智恵子抄
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞:丘灯至夫、作曲:戸塚三博、唄:二代目コロムビア・ローズ
1 東京の空 灰色の空 2 千代紙が好き 折り鶴が好き 3 まごころの花 純情の花 |
《蛇足》 昭和39年(1964)に、二代目コロムビア・ローズの唄で大ヒットしました。
二代目コロムビア・ローズは、本名:宗紀子。『東京のバスガール』などの大ヒットを飛ばした初代コロムビア・ローズが引退したあと、「二代目コロムビア・ローズ」募集オーディションによって選ばれ、歌手デビューしました。
曲は、高村光太郎(明治16年〈1883〉-昭和31年〈1956〉)の詩集『智恵子抄』の表題をそのままタイトルとしています。歌詞も、収録詩のフレーズを下敷きにして作られています。
高村光太郎は、詩や短歌、彫刻や絵画などで多彩な才能を発揮しましたが、詩がとくに有名です。その詩はよく国語の教科書に載ったので、いくつかのフレーズを覚えている人も多いでしょう。「きっぱりと冬が来た」(詩集『道程』より)とか。
詩集『智恵子抄』は、簡単にいえば、妻:智恵子との結婚前から死亡までの30年にわたる純粋な愛の生活を詠ったものです。詩29篇のほか、短歌6首、散文3篇が収録されています。
最初に高村智恵子(旧姓:長沼)の経歴を簡単に書いておきます。
智恵子は、明治19年(1886)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)で酒造業を営む裕福な長沼家の長女として生まれた。
明治36年(1903)、日本女子大学校(注1)家政科に進学、寮生活を続けるうち、洋画に興味を持つようになり、自由選択科目の洋画の授業ばかりを受けていたという。
女子大卒業後、両親を説得して東京に留まり、洋画を学ぶ道を選んだ。
明治44年(1911)ごろ、智恵子は女子大の先輩・柳八重子(ジャーナリスト、結婚後は小橋姓)の紹介で高村光太郎と知り合った。
大正3年(1914)12月に、光太郎のアトリエで同棲を始める。入籍は昭和8年(1933)8月。
昭和6年(1931)、光太郎が三陸地方への長期の取材旅行をしている間に、彼女に統合失調症の最初の兆候が表れた。訪ねてきた母親や姪に孤独を訴え、死をほのめかしたという。
翌昭和7年(1932)7月15日、睡眠薬アダリンで自殺を図ったが、未遂に終わった。
症状は進み、深刻になったため、昭和10年(1935)2月、東京南品川の精神病院・ゼームス坂病院へ入院。
昭和13年(1938)の夏ごろから症状が悪化し、10月5日瞑目。52歳。死因は、光太郎と知り合う前から冒されていたと思われる粟粒性肺結核だった。
智恵子は、高村光太郎にとってどんな存在だったのでしょうか。
昭和40年(1965)8月に社会思想社から発行された『紙絵と詩 智恵子抄』(編者:伊藤信吉・北川太一・高村規)という本があります。これには、光太郎の詩のほか、智恵子が入院後に色紙で作った切り絵や貼り絵、光太郎による『智恵子の半生』というバイオグラフィー、さらに智恵子と交流のあった数人の跋文が掲載されています。
『智恵子の半生』は青空文庫に入っているので、興味のある人はどうぞ。
その冒頭に次のような一節があります。
私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃頽生活から救い出される事が出来た経歴を持って居り、私の精神は一にかかって彼女の存在そのものの上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さえ其の目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾箇月かを過した。
光太郎がこれほど烈しく智恵子の喪失を嘆く理由について、編者で詩人の伊藤信吉は、次のように説明しています。
仏英米への3年半の留学中に身に着けた精神の自由や自我の意識が、我が国の古い慣習によって圧殺されようとしたことから、それに反発して、荒々しくデカダンな放埒に身を投げ込んだ。智恵子と知り合ったのはそういう時期で、光太郎のそうした無頼ぶりをまったく気にせず、嬰児のような素直さで全幅的に彼を受け入れてくれた。それによって、光太郎は惑溺から脱して、自分の位置を知ることができたのである。
智恵子と知り合ったとき、光太郎はどんな印象を受けたのでしょうか。『智恵子の半生』に次のように書いています。
