スリコ
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作詞:アカキ・ツェレテーリ、作曲:ヴァリンカ・ツェレテーリ、
日本語詞:井上頼豊
1 心もうつろに 2 夕べの城あとに 3 森のうぐいすに 4 やさしいうぐいすは |
《蛇足》 敗戦後10数年の間、うたごえ運動で盛んに歌われたロシア民謡の1つ。この時代にうたごえ喫茶に通ったり、青年の集まりに参加した人たちには懐かしい歌でしょう。
ただ、今だに愛唱されている『カチューシャ』や『トロイカ』などに比べて、この歌を知っている人が非常に少なくなってしまったのは、残念なことです。
『スリコ』をロシア民謡といいましたが、正確にはグルジア民謡です。グルジアはコーカサス地方にいくつもある小国の1つで、長い間帝政ロシアやソ連邦に従属していました。
ソ連邦の崩壊後、共和国として独立を回復しました。しかし、南オセチアとアブハジアの独立を支援するにロシアに反発して、ソ連時代の名前はゴメンだとばかりに、2015年4月に国名をジョージアに変えました。
『スリコ』はそれ以前に作られた歌なので、ここでは旧国名を使います。
詩『スリコ』は、詩人で作家のアカキ・ロストミス・ゼ・ツェレテーリ(1840-1915)によって書かれました。
彼は、グルジアでは有名な貴族の息子で、一族の伝統に従って、幼少期を小作農家で過ごしました。この時期に、自然への感性と農民の生活への共感が培われたようです。
サンクトペテルブルク大学卒業後は、文学を通じてグルジア文化の再興と民族自決を目指す運動に加わり、愛国的、歴史的、叙情的、風刺的な詩や物語を数多く発表しました。『スリコ』もその1つで、1895年に発表したものです。
アカキが、ロシア語とグルジア語のどちらを先に書いたかを示す資料が見つかりませんでしたが、おそらくグルジア語でしょう。
というのは、グルジア語版は12聯の長詩なのに対して、ロシア語版は5聯だからです。曲をつけると決まったとき、歌いやすいように原詩のエッセンスを5聯にまとめたのではないでしょうか。
彼が作曲を依頼したのは、前からその才能を高く買っていたヴァリンカ・マチャバリアーニ・ツェレテーリ(1874-1948)です。
作詩者と同じ姓ですが、夫婦とか親戚とかいう関係ではないようです。たまたま同じ姓だったのでしょう。
この連携は大成功で、『スリコ』はたちまちロシア語圏に広まりました。さらにウクライナ語やポーランド語、ルーマニア語、ドイツ語、フランス語、英語、中国語など数多くの言語に翻訳されて、世界中で愛唱されるようになりました。
この大ヒットには、実はグルジア生れの独裁者スターリンが絡んでいます。彼がこの歌を大変気に入っているというので、各ラジオ局が忖度して、この歌を盛んに流したのです。
粛清、餓死、戦死等を合わせてソ連人4000万人を殺したとされる悪名高い男も、ちょろっといいこともしたわけです。
さて、肝腎の『スリコ』ですが、sulikoはグルジア語では『魂』という意味の普通名詞です。意味も響きもいいというので、男性の名前にも女性の名前にもよく使われたようです。
詩は、グルジア語版でもロシア語版でも、恋人あるいは愛する者の墓を、野バラに問いかけたりしながら尋ね歩き、最後にナイチンゲールから、「あなたの立っているその場所がスリコの墓よ」と教えられる、といった内容です。
その内容についての日本語の説明に、少しばかり疑問に思う点があります。
ネットで目にしたある説明では、「戦死した恋人の兵士スリコの墓を女性が探し回っている」とあり、別の記事では、「恋人の女性スリコの墓を男性が尋ね歩いている」となっています。
この2つの説明では、男性と女性の関係が逆になっているのです。
グルジア語版の第1聯の最初の行に、恋人(საყვარლის)という言葉が出てきますが、グルジア語には文法上の性はないので、英語のloverやsweetheartと同じで、コンテクストがないと、男性か女性かは決められません。
その結果、墓を探し求めている「私」の性別もわからなくなります。
ロシア語版の「墓の中の恋人は女性」というのは、勘違いのような気がします。
第1聯1行目のмогилу милойは、形容詞が後置されているのだと思いますが、そうすると意味は「愛するお墓を」となります。
これでは意味が通じないので、私はмилойのあとに者とか人が省略されていて、「愛する(者の)お墓を」と読むべきだろうと考えました。
(者)が男か女かわからないので、お墓の中の人が女性だと決定できません。
2行目に「彼女を(её)」とありますが、これは女性名詞の墓(主格はмогила)を受けているので、墓の中の者の性別を示しているわけではありません。
ですから、お墓の中の人は、男とも女とも、また子どもとも取れます。
子どもと取ったのが、上の日本語詞の作詞者・井上頼豊です。スリコは「私」の子どもでしょう。
