご面相の日本人は、けっこういますからね。
(2)言動・振る舞い
ホリーは、アパートのエントランスの鍵をよく失くします。そこで、中に入るためにユニオシの部屋のブザーを押してエントランスを開けさせます。眠っているところを急に起こされたユニオシは怒って、階段の上から、「何度迷惑をかけるんだ、いいかげんにしろ」と怒鳴りつけます。
ホリーにつきまとう男が、部屋の中に入れろと、ドアをどんどん叩いたり、大声を出したりしたときも、「迷惑だ、警察を呼ぶぞ」と怒鳴って退散させます。
ホリーは、知り合いの男女を立錐の余地もないほど自分の部屋に詰め込んで、パーティーを開きます。ちょうどそのとき、ユニオシは茶釜で湯を沸かし、お茶を楽しもうとしていました。ホリーの部屋の馬鹿騒ぎで心を乱されたユニオシは、切れて警察を呼び、常識のない男女を排除させます。
批判派の人たちがユニオシのどの部分に怒っているのかわかりませんが、おそらく寝巻き姿のまま、塩辛声で怒鳴りまくるのも、気に入らないことの一つなのでしょう。
しかし、不埒な迷惑行為に対するユニオシの言動はすべて正当で、非難されるべきは、社会的モラルを欠いたアメリカ人の男女でしょう。
日本人といえば、おとなしくてあまり自己主張しない、というのが通り相場になっています。そのなかにあって、ユニオシは、無礼・迷惑な言動に対しては、断固として抗議をするのです。
(3)生活スタイル
ユニオシの部屋には、いろいろな撮影機材があって雑然としていますが、その一隅に畳のコーナーがあります。
ユニオシはそこに布団を敷いて寝ています。布団の上には大きめの提灯が下がっていて、その中に電灯を入れて照明にしています。提灯の和紙が白熱電球の光を和らげ、間接照明のような効果をあげています。提灯の下部から紐が下がっていて、寝たまま手を伸ばせば、すぐ明かりが消せます。
寝間着は、着古したつんつるてんの着物。子どもの頃の寝間着を大事に着ているのでではないでしょうか。
畳のコーナーに切られた炉には茶釜がかかっていて、茶の湯を楽しめるようになっています。
部屋の中では、ユニオシは当然靴なしで生活しています。白足袋を履いているときもあります。
ユニオシのキャラクターを非難した文章のなかに、「その部屋は俗悪な日本趣味として描かれている」という一文がありました。ユニオシの部屋のどこが、"俗悪な日本趣味"なのでしょうか。私は、少しも違和感を感じませんでしたが。
日本から移民してきた一世の多くは、部屋の入口で靴を脱ぎ、客にも脱がせたといいます。日本を感じさせる絵やモノを飾り、お彼岸、七夕、お盆、年越しなども、きちんと行った家庭が多かったと聞きます。
ユニオシは、そうした親のもとで育ったころの思い出や生活スタイルを、できるだけ保とうとしているのでしょう。そう思うと、ちょっと胸がジーンとします。
以上3項目から、制作者は、人種差別や日本人侮辱の意図でユニオシというキャラクターを作り上げたのではないと、私は判断しました。
それでは、なぜ都会的なロマンチック・コメディのなかに、物議をかもすキャラクターを登場させたのでしょうか。一言でいえば、ホリーのパーソナリティや生き方をはっきりさせるためです。
ホリーは虚飾の世界の住人であり、衝動的、気まぐれで、自分を守ることに多分に無関心です。
たとえば、ホリーは、高額のギャラがもらえるというので、麻薬取引のメッセンジャーを務めます。トラブれば、組織に殺されるかもしれないし、麻薬取締局から逮捕されるかもしれないと、すぐわかる仕事です(実際逮捕される)。
ホリーもそれはわかっていたでしょうが、危なくなったら、なったでしょうがない、と思って続けたのではないでしょうか。つまり、彼女には、自分を危険から遠ざける気があまりなかったということです。
出奔したホリーを捜しにテキサスから出てきた夫は、「ホリーは14歳のとき、浮浪者同然の姿で私のところに現れた。酷い家に養われていたらしい」と語っています。
酷い家の実態はわかりませんが、小さい頃からきつい虐待を受けて育つと、成長してからも、自分は価値のない人間だと思ってしまう人が多いと、臨床心理士などの専門家が指摘しています。その結果、性格が不安定になったり、性的に放縦になったりしがちだといいます。
ホリーは放縦ではありませんが、男遍歴を重ねたり、自分を守ることに無関心、といったことを考えると、少女時代の虐待が影響していると考えざるをえません。