彼女はひどく優雅で、無口で、語尾が消えてしまい、ただ私の作品を見て、お茶をのんだり、フランス絵画の話をきいたりして帰ってゆくのが常であった。私は彼女の着こなしのうまさと、きゃしゃな姿の好ましさなどしか最初は眼につかなかった。
智恵子の外見や話し方については、ほかの人たちも似たような印象を抱いたようです。
たとえば、女子大で1級上だった平塚らいてう(作家、フェミニスト)は、こう語っています(注2)。
智恵子さんはいつも実にしずかで、どんな時にも、叫び声一つあげたことはなく(中略)何となく恥ずかしそうで眼をあげてまともに相手の顔を見ないくせがありました。稀にひとこと、ふたこと話されても、それはひとりごとのようなもので、口も開かず、唇も動かさずにいう含み声なので、よほど注意してきかない限り、聞きとれません。
また、富本一枝(画家、随筆家、フェミニスト)は、智恵子が田村俊子(作家、フェミニスト)と連れ立って富本の家を訪ねてきたときの印象を次のように書いています(注3)。
長沼さんは、薔薇の花弁でふわりと包めそうな感じの人だった。紫の濃い矢絣のお召の袷に、びろうどの短いコートのような上着を着物の前で無造作に合わせたかたちは、なんともしとやかで美しかった。(中略)口数が少なくて、じかにものをいいかけにくく、私はいちいち田村さんにうけついでもらうような話し方しか、出来なかった。ふわっとして含み声で、唇がいっしょにものをいわずに、口の中で言葉になり、そこでまた言葉が消えてしまう、そんなもののいい方だった。
優雅で物静かだっただけでなく、智恵子は、非社交的で社会にもほとんど関心をもたなかったようです。
平塚らいてふが青鞜社を立ち上げたとき、頼まれて機関誌『青鞜』の表紙絵を描いたため、新聞などに"新しい女"の一人と書き立てられました。しかし、智恵子は青鞜社の集会にもほとんど出席しなかったようです。
二人の本格的な交際は、犬吠埼から始まりました。光太郎が画を描きに犬吠埼に出かけたとき、たまたま智恵子もそこに来ていたのです。二人は散歩し、手紙のやり取りが始まりました。
さらに、大正2年(1913)9月、上高地に滞在していた光太郎を、智恵子が訪ねてきました。そのころ痛めていた肋膜を押しての訪問でした。二人は、山のあちこちを写生して回りました。光太郎が結婚を決意したのは、このときだったようです。
大正3年に同棲を始めたのですが、その家庭生活は一般の家庭とはかなり違っていました。光太郎は彫刻や絵画の創造に没頭し、智恵子も油絵の制作に打ち込みました。
ただ、智恵子は、自信を持って文展に出品した作品が落選したことから、画への情熱がかなり冷めてしまいました。その分、光太郎に寄せる思いはいっそう深くなりました。
光太郎は、自分が作った彫刻を誰よりも先に智恵子に見せ、智恵子はそれを理解し、無条件に受け入れました。彼女は、光太郎の木彫小品をいつも懐に入れ、街を歩くときも、それを愛撫していたそうです。
「自分の作ったものを熱愛の目を以て見てくれる一人の人がいるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない」と光太郎は述懐しています。
夫婦関係は「琴瑟相和す」で、大変良好でしたが、現実面はめちゃくちゃでした。彼は、私たちは生活不如意で、窮乏することが多かったとたびたび語っています。
ただ、伊藤信吉は、「貧乏といっても、今日は一片の鰯と菜っ葉でも、明日は銀座の一流店で最高級の天ぷらを食べるといった貧乏だった」といっています。
光太郎だけでなく、多くの芸術家が、こうした"計算しない"生活を送ってきたのでしょう。安定した生活を求めるようでは、優れた作品はできないのかもしれません。
智恵子はお金のないことが少しも気にならないようでした。お金がなければ、買い物に出かけなければいいと思っていたようだし、金欠を補うために光太郎が着る物などを売っても平然としていました。
光太郎は、智恵子は豪家に育ったためか、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかった、と書いていますが、私はこれはあまり論理的ではないと思います。
そういう人もいるでしょうが、智恵子が、お金がなくなっても、何も対応しようとしなかったのは、現実感覚が希薄化していたからではないでしょうか。そして、これは、このあと発症する統合失調症の前駆症状ではなかったかと思います。
智恵子の肋膜炎は徐々に進み、同棲を始めてから、病臥することが多くなりました。
煤煙の多い東京の空気もよくなかったのでしょう。「東京には空がない」と嘆いたのは、このころのことです。