ここで感じられるのが、ロシアやその周辺国で幾度となく繰り返された悲惨な動乱や戦乱です。多くの親が子どもを失い、無数の子どもが親を亡くしました。
2番の「夕べの城あとに、みなし子らあそぶ」がそれを物語っています。親を亡くしたうえに腹ペコだろうに、子どもの本性で、夢中で遊んでいるのです。
この部分は、グルジア版にもロシア語版にもありませんが、アカキの意図を読み取った井上頼豊のみごとな作詞です。
前述の説明で、原詩にはないにも拘らず、スリコを戦死した兵士としたのも、この詩のベースに流れている戦争の影を読み取ったからでしょう。
もう1つ、私が思ったのは、原詩や日本語詞で使われている墓は、墓標とか墓石が建っている墓ではなく、「なんの印もなしに埋められた場所」を意味していると思います。
「私(男性か女性かわかりませんが)が探し回らなくてはならなかったのは、スリコがなんの印もなしに地中深く埋められてしまったからでしょう。虐殺など人間性を捨て去った者たちによって行われた戦争犯罪です。
そして、それが今もあちこちで行われているのです。いつまで経っても懲りない人類という種に絶望したくなります。それではいけないとわかっているのですが。
アカキは、グルジア語の詩を次の聯で締め括っています。ホッとしますね。
ああ、私の人生は今また意味をもつようになった
夜も昼も私は希望で満たされている
私はあなたを失ったわけではない、私のスリコよ
私はいつでもあなたのところに戻ってこられる
あなたが安らいでいる場所を知っているのだから
(二木紘三)
【蛇足の蛇足】
上のタイトル下のイラストは、生成AIで作ったものです。いろいろ問題点が指摘されている技術ですが、生成AIが出てきてから、歌詞に合った絵柄の写真を探し回らなくてもすむようになりました。
今回はCopilotのDesignerとLeonardo.Aiを使いました。主人公を男性としたヴァージョンと女性としたヴァージョンを作ってみました。
両方とも4カットずつ作る設定にしましたが、Copilotの男性ヴァージョンでは、4カットのうち3カットで、青年がスマホを手にしていたのには笑いました。プロンプトに、He doesn't have a smartphone in his hand.を付け加えても、スマホは消えませんでした。進化の途中なので、しかたありません。
実際、いつもスマホを手にしている人が増えましたね。そのうち、スマホかその後継デバイスは、人体の器官の1つになるかもしれません。
コメント
この歌は存在していたのですね。
半世紀以上も前に尾瀬に行きました。
同行の男性が先立って歩き、ぽつねんとした感じでこの歌を口ずさんでいました。彼の友に「彼はどうしたの?」と聞いてみたら、『失恋したのさ』との返事。先を歩く彼は尾瀬の森に溶け込んでしまったように「スリコ」をため息のように口ずさんでいました。彼は尾瀬が大好きで、何回も訪れ、その時も彼の道案内で、三平峠から尾瀬沼を艪で漕ぐ舟で渡り、三条の滝から尾瀬ヶ原に出ました。
彼はひょろと背が高くて痩せていて、物悲しそうに歌う「スリコ」だけが彼の印象として残っています。
投稿: konoha | 2024年6月30日 (日) 13時51分
二木オーケストラによる演奏を聴きながら、歌詞を眺めていますと、遠い昔(昭和30年代前半)の学生時代の微かな記憶が甦ります。
当時、寮でのコンパだったか、新宿での歌声喫茶だったか定かではありませんが、この歌を聴いた覚えがあります。
ただ、記憶は朧ながら、今思い出すのは次のような歌詞です。
♪私のスリコ
どこへ行ったやら
悪魔に連れて行かれたか
私のスリコ♪
投稿: yasushi | 2024年6月30日 (日) 14時31分
「蛇足=解説」いつもそう思っています。今回も『スリコ』からジョージアの歴史を垣間見ることができました。
初めてこの歌を聞いたのは先のコメントにも書きましたが、尾瀬に行った時でした。そしてその時以来聴いたことはなかったのですが、謎かけのような不思議な歌詞と何処となく物悲しいメロディーが印象深く記憶に残っていました。失恋した彼が口ずさんでいたせいなのか、もっと短調ぽい歌だと思っていました。
投稿: konoha | 2024年7月 3日 (水) 21時24分
朝、さっと一通り掃除が終わると、机に向かって新聞を読みます。その時、この「スリコ」をバックミュージックにかけます。なぜだかこの単調感が心地よく耳に入ってきます。二木楽団の装飾感のないリズムで刻むのがいいですね。
曲が終わるとマウスでもう一度クリックして最初に戻ります。それを何回も繰り返します。いつもリピートが手間いらずでできるといいなと思っているんですが。
投稿: konoha | 2024年7月26日 (金) 09時26分
初めて聴きましたが、美しく悲しい歌ですね、
特に詩が切々と胸にせまります。
投稿: nobara | 2024年10月24日 (木) 14時45分