山谷ブルース
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
作詞・作曲・唄:岡林信康
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1 今日の仕事は つらかった 2 一人酒場で 飲む酒に 3 工事終れば それっきり 4 人は山谷を 悪く言う 5 だけど俺たちゃ 泣かないぜ |
《蛇足》 日本のフォークは昭和30年代後半(1960年代)に、東京の大学生などがギターを抱えて歌ったのが始まり。しかし、その多くはブラザーズ・フォーなどアメリカン・ポップスのコピーでした。
これに対して、大阪・京都あたりの若者たちの間から、「自分たちの社会について自分たちの言葉で歌おうぜ」という動きが出てきました。そのテーマとなったのが、ヴェトナム戦争、安保闘争、貧困、労働者、差別、学生運動などです。
これらの、大人や既成社会への反発や批判を歌った作品群は、メッセージ・ソングとかプロテスト・ソングと呼ばれています。
そのなかで大評判になったのが、昭和43年(1968)9月に日本ビクターからリリースされた岡林信康のデビュー曲『山谷ブルース』です。東京・山谷(さんや)のドヤ街で暮らす日雇い労働者の生活を一人称で歌ったもの。
このようなテーマをこんな形で歌った作品は従来の大衆歌謡にはほとんどなく、多くの音楽関係者に衝撃を与えました。
これに続いて彼は『友よ』『手紙』『くそくらえ節』『がいこつの歌』などを発表しました。いずれも常識破りの問題作で、その多くが放送禁止となりました。放送禁止といっても、法律で禁止されたわけではなく、放送関係者が自主規制しただけですが。
この時期、高石ともや、高田渡、5つの赤い風船、ザ・フォーク・クルセダーズなど評判のフォーク・シンガーソングライターが出ましたが、最も多くの若者たちの心をつかんだのは岡林信康で、 ”フォークの神様” と呼ばれました。
岡林信康は、歌の世界でも生活面でも一所不住のさすらい人でした。
フォークの神様と呼ばれたのに、ボブ・ディランの影響でロックに走り、西川峰子の歌に感動して、演歌に入れ込んだりしました。
彼の音楽活動の始まりは、東京山谷のドヤ街で布教活動をしていたある牧師を訪ねたことです。牧師になろうと同志社大学神学部に入ったものの、途中で信仰に疑問が生じ、その悩みを聞いてもらおうとしたようです。
どういう疑問だったかはわかりませんが、彼はそのまま山谷に住みつき、日雇い労働や社会運動に携わりました。このときの経験が『山谷ブルース』として結実したわけです。
その後は、労音(勤労者音楽協議会)との軋轢や音楽活動についての悩みなどから、音楽界から何度か ”脱走” しました。長野県で伐採夫になったかと思うと、神経症を直そうと岐阜県中津川近くの山村で暮らしたり、京都府綾部市の過疎村で農耕生活を送ったりしました。
しかし、結局音楽界に戻り、フォーク・ロックや歌謡曲を中心に演奏活動を続けることになります。
山谷は東京都台東区の清川や日本堤、荒川区の南千住にまたがる地域で、日雇い労働者のための簡易宿泊所が並んでいます。
一般にはドヤ街と呼ばれていますが、これは宿(やど)を逆さに読んだ隠語。
江戸時代から人足が集まる場所だったそうですが、高度経済成長が始まった昭和30年代後半から、多くの日雇い労働者がここに集まり始めました。
長い間、見すぼらしいとかヤバイといった印象をもたれていた地域ですが、インバウンドの急増でようすが変わってきました。安価な宿泊所を求める外国人のバックパッカーなどが増えてきたのです。
それに伴い、内装外装を小洒落たものにする簡易宿泊所が増えてきました。
2020年代の今では、各地の再開発ブームで大幅な人手不足になり、今や臨時雇いの建設労働者は引っ張りだこです。
歌詞の5番に「働く俺たちの世の中がきっと来るさそのうちに」というフレーズがありますが、60年あまりを経てやっとその時期がきたという感じです。
ただ、この状況も長くは続かないでしょう。フィジカルAIの進展で、建設労働者たちの仕事が徐々になくなっていく気配です。
(二木紘三)
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