体調が悪くなると、彼女は二本松の実家に帰るようになりました。数か月そこで過ごして体調がよくなると、光太郎のもとに帰ってきました。毎年3,4か月は郷里で過ごしていたようです。光太郎は、その間一人で生活し、創作活動を行っていたわけです。
その智恵子に悲劇が降りかかります。大正7年(1918)5月に父が亡くなり、跡を継いだ智恵子の弟が放蕩を重ねたため、長沼家は破産し、一家は離散してしまいました。 昭和4年(1929)のことでした。
その結果、智恵子は体調を崩しても、病を養うところがなくなってしまいました。これも、智恵子が精神を病む一因になったかもしれません。
昭和6年に智恵子の言動がおかしくなってから、さまざまな幻覚を見るようになりました。しばらくすると、意識がひどくぼやけて、食事も入浴もできなくなったので、赤ん坊にするように光太郎が介護しました。
光太郎も医師も、これを更年期の一時的現象だと思って、九十九里浜に転地させ、光太郎は毎週一度は訪ねるようにしました。智恵子は、朦朧状態は脱したものの、脳の変調はむしろ進み、鳥のまねをしたり、松林の一角に立って、「光太郎智恵子光太郎智恵子」と大声で一時間も叫び続けるようになってしまいました。
海岸からアトリエに戻したものの、病勢は急速に進み、次第に狂暴性を帯びるようになったので、昭和10年(1935)2月、知人の紹介で南品川のゼームス坂病院に入院させました。
智恵子のためによかったのは、ゼームス坂病院に入れたことであり、智恵子の姪で一等看護婦の宮崎春子をつけてもらったことでした。
ゼームス坂病院は、当時としては先進的な精神病院で、すべて個室で、鍵も窓の鉄格子もなく、患者は付き添いつきで外に出ることができました。また、春子は辛抱強く、親身になって智恵子の世話をしました。
入院して半年ほど経つと、智恵子の興奮状態が収まってきました。精神病者には手作業をさせると効果があると聞いた光太郎は、智恵子が平生好きだった千代紙を持っていきました。智恵子は大変喜び、鶴を次々と折ったそうです。
光太郎は、毎週のように智恵子を訪ねましたが、その都度丸善などで求めた千代紙や色紙を持っていきました。
そのうち智恵子は、折り鶴だけでなく、紙を折ったり切ったり貼り合わせたりして、いろいろなものを作るようになりました。上のタイイトル下の写真は、そうした作品の1つです。
智恵子は作った作品をまとめておき、光太郎が来ると、それを見せました。光太郎が感心しながら見ているあいだ、智恵子は大変嬉しそうで、恥ずかしそうに笑ったり、お辞儀をしたりしたといいます。
光太郎は、彼女の切紙絵について、「それは全く彼女の豊かな詩であり、生活記録であり、楽しい造形であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な哀憐の情の訴えでもあった」と書いています。
智恵子は、光太郎の訪問をいつも待ちかねていました。宮崎春子は、光太郎が来るときの様子を、次のように書いています(注4)。
「今日伯父様がおいでになられるそうですよ」という事務所からの電話をつたえると、伯母は押入から丸い手鏡を取り出し、髪をとかしてちょっとのぞき、身だしなみを整える。そしてきれいな座布団を出しておく。伯父が入ってくると、伯母はそれは嬉しそうな顔をして、伯父の大きな膝に抱かれる。伯父は2、30分で帰るのであるが、伯母は「私も一緒に連れていって」とせがんで困らせた。伯父は「ちょっと病院の支払いをしてくるからね」と私に目配せして、伯母の手を離し、下りていく。伯母は細めに開けたドアからいつまでもいつまでも伯父の姿を見送り、戻ってくるのを待っていた。
現実感覚が薄れ、自分だけの世界に閉じ籠もるようになっても、光太郎への純粋無垢な思慕はまったく弱まっていなかったわけです。
いっぽう、智恵子の肺に巣くった病魔は、その勢いを増していました。昭和13年10月5日、危機的状態になったという知らせで光太郎が行くと、智恵子は色紙の細工品を整理してまとめたものを彼に渡しました。そして、荒い息をしつつも、すっかり安心した顔で、光太郎が持っていったレモンの香りに包まれて、きわめて静かに世を去りました。
光太郎は、智恵子の最期を主題とした有名な詩『レモン哀歌』で、「わたしの手からとった一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ」と描写しています。
実際に彼女が噛んだかどうかはわかりませんが、そのときレモンの香りが漂っていたことは事実でしょう。
高名な造形芸術家ロダン(1840-1917)と結ばれ(三角関係でしたが)、統合失調症を病んだ女性彫刻家のカミーユ・クローデル(1864-1943)と比べると、智恵子の生涯は幸福でした。健康だったときはもちろん、精神を病んでからも、連れ合いの温かい愛情に包まれて過ごしたのですから。カミーユは、幼児期から不幸すぎました。