このテーマを続けると、話が重くなるので、ここで打ち切ります。
ホリーのパーソナリティや生き方を際立たせるには、まったく異なる存在と対比してみることが効果的です。
対比する存在が平凡で、影の薄い人物ではダメで、強烈な存在感を持っていることが必要です。ユニオシの容貌や言動をあえてカリカチュア化したのは、そのためです。
容貌や言動にインパクトがあるだけでなく、ユニオシは足が地についた、根のある生活をしています。
対比の対象がアメリカの白人だったらどうでしょう。外見や言動を多少デフォルメしても、ホリーや、彼女を追いかける男たちとの違いがあまりはっきりしないので、画面に出す意味はあまりなくなります。
それでは、カリカチュアライズしない日本人だったらどうでしょう。平均的な男性では、日本人という以外に印象に残る点がないので、対比の対象にはなりません。
同じ日本人でも、背が高くてハンサム、明朗で礼儀正しい、大谷翔平のような男性が、デフォルメされずに出てきたらどうでしょう。これなら、人種差別だ、日本人侮辱だという非難は起こらないでしょう。
こういう人物なら、ホリーから迷惑をかけられても、階段の上から怒鳴ったりせず、そばまでいって、困っている理由をきちんと説明して、今後はやめていただきたいと丁寧に頼むはずです。
しかし、これだと、見場のいい好感のもてる隣人がたまたま日本人だった、というだけで終わってしまい、ホリーとの違いを浮き立たせる役には立ちません。
ホリーの特性を際立たせるには、やはりミッキー・ルーニーの過剰とも思える演技が必要なのです。
そして、ユニオシの存在が、この作品を凡百のA girl meets a boy映画とは一味違うものにしている、といっていいでしょう。
ブレイク・エドワーズ監督がユニオシをいかに重視していたかは、キャスティングにも表れています。
ヘップバーンとジョージ・ペパードに続いて、そのほかの出演者名が現れ、最後に〈And also starring MICKEY ROONEY as "Mr. YUNIOSHI"〉と大きな文字で単独表示されます。
ユニオシの出番はごくわずかなのに、主演と準主演に次ぐ扱いで、しかも、出演者たちのなかで唯一ユニオシという役名まで表示されているのです。
ユニオシの描写に対する批判・非難の多さには驚きましたが、もう一つ驚いたことがあります。
この映画についての感想や印象を述べたネット記事の多くが、ユニオシにはほとんど触れていないのです。触れていても、ホリーの迷惑行為に対して怒鳴るという程度。ユニオシという個性的な存在を、その程度にしか感じなかったのでしょうか。
50数年ぶりに『ティファニーで朝食を』を見ようと思い立ったとき、私の頭にまず浮かんだのが、ヘップバーンの映画だということと、変な日本人が出ていたな、の2点でした。その他の出演者たちや粗筋は、まったく思い出せませんでした。
同じ映画を見ても、印象に残る箇所はずいぶん違うものです。ただ、私はユニオシにこだわりすぎたかもしれません。たかが『蛇足』として書いた駄文ですから、あまり気にされても困ります。
(二木紘三)
コメント
Henry Manciniは数々の映画音楽を手掛けていますが、とりわけAudrey Hepburn主演の映画音楽の何作かを作曲しました。他の曲のコメントでも書きましたが、私は彼のコンサートを1994年にミズーリ州で聴いています。そこで彼は前年の1993年に亡くなったHepburnの思い出を語っていました。『ムーンリバー』は彼女が歌いやすい様に、彼は音程の幅を抑えて作ったと言われます。私は日本へ帰って来てから、Henry Manciniが1994年6月に亡くなっていたことを知りました。
蛇足にもあるように『ムーンリバー』 はAndy Williamsがヒットさせましたが、ヒットから遠ざかってかはAndy Williams は1992年にミズーリ州ブランソンの劇場を自ら設立しそこで歌っていました。その劇場の名はMoon River Theaterと名付けられていました。私はやはり1994年にブランソンへ行っていますが、Andyのコンサートへは行けませんでした。Andy Williamsはその後もブランソンで歌い続け2012年に亡くなっています。