(二木紘三)
(注1)戦前の学制では専門学校だったので、日本女子大学校が正式名。しかし、女子教育の最高学府だったことから、一般には「校」なしで日本女子大学とか日本女子大と呼ばれていた。
(注2)『紙絵と詩 智恵子抄』に収録の『高村智恵子さんの印象』
(注3)『紙絵と詩 智恵子抄』に収録の『一つの原型』
(注4)『紙絵と詩 智恵子抄』に収録の『紙絵のおもいで』
「それがどうした」といわれそうなこと→私が大学生だった頃(昭和30年代後半)、日本女子大学の北側に学生寮がありました。木造2階建ての建物が数棟建っており、それぞれに名前がついていました。門を入って突き当りにあった寮は豊明寮という名前で、長沼智恵子はここで学生生活を送りました。私が大学1年のとき、短期間付き合ったひとも豊明寮の住人で、名前がたまたま智恵子でした。
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コメント
X 風に書くと
久しぶりの掲載が大変うれしく、一安心もして、『二人の銀座』の"蛇足"も読ませていただきました。
子供のころ、よく耳にしたうたでもあり、教科書にあった高村光太郎の詩にも触れられて、思うこと様々ですが、それはどこかで。 長すぎますか?
投稿: Kirigirisu | 2024年12月 7日 (土) 15時11分
茨城県日立市で、定年有機農業17年。有機農業の繋がりで、二本松市へ10回以上、伺っています。大震災、原発事故の後、相馬市の仮設商店街へ、自家野菜を届ける為に、4、5回、日帰りで往復。いわき市から先は、「放射能」で、通行止めでしたから、西へ迂回、小野新町、田村市、二本松市、川俣町、伊達市から、西へ、阿武隈山地を越えて、相馬市へ。その後、「放射能被害」で苦しんでいる二本松市の有機農家へ、日本有機農業研究会の「縁農」として、自分の軽トラで、行く様になりました。最初は、地理感のない所ゆえ、集合時間ギリギリでしたが、何回も行く内に、早く着ける様になり、集合時間前に、史跡等を廻りました。その一つが、智恵子の生家です。彼女の生涯も学びました。二本松城址にも、智恵子の碑があります。最近、行く時は、自分の長距離運転に自信が無くなりましたので、ローカル線を乗り継いで行っています。
投稿: 竹永 尚義 | 2024年12月 8日 (日) 17時21分
「智恵子抄」幼いころからいつしか私の脳裏に焼きついたまま長年を経た現在も離れることのない、この作品がここにアップされたことに私はとても感激しています!
二木先生が<蛇足>の欄に詳細に記されておられる、彫刻家・高村光太郎の詩集「智恵子抄」の解説文を読みながら、昨日は長時間この想い出のメロディに聴き入りました。
私事で恐縮ですが、今年の5月に山形県へと向かう東北新幹線が福島県内を通過中、幼少のころからの念願だった『安達太良山連峰』の山々が遠くに見えはじめました。その瞬間、私の胸の中にはこれまでの長きにわたり思いを募らせていた「智恵子抄」のことが自ずと私の脳裏の中を駆け巡り、初めて眺めるその壮大な景色に感激した私は、その『安達太良山連峰』の山々が見えなくなるまで感慨深く眺め続けました。
心を患い、さらに肋膜炎の悪化により早世した智恵子の儚い生涯を思うと私は今でも胸が痛みますが、それでも愛する光太郎に赤ん坊にするように介護されていたという、そんな智恵子の生涯は、ある意味できっと幸せだったに違いないと私は今でも思いたいのです。
この作品の曲目を、詩集「智恵子抄」のタイトルをそのままに、そしてまた歌詞そのものもこの詩集を下敷きにしたという、今では名曲とも云える二代目コロンビアローズの歌声に当時心を奪われた人々が大勢いたことは、この私にさえも容易に想像できます。
名作詞家・丘灯至夫氏のその手腕は見事と云うほかありませんが、それにも増してこの詩に付けた戸塚三博氏のメロディは実に素晴らしく、私は今でもこの曲のイントロメロディが流れ出すだけで「智恵子抄」の世界へと一瞬で誘われてしまい、そしてその都度胸が熱くなります。
投稿: 芳勝 | 2024年12月 9日 (月) 22時27分
昔買った新潮社の本をめくっていました。
“智恵子抄” 「あどけない話 「レモン哀歌」
”高村光太郎集” 学校で暗記させられた「道程」「冬が来た」 ・・
下記に“智恵子抄”の最後に書かれてる草野新平の「悲しみは光と化かす」を少し紹介します。
「ね、君、僕はどうすればいいの、智恵子が死んだらどうすればいいの?
「僕は生きられない。智恵子が死んだら僕はとても生きてゆけない・・」
その日ゼームス坂病院に智恵子さんを見舞っての帰りだったことは少しあとで知ったのだが、
病状の悪化に悲しみは煮えかえり・・」
この2冊はしばらく机の上に置いておきましょう。
二代目コロムビア・ローズさんは、懐メロ番組のために帰国され、
其の後、直ぐに体調が悪くなたようですね。
投稿: なち | 2024年12月10日 (火) 19時37分
ああなつかしい高村光太郎の詩、中学生の時、高校生の時にそれぞれ勉強しましたね。好きな詩人でした。印象に残った詩の一部と当時の感想を思い出して書きます。
「私の手からとった一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ」
がりりということはナイフで薄く切らずに、丸ごと出したということか。詩の前の部分に「あなたの死の床で」とあるから精神的な贈り物ということだな。
「ぼくの前に道はない ぼくの後ろに道はできる」
なるほど、それはだれかにすすめられた道ではなく自分で切り開く、いわば開墾の道だな、それはほんとうに厳しい道だろう。でもやりがいのある道だ。
「冬よ、ぼくに来い」
厳しい状況でも自分から進んで向かっていくことで道は開けるということか、なるほど。でもこの人の感情の激しさが伝わってくるなあ。
それから私は大学時代に彼の戦争責任の取り方についても調べたことがあった。
ニューヨーク、ロンドン、パリに留学し欧米芸術をしっかり学んだ彼は、帰国後、旧態依然とした日本美術界におおいに不満を持ち、ことごとく父にも反抗し東京美術学校の教職も断ってしまった。
不安と焦燥、絶望の日々が続き、めちゃくちゃな生活だったと自分でも述べている。
そんな彼は日米開戦の昭和16年12月8日のことを「記憶せよ、十二月八日」として発表した。「この日世界の歴史あらたまる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる」と記したのだ。その後も戦争協力詩を多く発表した。
その責任をどうしたかということだが、ざっくりいうと以下のとおり。終戦後の昭和20年10月、岩手県花巻市郊外に粗末な小屋を建てて移住した。そこで、約7年間の独居自炊の生活を送ったのだが、戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことへの自責自省の念によるものだった。
激烈な感情の持ち主をだったからこそ、実家の酒屋が破産し、ますます精神の崩してゆく智恵子を最後まで世話することができたのだと思います。
投稿: 越村 南 | 2024年12月11日 (水) 10時51分
上記、越村さんの記しには考えさせられました。
私は高村光太郎という人についても、その詩についても何にも知りません。
ただ敗戦後に、過去の戦争協力について自責の念を禁じえず世に隠れたとやら。それだけでも少しは良心と言うものを保持していたのでしょう。
見て下さい、戦後、どれほど多くの知識人文化人とやらが、戦前戦中の言動をけろりと忘れ(すらっとぼけ)、掌を返すような態度に出たことか。 あるいはGHQに迎合し、あるいはソ連のプロパガンダにたぶらかされ、、、
それに比べれば光太郎の本根は善良だったんですね。
このような善良な方に愛され、智恵子さんは幸せだったんでしょうね。
投稿: 田主丸 | 2024年12月12日 (木) 21時04分
田主丸 様、他皆様
福岡県小倉市生まれの当方にとって、果樹の産地、「田主丸」は懐かしい地名です。茨城に住んで、54年。
二本松市の智恵子さん関連施設は、二本松駅前にある安達太良山を見ている銅像、生家・敷地内の「智恵子記念館」、彼女が散歩した裏山の神社、彼女の出た「油井小学校」(今も現役)、霞が城址公園の記念碑(安達太良山系が見渡せます)。
機会があれば、是非、行かれてください。
投稿: 竹永 尚義 | 2024年12月13日 (金) 16時33分