因みにAudrey Hepburnの最晩年の出演映画は1989年製作の『オールウエイズ』で、Steven Spielberg監督の作品です。私はこの映画を観ましたが、洒落たセリフの多い、実にアメリカらしいウィットに富んだ作品です。Spielbergは『オールウエイズ』の撮影後、人生最大の歓びの一つはAudreyと一緒に仕事をしたことだと語ったと言います。
投稿: Yoshi | 2023年12月12日 (火) 09時51分
素晴しい曲がやってまいりました。
最初にこれを耳にしたのはたしか学校が終わり、社会に出て暫く経ったころだったと思います。 アンディー・ウィリアムスという、私にとっては初めて聞く名前の歌手でした。 曲自体もいいのですが、アンディー・ウィリアムスの歌声がとびきり素晴しく感じました。 どうしてこんな美しい声が出るのだろうかと感嘆しきりでした。 彼の声、美しさの中に、甘さというか優しさが感じられるのです。 こういう優し気な歌詞を歌い上げるにはぴったりの声ですね。
勿論歌詞もいい。 どうしてこんな素敵な歌詞が書けるのかと思ってしまう。 そしてその優し気な歌詞を生かすメロディーの素晴らしさ。
それから暫く経って、私はドイツのハンブルクに滞在することになりました。 その年のクリスマス、当地の日本航空支店がパーティーを開きました。 参集者は航空業関係者や、日本領事館日系企業支店の職員などですが、なんの関係もない私もなんとなく招待されたのでした。
当時日航支店にアメリカ人の女性が居て(旦那様がアメリカの会社の支店職員)、その人はアメリカでのプロの歌手だったとのこと、毎年の恒例でこういうパーティーで歌声を披露することになっているのだとか。
そしてその時歌ったのがこの "Moon River" だったのです。 それがもう、さすがは元プロ、いいねえ!としか言いようがない。 アンディー・ウィリアムスの男の声とはまた違った "味" があるんですね。 勿論万雷の拍手でした。
あとでグラスを合わせながら、"Huckleberry Friend" ってどういう意味?と訊いて、その意味を歌詞自体の意味とともに丁寧に教えてくれました。
(子供の頃、ハックルベリー・フィンの冒険という本を読んではいたのですが、それだけではこの曲の意味は解りませんでしたから)
この曲は私の愛唱曲のトップあたりにあり、いつも口遊んでいます。 先ほどもお風呂の中で大きな声で唄っていましたが、快く歌っていると、なんとなくうまく歌っているような思いになりますね。
”Meistersinger von Tanushimaru”!
(そう言うには無理があるかな)
投稿: 田主丸 | 2023年12月13日 (水) 22時55分
A・へップバーンがらみで言えば、映画や音楽そのものとは離れておりますが、その昔にラジオで聞いた話にお付き合いを戴こうと書き込ませて頂きました。
小学校の高学年か中学の時だったか定かではありませんが、英語とは別に「ローマ字」を習いました。このローマ字は確か「ヘボン式」と呼ばれたもので、何でもオランダ人のヘボン博士が考案したものだと教えられた記憶があります。
さて、ヘボンという名前ですが、外国人の名前としては聞く機会が少ないものという印象がありました。が、「そうだったのか…」と思わせたのが、偶然に聴いたラジオ番組で、それは、「ヘボンではなく、へッボーン」というのが正しい発音だ…ということした。その例として挙げたのが、オードリー・ヘップバーンで、発音としては「オードリー・へッボーン」というのが元の発音に近い…というものでした。
話は変わりますが、あの史上に残る名作映画の一本であろう「ローマの休日」は、オードリー無くしての成功はあり得ないと思わせるものでした。取り分け、終盤の記者会見のシーンは、何とも余韻の残る、忘れ難いものでした…。
投稿: ジーン | 2023年12月22日 (金) 20時48分
Old, Oh どちらでしょう?
投稿: Isemura masashi | 2024年1月15日 (月) 00時17分
内外の歌詞サイトを調べた限りでは、Old dreamとOh, dreamが半々ぐらいです。
私には、ヘップバーンはOld dreamと歌っているように聞こえましたが、アンディ・ウィリアムズはOh,dreamと歌っているように聞こえました。まあ、どちらでもいいんじゃないでしょうか。
投稿: 管理人 | 2024年1月15日 (月) 11時52分